第三景 はじめてのせいさいパニッシュメント


 生徒会室では上杉先輩がちょうど目を覚ますところだった。
「いっけね、ここんとこ寝不足だったからついつい眠り込んじま……っておい、何してんだお前ら」
「えっと、何をしているかと言われましても、俺は何もしていなくて刀子さんに刀を突きつけられているだけです、はい」
「あらあら、何もしていないなんて、まあ、なんて白々しい」
 がっちりホールドの姿勢を崩さぬまま、椅子のところまで誘導して座らせ、俺と互いに向き合う姿勢を取った刀子さんは、コードの垂れ下がるイヤホンを耳から外しながら眉をハの字にして困ったような顔を見せた後、
「……その白々しさがあとどれだけ持つかしら」
 感情を削ぎ落とした声でぽつりと呟いた。
「あー、あー……つまり、何か、あれか」
 かぶりを振って言葉を探るように呻く上杉先輩。
 ぽん、と手を打って。
「──痴話喧嘩かよ。まったくお前ら、元気というか仲いいな」
「ち、痴話?」
「どーせあれだろ、お前が浮気して刀子の奴がプッチン切れちまったってそういう流れだろ。説明されなくたって分かるぜ。おいおい、双七ぃ、前に言わなかったか? 刀子は存外嫉妬深ぇぞ、ってな」
「……俺の記憶によればそれ言ったのは会長で、確か上杉先輩は『浮気しても耐え忍ぶ』とか言っていたと思うんですが」
「言った本人が覚えてねーよーな細けぇことは気にするな。で、相手は誰なんだよ。すず嬢? トーちん?」
「少なくとも私ではありませんが」
 横合いからの一言──トーニャ。上杉先輩はそっちを見て「うお、いたのか!」と仰天した。
「いますってば。寝ぼけないでください」
「うん、まー、そりゃ生徒会なんだからいるわな……の割に他の連中の姿が見えねーんだけどよ」
「刀子さんの鬼気に当てられて逃げ出しました。それより如月くんの浮気相手はこれを聞けば一発で分かります」
 カチッ、と手にしたボイスレコーダーを再生する。

『双七君、ダメじゃないか……君には刀子がいるというのに、こんな破廉恥なことして赦されると思っ……ああ、触るな! そこは敏感なん……くはぁ!』

「……これ、さくらちゃんの声じゃねーか」
「誰が聞いてもそう思いますよね」
 アルカイックな微笑みを浮かべ、同意を求めるトーニャ。
 あの娘を黙らせろ──囁きかける衝動。無理だった。ちょっとでも余計な動きをすれば刀子さんの妙技によって膾切りにされかねない。
「なるほど、こんなん聞いたら刀子の奴もそりゃブチギレるわな。にしてもなんか口調がおかしかった気がするんだけど」
「プレイなんでしょう」
 トーニャは綻びとなっている箇所をしれっと糊塗する。上杉先輩は簡単に騙された。
「あー、なるほど、さくらちゃんを年上のお姉さんって設定にしてあるわけか! クソ、その手があったか! うわーやっられたぁ! チッ、前々からノーマルじゃねぇとは薄々気づいてたが、まったく見上げた変態根性だぜ!」
 そんな……先輩まで、俺のことを信じてくれないなんて。
 あまつさえ悪辣ロシアっ子の虚言に首肯するなんて。
 心のどこかが欠けていく感じがした。
「双七さんってもう、本当に節操がありませんよね。びっくりするくらい。なんでそうやって周りの女の子と簡単に仲良くなれてしまうんですか? どうして、こう……仲良くなりすぎてしまえるんですか?」
 刀子さんは目を細め、表面上は柔和な顔つきをしている。だが、その全身からは黒い波動が四方八方に放射されていた。今の彼女を覆うオーラを聴覚化すれば、噴火する前の火山の鳴動みたいに聞こえるだろう。
「いえ、その、これって実は濡れ衣なんですよ……って言えば信じてくれますか?」
「濡れ衣? ふふ……」
 チラリ、と前の卓を眺め、
「そうですね、じゃあ、生首だけでこの机に齧りつくことができたら信じてあげますよ」
「どこの昔話ですかそれ!?」
「ご安心ください、私と文壱の力ならば斬られたことも気づかないくらいスムーズに、仕損じもなく刎頚することができます」
「人間は首から上を切り離されても三十秒くらいは意識が残っているそうですから、如月くんのガッツさえあれば可能でしょうね」
 入れなくてもいい瞬間に限ってトーニャのアシストが入った。
「そんな残酷トリビアいらない! やめてください、もっと平和的な対話をしましょう!」
「平和的って、具体的にいうとどーいうふうにだよ」
