第四景 断絶への後悔カストレーション


 空気が、固まった。
 目の前に漂う透明なものが気体である事実を喪失し、息をするのも忘れてしまった。時間さえ、止まった気がした。誰も彼もがその場から動き出せない。
 ……なあ。
 この人、今、なんて言った?
「切り──落とす──?」
 心底理解できないとばかりにさくらちゃんがコテンと首を傾げる姿が、澄み切った刀子さんの瞳に映り込んでいる。
「あなたを相手に不埒な悪行に及んだ、双七さんの男性自身……愚かしさの象徴を、あなた自身の手で切り落としなさいませ」
 ゆっくりと、噛んで含めるように言って聞かせる。瞳の中で機械的に頷いて理解の色を示していくさくらちゃん。
「あ──はい、言っている意味は分かりました。先輩があんまりにも凄いこと言うから、びっくりして心臓が止まっちゃいそうになりましたけど」
「うふふ。そんなに驚かなくてもよろしいのに」
「あはは、はは。それで、つまり、あれですよね? 『これが本当の短刀直入』ってオチがついて、チャンチャン、お後がよろしいようで──ってことになるんですよね、先輩?」
「あらあら……私、そんなつまらない冗談は申しませんわ。嫌ですね、さくらちゃんったら」
「そ、それならここで一つ、面白い冗談でオチをつけてほしいかなー、なんてお願いしてみたりしますよ」
「さくらちゃんの要求にお応えできず、本当に申し訳ありませんが──オチをつける気はさらさらありません。何せ、つけるのは落とし前ですから」
 その言葉、本気度MAX。
 衝撃で危うく気を失いそうになったところをギリギリで引き止めた。今の体勢で倒れたりなんかしたら斬妖刀の錆になりかねない。
 後方からはさくらちゃんの叫びが届いてくる。
「お、落とし前でそんなことって、ヤクザさんでもしませんよ!? エンコ詰めるってのは聞いたことありますけれどチ○コ詰めるなんて──」

「悪根を断ち切るが御けじめ」

 動揺しすぎで思わず伏字を入れたくなる言葉さえ口走ってしまったさくらちゃんを一喝。有無を言わせぬ迫力で沈黙を強いた。
「本来ならば私が手ずから切り落とすなり握り潰すなり引き千切るなり断行するところですが──やはりここは責任の一端を担っているさくらちゃんに執り行ってもらう方が制裁としては最良かな、と判断いたしまして」
「せ、制裁なんて残酷な真似しないのが最良だと愚考します、先輩」
「黙らっしゃい──トーニャさん?」
 不意に刀子さんが呼ぶ。返答は少し遅れて来た。
「……はい、なんでしょう」
「私、あなたにも赦せないことがありますの。いつぞやの晩──双七さんに、キスをして帰りましたね?」
「あれは──ロシアの挨拶で──」
「ふふふ、言うことまで双七さんと一緒。口裏でも合わせていますのかしら? ここは日本、と断るまでもありませんね。そもそもトーニャさんが男子にそんなことをしたことなんて、今まで一回もないでしょう?」
「ちょっとからかっただけですって。如月くんが刀子先輩はヤキモチなんて焼かない、なんて言うもんですから。さすがに今の彼は現実から目を逸らしてそんな願望めいたことを言えるほど夢見がちではなくなってるでしょうけれど」
 うん、今の俺なら諸手を上げてその意見に賛成するね。浮気は絶対できない。やったら死ぬ。やってない今でさえ、死にかけているんだからな。
「からかっただけにしろなんにしろ、双七さんのことを憎からず思っているからそんなことができるのではありませんか? そうやってごまかして、適度な距離を取っているフリをしてるだけで。本当に──油断のならない子」
 普段、あれだけ温和な刀子さんが、ダークサイド大盤振る舞いとばかりに微笑みながら睨む。笑っているのに、笑っていない。その視線をどうやってトーニャは耐えているんだろう。俺なら即座に土下座して謝りたくなると思う。
「あなたには止血をお頼みします。ご自慢のキキーモラで双七さんの根元を縛って、せいぜい血が出過ぎないようにでもしてくださいな。ああ、もちろん拒否権はありませんので」
「おい刀子、さすがにそのへんでやめとけよ──今のお前は、洒落になんねぇ」
 満を持してようやく沈黙から覚めた、上杉先輩。
 享楽的に傍観する素振りをさらけ出していた彼もここまで来ると見兼ねたらしい。正直、起きた時点で見兼ねて止めてほしかったんだけど。
 チラッ、と入口の方へ視線を向けた。さくらちゃん──いや、少しズレている。トーニャでもない。確信はないが、消去法から言って、たぶん美羽ちゃんのことを見ているのだろう。軽く頷き、「任せろ、なんとかする」とかそういう感じの笑顔を浮かべた。
 なんでこの流れで美羽ちゃんを見たのか分からなかったが、俄然、上杉先輩が事態をまとめてくれる期待が高まった。
 上杉先輩なら──上杉先輩ならなんとかしてくれる──!
