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リレー小説「魔法少女忌譚修」(第13話−10/12)


2025-11-06.

・いまひとつ「目玉」に欠ける秋アニメ勢ですが、個人的に『私を喰べたい、ひとでなし』『アルマちゃんは家族になりたい』『嘆きの亡霊は引退したい 2期』『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』『グノーシア』の5本を毎週楽しみにしている焼津です、こんばんは。

 『私を喰べたい、ひとでなし』、公式略称「わたたべ」は「女が女に巨大感情を向ける」という時点で広義の「百合」に属する作品であるが、恋愛要素はほとんどないため普通に伝奇スリラーとして観ても問題ない内容になっています。主人公「八百歳比名子(やおとせ・ひなこ)」は幼い頃に交通事故で両親と兄を亡くし、自身も体に深い傷を負って真夏でも袖の長い服装をしている少女。「死にたい」「早く家族のところに行きたい」と願いながらも、「比名子だけは生きて」という言葉が忘れられず、辛うじて命を絶たずに済んでいる。そんな彼女の前に現れた、潮の匂いがする、海のように深く青い瞳を持った少女「近江汐莉(おうみ・しおり)」。彼女は「人魚」の妖怪であり、妖怪に好かれる匂いを放つ比名子を「私のもの」「誰にも渡すつもりはない」と宣言する……という、『うしおととら』と『アトラク=ナクア』を混ぜたような伝奇ストーリーです。

 主人公が死にたがりとあって話の雰囲気が暗く、友人「社美胡(やしろ・みこ)」の明るさで中和しようとした結果、妙に気合の入ったキャラソン「太陽、なってあげよっか?(はぁと)」が作られるという珍事態が生じている。美胡ちゃんの過去エピソードを知っている原作読者はあまりの温度差に「お、おう……」と絶句するしかない。メインストーリーが暗すぎて作者もしんどいからかコミカルなパートも結構混ぜられているわたたべ、実は初期の構想だともっとコメディ寄りの漫画だったらしい。比名子が死にたがっておらず、汐莉の知能がもっと低い感じ(でも正体がグロいのはそのまま)でドタバタする内容だったとか。単行本でも初期汐莉が「くらーい!」と本編の展開にツッコミを入れるおまけページがあったりします。「人喰いの妖怪」という本来なら恐れ慄いて然るべき存在を、「死にたがり」ゆえむしろ歓迎する……という倒錯に本作の妙味がある。

 原作は7巻でひと区切り付けて、新キャラをチラ見せしつつ8巻から新章開始――という流れだからアニメも恐らく7巻で終わりだろうけど、原作の最新刊が11巻なんで2期やるほどのストックがまだ貯まってないんですよね。新章に入ってからキャラが増えるんで是非2期もやってほしいが、現実的には難しいだろうな。百合系のアニメで2期が来ることってほとんどないし……あの名作『やがて君になる』や、「キマシタワー」の語源である『ストロベリー・パニック』さえ続編は作られていない。始祖『マリア様がみてる』と中興の祖『ゆるゆり』だけが特異点と化している。今は新鋭わたなれ(『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』)が突破口を開いてくれることを祈るしかない。

 『アルマちゃんは家族になりたい』はAIエンジニア「神里エンジ」とロボット工学者「夜羽スズメ」がタッグを組んで製造した少女型兵器「アルマ」がふたりを「おとうさんとおかあさん」と認識して疑似家族関係を展開する、ほのぼのファミリー譚(メカ要素あり)です。原作者は「ななてる」、以前「天城七輝(てんじょう・ななき)」というペンネームを使用していましたが「ななてる」というあだ名の方が浸透したため15年くらい前に切り替えた。特に何かと戦うことを想定しているわけじゃないのに兵器として作られているあたりよくわからない作品ですが、アルマちゃんが可愛いので全て帳消しである。やはりアニメ界はロボ好きが多いのか、そんなに予算が潤沢とも思えないのに謎なくらい作画が凝っていて見応えがあります。タイトルで観る気がしない、という方も騙されたと思って冒頭数分だけでも鑑賞してほしい。

 『嘆きの亡霊は引退したい 2期』は1期目から1年、分割にしてはちょっと掛かったな……という雰囲気で始まった2期目です。原作小説の書籍版4巻あたりからスタートしている。原作は地の文が多く、みっしりと字が詰まっていて読み応えがあるのですが、情報量が多すぎるせいでアニメ版はだいぶ削っています。原作ファン的には「端折り過ぎだろ」と思う箇所がなくもないが、アニメのテンポを考えると仕方ないかな……と受け入れています。別にヒロインというわけではないけど、やたら不憫な目に遭うせいで印象に残る「ティノ」が相変わらず可愛い。あとクライたちに執着するせいでどんどん厄介事に巻き込まれる「アーノルド」、原作では活躍シーンが省略されまくっているのですが、アニメスタッフが「可哀想」と思ったのかちょっとカッコいいカットが盛り込まれていましたね。

 原作4巻の内容が終わって現在5巻の範囲に差し掛かっていますが、クライの義妹「ルシア・ロジェ」やスマート姉妹の兄「アンセム・スマート」というアニメではちょっとしか出番のなかったストグリメンバーがいよいよ本格的に活躍するので原作ファンとしてすごく楽しみです。ちなみにストグリのメンバーはもう一人存在する(幼なじみではなく途中参加なので回想シーンには出て来ない)けど、登場するのは3クール目かな……1クール目が1巻から3巻まで、同じペースで進行するなら2クール目は4巻から6巻までかな、と予想していたが2クール目の5話(通算18話)で細部を端折りまくって5巻の半分くらいエピソードを消化していたから7巻まで終わらせるつもりと思われる。7巻は「武帝祭」という天下一武道会みたいな催しを描くエピソードなんで、あそこで終わると収まりがいいんですよね。原作の9巻と10巻は前編と後編みたいな関係であり、8巻はその前振りに当たるエピソードだからまとめて3クール目にしてほしかったし。ただ、欲を言うなら2期で原作4〜6巻のエピソードをやって、7巻(武帝祭編)は劇場版として上映してほしかった。「嘆きの亡霊(ストレンジ・グリーフ)の前に立ちはだかったのは……嘆きの悪霊(ストレンジ・フリーク)!?」みたいな予告まで妄想していましたよ、私は。

 『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』は『エアマスター』や『ハチワンダイバー』の「柴田ヨクサル」による漫画が原作。当然「石森プロ」や「東映」の許可は取っています。子供の頃から仮面ライダーが大好きで、「大きくなったら仮面ライダーになる!」と誓ってストイックな修行の日々を送っていた主人公「東島丹三郎」。しかし40歳になり、いい加減「己は仮面ライダーになれない」という現実を受け容れようとしていたところ、ショッカーの戦闘員に扮した「ショッカー強盗」なるものが世間を騒がせる。偽物とはいえショッカーをブチのめせることに歓喜する丹三郎、しかし事態は彼の予想を超えて激しく変転する……という、イカレているようでいて「ライダーとは何か」「ヒーローとは何か」を巡るアツい物語になっています。

 故・大迫純一の「闘いとは、拳を叩きつけることではない。強さとは、負けないことではない。勝利とは、敵を倒すことではない」という言葉を思い出す。40歳という今更生き方を変えるのも困難になった年齢でようやく運命と出会うことができる、ってあたりは牧野修の短編「翁戦記」(『忌まわしい匣』所収)を少し連想する。邪神復活に備えて古代(縄文時代)から現代日本に転生した戦士たち、しかし復活のタイミングが数十年ズレたせいで戦士たちは盛りを過ぎ、すっかり爺になってしまった! 老衰で亡くなる仲間も出てくる中、いよいよ待望の邪神が目を覚ます……という『幻魔大戦』のパロディみたいな伝奇小説なんですが、老いさらばえた体で必死に強大な敵へ立ち向かっていく切なさに涙を禁じえないマイ・フェイバリット転生譚です。さておき『東島丹三郎は仮面ライダーになりたい』、アニメは演出が凄まじくて原作の良さを何倍にも増幅しています。あの「島本和彦」も悔しがるクオリティの高さ。是非リアルタイムで味わってほしい。

 『グノーシア』は「プチデポット」という4名のスタッフで構成されるインディーデベロッパー、簡単に言うと同人サークルみたいなところが作ったインディーゲームを原作にしたアニメです。比較的近い例で言うと『天穂のサクナヒメ』、あるいは『真月譚 月姫』や『ひぐらしのなく頃に』みたいな感じ。最近は『8番出口』も実写映画化したし、インディー発のゲームが表舞台でメディアミックスされるのも珍しくなくなってきました。次はアクおど(『アクアリウムは踊らない』)あたりかしら? ともあれ『グノーシア』は2019年にPlayStation Vitaで発売され、その後ハードを変えながら販売され続けている。いわゆる「人狼ゲーム」をベースにしたADVです。

 人狼ゲームについて解説すると長くなるので詳細は省きますが、要するにミス研とかがよくやる「犯人当てクイズ」をゲームにしたようなノリ。対人要素が強く、麻雀みたいに面子を集めないと遊べないところがネックで、『グノーシア』はそのへん工夫して「一人で遊べる(CPU戦のみの)人狼ゲーム」として構築している。プレーヤーは宇宙船という脱出不可能な環境の中で、乗員に紛れ込んだ「グノーシア」と呼ばれる「生前の人間そっくりに振る舞うがもう人格はとっくに死んでおり、人間を皆殺しにすることを至上の命題とする怪物」を暴くための「議論」に参加することを強制される。果たして主人公は生き残れるのか……と、こんなシチュエーションです。アニメ版は1話目をチュートリアルと割り切って進行し、「やり方はわかったね? じゃあここからが本番だ」という形で2話目がスタートする。2話目のタイトルが「ループ」なのでネタバレもクソもないが、もう一度開始地点へ戻って「議論」に再チャレンジします。「えっ? でも1話目で誰がグノーシアか判明してんじゃん、即終了では?」と疑問に思うかもしれませんが、そこからもいろいろと波乱があるワケだ。原作知識があっても「誰がグノーシアか」はアニメスタッフの匙加減次第なんで原作ファンもアニメ勢と一緒に頑張って推理するしかない、という面白い状況になっています。ミステリ要素の強い作品はアニメ化が難しいとされているが、こういう方法で切り抜けるのは新鮮で素直にワクワクしています。

