ガールズ・ドント・クライ
第七話 「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」


 もちろんセレスティーナ・ウィンズロウの部屋には鏡があって、ベッドから起き出したばかりの彼女はその前に置いた椅子へ腰掛けている。いささか傾いた、だらしない姿勢だ。まだ眠気が残っているのか瞼の開き具合が頼りない。
 緩やかにうねる金の髪を持った彼女は当年とって十七歳。部屋に一枚も鏡がないなど、あるまじきこと。
 それはともかく低血圧が迎える朝は地獄である。布団から抜け出すとき未練たらたらの風情になるのはもちろん、決意表明すべく立ち上がってみても足取りはふらふらよろよろ、まったくおぼつかない。光を嫌って目も細まり、視界まで利かない始末。それでも目的地まで辿り着けるのは生家という地形効果のおかげに他ならない。ほぼ自動的に鏡の前までやってくると、計ったように力が抜けて寸分の狂いもなくクッションに着地する手際は実に見事だった。
「ふう……」
 疲れの混じった息を吐き、厚く柔らかく温かな布団への帰還を希う気持ちを押し殺す。鏡面に視線を向けた。ゆっくりとおなかの底から自己の意識を引き上げることで、しゃっきり冴えてきた目が対象を捉える。世界が時間を取り戻し、ようやく朝が始まった心地になる。
 見詰め返す自分の顔。そこから意識を半歩ズラし、鏡の表面そのものに着目する。細かな傷は多いが曇りのない、よく磨かれた鏡面であった。
 それでもなおセレスは布巾を取った。指先に軽く力を込め、こしこしと磨く。キレイにすることが目的ではない。彼女はただ単に「すべすべとした硬い物」を磨くことが好きなのだ。特に鏡。今も黙々と拭っている。
 小さい頃から店の手伝いとして売られている骨董品を磨かされていた結果、いつの間にか磨く行為そのものが指に定着してしまったらしい。意識しなくてもつい、滑らかでキュッキュッと締まりの良い音を求め、ガラスや金属や宝石を探しながら布を掴んでしまう。
 はぁっと温かい息を吹きかけ白く曇らせて勢い良く拭うと、ようやく満足したのか布巾を畳んで満足げに頬を緩ませた。
 意識を半歩前に送る。輝く鏡面に映るのは、髪が乱れた寝巻き姿の少女。目は、覚醒しているとはいえまだまだ眠たそうな色合いが濃い。低血圧だけあって朝は弱かった。もし自分が高血圧だったなら、柔らかいベッドの誘惑も簡単に跳ねのけられたんじゃないか、と考えてみる。別に血圧が高くなりたいわけじゃないけれど。怒りっぽくなりそうだし。
 と、不意に、その顔──鏡中の似姿を靄が覆った。
 否、顔ばかりでなく、全身──それどころか風景のすべてが靄に飲み込まれていく。さっき吹きかけた息の比ではない。煙を焚いたみたいに、全体の像が不鮮明になっている。
 まただ、と溜息をついた。
 彼女に驚く様子は一切ない。ありふれた出来事として嘆いている。
 そう──事実、ありふれていたからこそ、声ひとつ挙げることなく溜息で済ませた。
 彼女の部屋に鏡はある。他の少女たちと同じく。だが、その鏡は少々変わっていた。
 怪しげな骨董品を商っている家だからか。当たり前のように怪しげな品々が店以外の居住部あちこちに点在している。どれも曰くつきだったり、形状が異様だったりと、割合一般的な感性を持つ彼女にとって嬉しくない代物ばかりだ。友達を呼ぶときには全部まとめて物置に放り込んでしまいたくなる。そのままにしておくと「二度と来たくない」と言われてしまうから。実際そう言ったレナは家の近くまで一緒に歩いてきても、絶対に扉を越えてこようとはしなくなった。いっそ清々しいくらい頑なに。本能が拒むらしい。
 それはともかく。
 鏡は、「ニトクリスの鏡」と呼ばれているものだ。ただし、頭に「贋作」が付く。
 父が発作的にぶらぶらと一人旅を始めた頃、どこぞかの骨董市で拾ってきたものという話だが、新しすぎてどう考えても最近つくられたようにしか見えず、誰の目にも偽物と分かるくらい怪しい一品だった。どこの誰がいったい何のためにこんな歴然たる贋作をわざわざつくったのか、そういったことはまったく不明らしい。
 つまり、本物かどうかより「怪しいかどうか」を基準に買い漁る父のような人種じゃなきゃ苦労して持って帰ったりはしない代物だったわけで。ブツ自体は二束三文で手に入れたが輸送費の方が遥かに高くついたよと笑う父に、セレスも母も味気ない笑いを返すしかなかった。
 と、そんなふうに生温く笑っているうちに「じゃ、これお前の誕生日プレゼントな」と言い放たれてしまったのだ。咄嗟に「要らない」と拒否できず、「え……?」と戸惑っているうちに所有権を押し付けられていた。
 その日は誕生日から半年もズレていた。だから全然ちっともバースデイではないうえ、「パパ、それは半年前よ?」か「半年後よ?」か、どちらがより的確な指摘なのか分からなかったせいもある。まごついている間に、行動派の父は有無を言わせず部屋の壁へ固定した。怪しい鏡の、怪しい贋作。嬉しいと言ったら嘘になる。けれど、拒否するタイミングはとうに逸していた。
 諦めるしかなかった──ひどい敗北感とともに。
 そんなこんなで第一印象こそ最悪だったものの、長い間部屋に飾っておくとどんなものでも知らないうちに愛着が湧いてしまうのは世の常。今やペットの世話をするみたいに起床時、帰宅時、就寝前と、日に最低三度は熱心に磨いて愛用している。それはもう磨きまくりである。摩滅しないのが不思議なくらいだ。
 さて、そんなふうに「ニトクリス」の名も半ば忘却されて普通に飾られているこの鏡。変わっている点は、由来の怪しさだけに留まらない。
 実は、「見える」。
 錯覚でも巧妙なトリックでもない。確かなものとして奇妙な「何か」が見える。この鏡が、贋作であることもおかまいなしに。半ば偏執的なくらいピカピカにされた鏡がお返しとばかりに不思議な光景を映し出す様を、セレスは幼い頃から何度となく目撃してきた。
 絵本の中にさえ見たことがない、人間の想像力を飛び越した色と形。そして光。闇。動き。それ以外の「何か」。感覚の先端に忍び寄る異形の法則。
 まるで別世界を覗き見る気分で、見惚れていると「こちら側」にいる自分もその世界に侵蝕されるのではないかと肌寒い感情を味わったものだが、所詮贋作なのか、うっかり手を伸ばしてしまっても鏡の向こうへ突き抜けることはなく、指を反動で押し返すのみ。繰り返しによって恐怖は次第に薄らぎ、今やおかしな現象には慣れてしまった。
 たまに別世界ではなくこの世界が映ることもある。見知った人々の顔がある日ひょっこり映ったとき、「この怪しい鏡なんか完全にとっく慣れ切ってますよ?」というつもりだったからこそ、不意を衝かれて仰天した。
 ベローナが日傘を差しながら庭園の土をいじっているところや、まだちっちゃい頃のレナ(今も小さいが……などと本人の前で漏らしたら「あなた喧嘩売ってますか売ってますねええ分かりましたやむをえませんいくらで買いましょう値切りはなしでお願いします」と怒ること間違いなしなので本音は封印)がよく似た兄にあやされているところ、今よりもずっと年老いた両親がテラスでのんびりと紅茶を飲んでいるところなど、幻覚なのか、時空を越えた映像を照射しているのか、どっちとも判断のつきにくいものがいろいろと過ぎっては留まることなく消えていった。
 どの映像もちゃんと左右が逆になっているあたり、「細かいなぁ」と感心した。気づく彼女も充分細かかった。
 気紛れに現れる映像の意味については答えを出すことができなかったが、何年も見ているうちに一つのルールに気が付いた。それはごく単純なこと。鏡中に出てくるのは自分の知っている人間、それもごく親しい人しか登場しない。まったく知らない他人や、顔を知っているだけの有名人、あまり話したことのない相手は一人として出ることがなかった。
 ひょっとしてこの鏡は光景を映すばかりでなく、覗き込む者の心をさかさまに「覗き込む」んじゃないだろうか? と考えたりもした。だから内容が限定されるのでは……
 まあ、彼女にとってそんな謎は些事だった。鏡がどんな秘密を抱えているかよりも、変な映像が出張っている間は鏡が鏡としての役割を果たさないことが問題なのだ。
 予備として置いている手鏡を取りながらそっと寝癖を手櫛で直す。細くしなやかな髪は癖が素直で、指を滑らせるだけでもちょうどいい波打ちを取り戻す。それでいて崩れない。実に都合がいい。
 ベローナは自分の髪には頑固な癖があってセットに時間が掛かる、伸ばすと巻くからあまり長くもできない、と頻繁に愚痴を垂れるが、はっきり言ってセレスにはそうした悩みの深刻さがまったく分からなかった。いつも適当な相槌を打って流している。友達甲斐のない女だった。
 視界の端に映る「贋作ニトクリス」の今回のビジョン。高い背に長く艶やかな髪を垂らし、細く鋭い目がどことなく落ち着かない気持ちを強要する、制服姿の──

