ガールズ・ドント・クライ
第六話 「キャッチャー・イン・ザ・ライブラリー」


 頭の天辺から足の爪先まで、余すところなくビキビキに女装して女子校へ通うハメとなる夢を見た。
 演技して別人──それも異性!──を装う自分が空々しく感じられる一方で、やたらスースーする股ぐらがなんとも生々しかったものだ。
 夢の世界にはキレイな女の子たちが左右両翼に広がり、彼のことを「ウィニフレッド」と呼び、親しげに笑いかけてくる。こぼれる肌の白さが目に痛く、漂う香りは心地よく鼻を惑わす。不自然なくらい居心地が良くて、逆に落ち着かないほどの環境。まさしく夢みたいな体験だった。
 夢。
 そう、夢だったのだ。あれは全部夢。それも、どっちかと言えば悪夢だ。
 いや。そうでもなかったか? ほんのちょっとだけ、気持ち程度には面白かった気もするし。
 うん、まあ、なんにしろ、あれほどすごい夢はかつてなかったなぁ、ハハハ──

 ──という夢から醒めて、鳥の囀る声を聞きながら上体を起こし、カーテンから透過する薄光に淡く照らされている掛け布団をのけると、柔らかな皺の寄った肌触りの良いネグリジェに包まれた己のスレンダーな身体が視界に入った。
 ウィンフィールドはそれを黙然と、静かに見下ろす。
 現実の方が、もっとすごかった。

「ぐぉるるるぁぁぁぁあっ!!」
 チンピラの恫喝に似た、そのくせやけに可愛らしい声質の咆哮とともに扉を蹴り開ける。撲殺魔(ボクサー)だからといってまったく足技が使えぬわけではない。ひと蹴りにして頑丈な木材が砂糖菓子の脆さで破損する。恐るべき威力だった。全損しないだけでもマシ、と見るべきか。
「おはよう、ウィニフレッド。今日もはしたないな」
 デスクワークに励んでいた覇道家当主は顔も上げずにペンをさらさら動かしていた。
 扉を壊したくらいでは激情の収まりがつかないウィンフィールド──何事もないとばかりに澄ました鋼造へ、噛み付くように吼えかかった。
「なんであんな格好して寝てんだよ、俺は!」
 そう言う彼は既に着替え終わり、昨日と同じプロセルピナの制服姿になっている。枕元に、洗濯済でアイロンがしっかり掛かったピッカピカのものが置かれていたのだ。半袖から伸び出した細腕や、スカートに太腿を隠されニーソックスに膝下までを覆われた脚は、中性的な健康美を発散している。
 ただ、急いだせいもあるが、タイが歪んでいるあたりなど、未だ着慣れていない不調法なところはあった。
「いいじゃん、ネグリジェくらい」
「いいわけあるか、ボケ爺!」
「ウィニフレッドよ……」
 怒鳴り声に対し、スッと目を細めて曰く。

「スケスケを恐れるな!」

「歳相応にボケる前に話を聞け! つか、またてめぇの差し金かよ爺……!」
 ギッ、と今にも質量を帯びかねない視線の矢で睨み付ける。
 比呂乃との争いがほとんど最悪の形で有耶無耶に仲裁された後、ウィンフィールドは室内で居合わせた4人に瑠璃の両親を加えた6人で夕食を摂り、時間をズラして誰もいない女湯にこっそり浸かった後、自室に戻ってベッドに入るなり泥の如くだらしなく眠り込んだ。溜まり込んだ疲労がここぞとばかりに噴出したせいだろう。あの時点では男ものとしても通用しうる地味な色合いの簡素なパジャマを着用していたはずなのに、なぜか起きた途端、薄手でヒラ〜っとしていてどうにかギリギリのところでスケスケにはなっておらぬ淡いカラーのワンピースに身を包まれていた。まるで魔法みたいである。
 かなりすごい。
 すごいことはすごいが、彼は一介の少年であって一夜の成り上がりを夢見るシンデレラではない。喜ぶ道理もなかった。
「誰だ! あんなことしやがったの!」
「誰が『あんなこと』をできるのか考えれば自ずと答えは出るのではないかね」
 常時でさえドスの利いた脅しをものともしない豪胆の鋼鉄王、震え上がるどころか別の意味でゾクゾクしそうなソプラノ怒声なんて柳に風であった。ゆるりと流して言葉を返す。
 静かな声に少し頭を冷やされ、ウィンフィールドは落ち着いて思考を走らせることにした。
 ──疲労が山積したとはいえ、気絶していたわけではなく、ただ眠っていただけである。ノンレム睡眠を減らしレム睡眠を増やしている彼は普段から眠りが浅く、異常を察知すれば即座に跳ね起きる用意が整っていた。その精度は野性の獣を彷彿とさせる。最近は床ではなくベッドで寝ることも慣れてきたが、いざというときに行動できるよう邪魔になる掛け布団は使っていなかった。敷布団もわざわざ硬い物を頼んでいるくらいである。
 最初にこの制服を着せられたときは気絶して前後不覚になっていたからであって、直前に油断した悔やみはあるが、基本的にはどうしようもなかったことだ。しかし今度の事態は完璧に「油断した」としか思えない痛恨事。己の不明を唾棄したくなる。
 だが、まだ夜の街で培った獣性は衰えていないはず。そこらのメイドなどにしてやられるとは考えられない。となれば自然の趨勢として容疑の対象は彼自身と同等の力量を持つ者に絞られてくる。
 クロフォード──?