『みなみけ』5期のサブタイトル決定、『みなみけ これから』

 あの『みなみけ』5期が遂に実現とは……思わず「“幻想(ユメ)”じゃねえよな…!?」の顔になってしまった。調べてみると「TVアニメ新シリーズ製作決定」というニュースは去年の七夕に出ていて、私も見たはずなんですが完全に忘れていました。『みなみけ』は「桜場コハル」による南家の三姉妹を中心にした日常マンガで、2004年に連載開始ですから今年で21年になる。「この物語は、南家三姉妹の平凡な日常を淡々と描く物です。 過度な期待はしないでください」という前置きも懐かしい1期目のアニメが2007年放送で、2期目が2008年、3期目が2009年に放送され、4期目はちょっと間が空いて2013年。5期目の放送が来年だとしたら13年ぶりであり、「ちょっと」どころではない間の空きようだ。

 日常マンガだからストーリーらしいストーリーは特になく、レギュラーキャラもほとんど増えないので1巻どころか10巻くらい飛ばしても問題がない。私も読んでない巻が結構あるけど平然と「ヤンマガweb」で最近のエピソードを摘まみ読みしています。単行本も一時期持っていたけど、置いていた場所が悪かったせいでヤケがヒドくて処分してしまったな。『みなみけ』のアニメ化が始まった頃はまだそこまで「原作再現」にうるさくなかった時代で「原作とはだいぶ絵柄が違うけど、まぁいいか」と割かし寛容に受け止められていましたが、オリジナル要素をブチ込んだ2期目(おかわり)だけは非常に評判が悪く、未だに『みなみけ』ファンの前でおかわりの話をすると機嫌が悪くなるほどです。4期目(ただいま)は作画がだいぶ良くなっており、絵柄もかなり原作に寄せたファンにとって理想の仕上がりになっている。正直、1〜3期は今観るとキツい部分が幾許かあるのですが、4期に関しては現代のアニメと比べてもそこまでギャップがなくて満足の行く出来栄えです。なんだかんだ1期目の印象が強いので、久々に4期目を見返すと「ここまで作画良かったっけ?」ってビックリする。

 願わくば5期目(これから)も4期のクオリティに並ぶか、追い越す仕上がりになってほしいものだ。ちなみに私の好きなキャラは一貫して「内田ユカ」。可愛くて性格も良いのにアホで幸薄そうなところがたまらない。Youtubeで無料配信も始まっているし、放送までワクワクが持続しそうだ。

TVアニメ『千歳くんはラムネ瓶のなか』、第6話以降の放送は「制作上の都合および本編クオリティ維持のため」延期、12月に再開予定

 万策尽きちゃったか……チラムネこと『千歳くんはラムネ瓶のなか』は分割2クールでの放送を予定しており、1〜3月の間に休んで4月から2クール目を開始する段取りになっていましたが、この調子だと2クール目を無事始められるかどうかも怪しくなってきたな。やっぱり人手不足なんでしょうね。今アニメは海外市場での売上が凄くて、円安の影響もあるだろうがもはや国内よりも海外の稼ぎの方が大きい(2024年は国内1.6兆円に対して海外2.1兆円)から「とにかくどんどん作って海外に売りまくろう」と現場は人材の奪い合いになっているそうです。穴埋めで流す番組が既存の映像を使い回した総集編とか声優が出演する特別番組とかじゃなく、まったく関係ない『うーさーのその日暮らし』の再放送というのが現場の限界を証明している。

 『千歳くんはラムネ瓶のなか』の原作を出しているレーベルは小学館の「ガガガ文庫」、ここのアニメはお世辞にも予算が潤沢と言えず、過去には『俺、ツインテールになります。』で悲惨な作画崩壊を引き起こしていた(作品そのものは愛されていて原作は大団円&完結後も記念本が出ている)。レーベルのカラーを変えた大ヒット作『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』も、1期目は露骨な低予算アニメで事前に期待する人はほとんどいませんでした。『やはり俺の〜』が当たったことで流れが変わり、2024年に『負けヒロインが多すぎる!』という突然変異みたいな良質アニメが放送されて「ようやくガガガアニメ=ラノベ原作アニメの中でもひと際『う〜ん……』な出来という呪縛から解き放たれたのか」と思っていたのに……。

 1クール目は全13話の予定でしたが、11〜13話に関してはどうなるか今のところ決まっていません。過去の例で言うと、2011年に『魔法少女まどか☆マギカ』が東日本大震災の影響で11話と12話(地域によっては10話も)の放送が延期になったり、2012年に『ガールズ&パンツァー』が制作の遅れから2回も総集編をやって11話と12話の放送が間に合わなくなったりしています。もう少し近いところでは2021年、『マギアレコード』の2期目がたった8話しかなく、明らかに制作が遅れたであろう4話分を「Final SEASON」と言い張って翌年放送している。2024年、つまり去年には『ささやくように恋を唄う』が「制作上の都合」から「特別編」と称し2週連続で総集編を流し、遅延した11話と12話を半年後の年末にまとめて放送しています。似て非なるケースとして未だに語り草なのが『レガリア』というオリジナルアニメ、2016年に夏アニメとして放送開始しましたが、「本来意図していたクオリティと相違がある」という理由で一旦放送を中止し、作り直したうえでまた1話目から放送するという異例の対応を取っています。チラムネに関してはガルパンやささ恋の状況に近い感じですかね。

 チラムネの制作会社は「有限会社feel.」、あの「すべてのロボットアニメは道を譲れ!!!!!!」というコピーで顰蹙を買った『JINKI:EXTEND』が初の元請作品である。地上波の限界を攻めた『ヨスガノソラ』やきらら系の中で「もっとも汚い」と言われた『おちこぼれフルーツタルト』を手掛けているが、『ヒナまつり』みたいな作品もやっています。最近だと『Summer Pockets』がなかなかイイ感じだった。今年はサマポケに加えてチラムネと同じクールに『ちゃんと吸えない吸血鬼ちゃん』もやってるからキャパオーバーしちゃったのかな。私自身はアニメ観てなかった(原作は途中まで読んでる)けど、ラブコメ系ラノベ作品の中でも特に期待されていた一本だけに今の状況は心配である。正直、今のアニメ界は「作り過ぎ、アニメスタッフは無限に存在するわけじゃないんだぞ」という状況なんだろうけど、落ち着くのはまだまだ先なんだろうな。

・芦花公園の『極楽に至る忌門』読んだ。

 乱暴な書き方をすると、いわゆる「因習村」を舞台にしたホラー。もう少し丁寧な書き方をするなら、「民俗学的な要素を取り入れつつ自業自得な末路を迎える人々の姿を描く連作短編集」。四国の山奥に位置する架空の村で祀られている、「ほとけ」なる謎の存在を巡って登場人物たちがヒドい目に遭う。

 著者の代表作である「佐々木事務所シリーズ」のスピンオフに当たる作品ですが、既刊を読んでいなくても別に問題はありません。佐々木事務所シリーズには車椅子姿ながら「最強の拝み屋」「最後の手段」「最終兵器現人神」と畏怖される人物「物部斉清(もののべ・なりきよ)」が登場するのですけど、その物部さんですらどうすることもできずに匙を投げてしまった……という最悪のケースを綴ったのが本書なんです。『呪術廻戦』で喩えると「五条悟」が事態の収拾を諦めて帰っちゃった感じ。だから佐々木事務所シリーズを先に読んでおくと「マジかよ、あの物部さんでもどうにもならないのかよ……」という絶望感を味わえるものの、「匙を投げた=あまり活躍しない」ということでシリーズ知識が要らない作品に仕上がってもいる。一個一個のエピソードが短いこともあってかコミカライズ版も連載されており、そちらから入るってルートもあります。シリーズ本編は結構バトル要素が強くて、冗談抜きで領域展開ばりの異能を駆使するキャラとか出てきます。1作目の『異端の祝祭』は言うなれば「ウィッカーマンとかホルガ村をブッ潰しに行く話」だし。

 収録されている短編は「頷き仏」「泣き仏」「笑い仏」「外れ仏」の4つ。「頷き仏」は平成15年、友人の里帰りに付き合って舞台となる村に足を踏み入れた青年の物語。チュートリアルみたいなエピソードなので、これを飛ばすとワケがわからなくなる。友人の祖母は村八分みたいな扱いを受けており、村民たちの態度は「よそよそしい」の域を超えていた。それとなく理由を聞いた友人に対し、祖母は「頷き仏をね、家に近づけたのよ」と謎の返答をする。その言葉を耳にして俯く友人。いったいこの村で何が起こっているのか? 友人が姿を消した後に何処からか電話が掛かってきて、「ととをくうちょるんですよねえ」と意味不明なフレーズを投げかけられる。このフレーズが印象的で、読み終わった後も頭蓋にこびり付く。直接的なグロい描写とかはないんだけど、とにかく厭らしさに満ちています。この時点では物部斉清は登場せず、代わりに「津守日立」という別の拝み屋が出てくる。要するに、津守が下手を打って、その尻拭いとして斉清さんが出陣することになるも、時すでに遅し――ってのがこの本の大枠となっています。なんとこの「頷き仏」、試し読みとして全文丸々ダ・ヴィンチWebに掲載されているので、気になる人は今すぐ無料で読むことができる。私の感想文なんか読んでいる場合じゃないぜ!

 続く「泣き仏」で「てんじ」なる化物――「猿神」の一種――に関する説明が入り、少しずつ村に棲まう異形の正体が見えてくる。3編目の「笑い仏」でようやく斉清さんが降臨し、「きた!斉清さん来た!これで勝つる!」と喜んだのも束の間、関係者たちが愚か過ぎてせっかく伸ばされた蜘蛛の糸をフイにしてしまう。ホラー系のノベルゲームで「最悪の選択肢をチョイスしたルート」を覗き見るような暗い愉悦とともに、奈落へ向かって真っ逆さまに墜ちていく人々を傍観する以外に道はない。そう、これは「バッドエンドになることが分かり切っている」タイプのホラーなんです。救いはありません。

 ラストの「外れ仏」は単一のエピソードというより、物語全体のエピローグに相当する章です。「ほとけ」として祀られているはずの「てんじ」がなぜ人々に災いを為す厄神と堕してしまったのか、種明かししていく。ミステリであれば解決編なんですが、もう解決もクソもない有様ですからね。事件関係者が全員死亡した後で等々力警部に真相を話している金田一耕助のような、途方もない虚しさが漂う。超常的な現象が起こる話ではあるが、「イシュタルの冥界下り」と絡めて儀式の実相を解釈していく流れなど、謎解き部分の魅力はしっかりしている。たとえば一編目の「頷き仏」、一見するとよくあるお地蔵さまみたいだが、普通のお地蔵さまに比べてどこか俯きがちで、まるで首肯しているかのよう。しかし、その本当の意味は……といった具合に「謎が解けることでゾッとする」仕組みになっています。さっきも書いたけど「頷き仏」はダ・ヴィンチWebで全文公開されているから気になった人は読んでみてください。ちなみにカドブンのサイトでも同様に全文読めます。

 怖いというより「胸糞悪くなる」系統のホラーです。避けられたはずなのに、ことごとく選択を誤って悲惨な結果に辿り着く。それもこれも、生きているうちに「極楽へ行くこと」を望んで、そのためならどんな犠牲を払っても構わない――などと欲深く振る舞ったからだ。果たして外道どもは望み通り極楽へ到達することができたのだろうか? それは……しんでみなくてはわからないですねえ


2025-10-27.