「……ウィン?」

 まだ知り合ったばかりの、子。新しい友人。思わず手鏡を置き、見入った。
 珍しい。付き合い始めたばかりの相手が映るなんて。
 久々にセレスは鏡に興味を吸い寄せられ、秀麗な顔立ちを眺める。ここ数日の記憶が、自然に喚起されてくる。
 転入生としてやってきた、未知の存在。たまたま隣の席に座ったおかげで声を掛けるきっかけができた子。
 プロセルピナは校風もあるのか比較的世話好きな生徒が多く、もしウィンがセレスから離れた位置に座っていれば、別の誰かが代わりに世話を焼いていた可能性が高い。その後で声を掛けることもできることはできるであろうが、より親しくなる機会は逸していたかもしれない。
 なんてことない、ささやかな接点がふたりを結びつけたのだ。
 こういうのを偶然というのだろう。あちらが選択したわけでなく、こちらが選択したわけでもないのに、互いが互いを引き付ける形で知り合って親しくなった。
 ウィニフレッドの態度はどこか硬く、のんびりと穏やかな場の空気にはそぐわなかったが、初日で馴染めというのも酷な話で、別段気にするつもりもなかった。その時点では。
 むしろ、日を追うごとにプロセルピナの空気へ急速に馴染んで、普通の生徒として溶け込んでいく最近の様子が違和感を誘う。溶け込むことは悪くない。ただ不自然に、早すぎるのだ。
 あの早さは適応ゆえの早さではない。適応、状況に即した適切な変化とは、時間をかけて緩やかに行われるもの。
 あれは、自分を殺すゆえの早さなのではないか?
 彼女の目から見れば本当に芯から馴染んでいるのではなく、表面の演技をすることでごまかしているように映った。
 まるで、何かの強迫観念に後押しされているみたい。
 率直に言って少し、痛々しい。
 初めて会ったあの日、保護者として迎えにやって来た覇道鋼造が意味ありげに口にした「はじめてのおともだち」という言葉が引っ掛かる。明らかな揶揄の色があったけど、あの口ぶり──真実、今までひとりとして友達がいなかったのだと、信じてしまいそうになる。
 信じるべきなのか──友達が皆無だったからこそ、距離の測り方、信頼の程度、警戒する必要の有無を判断できないなんてことは、説明としてもっともらしい割にどこか嘘臭い。いや、嘘ではないにしても、それですべてが説明できるとは思えない。もっと大きな秘密を隠すためのはぐらかしに見える。
 プロセルピナの校風は懐疑を好まないが、それは空気を読まないことと同義ではない。セレスはウィニフレッドの抱える秘密を直観しつつあった。
 でも、秘密を探る気はしない。訊き出すつもりも毛頭ない。強いて言いたいのは一つだけ。
 無理をしなくてもいい。
 その一言。
 たったそれだけ。
 が、まだ口にする時ではないとも、思う。
 セレスにとって、「無理」は「無駄」の同義語ではない。無理をすることは無駄ではないのだ。無理をすることで拓かれる道もあるし、創られる価値もある。
 それに、無駄はする前に分からなければならないことだが、無理はした後で分かればいい。ウィニフレッドが自ら望んで行ったことを省みて無理と悟れるようなら、それが最上だ。わざわざ差し出がましいことを口にする理由はない。
 今はただ、見守る。悪く言えば放置。もしあの子が自身の無理に気付けなくて無理をしすぎるようなら、そのときは止めよう。おせっかいの使い方はTPOを弁えて慎重にいきたい。
 つらつら考えている間に寝癖はあらかた収まり、鏡に映ったウィニフレッドの姿も消えていった。どことなく寂しげな横顔が靄の中に沈む。
 それを見送り、ではそろそろ着替えをしよう──と椅子から立ち上がりかけ、セレスは中腰のまま停止した。
 思わず眉根を寄せる。
 鏡面は、ウィニフレッドの代わりに別の誰かを浮き上がらせていた。最初はぼんやりとしてよく分からなかったが、次第に霧が晴れてその顔がはっきりしてくる。
 精悍な少年だった。冷たい美貌と、姿勢良く伸びた背。鋭い視線。危険な趣があった。人体バランスの優れた姿は絵画すら思わせる反面、どこかキャンバスに収まらぬ生々しい臭いを放っている。濃厚な生気に富みながら、どこか虚無を覗かせる瞳が怖い。存在自体が既に攻撃的、と言おうか。たとえ街で見かけても視線を合わせたくないと思う。跳ねる心臓を宥めつつ、関わりにならぬよう通り過ぎたい。  セレスにはまったく縁がなく、差し当たって縁をつくりたい相手にも見えなかった。
 しかし、その顔は──あまりにも、ウィニフレッドと似通っていた。
 兄妹?
 真っ先に浮かぶ考え。
 そういえば、更衣室で着替えていたときに「兄がいる」というようなことを聞いた気がする。名前は知らないけど、これだけ似ているならまず間違いなくウィニフレッドの兄ということだろう。雰囲気はだいぶ違うけど、あくまで造作に関しては瓜二つ……
 連想された推測に肯定しかけてハッとなった。
 大慌てでさきほどの思考を再確認する。
 「名前は知らないけど」──?
 一瞬にして眠気が飛び去り、長年の経験に裏打ちされた疑惑が脳裏を占拠した。
 疑惑は即座に形となる。頭の中で触れられる、確たる思考。
 この鏡──贋作ニトクリスは、自分と親しい人間しか映らない。今までたった一度の例外もなく、そうだった。経験則とはいえ、それはもはやルールであり、今更フレキシブルに捉えることはできない。例外を認めるには、いささか馴染みすぎている。
 なぜ、名前も知らない、会ったこともないウィニフレッドの兄が──?
 やがて少年の像も消え、贋作ニトクリスは元通り何の変哲もない鏡へと戻る。
 腕を組み、着替えることも忘れて佇むセレス。考えることに没頭していた。
 鏡の中の自分と睨み合い、いくつも頭に浮かんでくる「もしかして」と「まさか」をぶつけ合わせる。あたかもビリヤードの如く。
 積もる仮説。ささやかな傍証。テストの最中でもここまでしないというほど、頭をフル回転させて辿り着いた結論は一つ。
 信じられなかった。
 けれど、直観は囁いていた。
 もうとっくに、「彼」が無理をしすぎているということを。
「──止めなきゃ」
 迷いは断たれていた。

 