「お前ってば内に篭もるタイプだから、いつかそうやって膨らみ切った風船みてーに張り詰めてパチンと破裂するんじゃねぇかって思ってたけど、やれやれ、案の定だな」
「ごめんなさい、刑二郎くん。今はあなたのお説教を聞くつもりありません」
「おいおい無視しようとすんな──で、愁厳の奴はどうなってるわけよ」
「兄さまは眠っております。ぐっすりと」
 会長、ぐっすりと……ですか。希望の一番星が潰えた瞬間だった。
「だろうな。あいつが起きてたらそのうちなんとかすっだろうと楽観してたが、こうまでなって何もしないとこ見ると寝てるとしか考えられん。つまり、オレがどうにかしなきゃならんってことだ。やれやれ──ほんと面倒臭いが、お前とは長い付き合いだしな。どうにかするぜ」
 溜息、肩竦め、だるそうに首回し。動作はいちいちやる気のなさを示すものばかりだったが、その眼の輝きは確かなもので、俺は未だかつてないほど彼を先輩として敬う心が増幅していくのを覚えた。
 机を迂回して歩み寄ってくる先輩。刀子さんはふたたび位置を修正し、背後を取られないように気を使う。
「来ないでください、刑二郎くん」
「嫌だね」
 拒否。刀子さんが放つプレッシャーをものともせずに近寄る。
 付き合いが長い──その言葉の意味を実感する。俺も刀子さんとは気持ちを通じ合わせた自信はあるが、先輩の持つ自信は質と年季が違った。
「オレは今までさんっざんお前と真っ向から話すんのを避けてきたからな。あれだ、負い目もあったし、負い目以上のもんもあった。語るつもりはねーが、とにかく、昔馴染みの分際で愁厳相手ほどは腹を割れなかった。ずっと遠慮と敬遠にまみれた、オレらしくもねー接し方ばかり──今更後悔しねーけど、もし過去の自分に会ったらぶん殴ってどやしつけてーな」
 足音が背後で止まった。俺の首筋に触れて僅かに生暖かくなっている文壱の先。そこに上杉先輩が立っていると確信する。
「そうですね。私も刑二郎くんを避けるつもりはなかったけれど、よく分からない不自然な距離感をつくってしまいました。形もなくて、うまく言葉にもできなくて、あることだけは絶対に間違いない、陽炎みたいな距離感──それのせいで、兄さまほどは親密になれなかったのかしら」
「性別の違い、ってのは別に関係ねーな。あのバカに凶暴でそのくせ寂しがり屋な伊緒の奴ともそれなりにうまくやってこれたんだから、おっとりしてるようで根の暗いお前とも何とかやってこれたはずだろーぜ、機会さえあれば」
「随分なことをおっしゃるのね」
「言うぜ。今まで言わなかった分な」
 背後。俺にはもう先輩の姿は見えなかったが、届いてくる声はどこまでも心強かった。
「刀子よぉ、手前だってそうやって行き過ぎたヤキモチをすんのが楽しいわけじゃないだろ。お前は愁厳と同じで怒ると怖い奴だが、いつだってそこには筋が通っていた。愁厳についちゃ怒り方よりも、その通った筋──何があっても曲げらんねー信念の方がずっと怖かったくらいだ。頑なとは違う。先祖伝来の刀をいつも持ち歩いてる奴特有の精神っつーか。恥ずい言い回し敢えてすっと、あいつは──侍だ。時代劇とか剣豪話でしかお目にかかれないよーな」
「兄さまの話は後で窺いましょう。先に私への話を済ませてください」
 独白を無碍に断ち切る刀子さんに、先輩は嘆息する。
「掴みくらい聞けっての。まあいい要するにだ。刀子、手前に関しちゃ怒り方よりも……いざってときに徹底して筋を通し切れない、その迷いの方が怖ぇんだよ」
「私が筋を通していない、と?」
「通してないんじゃねー、通し切れてねーんだっての。お前ら兄妹は似たり寄ったりの信念持ってっけど、吹っ切れてっか吹っ切れてねーかの一点があるだけで全然違うんだわ。言っとくけど、どっちが悪ぃとかって問題じゃねーからな。愁厳には愁厳の怖さがあって刀子には刀子の怖さがある。それでもオレはふたりとも好きだ。付き合いがなげーのもあるけどそれを度外視したって掛け替えのねー親友だぜ」
 言ってから、「……くぅぅ、本人目の前にして言うとやっぱ痒い! ムズ痒いわ!」と悶えたが、
「……刑二郎くん」
 名前を呼ばれて気を取り直した。
「す、すまん。自分で言ったこととはいえあまりの痒さに参っちまった。慣れねーことは控えた方がいいな、うん」
「結局、何がおっしゃりたいの?」
「そうやってなんべんも要約しろってせっつくところからして明らかにオレの話聞く気ねーんだな。ま、いーけどさ。ダラダラした話はまた今度の機会に譲ってやる」
 まだ痒みが残っているのか、ボリボリと肌を掻く音が聞こえてきた。蕁麻疹でも出てるんじゃないだろうな先輩。
「──手前なりに筋を通そうとしてんのは分かる。そりゃ浮気されたらムカつくしな。相手が自分より若くて色っぺー娘なんだから焦りもするわ。オレだってみゅうが背の高ぇ男子を見詰めたりなんかしたら……うあああああ! いやそれはどうでもいい、どうでもいいんだってば」
 頭かなんかを掻き毟った後に一瞬で立ち直る先輩は少し凄いと思った。にしてもなぜ美羽ちゃんの名前が?
