第二景 珍妖遊園地ジェラシック・パーク


 昨日の放課後。生徒会活動が終わり、居残って用のある会長を除いたみんなが退室してそれぞれ帰宅の途に就こうとしていた頃合だ。
「トーニャ?」
 下足場に同級生の少女が待ち受けていた。下足入れの側面に背を預け、なんの気なく巡らせた目がたまたま合った、というようにこちらと視線を絡ませた。
「あ、如月くん」
 凭せ掛けていた背を離し、声を挙げた。
 怪しかった。いかにも不自然だった。「たまたま」の要素など塵一つもなく、すべてが狙ったうえでの動作だと直感させる。
「……珍しいな、今日は」
「そうですか?」
 ときたまばったりタイミングが合って一緒に下校する運びになることはあった。しかしそれは本当に偶発的に起こることで、わざわざトーニャの方がこうして待っていたことなど一度もない。
「本当に珍しいわよ。っていうかおーい、わざとらしくわたしを無視するな白髪狸」
「おやおやうっかり。いつも如月くんにべったりくっついている小判狐の存在を失念していました。付属品にも五分の魂、気持ち程度の敬意を払ってみせるのが礼儀というものですね。こんにちは貧弱狐さん、今日も鬱陶しいくらいにまとわりついてますがいい加減飽きないんですか」
「貧弱ぅ? はん──自分の貧弱さを棚に上げて随分な挨拶ね、紐娘」
 険悪な空気が漂い始めるのを察し、慌てて割って入り仲裁する。
「いや、ふたりとも、それくらいにして下校しないか? トーニャも何の用だか知らないけど、ここで油売りにきたわけじゃないだろ? ほら、すずも行こう」
「……ええ」
 渋々聞き分けたすずと一緒に上履きを下履きに変え、昇降口から出る。トーニャも後をついてきた。嫌そうにすずが見遣っても、平気の平左で並行する。
 彼女が用件を切り出したのは、正門を過ぎたあたりだった。
「ときに如月くん、私の兄というものを覚えていますか?」
「へ? トーニャのお兄さん……?」
 言われた直後は分からなかったが、しばらく考えてピンと来た。
「ああ、あのイカれた台本を書いた人か!」
 藤原さんのストーキングが過熱する一方だった頃、ひと芝居打つためにとトーニャが持ってきた台本。最初のうちは割合まともだったが、途中から何かが壊れたように狂い出し、刀子さんが半泣きになって読み上げるのをやめてしまったあれだ。あのまま読み進めれば精神の負荷に耐えられず、錯乱して芝居どころではなくなっていたかもしれなかった、と本人が事後に述懐している。どちらかといえばあまり思い出したくない類の記憶だった。
「ええ、その人です。面識はまだありませんよね」
「うん、そうだな。会ってみたいかと言われたら、ちょっと……いや、かなり返答に困るけど」
「是非会いたい、会わせてくれなきゃ死ぬ、ってほど熱烈にお願いされないかぎり引き合わせるつもりはないのでご安心を。私としてもあれは軽々しく人目に触れさせたくない代物です」
 自分の兄に対してひどいことを、とは思ったが、台本の内容が頭をよぎったので口を閉ざす。
「それで、そのお兄さんが何か?」
「あのときお見せした脚本は前半だけだって言いましたよね?」
「ああ、そういえば」
 そんなことを言っていた気がするが、よく覚えてはいなかった。あの後はトーニャが悪戯で両頬にロシア式の挨拶、つまりキスをかまして帰って行ったせいで静かに激怒した刀子さんを宥めるのに必死だったから細部の記憶に関しては自信がない。
「ってか、あんときゃホントに大変だったんだぞお前! すずまで怯えて隅に縮こまるくらいだったんだからな!」
「ふぅん……すずさんまで、ねぇ」
 俺の言葉に、面白がる表情ですずをじろじろ眺め出したトーニャ。その不躾といっていい遠慮のない視線を受けてすずが慌て出した。