 朝からずっと、セレスの視線が気になっていた。
「……なに?」
 頬と言わず額と言わず、横顔全体に満遍なく刺さってくる注視の気配に耐えかねてスプーンを置き、遂にウィンフィールドは声を挙げた。
 既に時は昼。食堂のテーブルに並んで腰掛け、会話らしい会話もせず、近くに座ったベローナとエレノアのお喋りを聞くともなく聞いていた。元より食事中に言葉を交わす習慣もなく、ただ最低限の作法を守って黙々と食べることに集中していた。
 集中していたのだが。
 ひっきりなしにチラッと向けられてはフッと逸らされ、さして間を置かずにまたチラッとやってきてはフッと去る視線に思いは乱れる一方である。
 何かおかしなところでもあるのだろうか、とまず己を省みた。
 休憩時間の間に洗面所へ行って鏡を覗き込み、まじまじと自分の顔を点検してみたが、別段変わったところはない。いつも通りの見慣れた顔……ではなく、不本意な鬘のせいであたかも異性のように映る、見慣れない──見慣れたくもない顔があった。
 きりりと引き締まった、けれど乙女の園において異質にはならぬ顔。切れ長の目とよく通った鼻梁、形のいい耳。歯切れの良い直線を基礎に緩やかな曲線を配した輪郭は性別の境界をあやふやにしている。
 ウィンフィールドが男である、という認識を先入観として抱いている人間ならともかく、その認識を伏せられ女だと思い込んでいる者がまじまじと見詰めても、何ら違和感はない。そのはずなのに。
 ぺたぺたと掌で顔を触ってみたりもする。指先に伝う感触に、変なものは一切何もない。むしろ、そんなことをしたせいでベローナとエレノアに怪訝な目をされてしまった。ちょうど会話が途切れたところなのか、ふたりともこちらの方──ウィンフィールドとセレスに注意を移していた。
「で、セレス」
「ん? な、なに、ベローナ?」
 ウィンフィールドの方へ再度向けそうなっていた視線を慌てて引き剥がす。虚を衝かれ、僅かに焦った表情を晒すセレスに不審の念が高まっていく。
「なぁに、さっきからウィンウィンのことじろじろ見てんよ、あんたは」
 核心を付く質問。訊ねられたセレスの隣でウィンフィールドは「よくぞ訊いてくれた」と顎を引く。
 だが。
 おい。
 「ウィンウィン」とはなんだ。
「え? な、なに、その『ウィンウィン』って……?」
 セレスも気になったのか、それともごまかすつもりか、質問に質問で返した。ベローナはさらりと答える。
「愛称よ」
 さらり。絹漉しの言葉みたいにさらりと。
 愛称? 愚弄ではなく愛称と言い張るつもりか、このブルネット女?
 即座に喧嘩を売りたくなる衝動が首をもたげてくる──必死に抑える。
 唾を飲んだ。微かな苦味が怒りを沈静させる。
 ここで「ウィンウィン」発言に突っ込んでいたら、せっかく核心に触れた話が逸れてしまう。それは好ましくない。黙って話の続きを待つのが得策だ。
 だから今は耐えろ、「ウィンウィン」と呼ばれる屈辱に……!
「あ、愛称……愛称ね……ふ、ふうん」
 動じていないことを示すように「平然とした素振り」を演じるが、悲しいほどうまくいっていないことを自覚する。好意を底とする侮辱的愛称にどう対応すればいいのか、感情にマニュアルがなかったのだ。握った手が細かく震え、スプーンが微かに歪む。
「それより質問に答えてくれないかな、セレス?」
「え? いえ、その……私は別にウィンをじろじろ見ていたわけじゃ……」
「おーけー、おーけー。分かった。言い直そう。語弊があった」
 顔の両脇に手をハタハタと掲げ。
 すぅ、と息を吸い込み。
「セレスさぁ……今日はなんで朝からこっちずっとウィンウィンのことじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろじろ見まくってるわけよ、ええ?」
 舌の滑りもなめらかに、息継ぐ間もいれず一気呵成に言い切った。
 その剣幕にさしものセレスもたじろぐ。
「ふぅ……」
 観念したと、降参するように吐息。
「……気づいてたの?」
「気づかれていないと思ったの? まさか?」
「え?」
 思っていた、と言わんばかりに目を見開くセレス。
 それを見たベローナは呆れ返った表情で吐息。互いの息と息が時間差で行き交った。
「セレスは冴えてるようで結構抜けてますからね。ときどき可愛くなります」
 傍観していたエレノアが口を挟む。食事の速度が遅い彼女は手元にまだいくつかの品目を残していた。温かく冷めやすいスープ等は既に片付け終わっているが、冷める心配のないサラダはまったく減っていない。というより、偏食傾向が強いのか、そもそも彼女が選んだメニューはサラダがやたらと多く、代わりに肉類や魚類の料理が一つとしてなかった。
「ま、可愛いっちゃ可愛いわな。おかしな素振りをするだけしといて、あたしたちどころか、クラスのほとんど全員に気づかれてることも察せないとは。堂に入った間抜けぶりだわ」
「え?」
 言われてセレスは、固まった。
 右手に置いたスープを、飲むでもなくスプーンで機械的に延々とかき混ぜていたが、その手も止まった。透明な水面を泳ぐ波紋が徐々に薄くなって、消える。
 ゆっくり。
 本当にゆっくりとした動作で首を傾げる。
「……ほ、ほとんど全員?」
「つまり、『みんな』と言っても差し支えないですね」
 エレノアの追い打ちを受けると、首を傾げたままぴたっと微動だにしなくなった。
 いや、よく見ると瞳がうろうろと宙を彷徨っている。蠅でも追っているかのような仕草だが、ふたりを隔てているのは空気だけだ。なんとか目を合わせようとしてけれど合わせられない、当惑に似た躊躇いが見て取れた。
 目を合わせられない。けれど見ずに入られない。そんな雰囲気。
 お化けを怖がる子供のように恐る恐る、言葉を発する。
「じゃあ、じゃあ……ひょっとしてウィン本人も……?」
「アホか。そりゃ真っ先に気づいとるだろうさ、なあウィンウィン?」
「え、あ、はい」
 突然振られて反射的に答えてしまう。「ウィンウィン」と呼ばれたことに違和感も覚えぬほど鮮やかな誘導。
 気づいてから「しまった」と思った。
 さっきはともかく、今はツッコミを入れるべきだった。
(でないと、)
「もちろん、ウィンウィンはセレスの視線が気になって仕方がなく、何度も鏡を覗きに行っていたわけですが」
 エレノアは水を飲む合間に淡々と告げ、
「そりゃあ穴が空くほど見られたらたまらないわなぁ。ほら、何せウィンウィンはシャイな子なんだからさ。まったく、罪なことをするよ。微笑みでウィンウィンを虜にするだけに飽き足らず、目で殺そうとするなんて」
 ベローナはあくまで面白がり、
(このままでは、)
「ち、ちが、私、ウィンウィンに、そんなつもりじゃ……」
 セレスは焦りのあまりか否定の言葉が言葉にならず、
「ああ、セレス、怖い子……! 逃げて! 逃げてー、ウィンウィン!」
 明らかに楽しがっている声でベローナが喚く。
(このままでは、「ウィンウィン」の呼称が定着してしまう! って、ええ!? もう既に定着した後!?)
 顔には極力出さなかったが、内心激しく打ちのめされた。特に、ドサクサに紛れてセレスまでウィンウィン呼ばわりしていることに。
 どうやら彼女たちの間では、彼の愛称が「ウィンウィン」と満場一致で可決されてしまったらしい。
 心が泣いた。
「でさ、結局、あんたがじろ×80と見まくっていたのはつまり──」
 さめざめと涙を流すウィンフィールドの心情は省みられることがなく、顎へ手をやり沈思黙考するベローナ。
 やがてぽつりと。
「──惚れたな?」
 がしゃ
 銀の匙がセレスの手から離れ、スープの中に沈んでいく。驚きのあまり、手放してしまったらしい。隣でウィンフィールドも同様にスプーンを取りこぼしていた。
「は?」
 正面を向き、呆然とベローナを見るセレス。おまけでウィンフィールドも。
 にやにやと、心底状況を楽しみたがっている笑み──際限のない微笑みで迎えられる。
「惚れッちまったか、セレスさんよ……」
「「はぁ?」」
 ユニゾンしつつ音が伸び、ますます呆れの様子が深くなった。
「おっと、みなまで言いなさんな。そこで図星臭く顔を真っ赤にしてどもりながら取り繕ったりしなくてもあたしの浪漫回路がとっくの昔に『セレス─(ラヴ)→ウィンウィン』という実にナマ温かい方程式を弾き出したから」
「いえ、ナマ温かいのはあなたの脳みそですから。確かにセレスは動揺してますが、図星だからじゃないです、単にびっくりしてるだけですから。あと、それは方程式と言わないから」
 とサラダを食べながら静かに指摘するエレノア。彼女は集中的にサラダを貪っていた。
 三重のツッコミを無視してベローナは遠くを眺める。
「無自覚に下級生たちを落としまくっておきながらまったく感知する素振りがなく、いくつものハンカチを涙の海へ叩き込んできた『プロセルピナの鈍姫』にも遂に春が訪れましたなぁ」
 うんうんと満足げに頷き、「遅咲きの恋、ここにあり……」と呟きながらパンをちぎった。
「勘違いして悦に入るのもほどほどに。セレスもウィンウィンも呆れて何も言い返せなくなってるじゃないですか。ベローナ、あなたの憶測は一から十まで徹頭徹尾、でたらめですよ」
「そうかぁ? あたしゃ案外、自分でも知らないうちにウィンウィンを意識しちゃって『違う、違うわ、この気持ちは恋なんかじゃなくて……興味。そう、ただの興味よ……!』とごまかしつつも心臓の高鳴りを止められないでいるんじゃないか、と幾分想像込みで読んでんだけど」
「先走りすぎです。想像どころか妄想もいいところ。愚にも付かないこと考えて悪い頭をいっそう悪くしている暇があったらその無駄に長い手を伸ばしてドレッシング取ってください」
 口を叩きながら、目で数種あるドレッシングの中からフレンチを指す──ベローナは難なく読み取り、掴む。長年の付き合いが生み出す阿吽の呼吸だった。
「あー、はいはい。取ってあげるけど、いい加減に一点突破食いはやめろよなレナ。いまだにお子様イーティングしてないで調和の取れた三角食いしろっての。サラダばっかりムシャムシャ食いやがってこの草食動物が」
 愚痴るベローナに「善処します」と素っ気なく返答してまたサラダに没頭する。食べているときは一つの品にしか意識が向かない友人の姿に溜息を漏らしつつ、顔を前に戻してぐっと身を乗り出した。自身は既に食べ終わっており、すべての皿は空だ。
「で、どうなわけよ、セレス?」
「ど、どうって?」
「だ〜か〜ら〜さ〜、朝からずっといちいち隙を窺ってちらちらウィンウィンのことを見ているのはどういうわけかと! 君は! あんまりにも頻繁だから関係ないこっちまで気になるでしょーが!」
 持ち上げた両手を荒々しくテーブルに振り下ろす……と見せかけて直前で勢いを緩め、最終的にはふわりとソフトタッチ。掌で優しく表面を撫でた。気分が昂ぶっても自然と「乱暴」を避ける、いかにもプロセルピナ的な仕草だ、とウィンフィールドは分析する。そんなことを分析している場合ではないというのに。
「あのね、まず先に言いたいけどね──」
 テーブルに手をついたベローナは身長差を活かし、目下ろす形で威圧感を与える。それなりの付き合いがあるらしい友人が相手だけに、見下ろされたセレスが怯えることはない。むしろ威圧されることで適度な緊張感を手に入れ、落ち着きを取り戻していくように見える。ゴムのように伸び縮みして覚束なかった視線が、黒く艶やかな髪を掲げる顔へ収束される。
「言いたいって、何をでしょう?」
「あたしゃ『女同士』でアレな干戈を交えることに関しては特に賛成でも不賛成でもない。どうでもいーや、と半ば投げやりな中立地点に考えを置いている。気のある奴らは気の赴くままにやってりゃいいし、気のない奴らは奴らで好きにしろ、ってな。そこんとこは飲み込んで欲しい。同性だから良いだの悪いだのなんて、鼻息荒げるつもりは本気でゼロなんよ」
「はぁ……」
「あくまで肝心なのは──色恋沙汰」
 大声を出したわけではない。音量をほんの少し上げ、語調を変化させるだけで言葉を強調する。そこに何かが篭っていた。ウィンフィールドは察する。
 情熱だ。
 それは恋愛ゴシップに傾けられる、通常比三倍の情熱だった。
「色・恋・沙汰。ノーマルもアブノーマルもクソもない。ただ単純に、ストレートに、混じりっ気のない色恋沙汰だ。他人の色恋沙汰は蜜の味、甘くて──生臭い」
 両手を広げ、まるきり演説のスタイルで声を強くする。
「惚れたはれた。くっつくか、くっつかないか。手を握って終わりにするのか、更に先を目指すのか。え? まさか、突破? 校則とか良識のフェイル・セイフ・ポイントを突破しちゃってふたりの楽園に到達するつもり? マジですか? ……とかね、男女の性差や年齢の違いをブッチしてそんなことを知りたがる衝動が、あたしを居ても立ってもいられない状態にするだけ。それだけなのよ」
 広げた両手の拳を握る。白くなるほど、握る。内容はアホでも、篭められた情熱は本物だった。
「ああ──とても純粋に下世話ですね。思い立ったら一直線に一槍突き。勘違いでもお構いなし。周りを巻き込んで突き進む、有り余ってやまないその勢いには水を差す気も失せます。分かりました、もう止めません。存分に駆け抜けてください。それでこそのベローナ、『特攻ジュースティングのベローナ』ですから」
 銀髪の少女は無表情ながら上向いた顔の目をそっと眩しそうに細める。眩しくても直視したい輝きを前にした者の仕草だった。
 確かにベローナは輝いていた。悪意は一切なく。声も荒げず。語彙も文法もキレイとは言いがたいが、歯切れの良い口調で柔らかく発音し、溢れ出る好奇心を爽快に表現してみせている。
 後ろめたさのない、まっすぐな勘繰り。ありえないほどの正攻法。強く温かい眼差しが、場の空気を制圧しつつあった。
「で、結論として。告白うたえ」
「え?」
 完璧に聞き手に回っていた金髪碧眼の少女は突然の命令に反応できなかった。
 噛んで含むように、繰り返す。
告白うたっちまえ、セレス。あんたの気持ちってもんを。やっぱ物事には順序ってもんがあるだろうし、焦りは禁物って意見も首肯できるけどね。むしろ時には焦ってナンボなのよ、セレス」
 広げていた手を伸ばし、対面の少女──セレスの肩をがしっと押さえ込む。
「大事なのは、そう──踏み出すこと」
「踏み出す……?」
「たとえ先が崖っぷちだろうとね」
 にかっ、と破顔一笑。青空に浮かべたくなる、実に爽やかな表情だった。メルヒェン。

