ガールズ・ドント・クライ
第二話 「ストレイト・ジャケット」


 目覚めたくない気分だったが、かといっていつまでも気絶し続けるわけにもいかなかった。
 生きて健康である以上、意識が戻ってくることはどうしようもない。
 悪夢から脱出した面持ちで跳ね起きたウィンフィールドを待ち受けていたものは、更なる悪夢──否、ただ単にむごい現実だった。
 咄嗟に視界に収めた人物がひどく自分に接近していることに気づき、思わず「えっ」と驚きの声を挙げる。たとえ寝起きであろうと瞬時に周囲の音や匂い、温度といった気配を感じ取って即座に対応する路地裏の流儀に慣れ親しんだ彼が、肉眼で目視するまで「そいつ」の存在を捉えられなかったのだ。あれこれ考える以前に、本能がどよめいた。
 立ち上がる瞬間に感じたのは人間の気配ではなく、無生物、無機物が放つ障害の感覚。「自分の前に邪魔なものがある」ことを察知しただけで、まさか人間がすぐそばに立っているなんて思いも寄らなかった……
 彼は目の前に立ち塞がっている物体が鏡である事実を呑み込むことができず、反射的に間抜けな質問を発してしまった。
「誰だ──あんた」
 返答はない。何せ鏡だ。左右対称の像を見せるだけで、疑問に対して直接的に応じることなどありえない。
 間接的には可能だった。つまりウィンフィールドは対峙する「そいつ」が彼と左右対称の、鏡に映したような──冗談ではなく、まず最初にそう感じてしまった──ことから、正解を導き出した。
 「そいつ」は、イコール自分であると。
 理性が受け入れを拒み、対して本能は絶望的に鋭敏な感覚でその真実を掴んだ。
 嘘だ嘘だ嘘だ、と頭の中で呟きながら膝を折り、ぺたんと座り込んだ。
 脚部の皮膚はソックス一枚を隔て、毛足の長い絨毯の柔らかさを味わう。
 気を失うまで履いていたズボンを、今は履いてなかった。たぶん脱がされたのだろう。
 いや、脱がされたからといってウィンフィールドが裸だったわけでもない。衣服はキチンとまとっていた。だからといってそれが彼を安心させることもなく、むしろ裸だったときの方が精神的衝撃は少なかったと予測される。
 頬と耳を撫で、サラサラと流れる黒髪は光を反射しながら腰まで届いている。触れてみるとその質感は紛いもない艶やかで以って応える。本物らしい。ただし、どんなに引っ張っても頭皮は何も感じない。力を込めすぎたせいか、ぶちりとひと房千切ってしまうものの、痛みは皆無。彼自身の髪ではなかった。本物は本物でも、「本物の髪の毛を使った鬘」だった。
 もうわざわざ説明するまでもない。現在のウィンフィールドの姿がどんなものであるか、微に入り細を穿つまでもなく誰もが想像しうるであろう。そんな状況に置かれた彼の身が哀れでならなかった。
 端的に言ってしまえば。
 深緑の制服に身を包み、長い黒髪の鬘を被った彼は同年代の少女にしか見えなかった。
 彼を「最凶」と恐れた者たちが悶死しかねない可愛らしさである。ご丁寧にも制服にまとわりつく仄かな香りは花の匂い。その奥にある肉体が帯びた血の匂いと混ざり合って、敏感な嗅覚を持つ人間なら「この穏やかな空気が流れるメロウなお花畑で、いったい何が起こったのでしょうか」といった情景を思い描いてしまいかねない悪趣味な組み合わせとなっていた。
 数多の地獄を掻い潜ってきたウィンフィールドにとっても、ここまで命に関わらず、ここまで屈辱的な仕打ちは戦前戦後を通じて存在しない。
 意外とジェンダー方面での耐久性が薄い自我は深く深く傷ついた。
「いいぞ、すごくいい!」
 茫然自失の彼を讃える軽快な拍手。背後からどんどんと近づいてくる。
 首を巡らせる必要もない。鏡にその姿が映っていた。「鋼の王」、巨万の富を一代にして築き上げた最強の山師。現代を生きる本物の、そしてもっとも善き魔術師。覇道鋼造。
 この蹂躙的惨劇の首謀者に間違いなかった。
 だって、なんかもう「ブラボー!」とか叫んで「ヒュウ!」と口笛まで吹いている。その表情を満たしているのは見誤りようのない完全無欠の喜悦だった。