「そ、双七くん、余計なことは言わなくていいの!」
「なるほど、狐だけに文字通り尻尾を巻いていたわけですか。小姑のくせして随分と情けない」
「ううう、うるさいっ! 黙れっ! ついでに小姑とか言うなー! だいたい、あんたが双七くんにキ、キ、キ……キスするなんて、何を考えてるのよー!」
「やだなぁ、たかが挨拶くらいでツノ立てないでくださいよ。ほんと小姑はうるさいなぁ、これじゃ刀子先輩も大変ですね。あ、先輩はすずさんを楽勝でビビらせることができるわけですからそんなこともないか」
「きーっ! い、いろんな意味で口癖の悪い女狸め! 二度と悪さができないよう唇を剥ぎ取って舌を引っこ抜いてあげるからそこに直りなさい!」
「やですよーだ」
 いつ会っても結局喧嘩腰になるんだなこのふたり、ともはや感心して眺め入った。
 もはやあの夜の件を責める気は失せていた。代わりに、トーニャの言っていたを持ち出して話の脱線を修復した。
「それでトーニャ、脚本のことがどうかしたのか」
「あれの後半ができたんです」
「は?」
 藤原さんに関してはもう丸く収まったはずでは、と率直に訝った。
「はい、確かにもうつくる必要はありませんでしたし、その要望も関係者一堂皆無だったので、普通に考えれば制作は立ち消えになるはずなんです。けれど、何をトチ狂ったのか勝手に兄さんが書き上げちゃいまして。ほんと、くだらないことにかける情熱に関してだけは感動ものです」
「あんたが言えた義理じゃないでしょうに」
 すずのツッコミ。声には出さないが、俺も心の中で同意しておいた。
 しかし……あれの続きか。本当にどうしようもなく必要ないよなぁ。刀子さんだって読みたくはないだろうし。俺も、もちろん。
「ゴミ箱に突っ込んでも良かったんですけれど、暇だったのでなんとなく読んでみました。すると物凄い路線変更がありまして」
「路線変更? へえ、じゃあ、そんなに変態的な内容でもなくなったのかな」
「いえ、変態性に関してはどっこいどっこいと言いますか、世間的に見てもっとディープになってるかと」
「あ、あれよりもかぁっ!?」
 驚愕とともにちょっとだけ詳細を知りたい気持ちも湧くが、怖いので押さえつけた。「怖いもの見たさ」は封じておくに限る。
「前半を『一乃谷刀子編』とすれば、書き下ろされた後半は『一乃谷愁厳編』と題するべきもので、『むう、いかん……ここは生徒会室だぞ。双七君、早くそれを仕舞い給え』というキャッチコピーが……」
「人がせっかく好奇心を封じたのに無理矢理教えるな! なんだその肌が粟立つようなおぞましい煽りは!?」
「兄曰く『大きなお友達向けの描写は既に窮め終えちゃったし、今度は婦女子向けの路線を狙いたいネー』とのことです」
 しれっ、と答えるトーニャ。さすがに隣のすずも固まっている。
「ねえ、それって、つまり、その……双七くんと愁厳が……しちゃうの?」
「訊くな、すず!」
「しちゃうどころかしまくりです」
「教えるなっ、トーニャァァァッ!!」
 俺の叫びを無視してふたりは会話を進める。顔を寄せ合って、内緒話をするように。
「じゃあ……とかも?」
「ええ、特にそのへんは濃密にたっぷりと」
「うわあ……」
 すずは顔を覆ってみせた後、チラリと俺を見て溜息をつく。
「双七くん、ダメだよそんな方面に目覚めちゃ。もっと自制心を持って、ね?」
「いやダメも何も目覚めてないから! 一方的に『やれやれ、しょうがないなぁ』とお姉さん風の困り顔されても心が苦しくなるだけだから! 『ね?』とか言ってお姉さんっぽさを強調してないでさっさとスルーしろよ!」
「まあまあ、そんなに息を荒げないで。興奮する気持ちも分かりますが落ち着いてください」