 上杉先輩に言われ、全速で頭脳を回転させる。
 突破口は……これがすべて、トーニャの仕組んだ悪戯であると判明させること。トーニャがオチをバラせば自然に収束していくはずだが、今もなおニヤニヤ頬を歪めて観覧気分を醸しているあいつがそう簡単に話を終わらせるわけがない。それに、バラたら自分が諸悪の根源ということで集中砲火を浴びる結果になるとも予測しているはずだ。
 ならばトーニャは使えない。他の手を打つ必要がある。この場合有用なのは……
「さくらちゃん! そうだ先輩、さくらちゃんを連れてきてください! そうすればこれがみんな勘違いだってことが分かるはずです!」
 濡れ衣であることを証明するには、声の本人であるさくらちゃんに来てもらえばいい。刀子さんが考えているような事実はないと証言してくれたら、誤解は解けるに違いない。
「ん? さくらちゃん連れてくりゃいいのか? なら」
 と腰を浮かしかけた先輩を制したのは、トーニャだった。
「私が連れてきましょう。先輩はゆっくりしててください」
「あ、そう?」
「ええ、では行ってきますね」
 椅子に座り直す先輩と、戸口に向かっていくトーニャ。彼女は出て行く前にこちらを振り返り、なんとも厭らしい具合に目を光らせて笑った。角度の問題でその表情が見えるのは俺だけだということを知っていてやったんだろう。つくづく悪辣な。
 ぴしゃん、と戸が閉まった。
 三人だけになった生徒会室は沈黙に包まれる。刀子さんは微笑みを絶やさぬまま斬妖刀を掲げ続け、上杉先輩は「やれやれ」といった呆れの表情をしてみせた。
 俺は拘禁され、動けなかった。
 人間の筋肉というものは生きている以上運動を止めるということがなく、どんなに巧く静止されているつもりでも実は微細な振動を発している。刀子さんも例外じゃない。文壱の刀身を伝わり、その震えが喉に送られてくることを想像してほしい。生きた心地がしないのだ。どんどん喉が強張って、喋る気も萎えてくる。秋だというのに、汗が止まらなかった。
 緊張に耐えられなかったのか、それとも単に退屈だっただけなのか、上杉先輩が沈黙を破って喋り始めた。
「でさあ、お前ら、痴話喧嘩するってことはそういう仲になったってことなんだろうけどよ、いったいどこまで進んだんだ?」
「どこまで、とは?」
 質問を返す刀子さんに、先輩は言いあぐねる様子を見せた。
「あー、なんだー、その……やったか?」
 物凄い直球。ここまで直截に聞いてくるとは思わなかった。
「なっ……!?」
 目の前の刀子さんが頬を赤らめる。文壱の震えも大きくなった気がする……って。
「せ、先輩! 刀子さんを刺激するようなこと言わないでください! 俺の命が危ないですよ!」
「黙ってろって、お前は。んで、刀子、どうなんよぶっちゃけ」
「え、ええっと、『やった』という言葉の意味は推察できますが、その、そういった話題はいくら昔馴染みの刑二郎くんにも申し上げにくいこと……というよりも刑二郎くんだからこそ申し上げにくいことですが……」
「いいから結論言えよ、刀子」
「あ、はい、だから何と申せばよいのか……そのですね、双七さんはですね。とても──とても元気な殿方ですよ?」
 片手で頬を押さえ、視線を脇に遣りつつ、けれど文壱は首筋に押し付けたままで刀子さんは言う。
「そうか……なるほど。やったんじゃなくて、やりまくったのか。いかにも双七らしい」
 深く頷いて納得する上杉先輩。俺らしいって、どういうイメージ持ってるんだあんた。
 にしても──刀子さんとのキス騒動で興奮して俺をブン回していたときに比べると、先輩の反応が妙に薄いような気もするのだが。動揺する気配もないし、すごく落ち着いている。どうしてだろう。分からなかった。
「んで、やるだけやりまくってさくらちゃんに乗り換えた、と」
「乗り換えてません!」
「ほんと外道だなお前」
「話聞いてください!」
 いくら主張しても上杉先輩は耳を貸す素振りがなかった。こういうところはいつも通りだ。
「私もね、気づいてはいましたの。双七さんがたまーにあの子の胸をチラチラ見ていることがあるって」
 えっと、確かに目が自然に吸い寄せられてしまうことは何度かあったけど、あれは別にやましいことを考えたりとかは……してないとも言い切れないけれど……基本的に視姦とかはしない方面で頑張ってましたよ?