 ウィンフィールドがここで混じりっ気のない純粋な殺意を発露してもおかしくないと言えばおかしくない。覆滅の意思を込め野獣すら超越したモーションで襲い掛かった彼について、余裕で弁護団が組めるだろう。
「うぉるるるるらぁぁぁぁぁぁっ!!」
「オウ、マーヴェラス!」
 女装した“路上のカリスマ”が目にうっすら涙を溜めて咆吼し、酒場の酔客さながらにだらしなくにやけた“合衆国のカリスマ”を襲撃する。
 世紀末を過ぎてなお、世紀末的光景だった。
 品の良いディープグリーンの少女衣装も、憤怒にまみれたウィンフィールドへ「淑やかさ」を強要する拘束服とはならなかった。野蛮に、ただひたすら野蛮に、「殺」の一文字へ集約されるフックが放たれる。
「ほっ」
 飛びすさって避ける。怒りに我を忘れているとはいえ、ウィンフィールドの殺傷術は「我」に頼ったテクニカルなものではなく、もっと原初的な部分を始点にした「生存するための活動」であり、鋼造が気を抜けばあっさり殺されるだろう。
 外れた一撃目を意に介さず、並ならぬ脚力で床を滑り鋼造の側面に回る。着地から姿勢を整えようとするところへ、渾身のストレート。泣きながら拳を振り抜く。風を切って迫る第二撃はかすっただけでもダメージになりそうなほどの勢いだ。
 姿勢を整える過程を放棄、逆にのけぞり姿勢を崩すことで回避。頭上をよぎる腕が伸び切ると同時に懐へ潜らせていた手が拳銃を掴んで這い出る。手の甲の毛が外気に触れる爽やかさを感じながら発砲。銃弾は女装させられた少年の脚へ──黒ニーソックスに包まれた細い脚へ向かう。
 避けられるはずのない攻撃を、常人の想定する限界を超えた筋力のバネで跳ねて避ける。絨毯を突き破ったブリットは床の木材を破砕してあたりに撒き散らす。
 ふたりの間に距離ができた。屈辱に身を震わせるウィンフィールドの目は真っ赤で、愉快痛快とばかりに肩を震わす鋼造は出した拳銃をあっさり仕舞った。
「やれやれ──『力の行使』は控えろと、確か忠告しなかったかな?」
 両手を広げ、「こちらに害意はない」とのジェスチャーを見せる。
「──お前さんは直接的な力への信仰が強烈すぎる。言葉と理屈、信頼と打算、適切な未来を読み合うために効果的な交渉ツールがいくらでもあるのに、『まずは殴ってみよう』という安易な精神に寄り掛かって省みようとしない。ウィンフィールド。世の中はお前さんが殴ったら、試す以前に簡単に壊れてしまうものが多いんだぞ? お前さんはいささか強すぎるからな、『殴り合って友情確認』なんて青臭くも微笑ましい展開が残念ながら許されていない。『最強』を謳って粋がっていた輩も、お前さんに突っ掛かったばかりに未だ病院のベッドから抜け出せない有り様だ。死人が出ていないことだけが幸いだよ」
 話を聞きながらも、ウィンフィールドは戦闘態勢を解こうとしない。
 ただ、攻め入る気配を見せない。それだけ。
 正に、『それだけ』が鋼造の生存を許している。寄れば容赦なく迎撃されるだろうし、隙を見せれば無事でいられるかどうか、判じがたい。
 だから鋼造は警戒を怠らず、されど害意は消し、今の場に留まる。差し当たって話を続けている。
「別に『直接的な力への信仰』を挫こうとは思っておらん。『暴力はいけませんよ』やら『人間同士、血を見せ合うなんて最低です』やら『どんなことでも充分に話し合えば万事解決』やら、そんなことは言えた義理ではない。この屋敷にいる者は皆、な。儂は『実力行使』という言葉を嫌っていない。愛してもいないがね。なんであれ、『力の行使』は認める方針でいるさ──」
 口元を笑みの形に歪めたまま、すっと目から笑いが消える。
 つまりこの瞬間、覇道鋼造は真実、笑っていない。
「『力』でしか報いることのできない存在がある限り、この考えは改めない。ああ、そう、未来永劫に。死ぬまで? 否、死んでもだ。死後のことについてはもっとも基本的なこととして勘案しておる。儂はそういう生き方を──死に方を──すると、決めた。選択して決めた。紛うことなく。──ウィンフィールド、お前さんに強いたいのはその『選択』だ」