「本当に落ち着かせたいと思うならこの話題はなかったことにしてくれ」
「とは言っても、本題はこれからですから」
「本題?」
 するとトーニャは鞄に手を入れてガサゴソと探り始めた。「あった」という声に合わせて引き出されたのは、小型の機械。なんだろう、これ。
「ボイスレコーダーです」
 言われてみれば、納得のいく形状だった。サイズはテレビのリモコンほどもないけど、マイクのようになっている部分がある。ボタンや画面も付いていて、どう操作すればいいのか分からないが、充分に動作しそうな気配はあった。
「ふーん、こんなに小さいのがあるのか」
「ええ、いろいろと便利ですよ」
 カチッ、とボタンを押す。音声が流れ出した。
『あれー、なんなんですー、この本』
 すぐに停止。短かったが、聞き覚えのある声だった。
「この声……さくら?」
 すずも気づいたようだ。
「正解です。少し前、彼女とふたりきりになったときにこっそりとね」
「こっそり録るのはあんまり良くないんじゃないかな」
「まあ、私とさくらの仲ですし」
 それはどんな仲なのだ、と問い質してみたくなるが、やめた。もっと気になることがある。
「で、そのボイスレコーダーがどうかしたのか? さっき言ってた本題ってどうなったんだ」
 トーニャはうっすらと笑う。不吉な笑みだ。よく分からないのに、なんか後悔したくなってきた。
「実はですねー、ここでさくらの言った『あの本』って、兄の書いたアレなんですよ」
「アレ……って、えええっ!? アレってその、さっき話していたアレのことなのか!?」
「指示するところが曖昧ですが言いたいことは分かります、ええ、そうですよ。『俺、会長のすべてが知りたいから……お願いです、隠さないでください。全部見せてください』『双七君……後悔するなよ』とか書いてある奴です」
「さらりと詳細に言及するな! いや、その前にそんなものをさくらちゃんに見せるなよ!」
「見せたわけじゃありませんよ。『たまたま』私が間違えて学校に持ってきちゃって、『たまたま』空き教室に置き忘れて、呼び出しに応えてやって来たさくらが『たまたま』見つけちゃっただけ」
「呼び出した時点で見せる気横溢してんだろ、お前! やめろよ、何考えてるんだ!」
「でまあ、さくらが興味津々で読み耽ってしまったわけで、しかも気に入ったらしく家に持って帰って再度読み直しているみたいです。連絡したところ兄も『良き読者に恵まれた』と喜んでいます。まさに誰もがスパシーボな事態と言えるでしょう」
「モデルにされた俺はたまったもんじゃないよ……」
 げんなりとして肩を落とす。喋っているだけでどんどんとこのクライメイトに気力を奪われていく感じがする。タチの悪い妖精か何かに憑かれた気分だった。
 そうか、道理で今日さくらちゃんが俺や会長を見るときの目が妙だったのはそういう理由か。訊ねても「い、いえ、なんでもありません」と顔を赤らめて否定するから、なんでもないことはないだろうと思いつつも追及しにくい感触があって有耶無耶にしてしまっていた。
 聞かされて楽しい話ではなかったが、まあ、実害らしい実害はないし、ムキになって怒ることもないか。ただ、さくらちゃんには今度会ったときにその原稿をできれば破棄してくれるよう頼んでおこう。  そう決めると心が少し軽くなった。俺はこのとき、トーニャの「本題」が終わったのだと思い込んでしまった。
 甘かった。ロシア製の悪魔は、この時点からようやく牙を剥き始めるところだった。今までのは前振りに過ぎなかったのだ。
 今思い出しても忌まわしい、あのニタリと底意地の悪い微笑みを浮かべ、白磁の肌を持つ異国少女が爆弾を投下した。指先は、ボイスレコーダーのボタンに触れている。

