それは、宇宙を侵す愛
−第4話 狂愛、賛美せよ−


 あえて甘ったるい言い方をしよう。
 わざと夢見がちな口ぶりで言おう。
 狂っているから、愛せる。

 九郎はナイアガラへ向かった。
 そこが宇宙を二分する戦いの、決戦の地だった。
「ここか……」
 大瀑布。この世すべてのものは落ちゆく運命にあると諭す、重力の代弁者。
 白く濁る水壁の向こうへ、黒き鬼神デモンベインに搭乗した九郎が語り掛ける。
「さあ、終わらせようぜ──ダンセイニ」
 昂揚でもなく、憐憫でもなく、ただ静かな声色で。
 戦いの閉幕を願い、九郎は囁く。
 滝の向こう側から、睨み返す一個の目がある。
 水流の轟音をものともせず、聴覚を超えた感覚で九郎の声を聞き届けた存在。
 返答は声なき咆哮。
 叩きつける水のカーテンを突き破り、絶死を告げる指先がデモンベインに伸びた──

 話を遡る。
 あの後、九郎は帰ってきたダンセイニによって「手術」を受け、ニトクリスの鏡を発動せずに元の感覚を取り戻すことができた。常時幻術を掛けているとなると魔力消費がバカにならず、割と心配していたが、その点で言えば問題は無事解決。
 けれどまだ別の問題は残っていた。
 それが──
「ア、アルきゅん、ハァハァ」
「ハァハァするな! だいたい『きゅん』とはなんだ、『きゅん』とは!」
 口から熱いそよ風を吹かす九郎に、苦いものを噛んだ顔で怒鳴り返すアル。もうどれだけこんな遣り取りが続いたか。数えようとするだけでうんざりしてくる。
 ふう、と重い溜息をつく。
 彼女は心底困り果てていた。
 よほど打ち所が悪かったのか、目が覚めてからの九郎はずっとこんな調子である。「手術」の間こそおとなしくしていたものの、開放された途端、彼女の方へ露骨に熱い視線を送り出したのだ。
 いったい何がキッカケで九郎の脳がこうまでおかしくなってしまったのか分からない。昼寝をする前までは何ら変哲のない「いつも通りの大十字九郎」だったが、起きたときには認識が狂っていて、その「狂い」をどうにか調節したと思ったらまた別の「狂い」が生じてしまった。

 アル・アジフが男に見えるのだという。

 困惑しないわけがない。
 魂が形づくられたときからずっと、彼女はあくまで「彼女」としてのパーソナリティを獲得し、保持し続けてきた。男性としてではなく、女性として、魔道書「アル・アジフ」のキャラクターは守られてきたのだ。それがアブドゥル・アルハザードの意志だったのか、世界の意志だったのか、彼女の魂が選択したことなのか、それ以外の何者かの意志が働いたかどうかは不明だ。元より理由があるとも限らない。ただの偶然だったのかもしれない。なんであれ、彼女が今日に至るまで一度も「男」であったことなど無だ。ひたすらに「女」として在り、戦ってきた。それほどジェンダーを意識する機会もあまりなかったが、自分の性別を見誤ったことなどない。
 それが今更になって揺らぎ出した。九郎の目には彼女の股間に「男」たることを明示する生殖器(♂)がはっきりと映っており、「見間違い」などと否定することは不可能だ、と言い張っている。
 恐らく脳にもたらされた変質が影響していて、治療後も是正されることなく残っているのだろうが、この際原因は重要ではない。重く見るべきところは、「治す手立てが見当たらない」ということ、ただ一点だ。
 何度もダンセイニに確認したが、彼は、
「てけり・り(既に脳の異常はなくなっている)」
 と請け負った。故に、この誤認識は件の「脳の異常」と関係した出来事だとしても、もはやその関係は密ではなく疎になっており、とっくに別個の障害として確立してしまった後なのだ──との診断を下した。足の具合が悪くなって転び、顔を地面にぶつけて怪我を負った。それから足を治したが、顔の怪我はどうにもならなかった。そういった状況だという。
 アルが男に見えてしまう症状はダンセイニの専門外で、手の施しようがない。もう彼の出番は終わってしまっている。悲しげに肩(と思しきあたり)を震わせながら、「てけり・り……」と溜息をつくのだった。
 そこまでならまだ良かった。いや、ぶっちゃけあまり良くないが、それよりももっと悪いことが重なって起こったのである。
「そっか。俺がお前を『アル』って男名前で呼んじまったのは、こういう展開の伏線だったのか。今、痛切に思い知った。腑に落ちるとはこういう気分か。運命って奴は正に深謀遠慮の塊だな」
 しみじみと、今にも「小悟いたしました」と言い出しそうな口ぶりで呟いたものだから、アルも反応に困った。何が言いたいのか、うまく掴めず、恐る恐る質問してみた。
「はてな、九郎。その発言にはどんな意味が込められているのであろうか? 妾の直感が『訊くなかれ!』と叫んでいるが、如何せんスルーしがたいゆえ、仕方なく訊いておるわけだが……」
「つまりさ、アル。『男は度胸。何でも試してみるのさ』ってことだよ」
「いや、余計分かりにくくなってきた……」
「喉につかえていた何かが外れた感じだぜ。初めて呼吸というものを知ったような心持ちさえする。ああ、世界はこんなに清々しい空気に満ちていたのだと──」
 うっとり。恍惚。陶然。酔い痴れる。
 その手の形容しか思い浮かばない薔薇色の表情が九郎の顔を飾った。
 ギラギラと眩しい輝きに、アルは思わず身を引く。
「頼む、我が主よ、今ばかり、今ばかりは正気であることの価値を見出してほしい」
「否、すこぶる否だぞ。俺はもう気づいてしまったんだからな。俺の中に眠る真実に。惰眠が終わり、その身を起こした真実にな」
 獣の敏捷さでアルの肩に腕を回し、「なあ、アル──」と耳元に囁く。がっちりと押さえこまれた少女は耳孔へ吹き込まれる不快に熱い吐息を感じて肌を粟立たせた。

