夢日記3


 当方は高校生の頃に戻って教室で授業を受けています。
 授業中と言えば先生の喋る声、チョークが黒板を引っ掻く音、教科書をめくる音や鉛筆がノートの上を走る音、声を低めた話し声、別の教室から漏れてくる篭もった音、上の教室で椅子が這ったときに出るくぐもった音に、窓の外から響いてくる遠い音など、雑多な音が混ざり合っているわけですが、実際に耳にしてみるといろいろな材料が溶け込んでいながら味のあっさりしているスープみたいに静かな聞き心地だったりします。
 眠気を誘うちょうどいい静けさに当方がウトウトしていると、不意に「トタトタッ……」と軽い音が頭上を駆け抜けて行くのを感じ取ります。
 一度や二度ではなく、何度も、何度も。
 やがて眠気が去った頃に「あの音はなんだったんだろう」と不思議になって、音のしたあたり──天井を見上げるんですが、そこには何もない。耳を澄ましてふたたび音を捉えようと待ち構えるけれど、いつまで経っても例の軽快な音は聞こえてこない。何かがあったとしても、とうに過ぎ去った後のようだった。

 しかし気になるので休憩時間、当方は友人たちにこのことを話します。
 すると、何人か当方と同じような音を耳にした、と言う人が出てきました。それも今日だけではなく、昨日や一昨日、先週からずっと聞いていたという人もいて、その人(男子だったか女子だったか記憶が曖昧)はずっと気に掛かっていたらしい。それでも、訊ねたうちのほとんどの生徒が奇妙な音を「聞いてない」と答えている。
 なんなんだろう、あの音は……と余計に不思議になって首を捻っていると、突然吉沢君が口を挟みました。彼はあらゆる科目でトップに立ち、模試でも上位にランクインする優等生でした。たまに眼鏡を掛けていました。この日がちょうど「たまに」の日だったようです。クッ、と眼鏡の橋の部分を人差し指で押し上げながらこう言いました。
「それって、あれだろ?」
 次いで指差すところを注視すると、そこには薄い茶色をしたひどく小さな蛙がいました。机の下の床。一瞬、消しゴムか、何かの置物かと思いましたが、我々の見ている前で動き出し、それが生きていることを知ります。だが、その動きが速い。飛んでいるわけでもないのに、犬が駆けるような速さで床を走り、また別の場所に来てピタリと止まる。何度かそれを繰り返しているうち、あまりの速さに遂には見失ってしまいました。
「なに、あの蛙?」
 飛びもせず、ただ黙々と床を走る蛙に唖然としている当方は吉沢君に訊きますが、彼は「知らない」と答えます。彼によれば、先週からその蛙の存在に気づいていたが、正体なんか分かりようもないらしいです。彼が蛙の存在に気づいたキッカケは当方が聞いたあの音のようで、あれを耳にしてから注意深く教室を観察し、2日目になってようやくあの蛙を視界に収めることができたんだとか。更に観察を続けてみると、蛙は床や壁を移動するときはまったく音を立てないのに、材質の関係か、天井を走るときだけごく小さな音が発生することに気づく──
 と、こうして当方の疑問がいくらか解消されたところに、隣席の女子──米田さんがポツリと呟きました。
「神っていうのはあの蛙みたいなものかもしれない……」

 出し抜けでしかも電波臭いセリフに当然の如くビビりますが、彼女は意に介さない。滔々と述べるところによれば、神の存在をほとんどの人が目にも耳にも止めないため、その実在は常に疑われる。だが中にはたまたま神の音を耳にし、その姿を見てしまう者がいる。神を直接目にすることができずとも、過ぎ去っていく際に立つ音を耳にすることで「何者か」の存在を疑い、神に行き着くことができるのだ。彼らはまるで神の発信する波長に合わせるみたいに細心の注意を払って神経を研ぎ澄ませ、今までとは違う見方、異なる聞き方を用いて神がなにげなく自分の隣や背後、足元に「いる」、そして「いた」ことに気づき、以降はその見方・聞き方が定着して神の存在を忘れることができなくなる。注意深く目を凝らし、耳を澄ましていれば、一度捉えたその存在をいつまでも逃すことはないし、仮に見失ったとしても「神を目撃した」という事実は揺るがない。
 概ねこんな意味合いだったかと。あと「神の姿を見て信仰することと、神の姿を見ずに信仰することの違い」なんかも言及していましたが、そのあたりはだいぶ記憶がぼやけています。
 すると誰かが「じゃあ、ひょっとするとあの蛙って神なのかもしんないね」と半笑いで言い出した。
 一笑に付すかと思われた吉沢君と米田さんですが、揃って頷き「かもな」と肯定します。「……いや、冗談なんだけど」と前言撤回してもふたりの態度は変わらない。獲物を見つけたキバヤシみたいな表情で当方たちを見据える。
「もしあれが神なら、言葉が通じるかもしれない」

 まずは日本語で話し掛けますが反応はなし。ラテン語、ギリシア語、イタリア語、英語、ドイツ語、フランス語とあれこれ試しますが、応える様子はありません。次から次へと外国語を紡いでいく吉沢君に驚きながら当方たちが傍観を続けていると、ある言語を口にしたところで蛙が姿を現し、するすると吉沢君の近くへ寄って行きます。
 そのとき彼が喋っていたのは、中国語。それも北京語です。
 吉沢君の下に字幕が現れ、彼が何を言っているのか逐一漏らすことなく表示してくれる。
 彼は「あなたは神なのか」「神じゃないとすれば何なのか」「何をしに来たか」など様々な問い掛けをしますが、蛙は何一つ返答せず、黙って吉沢君の顔を見上げています。
 どんなことを言えば反応が聞きだせるのだろうか? 吉沢君は周りのみんなからも意見を募ってひとつひとつ確かめてみますが、やはり蛙はそのどれにも反応しない。
 そろそろ休憩時間も終わるし、諦めるか──当方たちがそれぞれの席に戻ろうとしたとき、米田さんが口を開きました。

 彼女が喋ったのはまるで映画のあらすじみたいなことでした。声がなぜか『HERO−英雄−』の秦王になっています。
 モンゴルの大草原に大人と子供、親子とおぼしきふたりの人間が横たわっていた。彼らはともに血を流しており、大人の方は息も絶え絶え、子供の方はとっくに息を失って絶命している。ふたりはやたらと古臭い支那服を身をまとい、いまどき辮髪をしていたが、なぜかその髪は根元の近くで切り落とされていて、仰向けに転がる彼らの横に並べて置かれていた。
 助け起こそうとするモンゴルの人々。彼らの服装はごく近代的で、倒れているふたりと比べると実にミスマッチであった。
 死に掛けている大人の方が、ぜいぜい息を荒くつきながら弱々しい目で周りを見回し、震える声で告げた。
「わたしは神を見た」

 蛙は幻のようにふっと消え、響いてきたチャイムの音が休憩時間の終わりを知らせます。

 次の日。吉沢君と米田さんは登校せず、無断欠席の扱いとなります。
 昼になって、ふたりが死んだとの報せが入る。それも、よりによってモンゴルの大草原で。
 古い支那服、切断された辮髪と、前日に米田さんが蛙へ向けた言葉と同じ通りの格好で死体は発見されたとのことです。
 発見時、吉田さんは既に息を引き取っていましたが、吉沢くんはまだ辛うじて生きていたらしい。
 顔面の筋肉を痙攣させ、無理矢理に満面の笑顔を形づくりながら、途切れ途切れにこう言い残した。
「首がなかった」

 


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