 確かにあの老戦士であれば可能だったと推測できる。技術面ではさほど勝っていないように思うが、年季は段違いだ。鋼造の命令には忠実であり、自身に理由がなくとも速やかに遂行して躊躇うことはないだろう。
 だが、それでは鋼造が今こうしてもったいぶる動機が掴めない。クロフォードならクロフォードと言ってしまえば良い話ではないか。あえて答えを口にしなかった真意は──
 ……まさか!
 稲妻となって一つの答えが脳裏を駆け抜ける。雷鳴の如く僅かに遅れて口から言葉が漏れた。
「比呂乃か!?」
「あの子は実家で弟分妹分の児童たちを甲斐甲斐しく面倒見ておったからな。寝てる相手を着替えさせるのもお手のものじゃろうて」
「なんてこった……」
 歯軋りしながら、呻いた。
 いつも刀を携えている変な女とはいえ、「一度も人を殺したことがない」という言葉を裏付けるようにまったく邪な雰囲気のないあいつのことだ。達人並みの足取りで気配を殺して忍び寄ってきたら、覚醒時ならまだしも睡眠中に反応することは難しい。危機として察知すべき要素がないため、空気に等しい無害として捉えてしまう可能性が高い。彼女ならばクロフォードと同じか、それ以上にうまくやれたであろう。
 動機は何だ? 鋼造の命令か?
「言っておくが、儂は何も指示しとらんぞ。あの子が勝手にやったことだろうて」
 疑問が顔に浮かんだのか。言下どころか言前に否定された。
 推測めいた口振りを信じるならば、彼はこの件に関わっていないようだ。
 ならば比呂乃の独断? それこそなぜ?
「そんなに気になるんなら本人に訊けばよかろう。じきに来る」
 程なくして、ウィンフィールドが蹴り破った扉の影からにスッと足音も立てずに話題の本人が入ってきた。着替えているのかどうかも判然としない、丈の長いエプロンドレスはいつも通り。白けているような表情も昨日と変わりない。
「──失礼、いたします」
 腰を折って礼をする。上目でウィンフィールドを捕捉したまま。一時として注意を逸らさぬその姿勢は、かつて路地裏で死合ったカラテカと瓜二つであった。
 無礼とは思わない。実際、もし彼女が一瞬でも注意を失したなら、容赦なく躍りかかるつもりだった。
 当然ながら比呂乃も彼の敵意を察知している。掌底を柄頭に乗せ、「来るなら来い」と迎え撃つ構えを見せていた。
「はん……」
 応じて右拳を目線のやや下に掲げる。今にも床を蹴って殴りに行きそうだった。
 見えない火花がチリチリと空気を焼く。
 両者の間に一触即発のキナ臭いムードが濃厚に漂い出した。
「喧嘩の前に話し合いでもしたらどうだ」
 未だ顔を上げぬ鋼造が言った。山積みされた書類を処理することの方が優先事項らしく、ふたりには目を向けようともしない。
「ああ。最期の一言くらいは言わせてやろうか」
 ひとまず鉾を収めた女装少年が嘯く。扉近くの比呂乃は「何を話せと?」と首を斜めにしている。
「なぜあんなものを着せた、ポン刀女! 聞くだけ聞いてやるからさっさと吐け!」
「あんなものとは?」
「えっと、ね、ねぐ……ねぐりじぇに決まってるだろ!」
「ねぐりじぇ?」
 首、斜めの角度が増す。
「婦人向け寝巻きのことだ」
 鋼造がフォローした。
「あー」
 ぽん、と柄頭を叩いて納得したようにうなずく。角度は浅く、顎の引きは最小限だった。
「あー、じゃねぇ!」
「うむ」
「うむ、でもねぇよ! 昨日もやらなかったか、これ!?」
 プチ漫才を繰り広げるふたりの声に、気のせいか、事務的にペンを滑らせている老人の肩が小刻みに震えた。
 咄嗟にウィンフィールドが睨みつけると、既に何事もなかったかのように震えは止まっている。本当に震えていたのかどうか、もはや本人に訊いても分からないだろう。
 比呂乃は明らかに状況の機微を理解していない態度のまま、無造作に言い放つ。
「似合うと思ったから」
「は?」
「着せた理由」
「……それだけか?」
「うむ」
 こく、と肯定。
「はぁ……?」
 単純な理由だった。単純すぎて、却って分からなかった。
 ふざけてんのか、こいつ?