・「最近の小説は長文・文章系タイトルばっかりでうんざり!」みたいな意見がありますが、来年発売予定の『蒼焔の魔女』はたった5文字なのでそういう風潮を真に憂いている人は是非買ってあげてほしい焼津です、こんばんは。

 1・2巻同時発売なので出版社的にも相当気合を入れているタイトルです。こういう勝負球は普通「〜前世では喪女でしたが異世界に転生後は天災美少女として過酷な世界を生き抜いてやろうと思います〜」みたいな説明調の副タイトルを付けるものですけど、潔くメインタイトルだけでレッドオーシャンと化したラノベ市場に挑んでいる。実はWeb版だと「〜幼女強い」っていうサブタイトルがあったんですけど、書籍版ではそれすら削っています。書籍化の際にタイトルが短くなるのは結構珍しいケースですよ。『貧乏騎士に嫁入りしたはずが!』という作品は書籍化の際にタイトルが『貧乏騎士に嫁入りしたはずが!? 〜野人令嬢は皇太子妃になっても熊を狩りたい〜』となり、メインタイトルが略しにくいのでサブタイトルの方を略して「野人令嬢」と呼ばれるようになった……という面白いエピソードもあります。

 というか、e-honの「小説・エッセイ」新刊予約案内を眺めていればわかりますけど、今や「短くて非文章系タイトルの小説作品」ってだいぶ減ってきているんですよ。著名な文学賞を獲った作家とか、映画化作品を連発している人とか、強固なファン層を築いたシリーズを書き続けている人とか、一部のベストセラー作家を除いて「タイトルを見ただけではどんな内容なのかよくわからない作品」を新刊として出すことはどんどん難しくなっている。私見ですけど、「キュレーション的な役割を果たす存在」が年々弱くなっているんだと思います。少し前までは新聞に広告が載ったとか、雑誌の書評で取り上げられたとかで一気にグーンと売上が伸びましたけど、最近はそこまで効果がない。無論、「テレビで紹介された」とか「ネットでインフルエンサーがオススメした」とかで跳ねて重版連発する作品もありますけど、割合としてはどんどん減ってきている。「いい本を出せば誰かが見つけてくれる」「その『誰か』は影響力のある存在である」という幸運に頼ることは宝くじが当たることを期待するような状況となっています。

 「『紹介』が期待できない以上、自分自身(タイトル)でアピールするしかない」というセルフプロデュース的な思考の帰結が長文・文章系・副題で補完タイトルの定着なんです。とはいえ、『義妹生活』みたいに「短いタイトルで副題にも頼っていない」ヒット作だってありますし、本当に今の風潮がマズいと思っているのであれば『魔女と傭兵』とか『魔王2099』とか『楽園ノイズ』とか『あそびのかんけい』とか『サンバカ!!!』とか『異世界落語』とか『王国へ続く道』とか『悪魔公女』とか『未遂同盟』とか『炒飯大脱獄』とかを地道に布教し続けるしかないです。私はもう慣れたので別にどっちでもいいです。

21作品の権利を返還へ…ビジュアルアーツ、受賞作品の展開が長期にわたり進行できず謝罪(Game*Spark)

 あまりにも異例の事態なので騒ぎが大きくなっていますね……「何が問題なの?」と首を傾げている方のために順を追って解説します。

 まず、ビジュアルアーツは今から20年くらい前に「キネティックノベル」というジャンルを流行らせようとしました。いわゆる「ノベルゲーム」の「ゲーム」部分ではなく「ノベル」部分を強化しようという試みで、ゲームみたいに時間を掛けて大作をリリースするのではなく、書籍を刊行するような感覚で中短編規模のノベルゲームをどんどん出そうとしたんです。『planetarian〜ちいさなほしのゆめ〜』や『神曲奏界ポリフォニカ』といったラインナップがありましたけど、「パッケージ販売せずダウンロード販売のみにする」といった方針がまだ時代的に早過ぎたせいもあって普及せず、ポリフォニカの主戦場がライトノベル市場に移ってからは自然と「忘れ去られた実験」となっていきました。

 しかしそれから十数年経ってDMM(FANZA)やSteamなどが定着したことによって業界がダウンロード販売に活路を見出すようになり、ずっと放置していた「キネティックノベル」という概念を復活させるべくビジュアルアーツは積もっていた埃を払い、「今度こそ流行らせてやる!」と息巻いた。その一環として始めたのが、今回問題となっている「キネティックノベル大賞」です。ビジュアルアーツが「小説家になろう」の「ヒナプロジェクト」やpixiv、ニコニコ動画と四社合同で開催している新人賞であり、「小説部門」「イラスト部門」「音楽部門」の3つに分かれています。小説部門の応募方法はなろうに小説を投稿する際、「キネノベ大賞」という応募キーワードを追加するだけという、なろうやカクヨムではよくあるアレです。受賞作は、確約ではないが書籍化を検討し、ゲーム化やアニメ化も視野に入れて展開すると豪語しています。

 2020年頃にスタートした企画なんですが、実はその10年ほど前にもビジュアルアーツ主宰で「キネティックノベル大賞」というのをやってました。『僕僕先生』の「仁木英之」が『不死鬼譚きゅうこん 千年少女』という作品で賞を獲っていますが、仁木ファンでも「ああー、あったな、そんなの」って反応になるレベルなんで反響の度合いに関してはお察しいただきたい。その後もう一回ぐらい開催されたけど、第2回の受賞作はどれも書籍化に至らず立ち消えになりました。斯くの如き経緯から10年ほど前に一度死んだ賞ながら、なろうと手を組むことでリブートしたわけです。Web小説賞の習いとして募集期間は短く、だいたい2ヶ月間隔で締め切っている。最後に開催された「第12回キネティックノベル大賞」の応募受付期間は「2024年11月1日11時00分〜2025年1月31日23時59分」で、リブートしてから最初に開催された「第1回キネティックノベル大賞」が「2020年7月1日(火)〜8月31日(月)」。「第12回」だから10年以上ずっとやっているような錯覚に陥るが、実際は5年も保たなかった賞なんですよね。

 具体的な面子は「過去開催受賞者」のページで確認してほしいが、小説部門は1回につき4、5人くらいの受賞者を出しています。ただもう第10回あたりからヤバくなってきたのか「大賞」と「優秀賞」がナシで「佳作」のみ、第11回に至っては「イラスト部門のみの開催」。「ここ(キネティックノベル大賞)で賞獲ってもなかなか書籍化されない」という悪評が投稿者の間で出回るようになって、人が近寄らなくなった末に「22個もの受賞作に書籍化の権利を返す」(上記リンク記事のタイトルでは「21作品」とあるが、数えてみたら22個あった……いい加減な記事だなぁ)という前代未聞の事態に陥りました。

 まったく全然書籍化されない、というわけではなく書籍化された作品もいくつかあります。たとえば第1回で「大賞」を獲った『聖女様はイケメンよりもアンデッドがお好き?!』は『ホーリーアンデッド』のタイトルで書籍化しており、今月末に3巻も出る予定。ゲーム化もしていますが、「話の途中で終わっている」ため気になっている私も「完結してからでいいか」と放置しています。さておき、第1回の受賞作4つは既に全部書籍化されていますが、第2回以降からなかなか書籍化の話が進まず今回の件で取り消しになった作品が出てくる。数えてみたが、第10回までの受賞作はちょうど40作。22作に権利を返したということは、残りの18作は書籍化されたのだろうか? 気になって公式サイトを確認したが、11作品しか確認できない。仕方なくリスト作って1個1個照合していきました。

 第2回で「大賞」を獲った『根暗なクラスメイトの胸を間違って揉んだら、いつの間にか胃袋を掴まれていました!』は『根暗なクラスメイトが俺の胃袋を掴んで放してくれない』というタイトルでゲーム化されて今年発売されてました。ゲームだけで書籍化はしないのかな? 『転生社畜の領地経営』『だんまりさんとケッペキ君』『2度目の異世界は周到に』『TSエルフさんの酒飲み配信』『転生したら火魔法が使えたので人気パン屋になったら、封印済みの魔王が弟子入りしてきた』『悪役令嬢シルベチカの献身』の6作は返還リストに挙がっておらず、既に書籍化の話が進んでいるのか、今回の発表がある前に個別で返還しているのか、作者と連絡がつかないのか、それとも単にビジュアルアーツの担当者が書き漏らしただけなのか……よくわかりません。というか返還リストに載ってる『宵越しのレベルは持たない〜サキュバスになった彼女にレベルを吸われ続けるので、今日もダンジョンでレベルを上げる〜』、受賞者ページで見掛けなかったから首を捻っていたが、別のサイトでは「第10回キネティックノベル大賞の佳作」として表記されていた……まさかとは思うが、公式サイトの結果発表で書き漏らしていたのか……!? だったら全受賞作は40作じゃなくて41作になるじゃん! 公式サイトの情報がアテにならないの、マジで困るからやめてほしい。

 こういう賞を獲ると「よそで書籍化したりコミカライズしたりなどの商業展開を行わない」という条件で契約を交わすことになるので、ひどいケースだと4年くらい書籍化されないまま拘束されていた勘定になります。応募規定等が書かれているページに「書籍化に関しては、株式会社ビジュアルアーツより出版に関しての提携を行っている出版社へ推挙し、株式会社ビジュアルアーツのタイトルとして発刊致します」と表記されており、つまりビジュアルアーツ自身は出版部門を持っていないが付き合いのある出版社に口利きして書籍化してもらい、「ビジュアルアーツ」のブランドで出す――という形式をこれまで取っていたわけです。ハッキリとは書いてないが、この「提携を行っている出版社」ってのは昔「VA文庫」とかを出していた「パラダイム」のことだと思います。検索すると「発行元:株式会社ビジュアルアーツ」「発売元:株式会社パラダイム」と表記してるページも出てくるし。受賞作だけビジュアルアーツで決めて、書籍化にまつわる諸々の作業はパラダイムに丸投げ、ってのを繰り返していった結果、パラダイム側が「思ったより受賞作が売れないし、これじゃ割に合わないよ」と音を上げたのではないか……と邪推しています。ビジュアルアーツがテンセントに買収されたから不採算部門として切られた、という噂もある。恐らく明確な事情は詳らかにならないだろう。