「……うん」
 そっ、と肩に置かれたベローナの手を自分の手で包む。友人の熱が肩と掌の両方に伝わってきた。
 その熱に心を傾けながら、セレスは考える。
 ベローナの言うことは無茶苦茶で、間違いだらけだった。はっきり言ってどこからツッコめばいいのか分からず、途方に暮れるくらいだ。よりによって、ウィンウィン(と、自然にその呼び名を思い浮かべる)に懸想しているなんて。呆れるばかりで、笑えない。
 けれど。なぜだろう。
 こんなに間違いだらけなのに──彼女の言葉がひどく心強い。
 サンドイッチした手。セレスの肩と掌に挟まれたその手は、どれだけの誤りがあっても自信満々に突き進んでいく熱がある。それは静かな熱だ。荒れ狂うことのない、平常の体温。平熱の確信。
 幼児の頃から折りに触れて聞かされた言葉を思い出す。
 プロセルピナで過ごす者に与えられる、いくつかの教えの中の一つだ。
 真の勇気とは果敢でも悲壮でもなく。
 心穏やかに立ち向かうこと。
 迷いにも、困難にも。
「ありがとう、ベローナ」
 ズレて、ズレて、ズレまくった励ましのエールにも、救いはあった。
 きっかけがどうとかいったことは問題じゃない。要はただ、前進すればいいのだから。

「………」
 まあ、なんというか、そうして見詰め合うふたりの方がよっぽどアレな仲に見えると、牛乳をよく噛んで飲みながら思うエレノアであった。

 

 昼食、昼休憩を挟んで始まった午後の授業は体育だった。
 もちろん初日の愚を繰り返すウィンフィールドではなく、「一緒に行こうや」と肩を叩きかけたベローナの手をするりと掻い潜って可及的速やかに教室を離脱、トイレの個室へと向かった。
 制服の下にあらかじめ体操服を着込んでいるので、ごそごそする必要もない。更衣室で着替え終わって校庭に向かう同級生たちの輪へ紛れ込むタイミングを見計らい、そのときまでじっと壁を睨んで待つのみ。自分がいま女子トイレの中に佇んでいるという心理的負担の伴う事実をなるべく上手にごまかしながら。