「──同性愛(ソドミー)って、胸キュン?」

 戦慄が駆け抜けた。メキシコに吹く熱風よりも激しく。
 ぷつぷつぷつっ、と脳内で複数のワイヤーが千切れるイメージ。
「〜〜〜ッッ」
 恐慌は感情よりも行動を先行させた。
 それは魔道も外道もクソもない、ベーシック・インスティンクトの為せる業。
「ヒャいぃぃッ!」
 ハイキック。足が斧となって打ち上げられ、九郎のローズ・フェイスにぶち込まれた。肉と肉を超え、骨と骨のセッションする硬質な音が室内に響き渡る。
「ッだァアアッ!」
 休まず姿勢を立て直し、正拳突き。
 殴りつけるだけで「点と点の最短距離は直線」と告げる雄弁な一撃であり、解説無用の威力だった。
 これならどんなに騒々しいゴロツキも赤ん坊の頃を思い出してハッシャバイすること間違いなし。そう確信するほどの手応えだったが、あいにくと彼女の相対する男はゴロツキではなかった。
 魔術師。外道でナンボの腐れ稼業。人間なんて悪魔との契約を交わした時点でどうしようもなくやめている。マフィアさえ「死んでいても近寄りたくない」と首を振る、イヤな意味合いでの超人どもだ。
 必殺必滅の二連撃にもニコッと無償のスマイルを返す。かと思えば一転して荒々しく咆える。
「貧弱! 貧弱ゥ! だがそこが萌えだッ!」
 さっきは二度も気絶したことなど忘却し、蹴りと拳のダメージを少しも顔に出さず、心臓を止められても動くことをやめないしぶとさで迫ってきた。爽やかな笑顔とは裏腹な、生々しい欲望が高体温とともに押し寄せる。
「アル、お前と俺は出会い、そしてお前が俺を選んだ。あれは一方的で、運命と呼ぶにはちょいと抵抗があった。でもな、今、俺がお前を選ぶ。『アル』の名に恥じない、半ズボンが似合いそうなこのお前を! これならフェイトって感じがする!」
「せぬ! 妾はせぬ! 一切せぬし、一片だにせぬ!」
 鼻息を荒げて暑苦しく迫ってくる九郎を、力いっぱい両手でぐいぐい押し返す。今ここで押し切られたら想像もできないくらいヒドイことになると直感が告げていた。
「分かり合おうぜ。俺たちは今よりもっと分かり合って、結束を深めるべきなんだ──いや、結束というより結合かな?」
「後半の本音が怖いわ! ええい、寄るなたわけ!」
「フフ、可愛いね……アルきゅん」
 こういった次第であった。
 ひとまずダンセイニに押さえつけさせた後、改めてアトラック=ナチャで拘束し直し、「叩けば治るだろうか?」という発想のもとサンドバックにしてやったが、256回目の殴打を経てなおも九郎の変態性は薄らぐことがなかった。薄らぐどころかどんどん濃くなる有り様だ。魔力を転用して巧みに大打撃をいなしながら、こまごました攻撃の数々をわざと受けてみせる。「イイ、イイぜ、アルきゅん! どんどん新しい世界に目覚めていく実感がある! ああ、ブレイヴ・ニュー・ワールド!」というセリフを鑑みるに、遺憾ながらアルの責めが九郎を開発してしまったようだった。正に逆効果。
 この時まで繰り広げてきた果てなき邪との闘争よりもずっと徒労感を催した。虚しかった。若く、青く、まだ未熟ながら悪を嫌い、正義と平和を価値あるものと信じ、弱き者の怒りと憎悪を肯定する、魔術師にあるまじき素質を持った青年。彼と出会えたことは好機とも言えたし、ひょっとすれば運命か何かだったのかもしれない。それがひょんなことから躓き、変質者への道を歩み始めている。もともと変態臭いとは睨んでいたが、今回のイベントを通じてますます磨きが掛かってしまったようである。
 ひょっとするとこれはブラックロッジの罠なのだろうか。多種多様な悪の才能を寄せ集めた秘密組織ならばこれぐらいのことはやれるかもしれないが、それにしては意味不明が過ぎる。寝ている不意を突くことは戦術として常套であるが、脳をいじるだけいじって帰っていくのでは何が狙いなのか分からない。そもそも、アルは普段から式を組み、悪意ある者の侵入を許さぬ措置を取っていた。悪意に反応して罠が作動する式だ。易々とブラックロッジの輩が忍び込んできたとも考えにくい。防衛対策を立てていたからこそ、ふたりは安心して昼寝を楽しんだのだ。簡単に突破されるようでは一日中安眠できない道理となる。