 受賞者の一人だった「年中麦茶太郎」(既に過去何度も書籍化の経験がある作家)は「この告知をやってもらうところにこぎ着けるのに苦労しました(無効は告知しないでもみ消すつもりだった)」と言及しており、ビジュアルアーツの闇は深い……と痛感した一件でした。一応賞金は支払われたみたいだが、拘束されていなければよそで書籍化できていたかもしれない、ということを考えるとまだ尾を引きそうである。

・篠田節子の『青の純度』読んだ。

 直木賞作家である「篠田節子」の最新長編、後述する「参考文献騒動」で話題になっているが、まずは付帯的な情報から。本作は“小説すばる”という雑誌に2023年から2024年にかけて連載され、今年の7月に単行本としてまとまった。アート系の出版業界で「やり手の編集者」として名を馳せている主人公が、取引先の不祥事に巻き込まれる形でポストを逐われ、有り余った時間を「ある画家」の取材旅行に費やす――という話です。大衆人気がありながらも芸術界からは黙殺された「ある画家」をフラットな視点で再評価しよう、という程度の軽い気持ちから始めた企画だったが、取材を進めるうち次第に雲行きが怪しくなっていく。あれだけ一世を風靡した画家なのに、今や所在不明になっているのだ。果たして彼はまだ生きているのか? という具合にサスペンスたっぷりのストーリーが紡がれている。

 ジャンピエール・ヴァレーズ――イルカたちが躍る深い青を湛えた海の絵、「ハワイアンアート」で90年代の日本を熱狂させたフランス人の画家。芸術界からは「インテリア絵画」と一蹴され、侮蔑を浴びるどころか「無視」に近い対応を取られた。彼の絵を取り扱っていた会社の詐欺的な商法が社会問題になり、「口にするのも恥ずかしい存在」として時代に埋もれていったが、そういう経緯を顧みず虚心で向き合ってみれば「なかなか良い絵ではないか」と有沢真由子は静かな感動を覚えていた。世界的に評価され、資産的な価値もあるけど「インテリアとしては飾りたくない」名画。芸術的な評価は一切なく、資産として見ればクズ同然だけど「部屋に飾っておくことで日々の活力を得られる」アート。いったいどちらが本当の意味で「価値のある絵画」なのか。そういう切り口からヴァレーズの再評価を試み、「ハワイ在住」とされている彼に直接会うべくハワイへ降り立った真由子だったが、あっちこっち聞き回っても彼の所在をハッキリと知っている者はどこにもいない。かつて「上客」たちを招いたという豪邸も今は人手に渡っていた。住所がわからないどころか目撃情報すらなく、生死不明という事態に彼女の疑念はどんどん高まっていく。かつて日本で大きなブームを起こし、いつの間にかふっつりと消えた画家、ヴァレーズ……彼はいったい何者なのか?

 90年代を知っている人ならヴァレーズのモデルはすぐに思い至るでしょう。そう、「クリスチャン・ラッセン」です。私もラッセン絵のマウスパッドを持っていました。1000円か2000円の市販品で、数年使っているうちにすっかりボロボロになったからもうとっくに捨てましたけどね。鑑賞するうえで特に教養を必要とせず、ズブの素人がパッと見ただけで「なんかイイ!」と感激させるオーラがあった。絵そのものの魅力もさることながら「サーフィンが趣味」ということで「日に焼けたガタイのイイ金髪イケメン」ってキャラでも売っており、アーティストというよりは今で言う「インフルエンサー」に近い人物。秋葉原や日本橋で異性に免疫なさそうな男性に声をかけて言葉巧みに高額な絵を売りつける女性、いわゆる「エウリアン」がラッセンの作品を多く取り扱っていたこともあり、ラッセン本人はそこまであくどい商売をしていなかったにも関わらず「悪質商法」のイメージがこびり付いてしまったせいで表舞台から姿を消しました。私も大学時代にアキバへ通ってエロゲ買ってたからエウリアンには何度か声かけられたけど、本当にしつこいんですよね……連鎖的にラッセンへの印象も悪くなってしまった。ちなみに『エウリアン桃子』という「エウリアンのヒロインがエイリアンと戦う」ギャグみたいな設定の漫画もあり、「ラ・ラ・ラ・超変身(ラッセン)!!」と叫ぶシーンから当時のクリスチャン・ラッセンの扱いをお察しいただけるかと。

 「マリンアートで一世を風靡したアーティストのスキャンダラスな真実」を暴く物語なので、誰がどう見てもモデルはラッセンとアールビバンなんだけど公式サイドは明言を避けています。ラッセン本人も、さすがに生死不明じゃないけど暴行事件で逮捕されて保護観察処分を受けた身だから、充分スキャンダラスな経歴を持っていますが……現実のラッセンに関して詳しく知りたい場合は『評伝クリスチャン・ラッセン 日本に愛された画家』などを読んだ方がいいかもしれません。現地で調査するうちヴァレーズには「日本人の妻」がいたことが判明し、主人公はその妻と接触することに成功しますが、まぁ見るからに怪しい人物で物語は彼女を軸に進行していく形式となります。ハードカバーで400ページ近くとなかなかのボリュームだけど、後半200ページはぐいぐい引っ張ってくれる内容で飽きさせない。派手過ぎず、納得感のあるエンドに辿り着く、という点で読み応えのある一冊に仕上がっています。

 で、問題はここからです。上記した『評伝クリスチャン・ラッセン 日本に愛された画家』の著者「原田裕規」が「明らかに自分の著書の記述を下敷きにして書いたと思われるのに、参考文献にすらタイトルが挙がっていない」と抗議したのです。原田裕規は『評伝クリスチャン・ラッセン』以外にも『ラッセンとは何だったのか?』や『とるにたらない美術 ラッセン、心霊写真、レンダリング・ポルノ』という本を出しており、「日本でラッセンについて深く調べようとしたら必ず通過する存在」と申しても過言ではない(そもそもラッセンについて真面目に論じている人がほとんどいない)から参考文献に名前が挙がっていないのは確かに不自然です。しかし、本書の著者である篠田節子も直接ハワイへ赴いて取材をしたらしいので、「現地で調べたり聞き取ったりした内容がたまたま原田氏の著述と一致した」可能性も否定し切れず、問題が拗れているんです。出版した集英社は「弊社刊『青の純度』につきまして」という声明文を発表し、「原田氏の著作は読んでいない」「独自に取材した内容をもとに執筆されました」と原田サイドの訴えを否定して徹底抗戦の構えを見せている。あくまで予想ですけど、「モデルはラッセンです」と認めてしまうとラッセンが訴訟を起こしかねないので、そのへんをボカすためにタイトルに「ラッセン」が入っている本は参考文献として記載できなかった(作者は「これぐらい大丈夫だろう」と楽観したけど出版社が「このままだとヤバいかも」とビビって誤魔化しに入った)んじゃないかな……何せ暴行事件で逮捕されているぐらいなのでラッセンの性格は「温厚」と言い難い。いっそ本人から許可取って表紙にラッセンの絵を使うぐらいのことをやっていればもっと話題になっていただろうけど、到底許可が取れそうではなかったのだろう。

 「クリスチャン・ラッセンがモデルなのは明白だけど、明言すると訴訟を起こされかねないし、許可を取ろうとしたら莫大な使用料を要求されそう(というか内容的にそもそも許可取れなさそう)だからギリギリのラインで濁している系スリラー」としてなかなか面白い一冊でした。今回の騒動で興味を抱いた人は書店で取り扱いがあるうちに読んでおくといいかも。電子版は最悪配信停止になる恐れがありますから物理書籍版で。

・拍手レス。

 東出裕一郎さんが令嬢モノで新刊出すみたいですね。別名義で気づかなかった〜

 「東(とん)出(で)」で「とんでー」みたいですね……言われたら「ああー」ってなるけど言われなかったら絶対に気づかなかった。

 天啓の虚とか無底の王とか他の告知だけされて実体のない本がそれなりに存在する笠井潔ですが、たしか御年76歳だったような。もう個人的には矢吹駆フランス編だけでも完結出版してもらえたら満足です。

 フランス篇はあと『魔の山の殺人』と『屍たちの昏い宴』で完結ですね。『天啓の虚』とか『無底の王』はもう存命中に出そうもない雰囲気。連城三紀彦も亡くなった後に未改稿の連載作品が刊行されてたな……。


2025-10-19.