「ひょっとしたらあれだ、双七ってば胸がでかけりゃ誰でもいいのかもな」
「誰でも……」
 ふと思いついたようなセリフをそのまま無添加で吐き出した上杉先輩と、それを鵜呑みしようとする刀子さん。
「で、でかければ誰でもいいって、そんなわけないに決まってるでしょう!」
「けどさあ、でかい胸は好きなんだろう、正直なところ?」
「そりゃ……まあ……否定はしませんが」
「だってさ、刀子。否定しないって言ってるぜ」
「そうですか、否定なさらないんですか。あらあら、困りましたわ」
 困ったというより据わった目をして俺を射し貫く。自分の迂闊な発言が火に油を注いでしまったと悟った。
「ええっと、違いますからね?」
「何がですの?」
「その、つまりですね、大きな胸の魅力は否定しませんがそれはあくまで要素の一つとしてだけで、胸のサイズだけを取ってどうこうって問題じゃなく、それと相手のことを好きになることとの相関関係は一切ないと。だから、その、さくらちゃんの……膨大さを刀子さんと比較してそれを根拠に軍配を上げるわけでは」
「そう必死に弁解なさらずともよろしいですのよ。双七さんが乳房好きであることは既に重々承知しておりますから」
 まずい、なんか「如月双七──巨乳好きの節操なし男、ここに眠る」の方向で話が固まってきてる……!
「双七ってよ、なんつーかこう、いかにも母乳吸いたがってそうなツラしてるもんなぁ。マザコンというか、むしろシスコン? 『お姉ちゃんの魅力には絶対逆らえない!』みたいな。嫁に行ったお姉ちゃんの後を追いかけて、抱かれてる赤ちゃんを差し置いて剥き出しの膨らんだ乳房にむしゃぶりついて『ダ、ダメ、双七、それはこの子のものなのよ……ああん!』って言われるのが本望っつーイメージ」
「喩えが一般的じゃなさすぎて分かりませんってば!」
「やばいな、やばいぜ刀子。この調子じゃあ、すず嬢が成長して発育してきたら奴の射程圏内に入っちまうぜ。昼前にやってる嫁と小姑の闘争番組どころか、昼下がりのメロドラマになっちまいやがる」
 思いつきで喋っているというより、事態を悪化させるために喋っているんじゃないかと疑いたくなってきた。もう逃げたい……。
「すずさんが……発育」
 上杉先輩の言葉に釣られて想像してしまったらしい刀子さんが笑みを引っ込め、顔を強張らせた。
「事情から言って同居っつー形になりそうだからよ、大変だな、刀子」
「い、いえ、でもすずさんは既に二百歳を超えているはず。数年やそこらで、劇的に成長することもないと思いますが……」
 反論、いや、自分に言い聞かせるような調子でぶつぶつと呟き、片手で髪を掻き上げる。一瞬のみ晒された額の側面には汗が浮いていた。
「えーと、すずの成長云々を別にしても俺は彼女のことをあくまで家族として見ていますから、なんにしろ上杉先輩の言うような昼メロ的展開はありえな」
「いや待て! いっけね、肝心なことを忘れてた!」
 はっ、と今ようやく眠気が振り払われたような顔で先輩が叫ぶ。
 ようやく正気に戻ってくれたのか?