 つぶさにその顔を観察した。神経が通っているのかどうか怪しい硬直した表情だが、じっくり眺めていれば感情の微かな徴候が見出せることを昨日の経験で得ているウィンフィールドは口を閉ざし、視線で射る。彼女もまっすぐ見返してくる。
 だが、どんなに見入っても一向にからかっている気配はなく、どうやら大まじめに答えているらしいことをすぐに察した。
「そうか。ならもう何も言わない。後はこいつで訊く」
 と拳を固めて膝を曲げるなり──猛然と疾走を開始した。
 体勢は低く。走り続けなければ保てないほどに。
 毛足の長い絨毯に足を取られたりはせず、軽快に駆け抜け比呂乃のもとに迫る。
「………」
 対する彼女に抜く様子はない。
 反撃をしないつもりか?
 その佇まいに、一瞬、足が鈍りかける。
 ──ふん、構うもんか。
 減速せずに迷いを捨て、腕の筋肉を絞り、拳をつがえた。
 いざ、暴力の賛歌を唱えんとした正にそのとき。
「おじいさま〜」
 ああ、一度ならず二度までも!
 誰かのアンコールに応えるかの如く、ふたたび比呂乃の背後から明るい笑みを振り撒いて入って来た瑠璃──危うく巻き込みそうになる。
 慌てて急停止しようと踏ん張ったウィンフィールドと、瑠璃を庇おうと立ち位置を変えた比呂乃。
 お互い避けることができずに正面衝突し、もつれ合うように倒れ込んだ。
 激しい勢いでゴロンゴロンと床に転がるふたりを間近で目撃した瑠璃は驚きのあまり目を瞠って息を詰める。
 柔らかすぎるくらいに柔らかい絨毯が緩衝材となり、車輪を組んだ両者はともに怪我なく、重なったまま「いてて……」「……ぅぅ」と漏らすに留まった。
 これだけ暴れて埃一つ舞わないことに、清掃への地道な情熱を注ぐ名もなきメイドを賞賛すべきであったが、とりあえず誰ひとりとしてそのことに気を払う素振りはない。見えない努力は、やはり見えないのだ。
「大丈夫か、瑠璃」
「ええ、おじいさま。私は何ともありません」
 祖父の確認に微笑んで返す孫娘。彼女は足元に這うメイドと女生徒(に見える)を眺め下ろし、ほう、と心底感心の溜息をついた。
「朝からこんな元気にじゃれ合って……本当、仲が良いんですね、おふたりとも」

 もはや何も言えなくなったウィンフィールドが、「……どけ」と仏頂面で小突く比呂乃に押しのけられ、緩慢な動作で立ち上がる。
 するといつの間にかそばにクロフォードが控えており、登校を促すような視線を向けていた。
 黙って従おうと、比呂乃から目を逸らしたそのとき。
 すっ、と彼女の手が伸びた。
 一瞬警戒したが、滑らかでいてゆったりとした繊手の動きに敵意はなく、キュッとネクタイの歪みを修正してすぐに引いていった。
 真意を問うように見ていると、無表情の少女は素っ気ない口振りで答える。
「お前の締め方は雑だ」
「……ふん」
 礼も述べず、「大きなお世話」とも言わず、黙殺してやろうとそっぽを向いて退室する。
 そっぽを向く勢いがいささか不自然だったので、そこに照れの感情を見出すのは誰にとっても容易だったが。

 部屋には鋼造、瑠璃、比呂乃の3人が残った。
 黙々とドレスの裾を直す比呂乃の彫像めいた顔を見上げて、最年少の瑠璃が発言した。
「んーと、あの、」
 名前が出てこなくて言葉を濁らせる少女に、「──比呂乃です」とヘッドドレスの向きを修正しつつフォロー。「ああ、比呂乃」と得心がいった瑠璃はうんうん、と二度うなずき、次いで首を傾げた。
「前から不思議だったのですけれど、あなたがいつもそれを持ち歩いているのはどうして?」
 目で刀を示され、比呂乃はじっと考え込んだ。
 答えを口にするまで要した時間は七秒。
「──忘れました」
 恐ろしく内容のない回答だった。
 質問しながらも、曖昧な答えを返されることやごまかされることを覚悟していた瑠璃だが、さすがにこればかりは呆れた。まじめ腐った顔で、よりによって「忘れました」なんて。同級生にもここまでダメな答え方をする子はいない。
「言いたくないなら言いたくないで構いません。そうおっしゃってください」
 噛んで含めるようにゆっくり喋り、一旦切って息を吸う。
「──でも、『忘れた』はあんまりじゃありません? 言い付けを守れなかった子供じゃないのですから」
「あんまりじゃ、ありません」
 きっぱりと答える。なんとも自信に満ちた口振りだった。
 ここまで来ると、その根拠はいったい何なのか、いたく興味をそそられる。
「どうして? あなたがそうやっていつも手放さないでいることにはちゃんとした理由があるはずでしょう? そんな大事なこと、忘れたりするものですか?」
 比呂乃は軽く首を振って答える。
「いえ、お嬢様。わたしが刀を選び、刀とともに生きることを──決断、した理由は、それが何であれ、大事なものではありません。刀がわたしを選び、わたしとともに在ることを認めた理由と、同様に」
「分からないわ、それじゃ。もっと分かりやすく言ってちょうだい」