・俗に『黒死館殺人事件』、『ドグラ・マグラ』、『虚無への供物』を「三大奇書」と呼びますが、これに何かを加えて「四大奇書」とか「五大奇書」にする試みがたまにある。大抵は定着しないですぐに忘れ去られるが、少し前に出た「海猫沢めろん」の『ディスクロニアの鳩時計』が「新たなる奇書」と称しているので「そういえば過去にはどんな奇書があったっけなぁ」と記憶をほじくってみる焼津です、こんばんは。

 一番有名なのは「竹本健治」の『匣の中の失楽』でしょう。登場人物は一緒だけど奇数章と偶数章で別々の物語が進行し、「奇数章にとっては偶数章が作中作(フィクション)で、偶数章にとっては奇数章が作中作(フィクション)」という読んでて頭がこんがらがる騙し絵めいた複雑な構成。これを「第四の奇書」と見做す向きがある一方、認めない派閥も結構あるので『匣の中の失楽』以降の諸作を指すときはたとえ同じ作品でも人によって「第四の奇書」だったり「第五の奇書」だったりするのがややこしい。『イニシエーション・ラブ』の「乾くるみ」がオマージュとして書いた『匣の中』を奇書として認定する場合、「『匣の中の失楽』が第四の奇書」ってのは大前提になりますが。

 「第四か第五か問題」を厳密に考えていくと面倒臭くなるので、話を簡単にするため「『匣の中の失楽』は第四の奇書」という立場を取ることにします。「奇書」の明確な定義は難しいが、大雑把に書けば「本格というより変格であり、過度に装飾的(デコラティブ)で衒学的(ペダンティック)、『ミステリとはこうあるべき』という常識や様式美を粉々に破壊する超(メタ)ミステリないし反(アンチ)ミステリ」。もっと要約すると「読んでいて頭がクラクラするような、晦渋で中二心をくすぐられる重厚かつ難解なミステリ」。一度目を通しただけではスッと喉越し良く嚥下できず、何度も反芻や再読を強いられる消化に悪いヤツです。作者自ら宣言したか出版社が勝手に宣伝文句として付けたかはともかく、「奇書」と名乗る作品は90年代頃から現れ始めます。主にミステリ界隈で流行った用語なので、ミステリじゃない作品にはあまり適用されない。『家畜人ヤプー』あたりも奇書っちゃ奇書ですけど、「第〇の奇書」みたいな文脈で語られることはほとんどありません。そもそも「三大奇書」という分類が提唱されたのは70年代末であり、『匣の中の失楽』を巡る論争の中で生まれた概念ですから、『匣の中の失楽』以前に「第四の奇書」を名乗る作品は存在しえない。遡及的に第四認定するケースもなくはないが、この際無視するとします。ミステリ界隈の用語として普及していくのも90年代以降であり、80年代は「奇書」というフレーズに宣伝文句としての価値がなかったため、やはり80年代にも「奇書を名乗る本」は存在しえません。なお「奇書」という言い回し自体は中国、「清」の時代に生み出されたものとされており、この場合の「奇」は「唯一無二(ユニーク)」という意味でどちらかと言えば誉め言葉のニュアンスが強い。それが日本に入ってきてからだんだん「怪しい」「イカれた」「イッてる」という誉めてるのか貶しているのか判然としない微妙なニュアンスに変質していった。70年代には『世界の奇書』というガイドブックも刊行されています。

 私の記憶で一番古いのは「麻耶雄嵩」の『夏と冬の奏鳴曲(ソナタ)』、リンク先は「新装改訂版」ですがオリジナルは講談社ノベルスより1993年刊行。正確には「奇書」じゃなくて「奇蹟の書」が売り文句だったかな。著者のデビュー作『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』で登場してすぐに死んだ銘探偵「メルカトル鮎」が再登場するミステリであり、メルカトル鮎が生きている以上『翼ある闇』よりは前のエピソードに当たります。主人公は「如月烏有(きさらぎ・うゆう)」という青年、彼は「和音島」と呼ばれる孤島へ赴き、キュビズムに則って建てられた異様な館に滞在することになる。20年前にたった一本の主演映画を遺して夭折した女優「真宮和音」を偲ぶこの島で、「真夏に雪が降り積もり、雪に一つも足跡が残されていない場所で首なし屍体が発見される」という怪事件が発生する……思い入れの強い小説なので以下ネタバレ気味に語ります。この作品は「解決編」がなく、様々な謎とそれを解く手掛かりをバラ撒いた後で思わせぶりな幕切れを迎える。真宮和音が唯一「主演」した映画のタイトルが『春と秋の奏鳴曲』なんですが、その内容は如月烏有とヒロイン「舞奈桐璃」の境遇そのもので、烏有は何が現実で何が虚構なのか次第にわからなくなっていく。殺人事件が発生するけどそれが主眼なのではなく、主人公の内面を掘り下げながら謎を追っていく異様なスタイル。詳しくない人が読めば「90年代だし、EVAの影響を受けているのか?」と錯覚しそうになるが、本書が発売されたのはエヴァンゲリオンが放送されるよりも前です。

 解決編はないけど全ての謎を投げっぱなしにするわけではなく、雪密室トリックなどある程度の謎の真相については明かされる。ただ、和音島は一種の異界と化しており、そこでは「現世のロジック」ではなくキュビズムじみた「異界のロジック」が働く――という事実をまず受け止めなければならない。逆説的な書き方になりますが、この作品は「異界のロジック」を成立させるために「解決編がないミステリ」という異界をわざと作っているのです。「『異界のロジックを前提にした謎解き』のためにあえて解決編を放棄して異界を作る」というシュールなコンセプトはあまりにも時代を先取りし過ぎていて賛否両論真っ二つとなりました。島の崇拝対象である「和音」は恐らくコラージュめいた手法で作り上げられた偶像であり人間としては実在しないと予想される(同名の人物は存在するものの、「名前が同じ」だけで容姿は全然別だ)が、当時は「こんな継ぎ接ぎだらけの虚像を20年以上も崇拝するなんてリアリティがない」と批判されたものでした。けど、今なら「真宮和音は初音ミクみたいなもの」とイメージすることができる。初音ミクの声は声優である「藤田咲」のボイスをサンプリングしたものであるがユーザーのほとんどは「初音ミク≠藤田咲」と認識しているし、オリジナルのイラストは「KEI」が担当しているけどKEI以外の描いたミクのイラストを「偽物」とか「単なる二次創作」と捉えているわけじゃない。「初音ミクのコスプレ」も流行り廃りを越えてもはや一つのジャンルにまで昇華した。初音ミクに人格はなく「キャラ」さえも曖昧、「本物」が実在しないのに偶像(記号)として強固に成立している。現代の読者には「初音ミクの信者たちが20年も集団生活を送っている島で起こる事件」「ヒロインの容貌は『コスプレか?』と疑うくらい初音ミクの肖像画にそっくりだった」と喩えた方が飲み込みやすいかもしれない。本当にクラクラするような内容で、私は「一生麻耶雄嵩に付いて行く!」と誓いましたわ。ちなみに烏有さんはその後の作品にも登場するが、『痾』という長編で記憶喪失になっており、『夏と冬の奏鳴曲』の出来事はすっかり忘れている。余談ながら作者の麻耶雄嵩は解決編を書いていないだけで「自分なりの解決編」は考えていたらしいが、20年くらい経ってその内容をすっかり忘れてしまったとか。『夏と冬の奏鳴曲』の考察はかつて新本格好きにとっては常識レベルで、90年代頃はスゴい数の考察サイトが存在していたけど、もうほとんどが現存していない。ジオシティーズの消滅がイタかった。それでも検索すればまだいくつかヒットするんで、読んで「ワケがわからないよ!」となった人はそっちにGO。

 その次が「篠田秀幸」の『蝶たちの迷宮』、リンク先はハルキ文庫版ですが元は講談社ノベルス作品で1994年に発行されています。「犯人は探偵であり、証人であり、被害者であり、作者であり、そして読者でもある」と謳った、『虚無への供物』や『匣の中の失楽』に露骨なほど影響を受けた一作。竹本健治も「人工の狂気をうちたてる殉教的な情熱」というわかるようなわからないような推薦文を寄せている。読んだはずなんだけど、内容をまったく覚えていない……あらすじ読んでも全然思い出せない。とにかく「面白くなかった」「クラクラするというよりはゲンナリする内容だった」ことは印象に残っている。とても再チャレンジする気が湧かない。高評価を得られず、世間的にもほぼ黙殺された。でもまったく売れなかったわけではなく、確か増刷もされていたと思う。この翌月に京極夏彦が『姑獲鳥の夏』でデビューしており、「異様なミステリ」という意味で『蝶たちの迷宮』と『姑獲鳥の夏』を並べて論じる風潮も一時期あった。京極夏彦がどんどんメジャーになっていくのに対して篠田秀幸はマイナー街道を一直線にひた走っていった(一発屋ではなく、その後も10冊くらい著書を出している)から、今は両者を比較する人もいません。

 次、「清涼院流水」の『ジョーカー 旧約探偵神話』。リンク先は星海社FICTIONSの新装版ですがこれもオリジナルは講談社ノベルスで1997年刊行。「匣の中の物語は幻魔作用(ドグラ・マグラ)を失い、世界は暗黒の死の館から、めくるめく虚無の彼方へと飛翔する」と裏表紙に書かれており、明確に「第五の奇書」と宣言している。前作の『コズミック 世紀末探偵神話』も相当な奇書ではあったが、『ジョーカー』は輪をかけて好き勝手やってる。登場人物表に「◎=かなり怪しい。犯人かも?」「×=もし当たりなら、意外な犯人」と作者自らコメントするなど、「商業出版でここまでやるか!」と叫びたくなる悪ふざけのオンパレードで、ある意味スゴい。コレとコズミックがあったからこそ西尾維新もある(デビュー前に読んだおかげで「ここまでやっていいんだ」と開き直ることができた)わけで、「なかったこと」にはできない本だ。でも個人的には読み終わって達成感よりも徒労感を覚える一冊だった。無限に等しい暇さえあればもう一度読んでもいいと思っている。

 「山口雅也」の『奇偶』も「『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』『虚無への供物』『匣の中の失楽』日本推理小説界の4大奇書に連なる第5の奇書!」と喧伝された作品です。元は“メフィスト”という雑誌に連載されていた作品で、2002年にハードカバーで出版された後、2005年に講談社ノベルス版が刊行されている。ノベルス版には「《黒い水脈》=四大奇書に連なる第五の奇書!」となかなかカッコいい惹句が踊っている。「黒い水脈(みお)」は中井英夫が『黒死館殺人事件』について語ったエッセイに書かれていた言葉。なぜかネットでは「埴谷雄高」が言ったことになっているが……どうも「笠井潔」が記憶違いで言及した結果、誤解が広まったっぽい。さておき『奇偶』、一瞬「奇遇ですな」の「奇遇」に見えるかもしれないが「奇数と偶数」の「奇偶」です。「奇妙な偶然」という原則として本格ミステリからは排除されるべき要素を取り込んだ長編であり、作者である山口雅也が実際に体験した「片眼失明」というショッキングな出来事と折り合いを付けるために執筆した自己回復書でもある。40代のときに片目の視力を失った山口雅也は当初まともにタイピングもできず、「作家として終わったんじゃないか」と絶望しかけたそうだ。なんだかんだ適応して現在も仕事を続けている。衒学趣味に溢れていてこれもなかなかクラクラする本です。

 「古野まほろ」のデビュー作『天帝のはしたなき果実』、リンク先は改稿した幻冬舎文庫版ですがオリジナルは2007年刊行の講談社ノベルス版。華族や軍隊が制度として残っているパラレルな「日本帝国」の1990年代を舞台に、連続殺人が発生して学生たちが推理合戦を繰り広げる。タイトルは中井英夫の言葉「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない」から来ており、『虚無への供物』の影響を受けていることは確定的に明らか。出版社の売り文句としてではなく作者自身が《黒い水脈》に連なることを目指して書いた本であるが、とにかく読みにくくて疲弊する。「奇書は読みやすくあるな、キレイであるな、心地良くあるな」と言わんばかりにマイナスに飛び込んでおり、読破すると寿命が減った気分になります。ややネタバレになるが、最後の方は伝奇展開に突入するので「読みにくさ」に我慢できるのであればライトノベル読者にもオススメです。