「トーちんだ! 双七の野郎、トーちんにもアキナミ送られて満更でもなさそうだったんだぜ!」
 ……ここで俺は発言の内容に突っ込めばいいのか、「秋波」は「しゅうは」と読むのだと訂正すればいいのか。恐らく俺がトーニャにからかわれてるときのことを指して言ってるんだろうが、よりによってこんなときにそんなこと言って欲しくなかった。
「トーニャさん……?」
 まずい、刀子さんの視線が斜め上空を向いた! あれは人が自分の記憶を掘り起こそうとするときに見せる仕草──藤原さん襲撃騒動の夜、不意打ちでトーニャにキスされた件はデートの約束をしたことでごまかしたけど、あの話はそのまま流れたっきり決着していない!
 蒸し返されたらただでさえ険悪な状況がもっと悪くなる……なんとか丸め込まないと!
「トーちんを守備範囲に含んでるってことは、別に双七は巨乳好きってわけじゃねぇのか?」
「え、ええ、そうです! そもそも巨乳とか貧乳とか、そういう区別で等級を分けること自体が愚かしいでしょう! 胸のサイズなんて全然関係ないんです!」
 上杉先輩の発したセリフにほとんど反射行動の域で答える。話題をズラせば、トーニャの件も蒸し返されずに済むはずだった。
 誤った。銃弾を避けるために駆け込んだ物陰に、地雷が仕掛けられていた。
「そうか、やっぱりな。双七は『巨乳なら誰でもいい』んじゃあない……『女のオッパイだったらなんでもいい』んだよ!」
「な、なんですってーッ!?」
 ほとんど劇画調といっていい表情を見せる先輩と刀子さん。こういうところで息が合うのは付き合いの長さゆえか。
「ちょっ、先輩、それおかしい! 俺は一言もオッパイ賛美なんてしてませんよ!?」
「バッカ言うな、双七。男ってのは、ごく一部の例外を除いて『オッパイ大好き』がデフォルト設定になってるんだからそんなのわざわざ賛美するまでもないだろ。ただ豪勢な乳が好きとか爆発的な乳が好きとか清貧な乳が好きとか摩擦係数の低い乳が好きとかえぐれる勢いの乳が好きとか担当するジャンルの違いがあるだけだ!」
 ダンッ、と握り拳で机を叩いて熱弁する。生徒会室でここまで真剣に喋っている先輩は初めて見た気がした。
「そして中でも、バーリ・トゥードゥ(なんでもあり)──こいつが一番怖ぇ! 熟女の太り肉でも幼女の引き締まったシェイプでも愛してしまえる乳欲の地獄! 掴むもこねるもしゃぶるも挟むも擦るも噛むも思いのまま! 未発達の胸でパイズリというありえない芸当さえも『洗濯板みたいでイイ』と肯定できる人種だ……次元が違う」
 ごくり、と唾を飲む。
 ……言っちゃ悪いが先輩、あんたもその「なんでもあり」に属する人間だって俺の本能が告げているよ。
「だから、すず嬢の成長を待つまでもねぇ……既に間合いのうちへ入ってやがる。オレの目測によればすず嬢以下の胸囲を誇るトーちんさえ、肉欲の餌食にしようとしてるんだからな!」
 誰がいつあの性格極寒女を肉欲の餌食にしようとしたのか説明してほしかった。もちろん俺にそんな野蛮といえる勇気はない。結果は目に見えている。逆襲されて吊るされて晒されて干されて放置されるだけだ。
「その生き様には震えるぜ、男としてよ。なんでもありなら──如月双七が弱いハズがない」
「〜〜〜ッ!」
 ギリッ、と歯軋りしながら青筋が立つほど強く文壱の柄を握り締める刀子さんに対して一歩も動けない俺が強いハズはなかった。
「そ、そ、双七さんの……乳魔! さくらちゃんの威容のみならずトーニャさんの虚ろな窪地にまで目移りするなんて! 女性の敵と称するのも生温い──根絶すべき人類の宿痾です!」
 いや、「虚ろな窪地」って。いくらなんでも口を滑らせすぎです。今のセリフをトーニャの奴が聞いたらきっとキキーモラを使っての殺し合いになると思いますよ、刀子さん。「その胸──伊達にしてくれる!」と吼える銀狼の姿が目に浮かぶよう。
「考えてもみれば、あの夜トーニャさんにキスされた頬を感慨深げに撫でてニヤついていた姿が双七さんの本性だったんですのよね。ああ、もう、デートの件に浮かれてすっかり忘れておりました。不覚の極みです。これからは重々肝に銘じておかねばなりませぬ──」