「信念における理由とは──経過を要して、結果に辿り着くものです。わたしがいつも刀を持っていることは経過であり、手段であり、結果でも目的でもありません。理由という曖昧なものが具体的な何かとして言えるようになるのは、結果を出し、目的を叶えてから。結果が出る前に信じる理由や動機というものは、みな例外なく幻です」
「はぁ、幻……?」
 根となるはずのポイントをごっそり引き抜いて廃棄する説明に、瑠璃は戸惑いを隠せない。
 比呂乃は淡々と続ける。
「わたしが初めて刀を握ったときの、衝動。何かの真実が見えた気がする感覚は、覚えておく必要が、一切──そう一切、ありません。覚えておけば、縛られる。刀を持つことが、わたしの生として費やされる道、『経過』であること。それだけを知っていれば、充分です。刀に固執しても、刀を持つ理由に固執してはなりません。己の信念を汚すだけです。理由など、置き去りにすればいい」
 たどたどしい説明。ところどころが瑠璃との質疑応答によって補われ、どうにか一つの文としての体裁を守った。それでもまだ、滑らかに納得することはできない。
 比呂乃の言葉を整理し、じっくりと考える。
 ──まず、彼女は理由や動機が「ない」と言っているのではない。あっても、「覚える必要がない」と述べているのだ。
 「理由と結果」──「原因と結果」とも置き換えられる。それらがワンセットになっていることは、前提として納得がいく。原因がなければ結果はなく、結果というものは原因があってこそ訪れる。どちらかが欠ければもう一方も含めて瓦解する。世界は、そうした因果の果てしない連鎖によって成立している。
「けれどお嬢様。そのすべてを知る者は、いません──」
 原因の原因を求めていくこと、結果の結果を追っていくことは無限のベールを剥ぎ取ることに似て、人間の手に負えるものではない。
 始原たる因も、終結たる果も、神の領域にある。時間と空間の外へ出られない人間は、すべての源と定められる始点を得られない。また滅びる者である人間は、炎が自らの消えるときを認識できないように破滅の向こう側にあるものを覗き見ることができない。究極の因果とは、その狭間にあるモノが決して知ることのできない、ひと繋がりの真実だ。時空の外に位置するモノ、不滅であるモノだけが俯瞰する。
 人間は世界において刹那の旅人なのだ。
「その旅は始まりも終わりもなく、道のりに『長い』や『遠い』という言葉すら掛けられないのです」
 すべての旅人が自分はいつから旅を始めたのか、知っているわけではない。「旅」というものは明確なスタート地点がなく、てくてくと地道に足跡をつけているうちに始まってしまっているものだ。すべての足跡を刻み終え、歩くことをやめて回顧の海に耽るとき、旅をしなくなった旅人は自分の魂が帰るべき故郷、何もかもが始まった真の出発点がどこなのかを知る。
 歩いてきた背後をいつどこでどんな風に振り返るかは、その人の自由なのだ。
「振り返らないことさえも、自由」
 とまで比呂乃は言った。
 振り返ることで、足跡にすがり、目指すべき針路を失うこともある。それを避けたいという想いが根付いている。
 つまり──
「つまり、あなたは過去の自分に対して真摯でありたいため、過去の自分に囚われず、ただ未来を目指すことで報いたいと──?」
 振り向かず、歩みを止めないこと。過去のために、過去を見ないこと。未来で以って過去に応えること。
 なんだか、タイムカプセルみたいな発想だな、と思った。
 埋めたものは、忘れてしまった方が面白い。掘り返すその日まで、忘れてしまったまま精一杯に生きる方が。
「わたしには思い出より、この一刀が、明日へ向かう糧となるのです」
 とんとん、と指で叩く。無造作なのに、なぜかひどく愛しげな仕草に映った。
 彼女がその力を振るったところは見たことがないものの、強いな、と率直に思った。
 一生を懸けて貫きたい信念が、過去のどこかではなく、常に「今ここ」を拠り所としている独特の強さ。平和な毎日を笑って過ごす傍ら、いつか何もかもが壊れてしまうのではないかという不安に駆られて密かに怯えている自分を漠然と感じていた瑠璃にとって、彼女の前傾前進姿勢はほのかな希望に見えた。
 ひょっとするとおじいさまも比呂乃に何かの希望を見たのかもしれない──
 遠い異国、かつての祖国から遙々拾ってきた事情はまったく知らなかったが、まだ幼く見られがちな瑠璃に訥々と付き合ってくれたブルーアイの少女に、初めて温かい好感が湧いてきた。
「サムライと呼ばれる方はそういう考え方をなさるものなのですか?」
「いえ。わたしは侍では、ありません。稲田は、遠い昔に武家から離れた者たちが寄り集まって興ったと聞きます。彼らは、真に武となることを求め、侍を超えたかったのでしょう。──わたしは侍も、稲田も、超えたいのです」
「超える?」
「はい。刀を選り、刀に拠って生き、刀に因って死す。それが武士道の限界です。わたしは超えてみたい。刀ができること──武の可能性を、もっと、信じたい。力に狂うことなく、どこまでも正気に」