 ひたり、と視線を据える。
 老人の背中には燃え立つ闘気。
 そう──彼は拳を介さない戦いを、仕掛けている。悟らざるをえなかった。
 だとすれば、彼の前で直接打撃の構えを取っている自分は、なんて間抜けだろうか。
 ウィンフィールドは構えを解いた。瞳に闘志を残したまま。
「『選択』とは──何だ」
 問い。
 あんたの誘いに乗ってやる、暗にそう告げる一声。
 こうしてふたりは同じ土俵に立つ。
「力を行使する強さと、力を行使しない強さ。このふたつを知ったうえで、どちらを取るか──まあ、ゲームみたいなものだと思えば気が楽かもしれんな。そう硬くならなくていい。お前さんは『力を行使する強さ』を知るばかりで、もうひとつの方が見えていない。そもそも、『力を行使しない強さ』を信じていないんじゃないか? 力に拠らぬ強さは強さにあらず、と」
「当たり前だろう──話す余地などあるか? 力以外に『強さ』を実現できるものはない。言ってしまえば、『強さ』を実現するものはなんであれ、力と断ずることが可能だ」
「予想通りの答えをありがとう。気に食わないが、分かりきっていたから不満は言わない。儂が万言を尽くすよりも、体験する方がよかろう。否、説かれるのではなく、体験して直接知ることにこそ意味がある。『強さ』を叶えながら、どうしても『力』と呼べない──呼びたくないものがあることを。そのために──」

「女子校へ行け!」

 くわっ、と目を見開き一喝。ハムレットも裸足で逃げ出す迫力だった。
「いやだからなぜそうなるっ!」
 たまらずウィンフィールドもツッコミを入れた。諧謔を利かせる余裕もないくらい必死に。
 さっきまでの説明と、女装して女子校に通うこととが全然接続していない。それは火を見るより明らかだ。
 ここで妥協したらオシマイだった。自分が女性的な顔立ちをしていることにちょっぴりコンプレックスを感じないでもないウィンフィールドにとって、プロセルピナ女学園に通学することは苦行に等しい暗い未来である。
 なんとか踏ん張って、『そんなおかしな話があるか』と突っぱねなくてはいけない。
 もちろん、最終的に通うかどうかの決心はウィンフィールドがつけ、「行かない」と決めたなら何と言われようと行かなければいいのだから、鋼造に実体的な強制権はない。拾われた恩があるとはいえ、こんな不条理にまで付き合う義理はない。最悪、ここの屋敷を出て行くことも選択肢としては「あり」だ。所詮、ウィンフィールドが覇道邸に留まっているのは偶然の積み重ねにすぎない。たまたま目的を見失っていた頃に出会って、たまたま当面の行き場を見つけただけだ。何もここを終の棲家と思い込むことはない。その気になればいつでも飛び出すことはできるし、そうしたところで問題はないはずだ。何の契約も交わしていない。仮に契約があったとしても、法の外側で暮らすことを日常としてきたウィンフィールドを縛ることはできない。
 ──しかし。
 彼はその最終手段を、考えに含めようとはしなかった。
 覇道鋼造が垣間見せ、彼の心が共感した理想を、まだ捉えてはいないから。
 それは契約でなく、彼が彼自身のために向かうべき目標の足掛かりとなるものだった。
 故に、彼は鋼造のイカレた提案を拒もうとしながら、一番肝心なところで拒み切れていない。
 もうこの時点で敗北していると言っても過言ではない。
 前提の段階から、ウィンフィールドに拒否権は発生していなかった。もともと彼が行く先々の学校で放校処分を受けるほどの騒ぎを起こしたことが原因なのだ。ちょっと苦しいが、自業自得とも説明できる。
「悪いがもうあんまり時間がなくてな。これ以上お前さんと遊んでいるわけにもいかん。後は任せたぞ──クロフォード」
「かしこまりました」