「……あ〜」
 やっと打ち解けてきた感のある転校生を誘い損ねたベローナは、宛てのなくなった手を寂しそうにひらひらわきわき漂わせたが、ほんの一瞬で気持ちを切り替えると朗らかに笑った。
「まったく、ウィンウィンはこれについちゃまーだダメみたいねぇ。そんなに他人相手に肌を晒すのが恥ずかしいんかなぁ?」
「人それぞれでしょう」
「さあ」
 素っ気なく応じるセレスと、応じるつもりもろくにないエレノアがベローナの両脇を挟む形で教室を出る。
 到着した更衣室のドアを潜りながら、セレスは転校初日にここの片隅で恥ずかしそうに縮こまっていたウィンの姿と、そこから少し遡った時間、「向かう先は更衣室」と聞いた途端に顔が強張っていたことをふと思い出した。敢えて言葉にすれば「しまった」、とでもなるような表情。怪訝には感じたが、あの時はさして気にならなかった。
 思い返してみれば、一つ一つのリアクションは充分に不自然だった。単に新しい環境に身を置くこと以上の緊張感が発散されていたように思える。校風が校風だけに危機や害意といったものを察するのが不得手なプロセルピナ生徒でも、意識の端に引っ掛かるものがあった。
 今はセレスも「彼」に関する答えを知っている。引っ掛かる物事の数々はもう、得心を形作るための材料に変わっていた。
 それにしても、とセレスは考える。
 ウィン──彼の適応力の高さはここ数日で遺憾なく発揮させている。最初の頃に見せたぎこちない振る舞いもすっかり鳴りを潜め、急速に、それ自体が違和感ともなるほど急速に学園の雰囲気へ馴染んでいった。プロセルピナ女学園に働く排他意識が元より希薄とはいえ、彼自身にも周囲に溶け込む能力が高いのだろう。いや、溶け込むというより、溶け込んだように見せる、演技の能力が。
 しかしなら、なぜ初日にはその演技力が感じられなかったのか。今と初めて彼を目にしたときの印象を比べれば、舞台に臨む役者と突然台本を渡された素人くらいの違いがある。何かの目的があって女装し、この学園に入ってきたなら、もっと「さりげなさ」を装うことはできなかったのだろうか。
 ──できなかったのだろう。
 つまり、それが彼という人間なのだ。
 私欲に従っているわけではない。罪悪感に苛まれ、心底恥じ入っていた顔。青くなり、赤くなり、また青くなった顔は決して演技ではなく、彼の動揺を内心のままに透かしていた。
 どんな事情があるかは知らない。少なくとも覗き趣味が発露した結果ではなかろう。あれから一度も更衣室に踏み入れようとしない頑なさからしても、それは確かだ。
 たぶん、外圧。彼自身が望んだ結果としての行動ではなく、強制され、やむにやまれぬ心情で当たっていること。セレスは上着を脱ぎながら、脳裏にウィンを迎えに来た老人、覇道鋼造の皺に潜んだ悪戯っぽさを記憶から掘り起こし──
「やめなさい、ベローナ」
 さりげなく伸びてきた手を払いのけるため、物思いから浮上した。着替えの早いベローナは既に体操服姿で、暇潰しとばかりに脇から手を忍ばせてセレスの胸を触ろうとしていた。親しい相手にスキンシップと称して行う、毎度の悪い癖だ。一応、本当に冗談として通じる相手にしかやらないので、彼女なりに示す親愛の証とも受け取れる。ハタ迷惑な親愛もあったものだ。
「ちぇっ、隙ねぇなぁ〜」
 はたかれた手をぶらぶらさせながら、軽く唇を尖らせている。嫌がっていることをちゃんと意思表示すればあっさり引き下がってくれるので、そこはありがたい。最初から奇襲を仕掛けなきゃもっとありがたいのだが。
「私の胸なんか触っても面白くないでしょう」
 素っ気なく返す。同年代の平均より薄く、起伏に富まない胸部。別に劣等感を抱いているわけではなかったが、それを何度も何度も機会を探ってわざわざ触って来ようとするベローナの気は知れなかった。
 言われたベローナは、「んなこたぁない」と首を振る。
「いやね? この、ふくらみかけ〜って慎ましさが大層ツボなんですよ、マジでマジで」
「膨らみかけとは異なことを……これから膨らむアテもないというのに」
 二次性徴と呼ばれるものを迎えてから既に数年が経過するが、セレスが自覚するところ、身体面の変化は恐ろしく乏しかった。さすがに男女の区別がつく程度の膨らみはあるにせよ、ブラジャーが要るのか要らないのか、微妙に判断しがたいサイズが今もなお続いている。一応ブラは外見も意識して付けてはいるが、いっそない方がいいんじゃないかと内心思っていたりもした。
「ねえ、物好きさん。どうせなら、あちらの方に挑んでみたら」
 と指差す先。上半身を晒したエレノアが、勢いで脱いで裏返しにしてしまったシャツをもぞもぞと直している。ショーティかつスレンダーな体躯の割に、その胸元は意外なほどふくよかである。着痩せするタチなのか普段はあまり意識することがないが、こうした更衣室などで下着姿を見るたびにいつも驚嘆させられる。「着痩せの達人」という、よく分からないけれどよく分からないなりにしっくり来る称号が流布しているのも頷けた。
 両手が塞がっている今なら、ベローナの猛襲を防ぐことはできないだろう。正にチャンスなのだが……
「いいよ、レナの乳は後でじっくり揉む」
 と肩を竦めた。
 ベローナとエノレアは付き合いが古く、互いの家も近所に位置するらしい。セレスはプロセルピナの中等部でふたりと知り合い、友達としての関係も浅くはなかったが、このふたりの間にある独特な絆についてはいろいろと疑問が多い。「乳を揉み合う仲」の一言で済ませれば話は早いが、さすがにそれで納得するのは無理があった。
 「後でじっくり揉む」といったくせにエレノアの肌へ熱い視線を注いでいるベローナを放って、セレスは着替えと物思いを同時に再開する。
 原因については、差し当たって問題にする必要がない。どんな理由、どんな状況から彼が「女装して女学園に編入する」という道を選択したのか、詳しいことは追々分かっていけばいい。
 まず大切なのは、歩み寄ることだ。彼がこのまま女生徒として学園に通い続けるのはどう考えても無茶である。いつかきっと孤軍奮闘の甲斐もなく、ボロが出る。セレスが真相に気づいたのは彼がボロを出したからではないが、だからといって何日も何ヶ月も「潜入」がうまく続くはずがない。かなり精神的負担が掛かっている節のある彼は、遠からず疲れてしまう。是非を問う前に疲弊の根を摘み取り、彼と平和的な話し合いを経て良い関係を築いていくべきなのだ。
 誰にもバレないよう神経をすり減らしている彼に、「少なくとも私には演技をしなくていい」ことを知らせる。そこからどう転ぶかは不確定要素が多いので想定しかねるが、取っ掛かりとなる楔を打ち込まなくては話がどうにもならない。
 けれど、その「楔」をどうするか。
 波打つ金の髪が乱れないよう、適当にまとめて体操服を着込む。髪の長い生徒はこういうときが面倒だ。背中に潜り込んだ房を出しながら、考えを続ける。
 一番簡単な方法は、真正面からぶつかること。「私、知っていますよ……あなたのこと」と。シンプルで何の込み入ったところのない方法で、普通ならこれで済むと納得するところだ。プロセルピナの校風は元来、他人の悪意を軽視しているため、生徒のみなは人間関係において楽観的な思考様式を持つ傾向にある。
 しかしセレスはその案に落ち着くことはできなかった。真相を知ったプロセスが「普通」ではないからだ。自室にある異様な鏡、「贋作ニトクリス」を持ち出したところで何の説得力もない。実のところセレスにあるのは確信だけで、相手を観念させるような証拠は皆無である。これでは真正面からぶつかっていっても、相手にシラを切られてしまったら話は進展することなく膠着状態に陥るだけだ。
 成功させるためにやるとすれば正面からの勝負ではなく、奇襲という手になる。突破口は自力でつくるしか、ない。
 ただ奇襲という作戦にも問題があった。「ウィニフレッド」と名乗る少年は、自分の正体を隠し通すために警戒している。下手な奇襲を仕掛けて失敗したら、余計にその警戒を強めることになる。警戒の強化は神経の摩滅を増やし、彼の自滅を早めるだろう。それはセレスの望むところではなかった。
 うまい手はないものか。
「なあ、レナ」
 考えに耽るセレスの横、ベローナが銀髪の少女に声を掛ける。
「ん、なんです?」
 体操服を着込み終わったエレノアが顔を上げる。
「昨日はあれからどーなったん?」
「昨日……ああ、ウィンウィンの」
 その言葉にぴくっと反応し、セレスがふたりへ顔を向けた。
「ウィン、が昨日どうかしたの?」
 釣られて「ウィンウィン」と言いそうになるのをグッと堪えつつ訊ねる。昼は勢いで口にしてしまったが、やはり「ウィンウィン」はあんまりだと思い直していた。微笑ましい愛称ではあるが、ちょっと微笑ましすぎるのだ。
「あー、ね。昨日図書室でさ、レナが棚の本取ろうとして脚立から足滑らしちゃったんだ。そのまま落ちそうになったところを」
「ウィンウィンに助けてもらいました」
 ベローナのセリフを継いで、淡々と述べる。助けられた本人の割に、なんだか他人事のような口振りだった。
「え? 怪我はなかったの?」
「はい、ご心配なく」
 咄嗟に口を片手で覆ったセレスに、エレノアは心配する余地もないほど簡潔に答えた。
「でも大事を取るってことでウィンウィンが保健室に運んでってったわけだけど……あれからどうなったん?」
「別にどうもなりません。ぐっすり寝ました」
「あたしが引き取りに来るまで?」
「ええ」
 こくん、と頷いてからロッカーを閉める。まだ着替え終わらないふたりに構わず、「じゃ、先に行きますから」とすたすた部屋を出て行く。彼女のマイペースなところを知っているセレスは「あ、はい」と応じ、彼女のマイウェイ加減を熟知しているベローナはあえて「薄情者がー」と文句を飛ばした。「言ってる暇があったら校庭に出てはどうです」と涼しく言い捨て、小柄な少女はドアの向こうへ消えた。運動嫌いのベローナがわざとだらだらしているのを百も承知で。
 ちぇっ、と舌打ちするブルネットの長身少女。
「あー、なんかウィンウィンに関する情報の一つや二つ手に入れてんじゃねーかって思ったけど、そうトントン拍子にゃいかないか。つっまんねーのー」
 なにげない口振りだったが、その一言がベローナも彼(と気づいているかどうかはともかく)に単なる編入生として以上の関心を抱いていることを直感させた。
「彼……いえ、彼女のことが気になるんですか?」
 うっかり口を滑らせ、慌てて訂正する。一瞬ベローナが「は?」という表情をしたところを見て、性別のことについては気づいていないのだと悟った。
「うん、そりゃあね。あんなことがあるとさ、どーしても、ね」
「あんなこと?」
「昨日レナが足踏み外したときのことなんだけど、あたし、びっくりして椅子から転げちゃったんだよね。足引っ掛けてさ。んで、立ち上がったら……ウィンウィンがレナを抱き止めていたの」
「……それが?」
「あたしがいたとこはカウンターでね、ウィンウィンもそばにいたんだ。転げる直前まで」
 言われてすぐには飲み込めなかったが、図書室の間取りを思い出し、眉根を寄せた。
 カウンターから棚までの距離は優に十メートルを超えている。ベローナが椅子から転げ落ち、立ち上がるまでの間に移動することは不可能ではない。数秒で足りる。
 だが、ベローナの転倒はそもそもエレノアが足を滑らせて落ちたことがキッカケなのだ。落下運動にとって「数秒」は永遠に等しい。
「抱き止めたんじゃなくて、抱き起こしたってことではないの?」
「んにゃ。地面に叩きつけられたんなら凄い音がするはずだけど、それはなかった。転ぶときに受け身一つも取れないレナがピンピンしてることもあるし、何より目撃者がいる」
 と、ふたりの共通の知り合いである生徒の名を挙げ、彼女の証言を伝えた。
「あきらさまにおかしいよねー。運動神経がいいとかって次元じゃない気がするし。何か秘密があんのかなー?」
「どうでしょうね」
 秘密は秘密でも、別の秘密で頭を悩ませているセレスにとってベローナの提示した謎は、興味がないわけじゃないにしろ、優先度は低かった。相槌を打ちながら「保留」の棚に仕舞っておく。
 但し、昨日の図書室での顛末──エレノアがウィンに助けられたことについては、参考になるところがあった。
「じゃ、行きますか」
「ええ」
 ベローナと連れ立って更衣室を出ながら、心中でひっそりと呟く。