「けどなー、チ○ポ切るのは洒落んなんないだろ。男なら誰だって股間を蹴り上げられたときのあの何とも言えない愛しくて切ない心細さは知ってらぁ。ついでに言えばチャックで皮を挟んだときの『行くも地獄、引くも地獄』でいっそ介錯してほしい心境もな。だろ、双七」
「はい」
 この場に居合わせている唯一の男性として素直に申告する。傍観する女性陣の目が冷たい気もするが構っていられなかった。切るか切られるかの瀬戸際なのだ。恥も外聞もかなぐり捨ててやる。
「血が出なくたって充分痛いんだ。それを切ろうだなんて、付いてない奴ならではの発想だぜ。お前には『殺し屋○チ』を読んで某シーンに泣きたくなるほどショックを受ける男子の気持ちが分かってねえ」
「別に分かりたくなどありません。痛みなど二義的なもの。悪根を断つべくして断つ、それが私にとっての『筋』です」
「悪根ってのは何も物理的なもんに限んなくたっていいだろーが。双七の野郎が本当に浮気したってんなら──まあだんだん疑わしいものを感じてきてっけど──もっと効果的な遣り方がある。詳しくは説明しねーが大まかに言や『飴と鞭』だ。お前は鞭どころか刃物を使ってる時点でダメダメ」
 腕で「×」をつくる。
「刑二郎くんにダメ出しされる『筋』はありません。私の勝手でしょう。これが双七さんとの問題である以上、関係のないあなたが仕置きの方式について口を出すのはおやめください」
「方式もアレだが吹っ切れてないのに無理矢理吹っ切ろうとすんのがダメなんだって。お前ならにっこり笑ってぶっつり切断できんだろーが、お前だからいずれ絶対泣いて後悔する。筋なんて一個も通ってねえ。過激なことをやりゃ覚悟が決まるなんてことはねーんだ。それに、関係がねーこともねえ。今言ってるこういうことが言えるようになったのも、半分はこいつ──双七のおかげだかんな。もう半分は、まあ、なんだ、秘密ってことで。ともかく双七の野郎はバカでスケベで嬉し泣き虫の変な奴だけど恩義は感じないでもねえ。それに──」
 言葉を弄ぶような、この状況において不謹慎とも受け取れる間が少し空いた。
「──やっぱ、先輩ってのは後輩を助けてやんなきゃいけねーだろよ……っと!」
 いきなり側頭部に衝撃が来た。
 硬い甲の感触──体を横にした先輩にバックハンド気味で殴られたのだと悟る。戸惑いはなかった。勢いに身を任せ、受け身を取りながら地面に転がる。刃から離れた首筋がひどく熱くて、涼しくて、なんだかよく分かんないけど、心地良かった。
 揺れる視界に、先輩と刀子さんの遣り取りが飛び込む。先輩は俺を殴った反動を活かして文壱の刀身を摘み、持ち上げた──刀子さんごと。
 先輩の人妖能力「だいだらぼっち」──重かろうがなんだろうが持てるものならなんでも持ち上げる。ただでさえ重い文壱を摘んだ程度で、しかも持ち主込みで浮かせるなんていうアクロバティックな芸当、先輩しかできる人物は思い当たらない。いや、九鬼先生ならやっちゃうかも。あと根拠はないが加藤教諭あたりもそんな気が。
「っだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 掛け声。そのままそばの机に叩き付けようと腕を振り──先輩は吹っ飛んだ。
 刀ごと持ち上げられたと判断した刀子さんの反応は素早く、俺が気づいた直後には既に柄から手を離していた。次いで俺の目では追いきれなかったほどの踏み込みによって先輩の懐に入り、掌底。殺意は篭もってなかったが、無力化の意図を込めた一撃はお返しとばかりに先輩を浮き上がらせ、突き放した。
 文壱が先輩の手からすっぽ抜ける。刀子さんはそれを追う。椅子と机を踏み台にして跳躍。彼女の手が斬妖刀を確保したかどうかまでは見届けず、俺は跳ね起きて入口に向かい疾駆。三者が三者、バラバラの方向へ行く形となった。
 後ろからは先輩の呻き。前からは美羽ちゃんの悲鳴。
 そして。

「──双七さん」

 真上から、刀子さんの喚び声……!