 そう言ってから、ふと小首を傾げた。
「──あら? けれど双七さんに『これから』なんてあるのかしら。心なしか顔が青ざめて死相が浮き出ているように見受けられますけども」
 生殺与奪の権利を握っている相手に「死相が浮き出ている」と通告される恐怖を、全世界に向かって伝えたくなった。そうすればみんな、自分の命の大切さ、生きることの大事さを痛感してくれるだろうと思ったから。

 ……と、こんな調子でメメント・モリな時間を過ごして話は現在に至る。
 戸口に姿を現したのは、トーニャの他にふたり。沸騰する話題の焦点であるさくらちゃんと、友人の美羽ちゃん。戸惑ったような表情を浮かべてながら部屋に入ってきたさくらちゃんは俺と刀子さんの姿を見るなり蒼白と化し、その後から入ってきた美羽ちゃんは目を見開いてギュッとぬいぐるみを抱きしめた。
「な、な、な……何が起こっているんですか、今ここで!?」
 口を必要以上にパクパクと大きく開閉するさくらちゃん。
「端的に述べるとリアル殺人一歩手前。さくら、事態を丸く収めることができるのはあなただけよ」
 深刻そうな顔を作りつつ、しかしいかにも耐え切れないとばかりに口の端やまぶたがヒクヒクと震えているトーニャはポンとさくらちゃんの二の腕を叩く。身長差があるから肩まで手が伸びてなかった。
 言われてさくらちゃんは慌て出す。「え? え?」と明らかに状況が呑み込めない感じでおろおろと周りを見渡した。無理もない。知人が知人に殺されそうになっているところを見て動じるのは当然だ。それにトーニャのこと、具体的な説明は何もしないで連れてきたんだろう。
「えっと、よく分かんないんですけど……先輩たちの恋愛のステップが『殺し愛』とか『無理心中』とかいった最終的な局面に突入しちゃったんですか?」
 それは恋愛のステップというより末路と言わないか。だいたい、恋愛ごっこはとっくに終わっている。もっと現実を直視してほしい、頼むから。
「まあ、一からあれこれ話すより聞いてもらった方が早いかな」
 トーニャはやれやれと肩を竦めると、お決まりのボイスレコーダーを起動。流れ出した音声で、さくらちゃんの顔に「はっ!?」と衝撃が駆け抜ける。

『いい、ああ……いいぞ、双七君、君の欲望を洗い浚いぶち撒けてくれ! 刀子にも明かさなかった君の真実──ケダモノめいた狂態の全部を、だ! この目に、この身体に、烙印として焼き付けてほしい……!』

「ここ、これは……!?」
「覚えがあるわよねぇ、さくら。自分の言ったセリフだもの」
 気づいた。俺の他にやっと、事態がトーニャの罠であることに気づく人物が現れた。
 さくらちゃんは皮膚を紙のように白くした後、噴火。真っ赤に炸裂した。
「トーニャ先輩、なんでそんなの録音してるんですか!?」
「あら、気づかなかったの。あなたが来たときからスイッチ入れっぱなしにしてたんだけど」
 スパイ映画でもあるまいに、日常生活の会話がこっそり録音されていると疑う人なんているもんか。
「……え? まさか、あのときの、全部?」
「はいはい、そりゃあもう全部バッチシ録り漏らしなく。ま、多少編集して不都合なところは省略してるけど」
 掌を上にして左手をかざし、滔々とまくし立てる。当然だが、真相を知っている俺とさくらちゃん以外の人は意味が分かっていないみたいで蚊帳の外に置かれ、軒並み疑問符を浮かべて見守っている。他にもすずが真相の共有者であるが、今は敵前逃亡を図ってこの場には不在だ。生きて帰れたなら存分に恨み言を言い募ろう。生きて帰れたならば。
 生存の鍵はさくらちゃんが握っている。ここで上手に証言し、トーニャの奸計を暴いてくれればハッピーエンドになるはずだ。
「み、みなさん、これはその、あの……たぶんみなさんが考えてるようなこととは、違くて……」
 しどろもどろの口調で喋り出した。よし、これでなんとかなる。
 だが。
 そこにトーニャが横槍を入れやがった。