 カチッ

『あ、あうっ! そ、双七君、や、やめっ……ああっ、双七ぃぃぃぃ! はぁぁっ、そ、そんなに動かれたら、もう、もう壊れてしまう……っ!』

 カチリ

「……今の、何?」
 思考が凍結し、言葉を出す機能が不全化した俺の代わりにすずが訊く。その顔は恐ろしいくらい強張っていた。
 トーニャの笑みも、また恐ろしかった。人間の表情がここまで畏怖をもたらすなんて。
 藤原さんと接触した日の恐怖感を、久しぶりに思い出した。
「くふ……」
 底知れぬ喜びを湛えたトーニャが、更にボタンを操作する。
 そこから流れ出す声は──先ほどと同じく、さくらちゃんのものだった。

『んっ、んああああああっ! くうっ、暴れている……双七君の、熱くて太い焔螺子が中で暴れて……ズンズン響いてくるぅぅぅ!』

 ぅぅぅ、と余韻を残して停止。
 さすがにすずも沈黙した。
「知ってます? さくらって熱中してくると本のセリフを無意識に音読しちゃうことがあるんですよ。そう、こんなふうに……」
『や、やんちゃすぎるっ! 双七君、いくらなんでもそれはやんちゃすぎるぞっ、はうぅぅっ!』
「いい加減にしてくれ!」
 耐えかねた。それはもういろんな意味で耐えかねた。
 即座に能力を発動。赤い糸をボイスレコーダーに絡め、引き寄せる。一瞬でトーニャの手から離れてこちらに飛んできたそれを右手で掴み取った。
「如月くん、人の物を盗るなんて感心しませんね。返してください」
「返してもいい……ただ、中のデータは消せ」
「えー」
「えー、じゃないトーニャ! こんなもの、面白がって聞かせるとはどんな神経だ! 悪趣味にもほどがあるだろう!」
「ただのロシアン・ジョークですよ」
 おい、そこで「てへっ」と可愛らしくしても無駄だ。お前、ロシアン・ジョークと言えば何でも片付くと思ったら大間違いだからな。
「いいから、消すんだ」
「……分かりました、そんなに言うなら消してあげます。やだなあ、私だって無闇に人をからかうのが好きなわけじゃないんですよ? 本当に嫌がることなんかしませんって」
 嘘つけ。
 そう言いたくなるのをグッと堪える。ここは穏便に迅速に問題解決と行きたい。頼むからこれ以上こじれないでくれ。
 俺のささやかな祈りは、とりあえず通じた。トーニャはそれ以上ふざけた真似をすることもなく、意外なくらいあっさりとデータを消去した。あまりにも素直な反応なんで驚いたが、念のためボイスレコーダーに糸を伸ばしてみたが「きえたよー」との返事。どうやらごまかしでもなんでもなく、本当に要求を聞き入れたくれたようだった。
「どうしました? 信用できないんですか? 悲しいですね、そんなに私をあくどいロシア人だと決め付けたいのですか?」
「決め付けるまでもなくあんたは充分あくどいわよ、陶器女」
 すずの罵りに合わせて、歩みを再開した俺たちは帰途に就いた。
 この後はすずとトーニャの言い争う声がもう少し続いたが、あくまで日常風景の範囲内で、取り立ててこれということもなく時は過ぎ去り、「じゃあ、また明日」となにげない挨拶を交わし合って別れた。
 遠くを見透かせば赤橙の夕暮れ。溶け込むようにトーニャの姿は消えていった。
 しばらく、ボイスレコーダーから漏れるさくらちゃんの声を思い出して複雑な気分を持て余したものの、「なににやにやしてんのよ、さっきのあれを思い出して変なこと考えてるんじゃないでしょうね」とすずにネチネチ責められているうちに、いつもの気分を取り戻していった。

 

 そして今日の放課後。昨日のことはほとんど忘れていて、すずと一緒に生徒会室へ向かう道すがらになってようやく思い出し、「ああ、さくらちゃんに本の処分を頼んでおかないと」とつらつら考えながら扉を開けたときだ。
 ばきゃっ、っていう軽快な破砕音が耳に飛び込んだ。
「──え?」
 あまりの唐突さに、理解が追いつかなかった。
 生徒会室には既に人が集まっていた。七海さん、上杉先輩、トーニャ、狩人、刀子さん。俺とすず、それに一年生のさくらちゃんと美羽ちゃんを除いた五人が椅子に腰掛け、ロの字に組まれた机を囲んでいた。上杉先輩はいぎたなく眠りこけていて、狩人は普通に生きていて、七海さんは固まっていて、トーニャは微笑っていた。
 そして、刀子さんは──なんと言えばいいのだろう。
 ありのままに説明していけば、まず、俯いているので顔はよく見えなかったが、長い髪を掻き分けて晒した耳にはイヤホンが入っていた。黒くて小さい、耳栓みたいな奴だ。そこから左右二本のコードが伸びていて、肩、胸、腹を経由して握られた手の中に先が消えている。
 消えている、そうとしか表現できない。これがウォークマンを聞いてたりしているのであれば、肝心の本体に繋がっているだろうからそれが目に止まるはずだった。しかし俺の視界に含まれているのは刀子さんの握り拳だけで、他の何かは一切確認できない。
 ひょっとして手の中にすっぽり収まるほど超軽量の最新型なのかな、と楽観する気も最初はあった。瞬時に失せた。刀子さんがゆっくり握り拳を解いていくと、パラパラと机の上に落ちるものがあった。破片、と形容するのも生温い。それは握りつぶされて粉々に砕けた、金属の塵。刀子さんの剛力が齎したのであろう、圧倒的で絶対的な破壊の産物だった。
 高まる不安のボルテージ。状況を把握し始めたらしい七海さんと狩人が腰を浮かせた。
 ふたりはそろりそろりと後ろを見ないようにして入口のところまで来ると「……が、頑張ってね。頑張れば死ぬことはない……と思わなくもないわ」「悪いね、修羅場は好きじゃないんだ。いい思い出ないから」と声を掛けて去っていった。
 残された上杉先輩は依然眠っている。トーニャも、依然微笑っている。
 停滞し膠着したかに思える室内。動きを見せたのは、刀子さんだった。
 伏せていた顔をゆっくり持ち上げる。少しずつ明らかになっていく眼光の鋭さは、ホラーの領域を超越していた。
 ピタッと。
 目が合った。ごまかしようもないくらい完璧に、目と目が一直線に結ばれた。
 胸がキュンとなった。ときめいたわけではない。竦み上がったのだ。蛇に睨まれた蛙という言い回しを地で行くように、その場から一歩も動けなくなった。
 刀子さんの目は──静かだった。風のない日に、湖畔から水面を眺めているみたいな気分になる。心がどんどんと空白になっていく。
「双七くん──」
 背後から声がする。すずの声だ。分かっているのに振り向けない。刀子さんから一瞬でも視線を外せば何が起こるのか、想像もできないから。