 そんな、バカな! 咄嗟に後方上空を一瞬だけ仰ぐ。視界横軸の端、文壱が壁に突き刺さって静止していた。
 縦軸の端には、長い、長い黒髪が垂れて──
 首を向き戻し、考える。
 刀子さんは文壱を確保しても空中では慣性を殺し切れないことに気づいた──だから、文壱を掴むのではなく壁に突き込んで柄を足場に変えた──三角飛びの要領で天井スレスレに滑空した刀子さんは死角から俺を襲っ──いかん、逃げ──
「キキーモラ!」
 トーニャの叫び。彼女が自らの器官と認める、錘を付けた紐状の物体「キキーモラ」が袖から姿を現す。刀子さんを絡め取るか、迎撃するか、とにかく止めようとしたのだろう。
 果たせなかった。
「くっ……!?」
 トーニャがキキーモラを放つと同時、硬質と硬質の衝突する高音が響く。次いで破砕音。
 キキーモラの先端を覆う錘によって弾かれた物は、金属製のボールペン。ポケットに差されていたのであろうそれを刀子(とうす)代わりに投擲されたのだ。それだけならトーニャの遅滞は一瞬以下、なおも抵抗を継続できるはずだが、ボールペンが壊れて中のインクが飛散したとなると話は別だった。
 彼女ともあろうものが力加減を間違えてしまったのか?
 おかしい、人格はともかく能力の精密さや素早さについては生徒会で一、二を争うゴリゴリの武闘派少女ツートップの一翼、同じ頂点である刀子さん相手にみすみす抜かるとは思えない。
 巻き戻される記憶──ボイスレコーダーとおぼしきものを片手で握り潰していた刀子さんの姿。
 まさか、ボールペンを投げつける直前にあの握撃を掛けて壊れやすくしていた──? 気づかなかったトーニャはそのまま弾こうとして砕いてしまった──?
 疑問に対する確証を得る暇もなく、インクが宙に目隠しの暗幕を張る。咄嗟に目を閉じたトーニャの顔、その白い肌を塗り潰さんとばかりに黒い飛沫が降りかかった。
「あふっ!?」
 苦し紛れに放たれたキキーモラは標的に掠りもせず虚空を泳いでいく。彼女の人妖能力は五感を封じてさえ精密操作が可能と言うが……些細な奇襲が原因とはいえ集中力を殺がれた状態では精緻な技巧を繰り出すなど望むべくもなかった。
 一秒と掛からぬ攻防の中で極悪同級生よりも狡知を働かせる刀子さん──戦慄を禁じえなかった。
 最大の抑止力であるトーニャの行動が塞がれ、万策は尽きた。
 俺がもっと早い段階で能力を使い、未だにさくらちゃんが握っている脇差でも引き寄せていれば、対抗しようと思って対抗することもできたはずだった。
 しかし、俺と刀子さんの戦闘力には絶望的なまでの開きがある。武器があれば手加減して凌げるとか、そういった次元ではない。九鬼流の使用を解禁し、互いに殺し合うつもりでやってもなお分が悪い。
 そしてもちろん、俺には刀子さんを傷つける意志はない。冤罪で裁かれそうになった経緯を脇に置いても、だ。下手に真相を知っていたせいで、刀子さんの誤解を晴らすのは簡単だ、トーニャがオチをバラせばいいとか思って甘く見ていた俺にも責がある。もっと必死に、なりふり構わずトーニャを糾弾していれば良かった。
 刀子さんの嫉妬深さは伝説級だ。それを彼女の個性と受け止め真剣に向き合う気を見せなかったのは、俺の罪だ。
 足を止めた。
 ま、とりあえず一発もらっておこうか──なに、刀子さんもいきなり殺すとかはしないはずだ。たぶん。きっと。いや絶対。……お願いですから殺さないで。
 反撃も、逃亡も、防御も、一切諦めることにした。ただ従容と、不可避の未来を待ち受ける。
「だめ!」
 突然、さくらちゃんが前に出た。俺を庇うように。脇差を持ったまま。
 いけない、いくら非武闘派のさくらちゃんでもそんな武器を手にして今の先輩なんかに向かったら、怪我どころじゃ済まなくなるかもしれない──先輩は空中で姿勢制御ができないし、さくらちゃんのことを俺の浮気相手だと信じ込んでいる……!
 死に物狂いで糸を伸ばし、脇差と接続。さくらちゃんの手から抜こうとするが、必死になった彼女は全力で柄を握っていた。引っ張り寄せるまでにラグが生じる。
 間に合わない。熱く滾る脳のどこか、「手は綺麗に、心は熱く、頭は冷静に」という師の教えに従った理性が残酷な答えを告げる。
 この方法ではダメ。なら、他に方法があるのか?