 作戦名は『接近』。
 今日の放課後、決行──と。

 

 一日の授業がすべて終わり、教室いっぱいに柔らかい開放感が溢れていく中で、ウィンフィールドは釈然としない気分を味わっていた。
 セレスの注視がいつの間にか収まっていたからだ。
 体育の時間、グランドで集合した頃には既にそれまでが嘘だったみたいにセレスの視線を感じることが少なくなった。存在を無視するほど極端なところまでいかなかったが、ごく普通に友人として接する程度に留まり、前後のギャップからか不思議とよそよそしさを感じて微かな不安に襲われた。一度過剰を経験してから元に戻ると、「以前より少ない」と錯覚することに似ている。
 理由も分からず注視され、理由も分からずよそよそしくされた。錯覚とはいえ、もはやそれは一種の心理攻撃として彼を苛むに至った。
 問い質すのもためらわれる気がして迷い、そぞろな気持ちで帰り支度を整えている最中に声を掛けられた。
「ウィン、時間ある?」
 隣席のセレス。ウィンフィールドが抱く何とも言えない不安を感知した様子もなく、小首を傾げている。
「え、ええ、はい」
 直帰するほどの用事は特になかった。こくこくと小刻みに頷く。
 彼女はいったいどんな話を切り出してくるのか?
 僅かに身構える。
「なら……」
 図書室で教科の予習と復習をしないか、と誘われ、少々拍子抜けしながらも素直に応じた。

 本当に予習と復習に専念するうち、だんだん疑惑や不安がどうでもよくなってきた。
 セレスは細かい疑問点にもよく耳を傾け、丁寧に解説してくれる。時には自分のノートを見せ、ウィンフィールドが取ったノートと対比させながら効率的な学習を伝授する。飲み込みのよいウィンフィールドは一つのところに詰まることもなく、セレスのアドバイスを吸収して身に付けていった。
 図書室は閑散としている。ふたりの他にもポツポツと机に向かっている生徒はいるが、奥に並んでいる棚の方を見遣ると人影は確認できない。時間が進むにつれ、キリの良いところまで終わらせた少女たちが椅子を引き、「ごきげんよう」の挨拶を残して退席していく。新たに入室する生徒もなく、だんだんと部屋の中の人数は減っていった。
 それでも勉強熱心な生徒は二、三名いて、セレスとウィンフィールドがふたりっきりになることはない。互いに目を向けたり声を掛け合ったりせず、静かに本を読みノートにペンを滑らせているだけだが、ささやかながらその存在を感じることができる。「他者」の存在を意識することでセレスと間近に向かい合っていても過度に緊張することはなく、ウィンフィールドは名も知らぬ彼女たちをありがたく思った。
 一方で、セレスとふたりっきりになれない状況をもどかしく残念に思っている感情もあったが、それは軽く無視する。感情のままに動きたい気分ではなかったからだ。
「うーん。そうね、これはあれを参考にすると分かりやすいわね」
 セレスが髪を掻き上げる。
 予習の終わりが近づいた頃、彼女は珍しくウィンフィールドの質問に答えあぐねる素振りを見せた。
「『あれ』?」
「ええ──棚に良い資料があるので取ってきます」
 がたっ、と椅子を引いて立ち上がる。その音が不自然に大きく、ウィンフィールドは訝った。
 緊張している──勘が囁きかける。
 直前の髪を掻き上げる仕草もどことなくわざとらしかった。あれは癖というより、心を落ち着けるための動作、自分自身への合図といった感じだ。
 後天性の野生。些細なシグナルを拾い、事態の展開を先読みする能力が疼いた。ここのところ比呂乃との諍いを除けば何ら脅威のない、平穏すぎるほど平穏な生活に身を置いていたが、微睡ほどのブランクもなく危機の予兆を読み取った。
 やはり彼女は何かを仕掛けるつもりでいる。それが何なのかは分からないにしても。
 差し当たって生命の危険は感じなかった。彼が抱く最大のウィークポイントは、「性別を偽っている」ということ。この事実がもたらす恥辱以外に何も恐れることはない。そういう意味では安全だった。
 しかし、だからと言って気を緩めるつもりもない。直接的には命に関わりがないとしても、こんなところで女装がバレてしまえば死にたくなる。誇りの問題だった。
 否、誇り以上に。
 彼は恐れている。彼女──セレス、それにベローナ、エレノア。他にも、顔は覚えたけれどまだ名前を知らない生徒たち。その全員に「自分が男である」と暴露され、結果として訪れる破滅を思うと胃のあたりが冷たくなる。まだ通い始めてひと月も経たない学園なのに、本来は望んで編入したわけでもないのに、出入りのできなくなることを考えたくなかった。
 決して居心地がいいわけではない。自分が羊の皮をかぶった狼であることは一時として忘れることがなく、気の休まるときはほとんどない。ひたすら演技の完成度を高めようと周りを模倣し、学習の内容にも付いていこうと努力することは、上達の満足感よりも発覚の恐怖を増幅させる。誇りさえなければすぐにでも逃げ出したい。ここはあまりにも場違いで、彼にとって逆境に他ならなかった。
 だが、逆境だからこそ凌ぎたい、という欲もある。忠犬ぶって覇道鋼造の命令通りにこなし「よくやった」と頭を撫でられたいわけじゃないが、一度やると決めたことを曲げて遁走するのは癪だった。鋼造が「やれやれ」と苦笑いして見くびることを想像すると腸が煮える。
 困難を踏み越えること。それは本当に困難なんてものが嫌いで、それ以上に敗北というものが大っ嫌いなウィンフィールドが自己を肯定するためにやらなくてはならないことだった。
 それに──
 闘争心の横をいくつかの想いがよぎっていく。想いは明確な形を取らず、代わりに想いの生じたときの記憶が脳裏に甦る。
 教壇の上に立つ自分を一斉に見詰める数十の瞳。隔絶のない温かな笑顔。揺れる金の髪。陽光を受けながら穏やかに流れる時間。目を逸らしたいのに見詰めずにはいられない、いくつもの肌。躍動。にやにやしながら肩を叩くブルネットの少女。脚立から落ちた小柄な少女の、嘘みたいに軽い身体。ないに等しい重みと柔らかさ。背中越しに伝わる鼓動。首筋のべたべたする涎。幾度もこちらに向けられる、セレスの視線、視線、視線……
 言葉にすることはできない。ただ、逆境以上に価値のあるものが何か芽生えようとしている予感はあった。
 見たい。ウィンフィールドは願った。
 俺はそれを見てみたい。
 それがジジイの言っていた、「どうしても『力』と呼びたくない『強さ』」なのかどうかは分からないにしても。
 だから彼は席を立ち、セレスが行おうとしていることを封じようとした。
 少しだけ、遅かった。
 高く高く天井まで伸びる棚のところまで足を運び、上段の本を取ろうとするためか、手近な脚立を引っ張って設置する。階段状になった金属に靴を乗せ、ゆっくりと上る。
 金色の川が蛇行して流れる背中を視界に収めながら、ふと既視感に囚われる。
 セレスより低い背丈の、涼しげな銀を戴く少女──エレノア。
 まるであのときの、つい昨日の出来事の再現みたいな。そんな想いが湧き上がる。
 まだ意味は分からなかった。それでもウィンフィールドは不安を覚えて足に力を込める。軽やかに床を蹴る靴の音と、セレスがゆっくり──わざと──脚立を蹴る音。どっちが開始の合図だったのだろうか。
 示し合わせたように、走る/崩れる。
 照らし合わせるように、飛ぶ/落ちる。
 窓の外には暮れなずむ空。西から夕昏の輝きを受け、ふたつの影が空中で一致ランデヴーする。
 少年は受け止めるために跳躍し、少女は受け止められるために落下した。つまり、それは予定されたイベントだった。
 これから起こることもまた。