「──あなたに、できますか? 『ブシドー』を超えることが?」
 即答せず、ひと呼吸の間を置いた。
「分かりません。だが、決して超えられぬとも、思わないのです。道はいくつもあります。武士道とはまるで関係のない道さえ、わたしの理想に繋がっている。きっと、いつか、誰かは超える」
 瞳に熱意はなく。言葉も強くはなく。柄に置いた手も固めず。ありのままに語る。
「──だから、それがわたしでなくとも構いません」
 無欲なのではない。貪欲なのだと、瑠璃は直感した。理想を叶えるため、努力を怠らない。それでいて他人に望みを託すことも厭わない。他力も自力も本願とせず、等分に恃む。
 これを強いと言っていいのか分からない。彼女の武器が現実と理想を串刺しに貫くことを可能とするであろう確信はなかった。しかし、比呂乃のことは気に入った。
 この醒めた目で透かし見るものを、わたしも見てみたい。そう思い、一気に惚れ込んだ。
 瑠璃は人見知りをしないが、他人を簡単には信用しない慎重深さがあり、こうもあっさり気を許すことは珍しい。その点、ウィンフィールドあたりがまだまだ警戒されていた。妹のウィニフレッド(と思い込んでいる)には、まだよく分からないところも多いが、この比呂乃と仲が良いならそう悪い人ではないはず。と、彼が知らないところで好感度がさりげなく上がっていた。
 不意に、そっ──と。
 瑠璃の髪に些細な埃が絡んでいるのを見て取った比呂乃が、手で梳いた。
 突然頭を撫でられて咄嗟に身を硬くするが、細い指先の動きはぶっきらぼうな口調や変化に乏しい表情とは対照的にとても優しかった。
 悪い気はしない。
 おとなしく、気持ち良さそうに、そのまましばらく撫でられるに任せた。
「っと、これでよし」
 遂に仕事が一段落したのか、首を回し肩を叩きながら立ち上がるこの場最年長の鋼造──年齢差のある少女ふたりの視線が揃って向けられた。
「うむ、瑠璃や。比呂乃と話をしていたようだが、どうだ、面白かったか?」
「ええ、おじいさま」
「そうか、そうか」
 悠揚迫らぬ足取りで近づいてきた彼は、さっきまで比呂乃の掌が行き交っていた瑠璃の頭頂にやや骨ばった手を乗せ、いとおしげに撫でた。さきほどのキレイな指に比べてゴツゴツしていたし、掌一杯で頭を押さえつけられている錯覚に陥るほど大きかったが、やっぱり悪い気はしなった。
 この手もこの手で、好きだな。
 にこにこと享受する孫娘を、覇道の頂点に立つ男は好々爺となっていとおしげに眺めている。
「──それで、比呂乃」
「はっ」
 姿勢を正し、主と向かい合う青髪メイド服サムライガール。ふざけた格好であるとはいえ、表情はひたすらに実直の輝きを放っていた。
 忠犬。それは侮蔑の意味を抜きにしても、実にしっくりと来る言い回しだった。
「『似合うと思ったから』とお前さんは言ったが、またなんで急にウィニフレッドとネグリジェが頭の中で結びついたのかね? 思いつきにしては突飛すぎる。何かキッカケがあったのだろう」
「それは──」
 訥々と語り始めた事情。
 まず、彼女は昨日の出来事、つまりカッとなって刀を抜き放ち、危うくウィンフィールドを害しそうになったことを自室に戻ってから恥じ、済まない気分になったと云う。もともとの火種は彼の不遜な口ぶりにあったが、脅すような形で要求を迫ったことが事態を悪化させたのだと、自分で気づいた。非は互いにあったというわけだ。
 喧嘩というものは先に謝った方が勝ち。寡黙に見えて思い切りの良さは人一倍あると鋼造が睨んでいた比呂乃は見事その通り、迅速な行動に打って出た。昨日の一幕で汚れてしまった彼の制服を自らの手で丁寧に洗ってアイロンを掛け糊まで利かすと、「ごめん」の一言とともに手渡して和解するために早速彼の部屋へ持っていった。
 だが、ウィンフィールドは疲労が溜まって既にくたくたで寝入っていた。起こすのは悪いと、気配を殺して静かに制服を枕元に置いた比呂乃は後日改めて謝罪をすることにして、部屋を後にする……つもりだったらしい。
 ただ。
 掛け布団もなく。薄いシーツと敷布団の上でうつ伏せになり。野生の猫みたいに警戒心を募らせて眠っている姿を見ているうちに、「放っておけない」という気持ちがむらむらと湧いてきた。
 彼が今までどんな生活を送ってきたのかは知らない。けれど、ここで──鋼造がいてクロフォードがいて自分もいて、その他にも信を置くに値する人間が幾人も警備を怠らない場所にあってなお寛げない、いや、だからこそ一層に寛げないのであろう精神状態が、睡眠というもっとも無防備な格好の中で露になっているのを見て、比呂乃はどうにかしたくなったのだ。何やら、うなされているようで「夢だ……あれは全部夢……」と呟いていたこともあったし。
 別に好意からでもなかった。先の騒ぎは自分にも非があったと認めるものの、彼にもあった。謝意はあるにせよ、気に喰わない奴だという思いは拭えない。それはたぶんあっちも一緒だろう。間違いない。