「わたし──信じているからね? 双七くんが生きて帰ってこれるって、信じているからね?」

 セリフは後ろに行くほどだんだん小さくなっていく……って、すず、ひょっとして遠ざかってるんじゃないか? 俺を置いて逃げてるんじゃないか?
 疑惑は膨れ上がっていくが、確認する術はなかった。
 耳に痛い静寂。時折混じる上杉先輩の間抜けな鼾が、崖っぷちの正気をどうにか保たせていてくれた。
 ありがとう、先輩。そしてどうか今すぐ起きてこの事態を収束させてください。
 願いは虚しく、先輩はひたすら眠りを貪っている。叶うならば叩き起こしたかった。できるはずもなかった。
 動けば、終わる。そんな確実とも言える予感が根付いていた。
 肌が焦げるような静止した時間の中で、トーニャが軽く腕を揺すった。袖からこぼれ落ちる長方形の機械。昨日見た、あのボイスレコーダーだった。
 咄嗟に糸を飛ばして意識を繋いだ。最近は金属との会話法を徐々に覚えつつある。
『なに?』
「データ、消したんじゃなかったっけ……?」
 唇を動かさないよう細心の注意を払い、腹話術で呼びかけた。
『うん、けした。でも、ばっくあっぷがあったから』
「バックアップ?」
『ぼくね、でーたをぱそこんにしまったり、ひきだしたりできるの』
 それはつまり……複製されたデータがまだ残っていたということか。
『それでね、さっき、そのでーたをこぴーしてあげたこがいるんだけど、こえがきこえなくなっちゃった。どうなったんだろう。しらない?』
 たぶん、刀子さんの前に堆積している塵の小山がなれの果てなんじゃないかなぁ。
 ボイスレコーダーとの接続を切って、思考する。
 あれを聞かれてしまった。よりによって一番、聞かれると困る相手に。現在進行形でバリバリに誤解しているお方に。「誤解だ」と言っても聞き届けてくれそうにない、問答無用かつ切捨御免の風情を漂わせる人に。
 恐慌にわななく頭の中で、しかし答えは即座に出た。言葉で理解を促すことができないなら、行動で示すのみ。そう、初めて会長と会った、あのときのように、
 ……逃げるしかない!
 反転し、背中を向けて走り出した。
 このまま廊下を使っても追いつかれる。
 なれば窓から飛び降りれば……!

「双七さん」

 声──やけに近い──すぐ後ろか?──聞こえると同時に襟首を掴まれた。
「ぐえっ!」
 慣性力が喉に集約され、呼吸が詰まった。
「どちらへ行かれるおつもりでしょう」
 後ろに引き戻された。
 首がガクンと揺れ、舌を噛みそうになる。
「っはぁ!」
 一瞬遅れてやってきた空気を貪るように吸い込む。
 ぜぇぜぇと息を荒げながら、恐る恐る後ろを振り返る。
 刀子さんがいた。片手で俺のシャツの襟を握り締め、もう片方の手に文壱を構えている。
 持っているのではない、構えていたのだ。布袋を取り払い、鞘からも抜き放って、剥き出しの刀身が天を衝いていた。
 スタートダッシュに入った俺を片手だけで完全静止させた事実も凄いことは凄かったが、これから刀子さんがしようとしていることに比べれば大したことないんだろうな、と変に冷静な頭の中で考えた。
「廊下を走ってはいけませんよ」
 ピタリ。文壱の刃を首に押し当て、囁きかけた。
 断じて言うが、峰ではなかった。薄く鋭い、線──動けば切れる刃だった。
「いやあのそのっ、廊下で抜刀して突きつけるのもいけないんじゃないんですかっ!? 校則違反っていうか法律違反の段階でっ!」
「まあ、口答えなさるのね、うふふふふふ……」
 おっとりとした響きの含み笑い。鋭い刃とセットにされた状況では、底冷えするものしか窺い知れない。