 なかった。考える猶予も、考え付いたとしても実行する余地もなかった。
 俺を守ろうとしているさくらちゃんを守ることができず、心が冷えていく。すべての思考を、放棄したくなった。
「──どいてろ」
 正にそのとき。なんて神々しいタイミングだろう。
 救いの主が、聞き覚えのある声で言うなりさくらちゃんを押す。バランスを崩す彼女。位置的に俺がクッションとなった。
「それと、これは危険だから没収だ」
 更に声の主は倒れ込んでいくさくらちゃんの手から脇差を取り上げる。
 この二挙動をワンセット、俺が能力を使うよりも早く行った。早業としか言いようがない。
 早業は、まだ続く。
 もう間近に迫っている刀子さんに、脇差を持っていない方の片手──素手を向けて、言い放った。
「一乃谷、ちょいと──お転婆が過ぎるぞ!」
 そこから行われたことは、目視できなかった。
 たぶん、刀子さんが放った攻撃をいなし、捌き、受け止め、しかし一切反撃することなく凌いでみせた──ということだろう。まったく、全然、これっぽっちも肉眼では確認し切れなかった。達人の遣り取りというか、人外の攻防といった塩梅。
 地面にふわりと優雅な着地をした刀子さんは憎々しげに目の前の相手を睨む──なんてこともなく、ひどく澄み切ったスマイルを保持していた。
「ふふふ」
 とても楽しそうだった。一点の曇りもなく、黒い鬼気を揺らめかせながら、それでもひどく楽しそうに相好を崩している。
 ──ひょっとすると、俺の死角から襲い掛かってくるときも、いやそれ以前からずっと、こんなふうに笑っていたのかもしれない。上杉先輩に殴り飛ばされて以降は、表情をよく見ていなかった。
 思い至って肌が粟立った。
 この人は──笑いながら戦えるというのか。たとえ実戦ではないと言っても、自分の仲間たちと。
「双七くん!?」
「刑二郎!?」
 救いの主──さくらちゃんに敷かれている俺の前に仁王立ちしている加藤虎太郎教諭に遅れ、撤退したはずのふたり、すずと七海さんが入ってきた。七海さんは脇目も振らず、加藤教諭と刀子さんの横を走り抜け、上半身を起こして「いてて……」と腰をさすっている上杉先輩のもとへ向かう。
「どうしてあんたまで巻き込まれているの!?」
「いや、なんだ。ちょっといい格好しようと──いい格好見せようとして、このザマってわけ。笑えるよなー」
「それで、大丈夫なの? 怪我とか……」
「腰打ったけど大したこたぁねぇな。むしろ双七ぶん殴った手の方が痛ぇぜ。ったく、あの石頭め。尖った髪がちょっと刺さったじゃねーかよ……っと」
 強がって立ち上がるが、足元はふらついている。
「ちょっと──」
 七海さんが反射的に支えようとする。だが、横からその役目を奪った人がいた。
「先輩……」
 美羽ちゃんだった。同程度の体躯を持った彼女は先輩の脇に頭を潜らせ、しっかりと腰に手を回した。
「保健室、行きましょう」
 先輩を起点にすると斜め下、見上げるような視線で語りかける。
「ん? ああ……いや、待てみゅう、オレは」
 平気だと言い募ろうとする先輩を制し、指先にぎゅっと力を込める。小さな手の中に黒い制服の皺が微かに寄った。
「先輩は頑張りました。一生懸命、頑張って立ち向かいました。すごく──格好良かったですよ」
「お、おお、そうか」
 熱心に言われたせいか、やけに照れ臭そうな表情を覗かせた。
「はい……先輩はやっぱり、強いですよ」
「みゅう……」
 見詰め合い、通じ合うふたり。視線と視線が何やら言葉以上のものを伝え合っている模様。
 ──それにしても先輩と美羽ちゃん、こんなに仲良かったっけ。いつの間に進展していたんだろう。
「ですからもう、休んでもいいんです」
「そっか。じゃ、行こっか」
「はい、一緒に」
 と会話してふたりは退室していく。取り残された七海さんを先輩は一顧だにせず、美羽ちゃんは気にする素振りを僅かに窺わせたが結局何も言わなかった。
 去り際、先輩は刀子さんにチラッと目を遣って「……もう逃げねーからな。オレはもう……な」と言い残していった。
「そっか……」
 七海さんはしばらく呆然と立ち尽くしていた。
「そういうこと、なんだね。うん」
 納得したわけじゃないのだろうが、納得したような口振りで呟いた。
「伊緒……?」
 ボールペンのインクが顔にかかって目を開けられないでいるトーニャ、その姿に「わっ!?」と眼鏡がズレるほど驚いた七海さんだが、すぐに気を取り直して彼女の手を取った。
「トーニャ、あなたまでなんて格好してるの……とにかく洗いに行きましょう」