 足を踏み外し、頼りない浮遊感を味わった瞬間もセレスは決して目を閉じなかった。背筋を真っ直ぐ駆け上がってくる恐怖に耐え、むしろ目を見開くぐらいの覚悟で姿勢を崩し、落ちた。落ちるふりでもなければ、受け身を取れる安全な落ち方でもない。下手するまでもなく確実に怪我をする、危険と分かりきった落ち方。
 故意で助けなかったにせよ、過失で間に合わなかったにせよ、とにかくウィンフィールドの救助が絶好のタイミングで入らなかった場合は何も得るものがない、愚かな方策だった。
(だけど、私は信じた)
 セレスは自らに言い聞かせる。
 「信じる」という行為は、自己が抱く他者の像を願望として相手に押し付ける行為に他ならない。こうあって欲しい、こうあらなくてはならない──自身の価値観に従った理想を一方的に差し向けるのだから、本質の部分では乱暴な面もある。
 信じるのは勝手なことだ。博打に等しい。当たっても外れても責任は自分で負わないといけない。だから、その投機的なリスクをすべて抱え込むつもりで落ちた。目を見開き続けた。
(私は、ウィンが悪い人ではないと信じた)
 ならば後は確かめるだけ。
 あれだけ気を張って敏感で警戒心の強い彼が、セレスの発したシグナル──露骨で明瞭な緊張に気づかないわけがない。プロセルピナ育ちのやわな少女なのだから、土台緊張を押し殺して冷静さを保つことなんて無理だった。彼女にあるのは計算でも理性でもなく、ただの覚悟だ。
 真の勇気は──
 心穏やかに立ち向かうこと。
 覚悟だけで恐怖を抑えることはできなかったが、立ち向かう気概は充分に出来ていた。

 もちろん、ウィンフィールドとて「セレスを受け止める意味」を理解できないわけではなかった。
 走り出しながら、数秒後の未来を予測し、一つのルールを見出していた。
 ここで彼がセレスをあえてキャッチしなければ、「勝ち」。
 もしもキャッチしたならば、「負け」。
 分かっていた。
 分かっていながら、跳んだ。
 誰よりも敗北が大っ嫌いな少年は。
 この瞬間、望んで敗北を決意したのだ。

 ふたりにどんな思惑があったとしても、結果は単純だった。
 空中で両手を広げたウィンフィールドはセレスに負担をかけぬよう優しく包み込むように抱き止め、着地の際も衝撃を膝で殺し、腕まで持っていかないよう努めた。精密極まりない動作は、少女の細く長い髪を僅かに揺らしたのみ。
 少女は目を開け放ち、一時たりとも注意を逸らさぬよう集中したまま少年の力強く、それでいて優しい両腕の中にすっぽりと収まった。
 彼の足が地を踏む音を聞くこともせず、作戦の第二フェーズに移る。
 警戒が強く、運動力も自分と比較にならないほど優れて俊敏な少年。彼に歩み寄り、話し合うためにはまず何より『接近』する必要があった。その目的は既に果たされ、お互い容易に触れ合えるくらい密着している。
 そればかりではない。この態勢にはもう一つ利点があった。
 体育が始まる前の休憩時間。更衣室で裏返ったシャツを直していたエレノアの姿が思い浮かぶ。
 そう──ウィンフィールドはあのときの彼女と同じく、両手が塞がっている。セレスの身体を落とさないため、しっかりと支えている。
 だから奇襲を防げない。
 セレスは転がり込んだチャンスを見逃さず、両手を伸ばした。
 そして。
「チェックメイト──」
 どうにもならないウィンフィールドが、呟く。敗者とは思えないふてぶてしさ。
 鷲掴みにされた胸。セレスの十指は左右それぞれに鉤爪の如く食い込んでいる。制服の皺を寄せ、内側の柔らかいものを歪ませているその光景は扇情的とも言えた。ベローナがここに居合わせていれば「やるねぇ!」と歓声を挙げ、おまけに口笛も吹いたに違いない。
 しかし、セレスの表情はセルハラブルネットのおちゃらけフェイスとは対極の真顔だった。わきわきと指を動かし、ウィンフィールドの胸を激しく揉みながらそんなシリアス面をしているものだから、それはもう異様なくらいだ。
「せめてもっといい詰め物してるんじゃないかと思ったけど……やる気ないわね」
 明らかに本物ではない、見せかけだけ膨らませた胸。少年は言い返すこともなく、黙りこくった。
「というわけで、ウィン。あなた、男の子でしょう?」
 真っ直ぐ見据えてくる青色の瞳に、ウィンフィールドは怖気づかない。少し目を細めるのみ。
「はい」
 今更否定しても始まらない。頷く。
「そう。じゃあ、名前も?」
「ええ、ウィニフレッドではなくウィンフィールドです」
「ああ、ウィン、というところは変わらないのね」
 くすっ、と微笑んだ。心底嬉しそうな笑い方で、思わずウィンフィールドは片眉を上げる。
「──おい」
「はい?」
「いつまでこの格好でいるつもりだ?」
 見つめ合うふたり。
 少女を横抱きしたまま不機嫌な顔で立ち尽くすウィンフィールド。
 少年の胸の詰め物をしっかりと握って離さないセレス。
 ロマンスの気配は皆無だった。
「えっと、その、とりあえず──降ろして?」
 無言でそっと腕を下げ、僅かに傾ける。靴裏で床を探った後、「ん」と一声発してセレスは身を起こす。腕から肩へと伝わる微かな反動。それだけを残して胸前の空間が寂しくなった。
 視界に広がる背中──深緑の制服と、波打って降りかかる金の髪。腰の生み出すモーメントにふわりと舞う。
 振り向いて。
 向かい合った。
 ふたりの足がそれぞれに地を踏む。身長差を、首の仰角と俯角を調整することで埋める。首筋が張っても一歩とて引き下がりはしない。至近距離で互いの視線を絡ませる。
 まるで決闘のような雰囲気。
 けれどもう既に敗北は決まっている。ウィンフィールドの敗北が。
 バレた時点で即おしまい。誰が定めたルールというわけでもないが、わざわざ言うまでもない暗黙の了解として自覚していた。こうなってしまってはなぜバレたのか、原因を探す必要もない。「負け」という結末だけがあって、それ以上の先は用意されていないのだ。
 バレた理由は不明。何が悪かったのか、とんと検討がつかない。確かに初日は慣れないこと尽くめで自然な振る舞いを遂行できなかった憾みがある。けれど、以降は反省点を踏まえて徐々に直していったはずだ。己の学習は早かったという自負がある……いや、早すぎたのが不審を招いたのか?
 ともあれ、今日の朝から昼までやけに注視されていたのは何か致命的な疑惑があったからだろう。いつの時点で生まれた疑惑か知らないが、とっくにヘマをこいていたというわけだ。
 閉幕。ピリオド。茶番の終わり。悔しがることではない、むしろ望んでいたはずだ。異性の格好をして女学園に通うなんていうバカバカしい真似を続けなくてもいいんだから、肩の荷を下ろした気分になればいい。負けたところで失うものなど何もなく、ただいつも通りの生活、いつも通りの世界へ戻ればそれで済む。こだわる余地はどこにもない。
 それが明らかな敵前逃亡であったとしても。
 だから今、この足に力を込め、この学園を、不快なくらいに温もりに満ちた園、優しさが檻に感じられるほど柔らかく堅固な場所から脱出して、遠くへ、遠くへ行ってしまえば──
 耳元で囁く誘惑。妙に熱く思える体温。何もかも打ち捨てて涼しい身になりたかった。
 けれど。
 気づいていた。
 己の足が、少しも動き出そうとはしていないことを。心の迷いに先行して、黒いソックスと膝を覆うスカートの中に隠された二本の意志がここに留まることを選んでいた。
 俺は誰にも、何にも縛られない。どこにだって行ける。
 でも、ここにいると。
「──言いたいことがあるなら、そちらから切り出してほしい」
 余裕があるでもなく、胸中では警鐘が鳴りっ放しだっていうのに、声は平静を装う。威圧的に腕まで組んだりする。女装で、追い詰められていて、偽物とはいえ胸を揉まれたというのに。
 どうやら彼は絶望的な状況下での駆け引きが楽しくて仕方ないらしい。ある種の
病気だった。
「なら、手短に言うわね」
 見下ろされているのにセレスは怯まない。強がっている素振りもなく平然と笑う。
 穏やかに。あくまで穏やかに。
「ウィン、詳しい事情は知らないし、まだ聞くつもりもないから一つだけ訊くけど──あなた、大丈夫?」
「ほお、いきなり正常かどうかの確認とは直球なご挨拶だな。どう答えろというんだ。『はい、とても狂ってます』とでも?」
「え? いえ、そうじゃなくて」
 困ったふうに首を振り、眉を寄せ、明らかな気遣いを込めてそっと言葉を伝えてくる。

