ガールズ・ドント・クライ
第一話 「OTOKO=JUKU」


「儂が覇道財閥総帥、覇道鋼造であるッ! ──と開口一番に叫んでみるのはどうだろうかな、ウィンフィールドよ」
「で、何の用だ爺さん」

 豪奢な威容を誇る覇道邸の奥まった一室。
 青年と初老の男が鈍く重々しい光沢を放つデスクを間に挟んで向かい合っている。
 初老の男──厳つい顔に精気を漲らせ、全身から凛々しく研ぎ澄まされた波動を周囲に発散する覇道鋼造。彼の無闇に情熱的な響きを込めた挨拶を何のためらいもなく無視したウィンフィールドが、コツコツと軽く二度だけ机の上に爪を躍らせた。
 人でありながら異形さえ絶命させる超絶の拳を持ち、天涯孤独の身をアーカムシティの闇に潜ませ生きてきた彼は、今や鋼造ひいては覇道家の保護を受ける立場にある。
 しかし保護を受けて何をしているかと言えば、特に何もしていないのが現状であった。
 とりあえず鋼造の理想に共鳴する形で拠り所を見つけたまでは良かったが、具体的に何をすればいいかまでは考えていなかった。多数の魔術師を抱え、影からアーカムシティを支配せんとしている秘密組織「ブラックロッジ」と対立していることだし、その戦闘にでも狩り出されるのかと思っていたが、むしろウィンフィールドは「力の行使」を控えるよう諭された。
 鋼造曰く、確かに覇道グループとブラックロッジの闘争は激化する一方であるが、まだ十代のウィンフィールドを戦場に送り込まねばならぬほど事態は逼迫していない、とのことだった。無論、覇道側に絶対的な優位があるわけでもなく、散発的な小競り合いは続いているが、そちらは現時点の兵力で充分間に合っているらしい。
 その名に相応しく鍛えられた鉄のごとき態度で彼は断言した。
 ──お前さんに求めているのは破壊や殺戮といった計量化できる「分かりやすい力」ではない……もっと分かりにくくて、分かりにくいままで受け容れて活用しなければならない力。漠然とした言い方をすれば、「運命に立ち向かうための力」を欲しているんだよ。
 真意を正しく理解できた自信はなかったが、ひとまずウィンフィールドは強いられた安息に心身を置くことにした。覇道邸の広大な敷地を中心に過ぎていく日々は、もうはっきりとは思い出せないくらい平和な昔の記憶を緩やかにチクチクと刺激して、心の安らぎよりも居心地の悪さを感じさせた。
 暴力を身体の奥に仕舞い込んで暮らしているとはいえ、完全に無害な存在へ化けることは不可能であり、覇道邸の各所を歩き回る彼は行く先々で警備の人間たちを警戒させた。ちょっとしたいざこざが発生し、緊迫したムードが漂うこともあったが、両者の衝突を禁じる鋼造の厳命によって仲裁が入ることは約束されていた。互いに高まった力は無理矢理に逸らされ、有耶無耶にされるのが常であった。
 考えるまでもなく、拾ったばかりのどこの骨とも知れぬ青二才に屋敷中を行動する権利を持たせるというのは妙な話だった。門を叩いたその日に、まるで「こうなることをあらかじめ知っていた」ように待ち構えていた鋼造は、用意していた部屋──即日ウィンフィールドの自室となるところへ招きながら、この屋敷のどこへ行ってもいい、むしろ進んで見に回って欲しいと頼んで来さえした。
 ──この広くも狭い世界から、覇道に関わるあらゆる事柄、あらゆる人物、あらゆる力学を読み取って欲しい。様々な街を彷徨い、流れてきたお前さんが、ここへ留まるために。
 言葉の裏から見え隠れするものは、手に入れた駒を利用してやろうという欲ではなく、訪れた縁を繋ぎ止めようとするような、ある種切実とも言える気持ちだった。
 鋼造がなぜそこまで自分にこだわるのか、ウィンフィールドには分からない。
 ただ、彼に言えることは、覇道邸での生活は居心地の悪さを感じずにはいられないけれど、決して「嫌い」なものではないと──さしたる理由もなく、そう思えることだ。
「ダメだな……まったく、みんな最近はダメっぽいのぅ。せっかく儂がネタを振っても反応がまるでイケておらんわ、どいつもこいつも。この前も瑠璃に『一緒にお風呂に入らないか』とスマートに提案したら『そうですね、お爺様がひとりで入って溺れたら大変ですからね』と頷いたんだよ。確かに優しい子だという気もするけど、なんかその反応って儂の求めるものと微妙に違くない?」
「知るか。十歳そこそこの孫娘に何を求めてんだ、このペド爺が」