 手を引っ張って案内するように廊下へ出る。トーニャは普段の様子もなくよちよちと覚束ない足取りで手を引かれるままに付いていった。
 そして廊下の向こうへ姿を消す寸前、七海さんは眼鏡を外し、制服の袖で目のあたりを拭う仕草をした。見なかったことにした。親友であるトーニャさえ見ていないのだから、俺が見ていたわけなんかないんだ、うん。床に落ちているいくつかの雫も、ただの水だということにする。
「うーん、なんだか複雑だけど……なんとかなったってことかなぁ」
「なんとかなった以前に何がどうなったか知らないけどさ、なんで双七くんはさくらとくんずほぐれずの格好をしているわけ?」
 すずの、いささか怒気の混ざった顔を見て自分の今の状態を思い出す。そうか、やけに下腹部に柔らかくて温かい感触があるかと思ったら、これってさくらちゃんのおし──
「あわわ」
 深く考えるのはやめて、さくらちゃんを抱き起こしにかかった。
「大丈夫? どこも打たなかった?」
「あ、先輩がちょうど受け止めてくれましたから……どこも……」
 覗き込むと、少し顔を火照らせたさくらちゃんがもごもごと言った。息が荒い。興奮しているのか。微笑みながら鬼気を放つ刀子さんと真正面から対峙したんだから、無理もないか。
 顔を近づけたせいで、鼻孔にさくらちゃんの吐息が吹き込まれた。
 心安らぐ、あの森の香り──ではなく、薔薇を思わせる濃密な芳香。
「……あれ? いつもの匂いじゃない──?」
「え、あっ!」
 訝る俺に、さくらちゃんはわたわたと手を振った。
「その、わたし、感情が昂ぶったりすると息の香りが釣られて変わっちゃったりするんです! そ、それだけです! 深い意味はありません! 申し訳ありません!」
「いや、謝られるようなことじゃないけど……」
 さくらちゃんは特にどこかを打ったということもないらしく、痛がる様子もなく立った。
 ほっ、と安心していたらすずに頬を抓られた。
「い、いひゃ……」
「双七くん、事情は分からないけど、とりあえずムカついたので抓っとくね?」
 ギリギリと、二本の力に指が込められ頬肉が激痛に喘ぐ。
 事情が分からないのにとりあえず抓るって──すず、お前の考えてることが俺にも分からない。不明と不明のシンメトリー。これがまさしく「狐につままれる」という奴か。って自分で思ったことながら、なんか違う気がした。
 ようやく気が済んですずが指を離したところで頬をさすった。
「おー、いて。んで、すず。お前は逃げた後、加藤教諭に会ったのか?」
「に、逃げたんじゃないってば! 最初から……うん、最初から虎太郎を呼ぶつもりで一旦引き下がったの!」
「ホントかな……?」
「あー、なにその目、疑うつもりなの? あのね、双七くん。こういうのはね、難しい言葉では『戦略的撤退』って言ってね、えーと詳しい意味は調べてないけどたぶん辞書にも載ってる言葉でね、わたしが双七くんを見棄てて逃げたわけじゃないからね、そこのところよろしくね?」
 喋れば喋るほど、どんどん疑わしくなっていったが、なんであれ加藤教諭を連れてきてくれたのだから感謝するべきことは確かだろう。
「そっか。ありがとな、すず」
「う、うん、どういたしまして、だよ」
 恥ずかしそうに俯き、それでいて得意そうな口振りで礼を受け止めた。
「──それで、刀子とはどうなったの?」
「んー、あの後俺は文壱を突きつけられて生かすも殺すも刀子さんの胸先三寸って状態になって、トーニャがさくらちゃんを連れてきて事態をまとめるかと思ったら変にこじれちゃって、刀子さんが脇差をさくらちゃんに投げつけて俺の股間のブツを切り落とせと命令して、見兼ねた上杉先輩が仲裁に入って吹っ飛ばされて、辛くも逃げ出した俺を刀子さんが三角飛びで真上から襲ってきて、トーニャが防ごうとして失敗して、さくらちゃんが俺を庇うように前に出てきて、やばいと思ったところに加藤教諭が駆けつけてくれた」
「『切り落とす』とか『真上から』とか突っ込みどころもあるけど概ね分かった。──双七くん、とんでもない子を選んだものね?」
「俺も今、その事実を真摯に噛み締めています……」
 そうした話題の中心人物である刀子さんはどうなっているかと言えば、さっきから動きがなかった。
 不動の姿勢で立つ加藤教諭。片手で無造作に脇差を持ち、もう片方の手をポケットに入れたまま向かい合っている姿は到底「構えている」とは形容しかねるが、それでもなお威風堂々とした雰囲気を壊さない。