 「舞城王太郎」の『ディスコ探偵水曜日』は上下合わせて1000ページ、文庫版だと上中下の3分冊で1500ページ近くという舞城作品最大規模のボリュームを誇る小説です。これに関しては出版社が「第五の奇書」と銘打ったのではなく評論家の「千街晶之」がガイドブックで「第五の奇書」と認定したパターンです。そろそろ気付いた方もおられるでしょうが、「奇書」が売り文句になると考えている出版社は講談社くらいで、他のところはあんまり好んで使わないんですよね。「ディスコ・ウェンズデイ」と名乗る迷子捜し専門の探偵が一人称で語る形式となっていますが、とにかく勢い任せに喋っているため語りの内容をどの程度信じていいのか戸惑う内容になっています。名前自体、本名なのか偽名なのかよくわからないまま進む。事情があって引き取った6歳の日本人少女「梢」の体がいきなり17歳くらいに成長しては元に戻るという怪現象が頻発し、このまま放置しておくわけにもいかないからと原因の追究を始める。「特異な館」とか「連続殺人」といったミステリ的意匠は施されているものの、時空を超越するディスコが梢の異変の元凶たる「悪」と対峙する「インフレしまくった異能バトル」みたいになっていきます。『ディスコ探偵水曜日』を読んでると、舞城王太郎がシリーズ構成と脚本を担当したアニメ『ID:INVADED イド:インヴェイデッド』はまだわかりやすい方だったんだな、と再認識する。舞城王太郎は「…(三点リーダー)」を2回続けて打つとか、「!」や「?」の後には空白を一字置くとか、そういった文章作法は守らないんですが「語りの流暢さ」が図抜けていて多少意味のわからない箇所でもスルスルと読めてしまう。奇書と呼ばれる作品は大なり小なり読みにくさがあるのですけれど、これに関しては例外。なので「スゴいけど《黒い水脈》に連なる作品ではない」と奇書認定に否定的な意見もあり、どちらかと言えば私もそっち寄りです。

 奇書候補の中で比較的新しい(と言ってももう15年前になるが)作品は「芦辺拓」の『綺想宮殺人事件』。帯には「『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』『虚無への供物』に続く世紀の<奇書>、ついに降臨」とあり、珍しく『匣の中の失楽』を「第四の奇書」としてカウントしていない。それもそのはず、『綺想宮殺人事件』の版元は「東京創元社」で過去に『黒死館殺人事件』や『ドグラ・マグラ』や『虚無への供物』を出したことはあっても『匣の中の失楽』を出版したことはなく、「わざわざ他社の本をカウントする必要はない」という立場を取っています。「森江春策」というシリーズ探偵の、長編としては13番目に当たる作品です。短編集も含めると18冊目くらいかな? 「数式」がテーマになっており、プロローグで「かくして一般相対性理論が立証された」と書いた後に「こうして地球空洞説は科学的に実証された」と述べ、「こうして地球は球体でもむろん空洞でもなく、平面であることが立証された」と綴る……読んでて「ん? んんっ?」ってなる文章が続く。《黒い水脈》の中では『黒死館殺人事件』に影響されているタイプの奇書で、途方もない与太話を聞かされているような気分に陥ると申しますか、読んでいて宇宙猫になること必至の一冊です。作者自ら「最後の探偵小説、あるいは探偵小説の最期」と宣言しているだけあってバキバキに極まっており、極まり過ぎているせいで発売から15年経ってもなお文庫化も電子化もされていない。本編の内容に反してあとがきは飾ることなく「中二病」とざっくばらんに語っていて、当初のタイトルが『第五奇書殺人事件』だったことも明かしている。つまり帯文で『匣の中の失楽』を外しているのは本当に東京創元社側の都合だったのだ。芦辺拓は「アンチ・ミステリ」が「最も嫌いな言葉」らしいが、本書は立派なアンチミステリと言っていいでしょう。

 「神世希」の『神戯』はミステリというよりハルヒなどのラノベに近いノリで、奇書扱いすることに違和感を覚えるかもしれないが、一応「選考委員が『虚無への供物』や『匣の中の失楽』に匹敵する奇書と評した」という逸話があるので挙げてみました。講談社BOXがあのクソダサいデザインを何とかしようと試行錯誤していた時期の作品で、大きな箱の中に500ページくらいの少し厚めの本が2冊収納されており、計1000ページの極厚作品となっている。私はもう既に手放してしまったが、とにかく幅を取るので本棚に飾っておくと異様に目立つ本でした。文体に強烈な癖があってハマる人はハマるだろうが、ほとんどの人にとっては「読みにくい」という感想になるだろう。学園モノであり、ラブコメ要素がある一方で伝奇バトルもあったりと、ごった煮ムードが凄まじい。ボリュームがボリュームだけあって仕掛けは大きく、後半は唖然とするような展開に突入します。内容もさることながら『虎よ、虎よ!』並みにタイポグラフィを駆使した文章もスゴいというか、これのせいで電子化は難しいだろうな……翌年に『未来方程式』という続編も刊行され、出来は悪くなかったのだがあまり売れなかったらしく、じきに「消えた作家」となりました。ちょうど入れ替わるような形で出てきた新人が「浅倉秋成」なんで、浅倉秋成の活躍を目にするたび神世希を思い出してしんみりしてしまいます。

 以上。おわかりいただけただろうか? 列挙した作品のほとんどが講談社刊行物であり、何なら『黒死館殺人事件』も『ドグラ・マグラ』も『虚無への供物』も『匣の中の失楽』も全部講談社文庫版が出ている。つまり「〇大奇書」というフレーズ自体、講談社が宣伝戦略の一環として流行らせたようなもんなんです。こんな記事を書いている私もまた、講談社の掌の上で転がされているに過ぎない。

 あと、奇書に該当するかどうかは微妙なところながら、笠井潔の“天啓”三部作も「奇」度は高いです。雑誌連載を経て1996年に単行本が出た『天啓の宴』に始まり、1998年に単行本化した『天啓の器』、そして2004年に連載が終わった『天啓の虚』で完結した……はずなのですが、20年以上経っても単行本が発売されない。『宴』や『器』は私が10代の頃、青春真っ盛りの時期に遭遇した作品なんですが、まさか40超えたオッサンになってもまだ『虚』を待ち続けるハメになるとは思わなんだ。

 内容としてはメタ・ミステリです。1989年、新人作家「天童直己」はデビュー後の第二作が書けずに苦しんでいた。そんな彼に編集者の「三笠桂輔」は『天啓の宴』という小説の存在を知らせる。5年前、新人賞に応募されて受賞が内定したものの、「作者」が辞退したせいで刊行されなかった幻の作品。作者を名乗る女性は選考委員の手に渡った原稿のコピーまで回収していくという念の入れようで、読んだ者は口を揃えて「傑作だった」と言うが誰の手元にも原稿は残っていなかった。やがて原稿を回収していった女性は惨殺死体となって発見されたが、現場に『天啓の宴』は残されていなかった……という具合に、血塗られた呪物『天啓の宴』を巡ってストーリーが展開していきます。「三島由紀夫の自決」をフックに「作者の死」について論じており、笠井潔の過去作『梟の巨なる黄昏』や『黄昏の館』ともリンクしているが、関連作は別に読まなくてもいい。『天啓の宴』は作品のタイトルでもあり作中作のタイトルでもあるが、「作中作としての『天啓の宴』」も「『天啓の宴』という作中作を追う話」になっており、マトリョーシカじみた入れ子構造で頭がクラクラする。ザッと流し読みしただけではわからない、という点では相当奇書いのだが、物語構造を無視して殺人事件の部分だけ着目すると案外地味なんですよね……面白いけど《黒い水脈》に連なる作品ではないと思います。

 続編の『天啓の器』は『虚無への供物』を巡る物語。『虚無への供物』はもともと江戸川乱歩賞に応募された作品であり、最終候補まで残って落選した後、前半部分しかなかった原稿に後半部分を書き足して出版された。当初のペンネームは「塔晶夫」だったが、途中で現在よく知られている名義「中井英夫」(本名)に変更されている。誰も「塔晶夫=中井英夫」と信じて疑わないが、もし「塔晶夫≠中井英夫」だとしたら……? という着想に基づいて書かれた長編。さすがにそのまんまではマズいからか、『虚無への供物』ではなく『ザ・ヒヌマ・マーダー』というタイトルになっている。『虚無への供物』は「氷沼家」を襲う悲劇の数々を描いており、「ザ・ヒヌマ・マーダー」は章題の一つでもあります。続編ということになっているが、『天啓の宴』とはノリがだいぶ違うので戸惑うかもしれません。そもそも“天啓”三部作は『匣の中の失楽』の作者「竹本健治」が書いたメタ・ミステリ『ウロボロスの偽書』へのアンサーとして始まったシリーズであり、天童直己のモデルも竹本健治です。『天啓の宴』自体は『ウロボロスの偽書』を読んでいなくても一応内容が理解できる仕組みになっていますが、『天啓の器』は完全に『ウロボロスの偽書』および『ウロボロスの基礎論』を読んでいることが前提になっているし、『虚無への供物』の内容や「中井英夫の旧ペンネームは塔晶夫だった」という予備知識がないと何が何だかわかりません。発想そのものは面白いのだが、クラクラというよりはグダグダなストーリーで、そのグダグダっぷりも含めて個人的には好きな一冊ながら人には薦めにくい。