「もちろん愛さ。でもナイショだぞ?」
 茶目っ気を出そうとでも目論んだのか、言うなりウィンクをしてみせる鋼造。
 目の前の男が孫娘にどういう種類の「愛」を希求しているのか、深く考えるのをやめたウィンフィールドが話を切り替える。
「それで用はやっぱり『あれ』のことか」
「『あれ』というか、つまりは学校のことだが……」
 机の上に広げている書類へ目を落とす。そして溜息。
「……また、退学のようだな」
 特にするべきことがないとはいえ、いつまでのそこらへんにゴロゴロと転がしておくわけにもいかない。鋼造が真っ先に命じたことは「学校に通うこと」だった。
 ウィンフィールドがまともな教育を受けていないことを、容易に見抜いたらしい。
 「学校」および「教育」に対し何らの憧れも嫌悪も抱いていない彼はあっさり頷いてトントン拍子に通学の話はまとまったが、まとまっていざ通学を開始してからが問題となった。
「今度は体育の時間だったそうだな。フットボールをしていたんだっけか?」
「ああ。わざとらしくボールをぶつけてこようとする奴と、あからさまに反則臭いタックルを仕掛けてくる奴がいたんでな。返り討ちにしてやったら、他の連中も逆上しやがって……」
「それで全員ぶちのめしてフィールドに沈めてやった、と」
 つまり、ウィンフィールドは通学先の学校で必ず誰かに絡まれた。
 時期外れの転入によって参加する「新入り」ゆえに低く見られることに加え、到底社交的とは言いがたい彼の態度もあって、つい周りの敵意を激発させてしまう。「協調よりも嘲弄を」がモットーの一匹狼として生きてきただけに、折り合うことを知らずにそのまま喧嘩へと雪崩れ込むのだ。「力の行使を控えろ」との忠言を最低限の範囲では守っていたが、売られた喧嘩を買わずに済ませるほどの手控えはできなかった。これで相手の中に実力の伯仲した好敵手でもいれば却って円滑に話が進んだかもしれないが、路地裏で血を浴び死を嗅いで「最強」を誇っていた彼にとって、生き死にの問題まで発展しない安全圏で粋がる「猛者」などジョークに転化するのも難しい雑魚である。苦戦してみせるなど、心情的にも技術的にも難しい。単純に強かった彼は狡い演技力を磨く機会がなく、毎度毎度考えなしにブチのめしてみせた。
 人や魔を殺した所業が偉いわけではないにしろ、そんな世界を日常としてきた彼と対等にコミュニケーションするのは、ごく平和に暮らしてきた同世代の少年たちにとって荷の重いことだった。死なない程度に痛めつけられ泣き喚くことしかできない敗者を眼下にし、ますますウィンフィールドは軽蔑を深め、協調の意志をなくす。
 見事な悪循環だった。
「お前さんが『ちょっとしたワル』程度なら捨て猫を拾う心優しい少女の情にほだされたり、勉強はできるけど友達がいなくて両親の不仲に悩んでいる繊細な少年との不思議なシンパシーに安らぎを覚えたりして少しずつ改心していくんだろうが、実際問題『ちょっとした』どころではないからのぅ……」
 見目は良く、清潔に保ち服装を整えさえすれば良家の子息ともいい勝負をするウィンフィールドはしかし、放つ雰囲気がとても上品とは言えなかった。かと言って、不良の類が発散する下品さともまた違う。
 純粋な悪と暴力の香り。
 修羅の巷から身を引いた現在でもなおその獣の匂いは隠し切れず、冷ややかな所作の下に不安定な衝動を覗かせる。
「別に学校なんてどうでもいいだろ。どうせ俺は頭を使うより身体を動かす方が向いてるんだからさ」
「いや、困るな。お前さんの頭を使わないまま放っておくなんてことは損失以外の何者でもない。それだけ効率良く、否、もはや『効率』の次元を超えて『身体を動かす』ことができるようになったのも、ひとえに経験した知識を噛み砕いて学習し、研鑽に研鑽を重ねてきたおかげだろう。言わば肉体の魔道だな。魔道を実践する根本は常に精神であり、知恵だ」
 広げていた書類を手際良く引き出しに仕舞い、机に肘をつく。じっくり思案するように黙り込んだ鋼造から目を逸らし、ウィンフィールドは窓の方を見遣った。陽光の射す中庭。季節は秋に差し掛かり、木々の葉の色も褪せつつあった。
「なあ、ウィンフィールド──」
 俯かせていた顔を上げて、口を開く。中庭の景色から視線を鋼造の顔に戻した。
「なんだ? まだ俺の行く学校があるってでも言うのか。近くのところはもう全部追い出されちまったんじゃなかったか」