 加藤教諭の戦闘スタイルって、いったいどんなのだろう。会長すら上回り生徒会最強の戦闘力を誇るという刀子さんさえ攻めあぐねるほど凄いのか。
「先生は私の邪魔をなさるおつもりですか?」
「馬鹿者、人聞きの悪いことを言うな。教師が生徒の邪魔をするものか」
「でしたら、お引取りください。これは私たちの問題です」
「あいにくとそうお願いされてほいほい引き下がるほど、俺は怠惰な教師じゃないんでね」
 普段の態度を無視して堂々と言い張る姿に感動した。この先生、面の皮の厚さで言えば校内随一ではあるまいか。
「一乃谷、長々としてくだくだしい説教は俺も面倒だからせん。端的に指摘してやろう」
 眠たげな目が僅かに開き上げられる。

「理由はなんであれこの喧嘩──余計な道具を持ち出した時点でお前の負けだ」

「……………」
「矛の収め時を弁えろ」
 やがて刀子さんはゆっくりと構えを解いた。
 教諭に背を向け、つかつかと机を回って文壱の突き刺さった壁へ赴く。壁に刃先が埋まっていた文壱は抜き出されてみれば欠けも刃毀れもなかった。地面に捨て置かれていた鞘を拾って納め、机の上に乗せた。使う意志はなくなったらしい。
「先生、その脇差、返してくださいます?」
 呼びかけに無言で応じ、刃を掴んで柄の方を差し出す加藤教諭。「ありがとうございます」と受け取り、こちらも鞘に納めると懐のどこかへと仕舞い込んだ。……どこに仕舞ったんだろう?
「一乃谷刀子」
「はい」
 名前で呼びかけ──拳骨を降らせた。ごおん、とこっちにまで鈍い音が響いてくる。
「──っっ」
 声も出せず、両手で頭を抱えてうずくまる刀子さん。あんなに凄い人でも、やっぱり拳骨を喰らうと痛いのか。
 加藤教諭はそれを見守ると、こちらに向き返った。
「如月双七」
 俺と目を合わせ、腕を振り上げ、
 ──あ、来る。
 どごぉん、とさっきよりも凄い音がした。目の前を星が散り、視界が眩む。
 視力が回復してきたところで、自分が地を這っていることに気づいた。接触しているこめかみがじんじん響く。どうも拳骨で殴られ、床に叩きつけられたらしい。
「──っ痛ぇぇぇぇぇ!?」
 時間差で激痛が襲ってきた。そりゃあもう思考が吹っ飛ぶくらい。訳も分からず転げ回り、涙目で加藤教諭を見上げた。
「め、メチャクチャ痛いっていうか、俺の頭砕けてませんか?」
「安心しろ、砕けてはおらん。たんこぶができたくらいだ」
「ほんとに……?」
「本当だ。信じろ」
 恐る恐る頭部に触れてみる。ぷっくらと、ちょっとありえない大きさのたんこぶにビビったが、撫で回しても血が付着しないところを見ると外傷はないようだ。内傷は不安だが。これ、医者に診てもらった方が良くないか。
「にしても、こんなに凄いもんをもらって刀子さんはうずくまる程度なのか──うわあ、やっぱり俺とは違うんだなぁ」
「いや? 単に俺が一乃谷よりお前を強く殴っただけだが」
 あっさりネタバラシされ、絶句。
「は? 俺だけこんなに強く殴られたんですか?」
「そりゃあお前、教師ともあろうものが可愛い教え子を地面に這いつくばるほどぶん殴れるわけないだろ。考えるまでもないことさ」
「あのー、俺は現にこうして這いつくばってるんですがー」
「お前は可愛くないからいいんだよ。反面、しごき甲斐がある」
 ぺきぱき、と拳の骨を鳴らしながら言う。
「え、えこひいきだ! 差別だ! 教師とは名ばかりの体罰愛好者がここにいるー!」
「うるさいぞ、如月。詳しい事情は聞いとらんからあれこれ言えんが、それにしたって女子を盾にするとは何事だ。お前なんぞ男子の風上にも置けん」
 それは……否定できなかった。もし加藤教諭が助けてくれなかったら、不本意なことに俺はさくらちゃんを文字通り「盾」にするところだったのだ。反論のしようもない。
「はい、すみません……」
「それで、どうするんだ」
「どうする、とは?」
「一乃谷が言った通り、詰まるところお前ら生徒の問題なんだろ。教師があれこれ口を挟むより、当人同士でケリをつけるのが一番だ」
 ポンポンと肩を叩く。ごつごつとした男らしい手。そんなに硬くないけれど、やけに頼もしく思える手だった。こうして肩を叩かれただけで、事態に対処する勇気が湧いてくるような。
「双七さん」
 憑き物が落ちた、という表現そのままに鬼気を引っ込めた刀子さんが真っ直ぐにこちらを見る。
「刀子さん──」
「落ち着きました。すみません、取り乱してしまいまして」
「いえ、責任は俺にもありますから」
「──話を。話をお聞かせくださいまし。何か事情があってのことでしょう?」