 断たれていた気配を察知したのは、老執事の鍛え上げられ絞り込まれた腕に担ぎ上げられる寸前。気づいたところでどうしようもない段階だった。荷物のごとく肩に負われたウィンフィールドは「放せ、クロ爺!」と暴れるが、びくともしない。ウィンフィールドを携え、まったく緩まぬペースで退室していく。
「くそ、やっぱり納得いかねぇ! 合意もなしに勝手にこんな服着せてる時点で卑怯じゃねぇか、あんたらは!」
「すまんな。しかし、儂にはお前さんをこうする正当な理由がある。詳細は聞くな。説明できない。でも、あるんだ」
 根拠不明にして自信満々。覇道鋼造という男の器を窺わせる無意味に強気な発言だった。
「下ろせよ、クロ爺! やり直しを要求するっ!」
 やり直したところで結果は一緒だろう。きっと分岐点は存在しない。
「なべて縁とは奇妙なものだ……あ、そうそう」
 クロウォードの肩の上で身悶えするウィンフィールドに、鋼造が近寄った。
「あ?」
 首を捻り、訝りの声を挙げるウィンフィールド。彼の視線は一つのものを捉えた。
 鋼造が小脇に抱えた魔導書──
「これを忘れておった」
 疑問符を浮かべる顔に向けて魔力疾走。蒼い閃光が唇を割り、喉の奥へと滑り込む。
 突然魔術を仕掛けられたことに驚くよりも早く、魔力の滾りが熱く喉を突く。気管の奥がうねるように振動し、たまらず噎せた。
「けほっ……な、なにしやがっ……こふっ、けへっ」
「うむ。成功したな。それじゃ儂はこれで」
 何事もなかったように踵を返し、デスクへ戻っていく。クロフォードは咳き込むウィンフィールドを担いだまま一礼。そして廊下を歩き出す。
 あの光芒はどう見ても奇術や何かじゃない、人の業ならざる輝きを帯びていた。覇道家総帥の鋼造が密かに得意とする魔術の力だろう。
 ──いったいさっきのはなんの魔法だったんだ?
 湧き上がる疑問。それは当然、掛けられた魔術の種類。深い知識を持たないウィンフィールドにとって判断材料となりえるものはなかった。
 自分にどんな変化が起きたのかも、何を基準にして判断すればいいのか分からない。
 鋼造はえらくあっさり確認を済ませたが、よほど効果が分かりやすい魔法だったのか。
 クロフォードに訊ねてみようとして、やめた。
 この執事は「律儀」を体現したような男で、ウィンフィールドの問いが必要なことと認めれば懇切丁寧に答えを解説してくれる。技術的な面では既に極まっている感のあるウィンフィールドだが、何分クロフォードと比べればまだまだ経験は浅い。覇道鋼造と世界中を飛び回り、あらゆる怪異と立ち回った殺戮家──せいぜいアメリカの数州を放浪して街角に巣食う異形どもの相手した程度では太刀打ちできない。冗談半分で勝負を仕掛けたら、危うく死にそうになった。反省して本気でし合う方針に切り替えたが、まだ一勝したこともない。拳を交わし、言葉を交わしているうちに、だんだん関係が「教師と生徒」のような具合になってきた。口数の多い男ではないし、鋼造の命令を優先するため味方とは言いがたいが、それでも覇道邸の中では気安い部類の人間である。
 とはいえ──さすがに知らないことまで教えることは無理だろう。彼は拳闘専門で、ウィンフィールド同様、魔術についての知識は疎い。魔術には魔術で専門のスタッフが存在する以上、知悉する必要もない。だから、聞いたところで無駄になる公算は高い。
 咳が止んだウィンフィールドは質問をグッと胃の腑に飲み込み、沈黙した。
 クロフォードはそんな彼の思いを察する様子もなく、淀みなく機械的な足取りで廊下を突き進み、折れ曲がり、階段を下っていく。しばらくは荷物気分で輸送されていたウィンフィールドだが、居合わせた人々が投げかける不審の目に耐えられなくなって「もういいから下ろせよクロ爺……」と呟いた。滅多にないことだが、その声には羞恥が滲んでいた。
 クロ爺と呼ばれた彼が懇願を聞き入れたのは、何人もの目に晒され、いい加減ウィンフィールドが諦めを覚えそうになっていた頃である。
「まぁ、クロフォード、何をしているの?」
 訝る視線は数あれど、鋼造直属の執事であるクロフォードに声を掛けて来た人物は、その少女が初めてだった。