 だが、たとえお互いが仲間と思っていないとしても。
 安眠くらいくれてやるのは、構わないはずだ。
 そう信じた。  仰向けにして手足を伸ばさせ、布団も掛けてやり、楽な寝方を仕向けたが、それでもまだ足りない気がした。
 何だろう? しばし、形容しがたい独特の寝顔を晒すウィンフィールドの前で考え込んだ。
 ……服だ。彼は緩さのない、身体を締め付けるような寝巻きを着ていた。これじゃあ、気持ちよく眠れるはずもない。自室に戻り、ほとんど使わないでいたクローゼットの中から、支給されたきり一度も着たことのないネグリジェを発掘した。「これなら圧迫されることもなかろう」と着せてみたところ、サイズも合っていた。
「うむ、似合う」
 こうして満足した彼女は気配を殺しながらも自信たっぷりの足取りで引き返した──
「ハハ、それが一部始終というわけか」
 話の流れを大まかに察していた鋼造も、さすがに詳細を聞いて微笑ましくなった。
 比呂乃の行為を「ちょっといい話」として捉えるのは無理があったし、「善意さえあれば何をしてもいいのか」という話にもなるが──いくら日の当たらない世界で暮らしてきたとは言ったって、ふたりとも十代の少年少女なのだ。こうした、他愛もない、些細な諍いや善意の行き違いで喚き合って徐々に相手の理解を深めていくことは、きっと大事なことだろう。
 これからのために。何より、「今」のために。
「そら、瑠璃や、お前さんもそろそろ学校へ行く頃合だろう?」
「そうですね。では、お爺様、用意は済ませてありますので行ってきますね」
 と部屋を出て行く孫娘を見送り、目を細めていた初老の総帥は、まだ傍に控えている帯刀の少女に訊ねた。
「で、本当に忘れたのかな? お前さんが刀を選びながら、いざというときに限り刀に頼るまいとする理由」
 比呂乃はただ静かに黙った。沈むほどの重さもない、軽やかな静寂。
 きっかり七秒後、唇を開く。
「忘れました」
 確かな自信の響きを耳にして、鋼造は目を細め続け、眩しそうに彼女の姿を見た。
 ……眩しそうに見ていたのが、スカート脇のスリットでないことを、彼の名誉を慮って特記しておきたい。
 真偽はともかくとして。

 二日目ともなれば、慎重に行動する要領を把握できるようになったこともあって、ウィンフィールドは次第に高い順応性を発揮し始めた。
 体育の授業も着替え損なうといった前回の愚を繰り返すことなく、無事に凌いだ。今度ばかりは動きに精彩を欠くこともなく、充分に手を抜いてごく一般的な少女としての身体能力を示してみせた。それでもまだクラスメイトたちを上回る運動力があり、感心されてしまったが。
 座学に関しては何ら詳細を述べる必要もない。予習・復習が行えなかったせいで理解の及ばない箇所もあったが、そうした点については遠慮なく隣のセレスに小声で訊ねた。彼女は一向に気を悪くするふうもなく、懇切丁寧に教えてくれた。説明上手な手際も幸いし、うまく基礎知識と応用の方法を呑み込むことができて、二日目の午前は何事もなく過ぎていった。
 正午過ぎの昼休憩。食堂での昼食を済ませた後、彼はひとり図書館に向かった。
 セレスともだいぶ喋れるようになって打ち解けてきたが、マンツーマンで何十分も顔を突き合わせて話をするというのはやはり抵抗があったし、彼女の時間を拘束することになるのもなんとなく気が引けた。多少はひとりで勉強をしておいた方が良かろうと、前日軽く紹介されたきり中に足を踏み入れることがなかった図書室へ入っていった。
 本の集まった空間は、独特の匂いに包まれている。それも古い本ばかりとなると尚更だ。決して鼻に心地よい香りとは言えず、悪く表せば「異臭」に近いテイストがある。この「異臭」に陶然とするのは書痴の類のみであろう。
 本棚が密集しているところは通路で行き交う際に身体を横にしても互いが接触するほどだったが、机の置かれているスペースは割合に余裕があって、部屋全体としてはそれほど狭い気はしない。
 筆記用具とノートを机に置くと、彼は早速本を探しに棚の乱立する場所に向かった。
 棚の背は高い。そもそもこのプロセルピナ学園は一階あたりの床から天井までの距離がやけに長かった。ピッツァ丸ごとはあろうサイズの照明が、下から仰ぐと振り上げた拳よりも小さく見える。天井より低いとはいえ棚も棚でバカにはできず、一つにつき台座や脚立が用意されていて、それに乗ってさえ少女たちのほとんどは最上段に届かないように見受けられる。よくよく眺めてみれば「取って欲しい本があれば図書委員に申し付けること」と張り紙がしてあった。
 カウンターを振り返る。
「よっす、ウィンちゃん。何借りんの?」
 彼が気づくよりも先に、カウンターの内側でパイプ椅子にだらけた姿勢で腰掛けていたベローナが手を振って存在をアピールした。なるほど、ウィンフィールドとさして変わらない背の彼女なら台を利用して最上段にも手が届きそうである。図書委員を採用するための項目には身長制限もあるのだろうか?