「そうだな。最初に挙げていた候補からは軒並み退学にされてしまった」
「ふうん。いっそ、別の街にでもするってかい」
「いや。実はな、アーカムシティにはもう一つ、あるにはあるんだ。候補から外していたが……」
 さっき書類を仕舞ったところとは別の引き出しを開け、中から何かを掴み出す。
「──これだ」
 ウィンフィールドは広げた両手を机の上に付け、身を乗り出して鋼造の手に握られたものを覗き込む。
 それはパッと見、書籍であった。左開き。タイトルは読めない。アルファベットではなく、中国の文字とおぼしきもので表記されている。最初の文字の横にある「!」はエクスクラメーション・マークだろうか。それとも、それに似た何かか。表紙にはタイトルの他に、奇妙に泥臭い絵も描かれている。
 本を受け取り、パラパラと中身を流し見る。鉢巻をした上半身裸の男が刀を振り回す絵や、その仲間と推察される黒い制服姿の男たちが暴れ、血を噴き出し、あるいは涙し、あるいは何かを解説しているらしい絵の数々が載っていた。やたらと戯画的な絵柄だ。彼らの顔の造作は東洋的なので、中国人の描いたものか、または中国人を揶揄する意図で描いたものなのかもしれない。絵の各所に記されている言葉はやはり解読不能だったが、いくつか中国の文字とも思えない単純で曲線的な字も混じっていた。
「なんだ、こ──」
「すまん間違えた」
 質問しようとした声を遮り、素早い手つきでウィンフィールドから本を取り返した。いそいそと元の引き出しに収納する。
「さっきまで読んでいたものでな、ついうっかり出してしまった。まあ、この『OTOKO=JUKU』がアーカムシティにあったら是非ともお前さんをそこへ入れてやりたいものだが……」
 何やら訳の分からないことを呟いている。
 だが、さっきのは何かの間違いだったようであるし、深く気にするのはよした。
「おう、これこれ」
 鋼造は代わりに別の本を取り出し、しっかりとカバーを見て確認してからウィンフィールドに手渡した。
 本屋に並べられているペイパーバックよりも小さなサイズの一冊。相変わらずタイトルの文字は読めなかったが、絵の方はあっさりとした風味で、さっきに比べれば随分と目に優しかった。描かれているのは、深緑の制服に身を包んだ若い少女がふたり。顔を正面に向けて一方から一方へ、何かが受け渡しされていた。銀の十字。ロザリオか。何かしらの暗喩を窺わせる絵であった。
 本を開くと、中は字だらけ。しかも縦書き。パラパラめくっていくとたまにモノクロの絵が混じっているページもあった。しかし、全体的には文字の方が圧倒的に多い。先ほどの本以上に中身を推測するのは難しかった。
 強いて違いを見出すなら──さっきの本が男ばかりの絵だったのに対し、こちらは明らかに女の絵の比率が高い。
「つーかなんでこんなもん読まされてんだよ、俺が」
 不機嫌そうに唸り、手首のスナップだけで文庫本を投げ返す。
 放っておけば角が額に突き刺さりかねないスピードで直進してくる直方体を、向かいの鋼造は一旦手の甲で上へ弾いた後にキャッチする。ふたりの応酬は短時間にそれぞれ片手のみで行われた。何の打ち合わせもなく、自然な遣り取りの一部として。
「短気は損気だぞ。若人だから焦って生き急いでも全然OK、などという州法はない。お前さんには人の話を聞くための根気がもっと必要だな」
 ギィッ。
 背を凭れ掛け、椅子が鳴る。
 無造作に腕を振り下ろし、返還された文庫本を机の上に突き立てる。表紙をウィンフィールドに向けて。
「さて、儂らは何の話をしとったかな?」
 皺の刻まれた顔に浮かぶ微笑。
「なんだもうボケたのか爺さん。さっきまで話していたことを速攻で忘れんなよ」
 瑞々しい相貌に浮かぶ嘲笑。
「ボケてはおらんさ。むしろこれは儂よりもお前さんの問題だな。思った以上に鈍い」
 微笑みの領土が、見る間に広がっていく。
 はたと気づいた。
 そこに、嘲笑なんかと比べ物にならないくらいタチの悪いもの──邪気のない茶目っ気がひどく濃厚に混じっていることに。
 反論しようとする口を意志で抑え、微笑みの意味を考察する。
 鋼造は「鈍い」と言った。つまり、ここまでの会話の流れで察して然るべきことを自分が見落としているということだ。ウィンフィールドはまずそこを始点と定めた。
 見落としていることは何だ? どこで齟齬が生まれた?