 少女の名は覇道瑠璃。鋼造の孫である。齢は十を少し過ぎたくらい。今はひとりで邸を散策中なのか、近くに両親の姿は見えない。
 彼女は「こんなところに女子校生拉致監禁の犯罪者が」と言いたそうな目つきでクロフォードと、その肩に担がれた制服姿のウィンフィールドを交互に見遣っている。
 クロフォードが無言でウィンフィールドを下ろした。
 地面に降りるや、無意識に指が動いて着衣の乱れを探索した。着慣れない制服──特に履き慣れていないスカートは、いくら押さえても伸ばしても気が休まらず、少し神経質な手つきで触れては離し、触れては離しを繰り返す。
 その様子を不思議そうに眺め、幼い少女は首を傾げた。
「こちらの方は……?」
 見ない顔──というよりも、見ない制服。これが屋敷中を歩き回っているメイドや、白衣を翻す研究者たちと同じ格好をしていれば、瑠璃も特別見咎めることはなかっただろう。しかし、どう見ても学生服としか思えない深緑の衣装は、この場にあって異質だった。
 疑問に思ったところで当然。答えようとしたところで、ウィンフィールドは迷った。
 一応、瑠璃とは面識がある。鋼造に拾われ、この屋敷にやって来てから何日かした頃に両親ともども引き合わされた。経緯を説明すると長くなるため、鋼造は「儂が拾った。将来有望」程度のことしか言わず、紹介された瑠璃たちも要領を得ない顔をしていた。それからも庭でぶらぶらしていたときに見かけて挨拶をするぐらいはしたが、正味な話、相手が自分を覚えているかどうか微妙なラインだった。あっちは覇道家の重要人物だが、こっちは有象無象のひとり。こっちは容易に「覇道瑠璃」を同定できるが、あっちが「ウィンフィールド」を同定するのは難しい。不可逆的な関係だ。
 まして今は、女装している。余計に話は難しくなっていた。
「ウィンフィールド」
 ボソリ、とクロフォードが発言する。声は低いが、響きには何の迷いもない。
 あまりの率直さに言われた本人は隣でぎょっとする。脇の下を冷や汗が伝った。
「──はご存知ですか、お嬢様」
「ウィンフィールド……ええと、確か最近お爺様が拾ってきた、いえ、迎えられた方ですね。何度かお見掛けしたことがあります。でも、こちらはご婦人では──」
「彼の妹です。名前は、ウィニフレッド」
 ぎょ、がもう一つ増えた。ぎょぎょっ、である。
(い、妹だってーっ!?)
 内心で嵐が吹き荒れるウィンフィールドほどではないが、瑠璃も驚きを見せる。「まぁ」と目を丸くした。
「幼い頃に列車事故で生き別れたそうですが、つい最近になってお互いの所在が判明したとのことで、こうして……」
 列車事故で生き別れ、って。またえらく簡単に捏造してくれたなおい。
 ここまでくると驚きを通り越して呆れた。
 瑠璃は驚きで忘れているようだが、なぜウィンフィールドの生き別れの妹をクロフォードが人質を攫う悪党よろしく担いでいたのか……訊かれたらちゃんと答えられたのだろうか?
 疑惑を感じたが、どうせまたチープな言い訳をでっち上げていたんだろうな、とも思ってしまう。
 この場をやり過ごしたい一心のウィンフィールドとしては突っつくつもりもなかった。
「そういう作り話みたいなことが現実にもあるものなのですねぇ」
 みたいなも何もバリバリ百パー作り話であるが、あっさり信じたようでしみじみと頷いている。
 頷いたところでまだ挨拶を交わしていないことに気づいたのか、「私は鋼造お爺様の孫──覇道瑠璃ですわ」と婉然たる笑みを浮かべて会釈する。十歳の少女にしては随分とそつのない所作。慌ててウィンフィールドも挨拶を返す。
「はじめまして、お──わたし、ウィニフレッドと申します。兄がこちらでお世話になっているようで……」
 ふと思った。
(あれ? 喋ってたら声で男ってバレないか?)
 気づいたのが遅れたせいでセリフはだいたい言い終えていた。
 ヤバイ──なんか、かつてない状況でかつてないピンチに陥っている……?