「ひ、ひぃぃぃ!?」

 悲鳴。
 ただし、俺の口から漏れたものではない。たまたま生徒会室のそばを通りがかったらしい、見知らぬ男子生徒が放ったものだった。
「んー、どうしたのヨッチ、そんな声出し──きゃぁぁぁぁっ!?」
 ヨッチと呼ばれた生徒の横でどこかよそ見をしていた女子生徒が、視線をこちらに向けるや甲高い叫びを挙げた。
 それはそうだろう。刀を常時持ち歩いていることで有名な生徒会長の妹が、「うふふ」と笑いながら秋口だというのに夏服の少年(俺)の首へ刀を押し付けて今にも殺さんとしているのだから、驚かなきゃ嘘だ。
 ごくり、とふたり揃って唾を飲み込む音が聞こえてきた。
「た、助け……て……」
 俺の声はかすれていた。情けないくらいにかすれていて、自分でもよく聞き取れなかった。
「な、なんだか知らないが凄いところに来ちゃったな、委員長」
 女子生徒の方はどこかのクラスの委員長らしい。ヨッチとやらの呼びかけに応じ、ズレかけた眼鏡を修正しつつコクコクと小刻みに頷く。
「え、ええ。状況を見るに──なんだかよく分かんないけど、とにかく男の子の方が悪くて、一乃谷さんが正しいことをしているって感じね」
「ちょっ、おいちょっ、待っ……分かんないのに俺をデフォで悪役指定ってどういうこと!? 俺ってそんなに悪人ヅラしてんのかよチクショウ! ああもう、印象論じゃなくもっと理性的に観察してくれよ、頼むから!」
 あまりのやるせなさに懇願の声が湧くのを止められなかった。刀子さんは「黙れ」とばかりに文壱へ掛けた力を増やす。喉が凍った。
「ああ、委員長、彼の言うことももっともだ。ここは理性的に観察してみよう。ほら、よく見ろ、一乃谷さんを」
「ええっと、両耳からイヤホンを垂らしていて……」
「それが途中で切れて、長太い耳毛みたいになっていて……」
「でも彼女は気にする様子もなく穏やかな笑みを浮かべていて……」
「ツンツン頭の少年に刀を向けていて……」
「今にも斬首しそう……」
「やべっ、考えれば考えるほど分かんねぇ! なんなんだよこれは!? 新手のネクロマンティックか!?」
 あまりにも異様な光景に理性がパンクしたのか、男子生徒は頭を掻き毟った。
「落ち着いてヨッチ! とにかく、あの男の子が絶望的なくらい確実に死ぬってことだけは分かっているんだから、ここは一つ……」
「あ、ああ……」
 頷き合う、阿吽の呼吸百パーセントの男女。
「あの、どうぞ。俺たちはお気になさらず、続けてくださいね?」
「お勤めご苦労様です、一乃谷さん。頑張ってくださいね?」
 揃って俺を見棄てる気百パーセント。人情が紙よりも薄いことを知った瞬間だった。
「ええ、ごきげんよう」
 優雅に挨拶しながら、俺を引っ張って生徒会室に引きずり込む刀子さん。ふたりは極力そこから目を逸らそうと首を捻り、窓の外の景色を見て「うわあ、銀杏並木が凄いねー」「うん、ギンナンでも拾って帰ろうかー」「いいねー、それー」と空々しい会話をしながら去っていった。
 助け合う心の尊さを説きたかった。無理だった。考えなくとも分かる。誰しも自分の命が惜しいのだ。俺も惜しい。誰か助けて。
 無駄と知りつつ一縷の望みをどこかへ託しながら、逆向きに引きずられて敷居を跨いだ。

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