「はい。いくつか、勉強の参考になる図書を、と」
 演技しようという意識より先に言葉が出る。初日のぎこちなさは目に見えて消えていた。
 自然体で擬装を行えるようになってきた自分に内心安堵を覚えつつ、「これでいいのか」という念に苛まれる彼ではあったが、差し当たってにこやかにベローナと接する。
「かぁ〜、マジメだねぇ。あたしなんて『勉強の参考』にした本なんて教科書以外一冊もないし。すべてはこれ、娯楽よ」
 片手に取って掲げる本は、なんというか、既視感を誘うものだった。表紙を飾るチャイニーズ・キャラクター(漢字)と、泥臭い絵柄に見覚えがある。鋼造が持っていたあれだ。
「『OTOKO=JUKU』……?」
「えっ!? なになに、ウィンちゃんこれ知ってるわけ!?」
 意気込むペローナに対し、曖昧に頷く。
「ええ、まあ。読んだことはありませんが、さる機会に中身を少し見まして」
「ふーん。面白いよ、これ。メチャクチャで。特に『MINME-PUBLISHER』のデタラメぶりがもうホントにサイコーすぎるね」
 けらけら笑い、パラパラとページをめくるベローナ。
 ウィンフィールドは、「はぁ、そうですか」と複雑な面持ちをした。お愛想でも笑いを浮かべることができないのは、なんだかこの前、鋼造が「アーカムシティに『MINME-PUBLISHER』を興してみようか……」と呟いていたような記憶があるからだ。
「あー、アーカムシティにもねぇかなぁ、『OTOKO=JUKU』。できればあいつ──レナの兄貴をぶち込んでやりたいものだね」
「レナの?」
 エレノア。銀髪で背の低い少女。昨日、校門の近くまで一緒に帰った。あのとき迎えに来ていた車に乗っていた、銀髪の男……あれがやはり彼女の兄だったのだろうか。
「うん、もうあいつぁどーしようもないバカタレだもんねぇ。いっぺん死亡確認でもしてもらった方がちったぁ真人間に返れる可能性が──って、レナ?」
 ベローナの視線が横にずれ、ウィンフィールドの背後に向かう。
 振り返ると、さきほどはなかったはずのエレノアの姿があった。入り組んだ本棚の迷宮から出てきて、陽の光を浴びたところだろうか。
 彼女は脚立を引きずり、目的の棚で手際良く設置すると、最上段にまで登った。遠目には分かりにくいが足も微かに震えているようで危なっかしい。
「ったく、あの子、言う事は遠慮ないのにこーゆーときはひとりで何でもしたがるんだから……もっと友達を頼れっての」
 ぶつくさ言いながら椅子から腰を上げようとする。
 と、そのとき。
 エレノアがバランスを崩してふらつき、脚立の最上段から足を踏み外した。

「おわっ!?」
 驚き、焦り、急いで立ち上がろうとして足を椅子に引っ掛け、ベローナが転倒する。
「つっ……レナ!?」
 頭を振りつつ立ち上がろうと懸命になる。腰のあたりを打ったせいでズキズキと響いた。
 すると。
 痛みを堪えてカウンターにしがみつき身体を持ち上げた彼女は、ついさっきまでそこにいた転入生が、十数メートル先でエレノアをお姫様だっこしている様を目撃し、絶句した。
 アホな。
 転んで目を離したのはほんの一瞬だったのに。いつの間に、あんなところへ?