 もし、女装バレしたら。それも、よりによって十歳の少女に。
 にこやかな態度が一転し、理解できないイヤなものを見てしまったという目で「変態」と蔑まれることを想像するだけで鼓動が一瞬狂った。
 しかも彼女は鋼造の孫娘。発言力というか、言ったことの影響力はそれなりにある。今後、屋敷を歩くたびに
「あれがお嬢様の言っていた変態……」 ざわざわ 「まだ若いのに制服フェチ……」 ざわざわ 「ひとりでこっそり着るだけならまだしも、わざわざ大勢の前に出てくるなんて真性……」 ざわざわ 「まさか鋼造様が欲していたのはそういう趣味の……」 ざわざわ──
 ぶっちゃけ、耐えられない。
 そのときこそ理想もクソもなく屋敷を飛び出しているだろう。
 ジェンダー絡みの問題がアキレス腱となっているウィンフィールドは見事に青ざめた。数十匹の異形に囲まれても平然と頬を緩ませる彼が、ひとりの少女を前に心臓をバクバク言わせている。
 バレた? いやもしかしたらバレなかったかも。バカな。希望的観測が過ぎる。そんなわけがない。
 いろんな思いが交錯する中、果たして瑠璃は、
「瑠璃〜」
「あ、ママが呼んでいるわ。私はこれで──」
 特に何のリアクションもなく、その場を後にした。声のした方へ去っていく。
「え?」
 あまりにも無反応だったので、バレたのかバレなかったのか、すぐには分からなかった。
 乗り込む直前で扉が閉まった電車を見送るような表情をしていたのもほんの少しの間、すぐに正気づいたウィンフィールドは悲惨な事態を回避できたと実感した。
 ほっ、と胸に安堵が満ちる。これで明日から周りに白眼視されることもないだろう、とりあえず。
 ひとしきり甘い安らぎを噛み締めていたが、やがてじわじわと染み出す謎があった。
 なぜバレなかったのか。裏声をつくったわけでもなく、ごく普通に喋ってしまったのに。
「なんでだろう……」
 疑問が声になってこぼれ出た。
 思わず口を押さえる。「え? 今の俺の声?」といった表情で左右をきょろきょろする。横にいるクロフォードは泰然自若として彼を眺めている。
 冷静極まりないその姿にある種の信用を感じ、恐る恐る訊ねてみた。
「あのさ、クロフォード。俺の声って変じゃないかな? なんかいつもより高い気がするんだけど」
 ゆるゆると首を振って否定。代わりに、「見た目相応の声」であると告げた。
 ふーん、見た目相応の声。
 え。
 見た目相応の声って?
 え?
 喉をさすった。
 うわ、何これ、すっげぇフラット──って……
 常人ならば視線を送るだけで気をおかしくする数々の異形を真っ向から見据えて屠ってきた前歴から、ウィンフィールドの正気度(サニティ)はなかなか強靭だった。
 仕掛けられた罠を理解した後も、狂うことなく吼えた。
「あ──あの腐れ愉快に根性ヒネ曲がりのクソジジイがぁぁぁっ!?」
 セリフは下劣なれど、さざなみ立てるその声は乙女のもの。
 鋼造の放った魔術はごく単純な原理だ。男性の喉仏を隠し、声帯をいじる。ただそれだけ。実に他愛もない変成を促す技である。
 声変わりした少年であっても、少女みたいなソプラノが出せる。
 その程度の魔術に、いったいどんな利用価値があるのか?
 もし訊かれでもしたら、吼え猛るウィンフィールドを指差し、平然と答えるだろう。
「まあ、こんなときではないかね?」
 深緑の制服に身を沈ませ、長い鬘の下に短髪を隠し、魔法で本来の声を奪われた少年は歌うような高音で叫び続けていた。
 ──鳥はその喉で妙なる音色を奏で、聞く者を酔い痴れさせる。涼やかな鳴き声は属性を「風」とする一つの美だ。美は、神のみが万物に与えうる代物だろう。
 しかし、果たしてそれを恩寵と呼ぶことはできるのか? 麗しい花は彩りと香りの素晴らしさゆえに手折られ、天上の楽を地にもたらす鳥は独占欲を掻き乱すがために籠へ囚われる。美そのものは神の恵みであるが、体現するものにとって、美は試練であり束縛の鎖である。
 囚人を拘束する服──自由を奪い可能性を摘み取る妨害者の象徴、ストレイト・ジャケット。
 喉に嵌められた枷は、それに似ていた。

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