 “天啓”三部作の完結編に当たる『天啓の虚』は5年くらい雑誌で連載して完結したらしいのだが、単行本にまとまっていないため私は読んだことありません。聞いたところによると『虚』はこれまでと違って天童直己がメインではなく、サブキャラというか名前がちょこちょこ出ていた「宗像冬樹」――要するに笠井潔本人を投影した作家がメインになっているそうです。宗像冬樹は『黄昏の館』という小説から登場しているが、この時点ではあまり「笠井潔の分身」という感じではない。『天啓の宴』では「第二作を発表することなく失踪した」先輩作家として重要な役割を果たしている。『天啓の器』にも宗像は出てくるが、『天啓の器』は「笠井潔と竹本健治のふたりをあえて『天啓の宴』のキャラの名前で呼ぶ」というややこしい趣向になっており、『宴』の宗像と『器』の宗像は別人なんです。『虚』連載中に別の雑誌で連載をスタートさせた『青銅の悲劇 瀕死の王』にも宗像冬樹は登場する。プロフィール的にほぼ「笠井潔の分身」と化していますが、独身設定なので完全に一致するわけじゃない(本物の笠井潔は舞台となったこの時代、とっくに息子が生まれている)。『虚』は読んでないからわかりませんが、宗像冬樹というキャラクター、実際は「名前が一緒」というだけで設定的には全部パラレルというか別人の可能性が高いんだよな……『黄昏の館』では『昏い天使』という小説でデビューした後、第二作として予告した『黄昏の館』が書けずに懊悩している。『天啓の宴』も『昏い天使』でデビューした点は一緒だが、『黄昏の館』がまったく出て来ない。『天啓の器』は先述したように笠井潔が「宗像」と名乗っているだけで宗像冬樹じゃない(普通に息子もいる)。『青銅の悲劇 瀕死の王』では『昏い天使』含む探偵小説を3冊出した後に『鬼道伝』というファンタジー(恐らく『ヴァンパイヤー戦争』がモデル)を執筆してヒットした設定になっており、プロフィールが『黄昏の館』や『天啓の宴』と明らかに違います。

 『天啓の宴』で「マルセル・プルーストは『失われた時を求めて』を一応完成させた後で死ぬまで推敲していた、そのため推敲が終わった箇所と終わらなかった箇所で歴然とクオリティが違う」みたいなこと書いてましたけど、『天啓の虚』も「死ぬまで推敲」のコースに入っちゃったのかな……優先順位的に矢吹駆(フランス篇)>矢吹駆(日本篇)>その他みたいだから、少なくとも向こう10年は出そうにない雰囲気です。

「超巡!超条先輩」2026年アニメ化!監督は山元隼一、制作はアルボアニメーション(コミックナタリー)

 このニュースを目にしたときに湧き上がった思いを一言にまとめると「嘘だろう!?」ですね。『超巡!超条先輩』は“週刊少年ジャンプ”で連載されていたギャグ漫画で、超巡(超能力巡査長)の「超条巡(ちょうじょう・めぐる)」とその愉快な同僚たちが巻き起こすドタバタ騒動をユーモラスな筆致で綴っている。ヒロインの「一本木直」が可愛くて好きです。基本的に一話完結方式なので多少エピソードを飛ばしても問題がなく、摘まみ読みでも楽しめるから「令和のこち亀」枠として愛され、「次にくるマンガ大賞 2025」のコミックス部門で3位に入ったほどの人気を誇っている。ただ、単行本の売上があんまり良くなかった……というよりぶっちゃけかなり厳しかったみたいで、連載開始から1年半もしないうちに打ち切りとなってしまった。全8巻。前述した「次にくる〜」の投票が始まった時点で既に打ち切られていたので、3位入賞が「奇跡」と呼ばれたのもむべなるかな。

 『僕とロボコ』『ウィッチウォッチ』と比べてネタの方向性が年齢層高めというか、ハッキリ言って子供ウケがイマイチだったのが響いたと思われる。年齢高めの読者って傾向として同じギャグ漫画を何度も読み返さないですから、単行本があまり売れないんですよ。読むのはあくまで一時の気晴らしのためでしかなく、「一回目を通したらもういいや」となってしまうので単行本の購入はコスパが悪い。それに対し子供はお気に入りのギャグ漫画を繰り返し読んでは飽きもせずゲラゲラと笑えるから、子供にとってギャグ漫画はコスパが良いジャンルなんです。私も『つるピカハゲ丸くん』とか『ボクはしたたか君』とか『王様はロバ』とか、雑誌だと“月刊少年ギャグ王”をボロボロになるまで読んでたな……『うめぼしの謎』の単行本はまだ持っています。単なる想像でしかないが、『超巡!超条先輩』に関しては恐らく連載中にアニメ化の打診があったんだろうけど、単行本の売上がどんどん下がっていくのでアニメ放送が始まるまで待てずに打ち切った……というパターンではないでしょうか。アニメの企画は途中で御破算になることが多いから、本決まりになるまで雑誌側が待てない、というケースも少なくない。

 「打ち切られたジャンプ漫画がアニメ化」というのは過去にもいくつか例があります。80年代とかなり古いけれど『よろしくメカドック』、打ち切られた直後にアニメ化が決まって数週間後に連載再開という慌ただしい動きをしている。テレビアニメではないけど『バオー来訪者』、2巻打ち切りとなった後でOVA化した。桂正和の作品としては短命(僅か10ヶ月)に終わった『D・N・A2〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜』も打ち切りの直後にアニメ化、恐らく連載開始とほぼ同時にアニメ企画が動き出して、原作の人気が振るわなかったものの止まれずにそのまま強行したパターンではないかと思われる。アニメ版もさして話題にならなかったが、OPがL'Arc〜en〜Ciel、EDがシャ乱Qと超豪華な布陣だった。金田一少年がブレイクしていた頃に後追いで始めたけどパッとせずたった4巻で終了した『人形草紙あやつり左近』、作画を担当した小畑健の新連載『ヒカルの碁』がヒットした影響もあって打ち切りから3年後くらいにアニメ化されている。しかも2クール。人気が伸び悩んで2年くらいで終わった『武装錬金』(全10巻)も打ち切りの翌年にアニメが放送されている。『初恋限定。』は連載期間がたったの半年、全4巻で打ち切られたがその翌年にアニメ化した。打ち切りからアニメ化まで一番間が空いたのは『ライジングインパクト』か。「ゴルフ」という子供ウケの難しい題材で1年もせず打ち切られたが、継続を希望する声が大きかったためすぐに再開、結構長く粘りましたけど3年くらいでまた打ち切られた。全17巻。打ち切りから20年以上も経ってNetflix資本でアニメ化されています。

 ジャンプ漫画ではないが、現在アニメ放送中の『アルマちゃんは家族になりたい』も実は打ち切られた後にアニメ化が決まった作品です。この作品、元々はツイッターとかで『天才科学者たちが最高のロボットをつくった漫画』として投稿していたシリーズを商業向けにリファインしたもので、『少女型兵器(アルマちゃん)は家族になりたい』とタイトルを改めて連載開始したが、2年ほどで打ち切りとなった。単行本は全3巻。しかし打ち切られた後にアニメ化の話が来たため連載を再開、『アルマちゃんは家族になりたいZ』というタイトルで今も継続中。2019年にアニメが放送されて「おもしれー女」概念をネットミームにした『女子高生の無駄づかい』も、最初はニコニコ静画に掲載されていた作品で、2015年に商業化しましたが2017年に一度連載を打ち切られています(このため3巻が一時的に最終巻という扱いになった)。アニメ化が決まったおかげで2018年に連載再開し、現在も連載が続いている。インタビューによるとアニメ化の打診があってから決定になるまで数ヶ月掛かったそう。ジャンプ漫画は競争が熾烈なので『超巡!超条先輩』が本誌に復帰するのは著しく困難だろうが、昔と違って今は「ジャンプ+に移籍」というルートもある。読者層を考慮すると本誌よりもジャンプラの方が合ってる気はします。

 問題は単行本の売上がどうなるかだよな……「一度打ち切られたけどネットの反響等によって復活した漫画」は爆発的に売れるケースとそうでもないケースに分かれ、「復活したけどまた打ち切り」になることも珍しくない。現在は「絵日記の人」として認識されている「ぬこー様ちゃん」が「ほっけ様」名義で連載していた『専門学校JK』も打ち切り後に作者の宣伝ツイートがバズって『専門学校JK Ctrl+z』というタイトルで再開したが、単行本があまり売れなかった(前作よりは売れたらしいが、期待されたほどの伸びではなかった)ため再度打ち切りに。逆に跳ねたケースとしては『ポプテピピック』が挙がる。もともとはWeb連載のギャグ漫画でことあるごとに掲載サイト「まんがライフWIN」の竹書房に喧嘩を売った結果、「今回の更新をもって連載終了です!ご愛読ありがとうございました!みなさまの応援によって今後もし復活するようなことがあれば、またすぐに打ち切りたい」と編集部から言われるハメに。竹書房への恨みつらみを赤裸々に描いた最終回がネットでバズり単行本が売れまくって、新シーズンが決まったうえにアニメも2期までやった。ほぼ毎年竹書房に喧嘩を売っては打ち切り→再開を繰り返している本作、要は「プロレス」なんだけどなんだかんだで10周年、現在はシリーズ9を展開しているんだからスゴいもんだ。超巡もここから連載10周年を迎えられるような長寿作品にならないかな……。

「ハイスクール!奇面組」来年1月にノイタミナでTVアニメ化!時代設定や声優が新たに(コミックナタリー)

 遂にリメイクの波が奇面組にまでやってきたか……私は再放送で見たからリアルタイム直撃世代ではない(奇面組の後の『ボクはしたたか君』の方により親しみを覚える)が、アニメがキッカケで原作も全部読む程度にはハマったので心のザワつきを感じます。

 80年代の作品なので知らない人もいるだろうし、一応解説しておこう。「奇面組」は何度かタイトルを変えて仕切り直しているギャグ漫画で、一番最初のシーズンが『3年奇面組』(1980年から1982年にかけて連載)です。タイトルは1979年に放送を開始したドラマ『3年B組金八先生』を意識したもの。作者「新沢基栄」のデビュー作でもある。「一応中学校」の3年生である「一堂零」たち5人の生徒はあまりにも個性的な顔立ちから「奇面組」と呼ばれていたが、本人たちは意にも介さずお気楽な日々を送っていた。そんな彼らの前に「〇〇組」と名乗るグループが次々と現れる……という、パロディネタの多いナンセンスギャグです。「組」といってもクラスの単位を示すものではなく、5人1組の小グループを指している。奇面組一同は中学生……ではあるんだけど留年を重ねているせいで実は結構トシが行っている、という設定。主人公でありヒロインでもある「河川唯」にとって奇面組メンバーは当初先輩だったのですが、また留年したことにより同級生となります。ギャグ漫画ですけど「サザエさん時空」ではなくちゃんと時間が経過していく仕様です。