 ならば、部屋に悪意なき者が入ってきて九郎をどうにかした可能性が残るが──悪意なくこうした行いができる者なぞ存在するのだろうか?
 考え込むアルに、ハッハッハッと犬の呼吸をする九郎が語りかける。
「なんだ、もう終わりか、アルきゅん? 俺はまだまだイケるぜ!」
「黙れ」
「あん? そうか、今度は放置プレイか! 俺を散々焦らして切ない気持ちを味わせようって腹か! やるなぁ。可愛い顔して相当にマニアックだぜ、アルきゅん!」
 もう、何を言っても無駄だった。何も言わなくても無駄だった。言えば言ったでムチャな解釈にこじつけて興奮するだけだし、無視すれば無視したで「放置プレイ」と受け取って興奮しっぱなし。
 人間として究極に駄目な姿だった。ペド探偵、ペド・マギウスと罵られてきた青年だったが、ここまで来ると単なるペドファイルで括って一向に問題ない。彼にいま必要なのは良く効くおクスリと、頑丈な拘束具と、日も差さない薄暗い檻なのだろう。
 こんな具合でブラックロッジとの戦いを続けられるのだろうか。
 疑問に思って当然だった。
「なあ、我が主」
「おう、なんでも命令してくれ! つーかしろ!」
「確認するが、そんな調子でも一応ブラックロッジの奴ばらと戦う意志までは失っておらんのだよな?」
「──何を言うと思えば」
 苦笑。
 すっ、と。
 その瞬間だけ、変態の色彩が消えていく。代わって嘘みたいな凛々しさが満ちる。
「ああ、奴らは許せねぇ。あんな秘密組織はこの街にいらない。あいつらは世界における『必要悪』なんかじゃない。あれは『絶対悪』だ。特にマスターテリオン。ライカさんのことを地を這う虫みたいに見ていた奴のことを俺は許容することができない! 俺は俺に奴を倒すと誓った!」
 熱い叫び。狂気の破片が残り、変態と堕してなおも憎悪の輝きは曇らない。
 変態。事実である。肯定しよう。今の大十字九郎はどうしようもない変態だ。ジョージとコリンには会わせたくないくらいの変態だ。
 だが、そこには依然、アル・アジフの必要とする「正義」──「悪を憎む」意志が失われることなく確固として根付いていた。
「九郎──」
 その熱に触れ、アルの心臓が強く脈打つ。
 実感が湧いた。変態を極めども、彼は自分のマスターに相違ないのだと。
 時間をかけて、なるべく早く、この狂気と折り合っていかねば。硬い決意が、翠の双眸に宿る。
 彼女はまだ邪なる者を誅滅する使命を諦めたくなかったし、大十字九郎という個人を諦めたくもなかった。
 真摯に、正面から、この変態と付き合っていく。甘えることも甘やかすこともない引き締まった表情で頷こうとした、正にそのとき。
「──ふえ?」
 突然、違和感が芽生えた。
 下腹のあたり。これまでまったく縁のなかった感覚が生まれていた。
 熱く脈動する、軽い何か。なぜだか下着が窮屈に感じられる。
 いったいこれは──
 手を伸ばそうとして、硬直した。
(もしや……)
 ある想像が脳裏を馳せて行く。
 そんなことがありうるはずない。ムチャクチャだ。道理を外れている。
 必死に打ち消そうと、首を横に振りながら考える。しかし、その動作は弱々しかった。
 意味を求めることの無意味さを何よりも熟知している彼女だからこそ、法外な事態に対する抵抗の虚しさを本能で感じ取っていた。
 道理なんて外れていて当たり前だ。
 アル・アジフ。ネクロノミコンとも呼ばれる彼女は外道の果てを探求して生き長らえてきた魔道書。何せ「魔道」だ。道は生まれたときから外れている。彼女自身が知のフロンティアであり、未知への闇先案内人である。
 異常の一つや二つ、体現してナンボなのだ。
 額に汗を浮かべ、弾かれたように顔を上げる。
 視線が九郎を捉えた。蜘蛛糸の結界に囚われながら、うっすらと微笑んでいる。その目はしっかりとアルの股間を凝視していた。
「アル、運命とは自分の手で掴み取るものだぜ──」
「な、なんてことを……汝はなんてことをするのだ!」
「カモン運命! レッツ祝福!」
 魔術師と魔道書。契約を交わすことで親子よりも夫婦よりも魂が近しくなる両者。血でも愛でもない、魔力の繋がり。
 その回路を経て。

 狂気が、伝染した。

最終話へ


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