「まあ、良かったけど……」
 とりあえず友人が無事に済んで安心する。
 両手でエレノアを抱えたまま、すたすたとカウンターに帰ってきたウィンフィールドが、「貧血みたいなので保健室に連れて行く」といった旨を告げた。実に平然とした口振りであり、少しも変わったところはない。
「あー、う、うん、頼んだよ」
 何かスッキリしないものを感じながらも、ベローナは痛む腰をさすりつつ、ポンッとその肩を叩いた。
 特に何か意識したわけでもない自然な動作だったが、触れた瞬間にふと違和感がよぎった。
 柔らかく、弾力に富み、引き締まった筋肉──
 あれ? この感じ、普通の子とは違うような。でもいつだったか、似た手触りを味わった気もする……
 なにげなく触れた肩の跳ね返す感触に、記憶のどこかが騒いだ。何かを思い出しそうで思い出せない。
 ふたりが図書館を出ていき、釈然としない表情のベローナが後に残されると、居合わせていた女生徒のひとりが近づいてきた。短い赤毛とそばかすが特徴的なその子は、クラスは違うが同学年でそこそこ親しい付き合いのある相手だった。
「ベローナ……今の子、なに?」
 純粋な衝撃で目を丸くしている彼女が語ったこと。
 ほんのまばたきをする間に、脚立から落ちるエレノアをキャッチした転入生の驚異。明らかに常軌を逸していて、語りながらも言葉が実感に追いつかず、気持ちが整理できなくてもどかしいようだった。
「もうね、コマ落としみたいに最初と最後だけで、途中が全然、さっぱり、物の見事に捉えらんなかったよ。なんというか……ほんと、すごいね」
「いや、あたしは見てなかったんで……まあ、見てなくてもすごいこたぁすごいって分かるけど」
 目を離した隙に何もかも終わっていた。けれど「目を離した隙」が極小であるがゆえに、その凄さを実感せずにはいられない。
 そういえば、昨日もこんなことがあったような──
 更衣室。唐突に落ちたバレーボルにびっくりして振り返り、十秒もしないで向き直ったら、全然だったあの子の着替えが完了していた。授業開始が近かったのであのときは有耶無耶になってしまったけれど、今改めて考えてみると怪しい。
 むくむくと湧き上がる疑念。そして好奇心。ベローナは、もっと積極的に探ってみようという気を起こし始めていた。

 そうとも知らず、「恥ずかしいから」という本人の要請に応えてエレノアをお姫様だっこからおんぶに移したウィンフィールドは昨日案内された保健室の位置を思い出しつつ廊下を歩いていた。
 やや弱めの力で背中にしがみついているエレノアの体重はひどく軽かった。片手どころか小指でも持てそうな気がする。どれだけ軽いのか具体的な数字を問い質してみたくなったが、同性と思われているとはいえ昨日会ったばかりの少女にそういう話題を持ち出してもいいものか判断し切れず、訊きそびれてしまった。
 というより、そんな疑問がどうでもよくなる事態が発生していた。
 何だか柔らかい感触が背中に当たっている。
 つまり、エレノアの胸が。
 彼の背中に押し合う形になって形容しがたい心地よさを生み出していた。
 いや、心地よいというより、居心地悪い。当たっていて悪い気がしないからこそ戸惑ってしまい、落ち着かない。しぜん、俯き加減になってしまう。
 弱い力とはいえエレノアがしがみついていることは変わりない。彼女は一向に気にする様子もなく、制服越しに身体を密着させてくる。異性と認識していないからこそ、何の気負いもなく寄せてきているのだろう。
 おんぶをしながらつい、昨日の更衣室で目にした肢体を思い出す。それが今、背中にあると自覚する。興奮するというより、なんだか、ほとんど謝りたくなってきていた。
「背中……大きいですね」
 ぼそ、と呟き声が耳をくすぐった。
 だっこに切り替わってからずっと、口を開かなかったエレノアの発したセリフ。「大きい」という表現に思わずギクッとする。
 突然の強張りをどう勘違いしたのか、エレノアはくすりと笑った。
「間違っても惚れませんから安心してください」
「え、ええ……」
 言葉を濁すウィンフィールドの髪を微笑みながら撫で、その艶やかな感触に顔を寄せる。細い吐息がうなじに当たり、寒気にも似た、奇妙な感覚をぞくぞくと味わった。
「……ふぁあ」
 猫のような欠伸が聞こえた。
「なんだか眠くなってしまいまして……このまま眠ってしまっても、いいでしょうか?」
「──いいですよ」
 ぞくぞくした感覚に正常な思考が麻痺し、思わず安請け合いした。
「たぶん、重くなってしまいますけど……」
 遠慮がちに囁く。
 この子でも遠慮した口を利くこともあるのだな──と少し感心する。
「構いません」
 言って、腕を軽く揺すった。遠い遠い、消えかかった記憶にある母の動作を模倣する。
「ああ、そんな子ども扱いを……ひどいなぁ……でも、気持ちいい……とても眠た、ぃ……」
 声がどんどん小さくなって、遂には消えてしまった。
 すぅすぅと規則正しい寝息が首を撫でる。
 相手の意識が休眠したせいでバランスが取りにくくなることは大して気にならなかったが、深く身体を預けてくるせいでより一層強く胸が押し付けられるのは誤算というか、困った。
 背中越しに伝わる鼓動と耳に直接届く寝息。生命の音。顔は見えなくても、すぐ後ろに誰かがいて、重みと体温がこれ以上ないほどに実在を痛感させる。
 命なんて、奪うためにあるとばかり思っていたのに。
 これだけはどうしても奪いたくない気がした。
 理由は分からなかった。
 そもそも、自分が他者の命を奪い続けることに、理由なんてあっただろうか。生存競争の中で、虚しい復讐の果てで、あらゆる理由は霞んで汚れて壊れてしまった気がする。
 俺は、もう誰も奪わなくてもいいのか──
 肯定も否定もしないエレノアの穏やかな呼吸が、「答えを焦らなくてもいい」と示唆しているようだった。彼は内側から湧く自問を忘れて、背中伝いにやってくるハートビートを彼自身の心臓で体感することに専念する。
 今はありのままでいい。
 今は。
 ……そうやって運んでいる最中に涎まで首筋に出されたときは、さすがにどうしようかと困惑したが。いくらなんでもありのまま過ぎる。
 手洗い場の水道でハンカチを湿らせてエレノアの唾液を拭き拭き、廊下を逆に辿って教室へ戻っていった。
 図書館の用事は、また今度ということにする。

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