 とはいえさすがに唯まで留年させるわけにも行かず、奇面組メンバーと一緒に卒業させて高校へ進学する。そうして始まるのが第二シーズンであり、もっとも長く続いた『ハイスクール!奇面組』(1982年から1987年にかけて連載)だ。単行本にして20巻、当時のギャグ漫画としてはかなり長い部類に属する。人気ぶりからアニメ化の話は何度か持ち上がったものの、なかなか話がまとまらず、やっと放送が始まったのは1985年。丸2年、およそ8クールに渡って90話近いエピソードが放送されました。「奇面組はアニメで知った」という人が多いでしょう。「千葉繁」や「玄田哲章」や「塩沢兼人」など、声優陣は今見ても非常に豪華。作品人気は衰えなかったが、激務によって新沢基栄の体調が悪化し、連載終了の運びに。最終回がある意味「夢オチ」とも受け取れる内容で物議を醸した(『3年奇面組』の冒頭に回帰する、というエンディングのため『ハイスクール!奇面組』しか読んでいない人には戸惑う内容だったこともある)が、個人的にあの終わり方は嫌いじゃないです。すごく前向きな「邯鄲の夢」って感じで。河川唯は盧生だったんだよ。

 次回作の『ボクはしたたか君』も体調問題で休載となり、しばらく消息を絶ったが、2000年頃から奇面組の短編をポツポツと発表。これらの短編は2004年に『帰ってきたハイスクール!奇面組』というタイトルでまとめられていますが、1冊だけなので第三シーズンと見做すか「単なる外伝」と見るかは微妙なところだ。“月刊少年ガンガン”でやっていた『フラッシュ!奇面組』(2001年から2005年にかけて連載)の方を第三シーズンと解釈するのが一般的だろう。掲載誌が変更になった事情もあり、また中学3年からスタートしています。続編というよりはリメイクですね。当時の“月刊少年ガンガン”はいわゆる「エニックスお家騒動」で主力作家を引き抜かれて混乱していた頃であり、「新たな看板級の作品」を補充する狙いもあったのだろう。『鋼の錬金術師』の連載も始まって雑誌の勢いがどんどん伸びていく時期だったんですが、やはり作者の体調がネックでまたしても休載となりました。その後、どういう経緯があったのかは不明ながら版権が集英社に移って、現在『フラッシュ!奇面組』の電子版は「ジャンプコミックスDIGITAL」から出ています。

 まとめると、「奇面組」シリーズの開始は『3年奇面組』で1980年、今から45年も前。連載としては第三シーズン(ないしリメイク)に当たる『フラッシュ!奇面組』が最後で2005年、今から20年も前です。今の十代は親の影響とかでもないかぎり、まず存在自体を知らないでしょう。奇面組がいかに時代を先取っていたか、解説すると長くなるので割愛しますが、たとえば今では一般的な漫画表現になっている「通常頭身のキャラがギャグシーンで二頭身や三頭身になる」という演出も奇面組が流行らせた手法だ(表現としての元祖ではないが、業界全体に広める結節点となった)。時事ネタやパロネタも多数含まれているため、新作をやるとなると相当テコ入れが必要になると思います。PVにスマホが出てくるから時代は昭和から令和に変更される模様だが、見た目に関しては大きく変えないみたいですね。なにぶん元が昭和なので今の価値観からすると「そのままお出しするのは難しい」部分もある(未成年なのに酒を飲みまくる酒屋の息子、スカートめくりが得意技のスケベキャラ、「オカマ」という呼称自体が引っ掛かりそうなオカマキャラ、当時の基準で「時代錯誤の熱血教師」として造型された事代作吾)ゆえ、「どの程度ノリが変わるのか」が不安である。タイトルの「奇面」自体、顔のつくりをイジっているのでコンプラがどうのって話になりかねない。最悪、「今の時代コンプライアンスが〜」とか「ルッキズムが〜」とか「価値観をアップデートしないと〜」って作中で言い訳するメタネタすらやりかねません。正直、私も細部はだいぶ忘れているのであれこれツッコミを入れられる立場ではないが、とにかく楽しく愉快なアイツらと再会できるといいなぁ……って思います。

・織守きょうやの『明日もいっしょに帰りたい』読んだ。

 主にミステリやサスペンスといったジャンルで活躍している「織守きょうや」による、「百合」をテーマにした短編集。オムニバス形式でエピソード間の繋がりはなく、ミステリ的な仕掛けもない。割と他愛もない雰囲気の作品を収録しています。織守きょうやの既刊が好きな人は戸惑うかもしれない内容だが、逆に「織守きょうや? 知らない」という人は却って入り口にしやすいかもしれません。

 各編のあらすじと簡単な感想を綴っていきます。

 「椿と悠」 … ふたりの女子高生、「秋山椿」と「塩野悠」を巡る話。本書のタイトル『明日もいっしょに帰りたい』はこのエピソードのセリフから来ています。前半は椿視点、後半は悠視点で進行する。綺麗な顔立ちで凛としているけど、「性格きつそう」「少女漫画のライバル役みたい」という印象を与える学級委員長の椿は、ライオンの鬣みたいな金色の長い髪を持つ同級生の悠が気になっていた。ある時帰り道が一緒になり、買い食いに付き合ったことがキッカケで少しずつ仲良くなる椿と悠。しかし、椿の幼なじみである少年「佐野康太」が声を掛けてきたことでふたりの関係に変化が訪れて……ネタバレになるけど、書かないと感想の言いようがないから書きます。椿は「悠が康太に惚れた」と思い込み、逆に悠は「椿が佐野と付き合っている」と早合点する、要は「勘違いモノ」の百合小説です。康太に彼女が出来たことでお互い「悠(椿)はショックを受けている」と錯誤し、腫れ物に触るような対応をする。ある意味で喜劇のようなシチュエーションですけど、コメディと呼ぶにはしっとりし過ぎている。互いに相手のことを意識するけど明確に付き合うところまでは進まない、湿度高めのストーリーで続きが気になる。

 「友達未満」 … 百合は「マリみて」の影響が強いせいか女生徒モノが多く、女子大生、社会人と年齢が上がるにつれ該当作品が少なくなっていく。本作品は稀少な「社会人百合」です。広告代理店に勤務するデザイナーの「的場」は、同性愛者だった。独占欲の強いカノジョと別れ、現在はフリー。隠しているわけではなく大っぴらに嗜好を明かしていたが、偏見の目を向けられることが不快とは思っている。有名なファッション誌で読者モデルを務めた過去があるという他部署の同僚「榛名めぐみ」が的場の同性愛嗜好を耳にして一瞬強張った顔を見せたのも、気持ち良くは感じなかったが「面と向かって何かを言われたわけじゃないし」と流すつもりでいた。しかし、榛名は失態を取り返さんとばかりに積極的に的場に話しかけてきて、彼女を戸惑わせる……これはネタバレという以前にバレバレなので書いてしまうが、ストーリー開始時点で榛名は既に的場に好意を抱いています。本書はストレートに百合の魅力を伝えようとする短編集なので、変なヒネリとか仕掛けとかはなく、情報は裏読みせず素直に受け取っていい。どんなに忙しい時でも身なりをキチンと整える「隙のない女」榛名がいったいどんな「隙/好き」を見せるのか、ニヤニヤしながら見守っていただきたい。シンプルに「可愛い」と思いました。あと、仕事に頑張っている姿が清々しくて、「やっぱ社会人百合はいいな」という思いを改めて強くした。

 「変温動物な彼女」 … カテゴリとしては「女子大生」に属するかな。厳密に言うと主人公は「聴講生」で、大学には籍を置いていないのだけど、感覚的にはあまり変わらない。子供に対する関心のない家で育った「木ノ本珠璃」は、バイトで生活費を稼ぎながら聴講生として大学の講義を受けていた。楽しみの一つは、「湯川雪」の姿を眺めること。高校生の頃に喫茶店でバイトしていた珠璃は、セーラー服でもりもりと看板メニューを吸い込むように食べる健啖家の彼女を見るのが好きだった。雪に声を掛けられ、成り行きでお弁当を作ってあげることになった珠璃は「役に立ちたい」と張り切るが……これまでの「ふたりの関係」を掘り下げていく短編と異なり、本作は「主人公の生い立ち」が重要な位置を占めていて、毒親の桎梏から解き放たれるために雪が背中を押してくれる――というのが大まかな内容となっている。「これが長編だったら、ふたりで毒親の死体を埋めに行くタイプの百合になりそう」と思ってしまった。

 「いいよ。」 … 明確に付き合い出すところまでは進展しないで終わるこれまでの作品と違い、明確に付き合っているところから始まる短編。高校一年の頃、「三浦真凜」は「筧清良」に出会った。「やば」としか形容できない、度を越した可愛さの清良にひと目で惹かれた真凜は、ぐいぐいと迫って友達になった。異性にモテるせいで困っている、とボヤく清良に「あたしのこと、恋人にしてよ」とノリで提案した結果、交際することになったふたり。時は流れ、20代半ばになった。真凜は「同棲したい」と願うようになっていたが、清良は乗り気じゃないように返事をはぐらかせて……百合カップルの回想録といった趣でニヤニヤ度は本書最高。共通の友人である「松風友梨佳」が呆れながら二人の関係を見守っているあたりがイイ味出してる。長編だったら友梨佳を交えた三角関係に発展していただろうな……ひたすら真凜による惚気が続く内容で、砂糖を吐きそうになります。清良に執着する真凜がちょっと「面倒臭い女」になってるけど、そこもまた可愛いんだよ。「可愛い」の結晶みたいな一編だ。

 まとめ。ガツンと深く食い込むような作品こそないものの、読みやすく、短時間で百合成分を摂取できる経目栄養剤といった趣の短編集。手軽さが売りなので「他の予定を後回しにしてでも読むべき」という感じではないが、ちょっと時間が空いたな、ちょっと百合百合な小説読んで心を潤したいな、というときにオススメ。私が一番好きなのは「いいよ。」ですね。続き読みたい度では「友達未満」がトップクラスですが。社会人百合、いいよね……わたなれやささ恋の「竹嶋えく」が描いた一次創作同人誌『ほんとはもっと、したいだけ』と『ほんとは一緒に、いたいだけ』は社会人百合カップルという商業向けでは難しい題材を扱っているので、社会人百合に餓えている人にはオススメです。

・拍手レス。

 上田麗奈さんといえば閃光のハサウェイの2部が2026年1月30日に決まりましたね。こっちのやべー女も楽しみ

 コロナ禍の影響もあったとはいえ4年半以上も待たされることになるとは……完結編は2030年とかにならないといいけど。



管理人:焼津