「──無理を、していない?」

「は?」
 一瞬、正気を疑った。
 こいつ──俺のことを心配してやがる? 正体がバレた今となってさえも?
 およそ信じがたいことだったが、まじまじと覗き込んだ瞳の色から言っても、婉曲的な攻撃を仕掛けているようには見受けられなかった。単純に、ウィンフィールドという少年が陥っている境遇を懸念している。
 彼が好きでやっているのではないことを察するだけの観察力はあるのだろう。強いられた圧力、背後に位置する黒幕の存在くらいは読み取っているかもしれない。
 だからといって、追及や糾弾をすっ飛ばして心中を慮る段階に行くのは異常だ。ここは幼、小、中、高、大一貫して女子の児童と生徒、学生のみで固めた学園であり、男性の教員や職員も在籍するとはいえ同世代の異性がまったく排された閉鎖的環境。その中に異分子として紛れ込んだウィンフィールドは人の皮をかぶった「何か」に過ぎず、本能の免疫効果によって退けられる対象だ。家に入った虫を外に出すのと同じ気軽さで拒否される、はずなのに。
 なのに、この少女は。
 俺を──プロセルピナの一員として認めようと……?
 バカな! 理性が金切り声を挙げる。そんなことがあるわけない!
「もし、あなたが無理をしていないと言うなら、わたしは」
 右手を差し出す。白く、細く、透き通って裏側が見えるようにさえ錯覚する手。敵意が立ち塞がれば抗うことも防ぐことも叶わないであろう弱い手を、なのにためらうことなく真っ直ぐに伸ばしてくる。 「分かち合いたいと思います──あなたの秘密」
 嘘だ! 理性の否定──差し伸べられた手という現実が粉砕する。
 いっそ罠だと疑うことができれば気が楽だった。嘲り笑って策略に満ちた手を跳ね除ければ、後はただ彼の慣れ親しんだ流儀で凌ぐことができる。
 疑うことができれば──なのに──できなかった。
 彼女は本気だと、もうとっくに悟っている。小さなダビデが大きなゴリアテに立ち向かうのに必要な策を、この子はまったく準備していない。無策、無謀。正に考えなし。
 彼に「接触」して事実を確かめようとする方法だって、到底策とは呼べなかった。高いところにある本を取るフリしてわざと脚立から足を踏み外し、彼に救助させることで密着を得て逃げも隠れもできない絶対確実な証拠を掴む。傍目には大した行動に映るかもしれないが、本来ならそんなことをやる意味はない。憶測の段階でも、女装のことを疑われるのは致命的なのだ。証拠を握るまでもなく、ただ追及すればそれだけで事足りる。
 無駄としか言いようがない。いや、それどころか無茶だ。ウィンフィールドの助けが必ず入る保証はなく、彼の胸先一つでは見殺しにされる可能性だって無ではなかった。やるよりも、やらない方が得をする方法である。
 それを敢えて、やった。わざと得にならない方を選んだ。
 覚悟、と言えばキレイだが。
 ──こいつはかなりのバカだ。狂っている。
 個人的な性格か、プロセルピナの教育がもたらした成果なのかは判然としない。
 どうでもよかった。実のところ、ウィンフィールドは──そのバカさ加減に全面降伏していたから。
 異分子まで包み込み、飲み干そうとする底のない優しさ。これまで彼が歩んできた無情な世界ならば容易に砕けてしまうパーソナリティを徹底した空間。それに対して白旗を掲げる心持ちだった。やはり、あの学園長は伊達じゃないのだろう。何なのか知らんが。
 バカと言えばウィンフィールドもバカである。屈辱を嫌って孤高に生きてきたはずなのに、イカレた爺さんプレゼンツの茶番劇に付き合っていたのだから。強制があったとはいえ、その気になればいつだってやめられた。それを、やめなかった。
 流されていたのだと思ってた。
 けれど違った。知らず知らずの間に選んでいたのだ。嫌がりながらも、この屈辱を超えたところにある素晴らしい何かを予感して。爺さんの湛える深い笑みと、妥協を許さぬ厳しさを心のどこかで信じて。
 強さの意味を知りたい。力の価値を計りたい。そんな下心もある。
 加えて、いつしか、この安らげない、落ち着けない、馴染まない異空間に身を置くことがちょっとだけ面白くなっていた。たとえ偽物だと分かっていても、語り合い、笑い合い、触れ合ってともに歩く日々と時間の数々は、何もなかった毎日よりもずっとマシだった。
 過去が取り戻せるとは思えない。失われたものはあまりに多かったし、奪い、壊し、殺し、取り返しがつかないところまで足を踏み入れてしまった記憶をなかったことにはできない。欠落を抱え、償いの権利を認められることもないままに生きてゆかねばならない。
 確信があった。根拠はなく、穴だらけと笑いたくなる確信だったが、この身を前に進ませるには充分だった。
「無理を、ね」
 呟く。
「しているさ。これ以上ないくらい、壮絶に無理しているさ。あいにくと──俺は無理って奴が大好きなんでね」
 無理なんて言われたものはいくつも突破してきた。
 一人で複数の敵と立ち回るなんて無理だ──
 素手で銃に勝つなんて無理だ──
 化け物と戦うなんて無理だ──
 女装して女学園に通うなんて無理だ──
「一瞬でも『無理だ』と思って諦めかけた自分を克服するために、試さなくっちゃならないんだ」
 手を伸ばした。彼を打ち負かし、見事な敗北を与えた少女に。ただしその敗北は、ちっとも苦くなかったけれども。
 武骨な拳──固く握り締めていることが誇りだった五指を開いて、彼女の手を取る。ひんやりと僅かに冷たい。彼女との体温差。
 熱を溶け合わせたい──願い、そっと握る。
 絡まる指と指の柔らかさが染み入るように心地良かった。自分の指が、手が、本当は凶器ではないことを思い出させてくれる。
 片手を母に、片手を父に結んだ記憶が甦った。色褪せてはいるけれど、なくなってはいない。「幸せ」という言葉を使うのが適切なのか分からないにしても、決して忌まわしくはない。
 熱は通った。心まではどうか分からない。
 とにもかくにも、この日、図書室の片隅、林立する本棚と本棚の狭間でひっそり少年と少女がささやかな秘密を共有するために手と手を取り合った。

「えっとね、ウィン。悪いけどその男の子丸出しな喋り方は声に合ってないし、やめてね?」
「……はい」
 鋼造に掛けられた魔法のことは、すっかり忘れていた。

To be continued...


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