 記憶の時間を巻き戻し、点検していった。交わされた言葉だけではなく、仕草、行動の数々もパズルのピースとして含めていく。
 さっきまでしていた話──ウィンフィールドの通う学校のこと。
 インクの匂いが男性ホルモンの臭気に押しやられているような濃い絵の書物を仕舞いながら鋼造が漏らしたセリフ。
『まあ、この「OTOKO=JUKU」がアーカムシティにあったら是非ともお前さんをそこへ入れてやりたいものだが……』
 前後から読み解けば、「OTOKO=JUKU」が一種の教育機関であろうことは容易に類推される。「アーカムシティにあったら」と言うからには、それがアーカムシティには存在しないことも。
 あの本の代わりにもたらされた薄く小さな書籍。どこかリリィの香るが漂う、少女たちの姿。
 不意に、思い出した。
 鋼造に「学校へ通え」と言われた日、嫌々ながらも沢山の資料に目を滑らせた。一応自分が行くところになるかもしれないからと、最低限に把握した情報。街の人々が知るくらいと同程度には、どこにどんな学校があるか、頭に叩き込んでいる。
 叩き込んだ中で……とても情報が希薄になっている区画が一箇所。そこはどう転がっても自分が通学することなんかなかろうと一笑に付して、ろくろくパンフレットを見もしなかった。だが、まったく見なかったわけでもない。表紙だけは一瞬だけ、視線が浚った。
 色のない写真の奥。密かに爛れた春と甘い花の気配が覗いた。
『さて、儂らは何の話をしとったかな?』
 ピースとピースが結びつく。
 嘘だ、と口走りたくなった。しかし唇は別の言葉を紡いだ。
「プロセルピナ……」
「正解だ」
 眼前の老人の顔に笑みは深く広がすぎて、眼球はたるんだ皮膚の下に埋もれた。虫の触角みたいに細くなった目を見て、ウィンフィールドは怒りよりも驚きよりも呆れよりも、感心に近い念を抱いた。
 ──こいつ、本気で言ってやがる。
 面白がってはいるが、冗談のつもりなんて半セントもない。物事を軽く流すための笑みではなく、覚悟の笑み。本気だからこそ、こんなにも屈託なく笑えるのだ。
 ボケていた方が、どんなに良かったか。
 プロセルピナ。それは全能神ゼウスを父に、豊穣神デメテルを母に持つ女神の名。冥王に攫われ、婚姻を結んだ。彼女が冥府に留まる四ヶ月の間、地上は冬に支配されるという。
 その名を冠した学校がアーカムシティにはあった。
「断固として拒否する」
 頑なな声。実力行使も辞さないとばかりに鬼気を迸らせる。抗議のメッセージとともに固められた拳はどんな言葉よりも直截的だ。
「無駄だ。やめておけ」
 鋼造は笑いながら手を振った。
 僅かな指の動き。
 それは揶揄を意味する動作というよりも、何か、合図のような──
 振り向いたところで遅かった。存在の気配を殺して忍び寄った影が、固めた拳の用途を思いつかせる暇もなく首筋を打った。
 陽光よりも血の温もりを恩恵としてきた若き拳闘の猛者さえも凌駕する、肉体の鬼。
 殺傷の意志が拭えぬ暗黒街の泥臭さにまみれたウィンフィールドと違い、すべての闇を払い落とすところから研鑽の道を再開し、「紳士の極み」と形容するに足る洗練へと辿り着いた格闘の技術者。
 覇道鋼造の執事・クロフォードは老境に達した今もなお健在だった。
 金属バットを延髄にぶち込まれても小揺るぎもしないウィンフィールドが頽れる。その様を、クロフォードは片目のみで見遣る。眼帯に隠されたもう片方の目は、何も見ない。
 ウィンフィールドは肉と骨の武装だけで邪悪の化身を殴り殺す異常の強者であったが、クロフォードもまた拳の鉄槌で魔を撲殺する超人。異常の比べ合いとなれば、僅かどころではない年季の差が結果に影響することは必然だった。
 床に倒れ付したウィンフィールドへ、椅子から立ち上がった鋼造が歩み寄る。靴音には微塵も憐憫の情が滲まず、確固たる響きで失われいく意識に迫る。
「さすがに儂もこんな成り行きは想像していなかったが……仕方あるまい。もう選択の余地はないんだ」
 最後に耳へ届いたのは、次なる一言。
「女子校へ行け、ウィンフィールド」
 そうして一切が闇に包まれた。

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