 ああ。地獄のような嫉妬深さから解き放たれた刀子さんと対話するのは、こんなにも清々しいことなのか。今まで当たり前だったそんなことが、今は宝石よりも貴重な輝きで胸を穿つ。ほとんど切ない気持ちにすらなった。
 何も言えなくなる俺の代わりに、戸口から謝罪の声が来る。
「申し訳ありません──ここまで荒れるとは思わなかったんです」
 洗面所から帰ってきたトーニャは、髪先から僅かな水滴を滴らせつつ、憮然とした顔つきを晒していた。擦ったせいか皮膚に赤味を帯びていた。下はスカートのままだが、上は制服の代わりに紺のジャージを着ている。「インクを落としきれなかったので、先に下校する伊緒にクリーニングに出してもらうことにした」と説明した後、話を戻す。
「私はただ如月くんに先輩の嫉妬深さから目を背けず、事実としてキチンと受け止めてもらいたかっただけで、それ以上の悪意はありませんでした」
 いや──その主張を丸っきり百パーセントまで信じることはできないが。だって明らかに面白がって楽しんでいたし。でもまあ、そういう気持ちがなくもなかっただろうことは認めてもいいか。
「ごめんなさい、トーニャさん。つい、カッとなってしまって……」
 頭を下げようとする刀子さんを「おやめください」と押し留めるトーニャ。
「構いません、あの状況で不覚を取ったのは私が至らないためです。もう少し真剣味があれば加藤先生が来る前にも先輩を止められていたはずでした」
「そうだなトーニャ、お前も一乃谷の『ヤるときはヤる』加減は知っていたはずだ。油断はいかんぞ油断は」
 加藤教諭はトーニャの頭上に手を持ってきて──拳骨を落とす代わりに、銀髪をワシャワシャと撫でた。「やめてくれませんか、先生」と迷惑そうに言われても無視。身長差を活かして迫力のある撫で回しを見せつける。
 そうして髪をすっかりクシャクシャに変えてしまった後。
「ま、これからは気をつけるんだな」
 と、何気ない素振りで腰のあたりをタッチしようとしてキキーモラにはたかれていた。
「はい、見ての通り気をつけますのでご安心ください先生」
「ただのスキンシップなんだがな……」
 嘯きながらも、特段残念がる気配もなく弾かれた手をポケットに仕舞い込んだ。
「それはともかく先輩、カッとなってやった割にはなんだか手が込んでた気がするのは私の錯覚でしょうか」
「え……? なんのことですか?」
 キョトンとした顔で問い返す刀子さん。
「私に投げつけたボールペン、わざと壊れやすくしてありませんでしたか?」
「そんな……あれはただ、取り出すときに力を込めすぎてしまっただけでして。わざとだなんて、そんなこと」
 嘘を言っている顔には見えない。最前に「狡知」と断じたそれは単に偶然のものであったようだ。そうか、いくらなんでもそこまで狙ってやらないよな。破片でトーニャが怪我するかもしれないわけだし。
「私の勘違いでしたか。てっきりあの夜のことで相当根に持たれているのだとばかり」
「根には──持っていますけれどね?」
 目が笑ってない、目が笑ってない、怖いです刀子さん。
 ヒヤヒヤしながら見守っていると、トーニャと目が合った。「貴方も何か言いなさい」と促す視線。
 ──そうだ。元凶とはいえロシア式小悪魔ばかりを責めることはできない。俺にも非があった。両成敗であるべきだ。
 俺とトーニャは頷き交わし、まず俺が先に説明しようと口を開く。
「じゃあ、最初からお話しします。昨日の放課後──」
「待ってください」
 いきなり話の腰を折ったのはさくらちゃんだった。
 再度俺の前に立ち、刀子さんの姿を遮る。
「さくらちゃん、順序立てて説明した方がいいから、君の話は後で──」
「いえ、わたしが言います」
 にっこり笑って、俺の肩に腕を回し、そのまま──抱き寄せる。
 え?
 抱き寄せ、てるよな、これ。明らかに俺の身体はさくらちゃんと密着して、ふかふかした感触が前面に伝わってくる。柔らかいベッドで柔らかい布団を掛けられている心地。刀子さんの時みたいに昂揚感を覚えたりはしないが、安らぎを得るには充分以上だった。
 なんか、いい匂いまでする。頭がぼうっとするような。
「わたし──」
 どこか遠くからさくらちゃんの声が聞こえてくる。密着しているはずなのに。とろけていく。ああ、なんだか思考と感覚がはっきりしない。異常なくらい、ふわふわした浮遊感に包まれていた。

「わたし、双七さんと──寝ました」

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