「あれれ? 言っちゃっていいの? さくらが──ってこと」
 一部だけ耳に口を寄せて小声で囁いたせいで聞き取れなかったが、それがさくらちゃんの発言を止めさせるに充分な内容だったってことは理解できた。
「うく……」
 即座に言葉を詰まらせ、さくらちゃんが呻く。
「カミンドアウトする気満々って言うなら止めないけどー? でも本人が居合わせている場面で堂々と告白するなんて──思ったより勇気あるのねー」
「さくら……?」
 心配半分、怪訝半分の様子で見上げる美羽ちゃんに目を合わせることができないようで、さくらちゃんは視線をさまよわせた。
「さくらちゃん」
 停滞した証言に痺れを切らしたのか、刀子さんが俺との位置を修正した。俺越しにさくらちゃんと向かい合う場所へ移動する。さくらちゃんと本格的に会話するつもりみたいだ。
「は、はい、なんでしょうか、刀子先輩」
「私としましても、可愛い後輩をネチネチと責めるのは楽しいことじゃありませんわ」
 ……楽しくないなら、どうして俺をここまでいびるのかなぁ。
「え、えと、そう……ですか」
「ですから細かい話は抜きにします。単刀直入に行きましょう。どうせ事態は明白なのですから」
「はあ……」
 要領を得ない返事をするさくらちゃん。
 すると、刀子さんは突然懐に手を差し入れると、目にも止まらぬ早業で何かを取り出してアンダースローで放った。俺の横腹の隣を通過して、ズドッと地面に突き刺さる音が響く。
 ズドッ? 地面に突き刺さる?
 ちょっと待て。待ってくれ。刀子さんは何を取り出したんだ──?
「──っ!?」
 息を呑む音が複数。部屋に著しい緊張の念が漲った。
「拾いなさい」
 眉一つ揺るがさず、涼しげに俺の背後を見遣って告げる刀子さん。
「ちょっ、へ? あの、え?」
 言葉にならない、喘ぎにも似たさくらちゃんの声が聞こえてくる。
「冗談、ですよね? いくらなんでも、刀子さんがこんな、本気で、こんなことを──」
「いいから、お拾いなさいませ」
 ピシャリ。さくらちゃんの縋り着くような声を跳ね返す。
 見えないが、さくらちゃんの迷う素振りは手に取るように分かった。その迷いが、直視されていなくても目を閉じたくなるほど怖い刀子さんの眼力によって屈していく一部始終までも。
 衣擦れの音が響く。屈んで、「何か」を拾い上げようとしている。
「ん!」
 トヅッ
 力を込める掛け声に次いで、勢い良く抜ける音。およそ尋常なものが発する響きではなかった。
 我慢ならなくなり、刀子さんを刺激しないよう細心の注意を払って首を微かに捻り、視界の端に意識を集中させて問題のブツを捉え──
 は?
 見えた。そう、見えることは見えた。俺も視力は刀子さんほどじゃないにしろ自信のある方だし、知識としてもそれが何であるかを記憶から引き出すこともできる。
 だが、まさか、そんな。
 信じがたかったし信じたくなかった。何かの間違いであると、誰かに笑い飛ばして欲しかった。
 場を占めるのは沈黙。痛いくらいの緊迫感が、冗談である可能性を殺していた。
 ──脇差。
 言葉にしてしまえば簡単だ。それは全長三十センチ強の、文壱に比べれば遙かに短く感じられる日本刀。ヤクザ映画で「ドス」と称される匕首より、少し長い。鞘はなく剥き出しのままで、怖々した手つきのさくらちゃんに握られている。反り身がやけに凶々しく映った。
 なんで。
 刀子さんがそんなものを帯びていた理由──気にならないでもない。けどそんなことよりも、さくらちゃんに脇差なんてものを寄越したのかという理由の方が気になる。
「ひ、拾いましたけど……?」
 剣術とも闘争とも縁のないさくらちゃんには重く、それ以上に異質で恐ろしいものと感じられるのだろう。握り方が甘く、持つ手は頼りなく震えていた。
「宜しい」
 顔を正面に引き戻すと、刀子さんは頷きから顎を上げるところで、笑みを満面に湛えていた。

「──切り落としなさい」

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