ガールズ・ドント・クライ
第五話 「百合と刀」


 放課の鐘は軽やかに青空を泳いだ。
 消えゆく鐘の音と入れ替わりに緩やかな風が吹き込み、髪を躍らせる。
 ウィンフィールドは二名のクラスメートに挟まれて校舎の外へ踏み出した。
 左にセレス。右にエレノア。金と銀──夕なお高い陽が祝福する二種の輝きは、まるで誂えられたかのように光に溢れている。両者の瑞々しい美貌とも相俟って、絵画的な華やかさを漂わせていた。
 夏の空気は澄み、彼女たちの放つ甘い香りを阻もうとはしない。
 陶然と弛緩しそうになる気持ちに心中で渇を入れ、歩を進める。
 こういう状況を両手に花と形容してもおかしくはないだろう……彼自身が「花」となっている事実に目を瞑れば。
 三人の真ん中でひとり突き出しているウィンフィールド。その長身は腰まで真っ直ぐに垂れた鬘の黒髪と、少女寄りの痩身、冷たいながらに「近寄りがたさ」をあまり感じさせない秀麗な容貌、そして左右の少女と同じ落ち着いた緑の制服を着ているおかげもあって、供の少女ふたりの美を占有しているというよりも、むしろ全体の印象を引き締めて気品を高めていた。
 この情景を前にすれば誰もが口を揃えて言うことだろう。「三人の乙女」と。この中にひとりだけ女装した男が混じっている、と聞かされても俄かには信じられないはずだ。
 園芸部の活動があるということで下校の輪に加わらなかったベローナを除き、今日彼と親しくなった少女たちはつらつらと会話しながら正門へ向かっていく。
「じゃあ、ウィンは覇道のところにお世話になっているの?」
 片手を口のそばに持っていきながら目を丸めているセレスに、「……うん」と首肯する。
 覇道という響きと、その意味。アーカムシティに住む者なら、幼少の子でさえも知っていて当然だった。アメリカ全土においてもその名を聞いて明快なリアクションを返すであろう人間は膨大な数に上る。この時代、この国においてもっとも有名な日本人は「ハドー・コウゾー」であったかもしれない。  ウィンフィールドはそのことについて特に関心がなかった。少なくとも、今現在は。
「あの凄い豪邸ですね……『覇道』と『非道』、紙一重の隙間に建てられたような、富裕の象徴。一度中を見てみたい気もしますけど、たぶん実際に見たら『一度でいいや』なところでしょうね。外から見ても威圧感が強いですし。毎日あそこで暮らしていたら息が詰まりそうです」
 エレノアは淡々と小声で述べる。基本的に物怖じしない性格で富に対して執着のないウィンフィールドにはいまひとつピンと来ない発言だったが、「そう、かも……しれません」と答えた。むしろ彼は覇道邸よりも自分の目線よりも低いところ頭のあるふたりの少女に、怯えスレスレの態度を取っていた。
 覇道家来訪初日に泥まみれの靴で上がり込み、毛足の高い絨毯を掃除・洗濯するのが大変そうな具合に無残に汚して複数のメイドから殺意の視線を飛ばされても平然と無視し、向かった先である鋼造の一室で壁に置かれていた装飾品の皿を無造作に壊してしまって「おいおい、もっと丁寧に扱えよ」と呆れ交じりの注意をされても「ああ、悪ぃな」としれっと答えてみせた傍若無人ぶりが、今は微塵もない。
 ところでそのとき鋼造は、床に散乱した皿の欠片を眺めつつ「お前さん、こんなのを未来の執事長に見られたらボコボコにされるぞ……」とぼやいたが、意味を図りかねたウィンフィールドは「ふん」と鼻を鳴らして即座にその言葉を忘れ去った。
「それにしてもウィンって、背が高いのね」
「そうですね、本当に」
 背筋を伸ばして見上げるようにしながらセレスが言い、エレノアが同意した。身長差が性別の違いに依拠するものとは、到底告白できない。ごまかすしかなかった。
「う、うん……よく、言われる……」
 怪しまれるのではないか、と不安を覚え、言葉を濁らせたが、セレスもエレノアも不審を感じている様子はない。むしろセレスの表情には憧れめいた感心が浮かんでいる。エレノアの顔はほぼ無表情なので読み取れない。
「ベローナと一緒にいると、お互いが一層に映えて……なんだか、少し素敵」
 そういえばベローナも彼と同じ程度の身長だった。別段、彼ぐらいの背の高さは怪しまれることがないのだろう。
 ホッと胸を撫で下ろした。肩からちょっと力が抜ける。
「うん、かっこいいですよね」
 無表情のままうなずくエレノア。
「ええそう、かっこいい……って、あ……ごめんなさい、褒め言葉になっていないかも」
「うーん、そうですね、失礼だったかもしれません。『かっこいい』はさすがに……ウィニフレッドと私たちと同じ女の子ですからね」
「別に、気にしてません……」
 本当は「同じ」ではなかったし、褒め言葉として間違ってはいない。
 ただ、今の姿を見て言われても嬉しくなかったが──
 そう思った途端、ハッとなる。
 今の姿を見て言われても嬉しくないということは、普段の姿、つまり少年である自分を見て「かっこいい」と言われることが嬉しい、ということだろうか?
 これまでの彼を振り返れば、縁のない言葉ではなかった。幾度もそうした賞賛を浴びたことはあった。母譲りの端整な美貌があったし、綿密に鍛え抜かれた肉体は「性別の域を超えて一つの芸術品である」と評されたこともあった。けれど、そうした熱っぽい言葉の数々を、「嬉しい」と思ったことは一度としてなかった。
 なかったはずなのに、なんでだろう。
 相手が彼女たちだから──嬉しくなるのか?
 彼女たちと、今までの賞賛者たちと、何が違うのだろう?
 物思いに耽りかけた彼を、セレスの漏らした一言が現実に引き戻した。
「でも、ウィンは男装が似合いそうね」
 似合うというより、それがナチュラルな格好なのであるが、真実を知らないセレスは「いいこと思いついた」と言わんばかりに、にこにこして彼の全身を眺めていた。
「卓見。是非とも観賞したいですね。髪の長さはともかく、その上背ならさぞかし似合うことでしょう。まさしくハマリ役と言っていいのではないでしょうか。顔も整っていますから、現実にもそうはいない美少年になってしまうことかと」
「ええ、わたしからも請け合うわ。きっと、途轍もない『男装の麗人』に……」
 こぼれる笑み。目の色を窺うに、半分本気で半分冗談といったところか。「かっこいい」と形容したことを謝ってから少しも間を置かないのに、「かっこいい」の意見を補強するような言説を唱える。矛盾している。だが、その矛盾を押し流す鮮やかな勢いに圧倒される。彼女たちのメタリティは、独特の強さがあった。
 言葉に窮し、ただ苦笑を返すだけに留める。ふたりはその話題を引きずる様子もなく、知り合いが通りがかるたびに「ごきげんよう」と淀みない挨拶を繰り出していた。挨拶された生徒はみな同じ言葉を返した後で、必ずチラッとウィンフィールドを覗き見する。向けられる目に篭ったある種の熱を深く考える気はしなかったが、かと言ってまったく気にならないほど鈍感な少年ではなかった。
 並んで歩く三人のうち、もっとも衆目を惹いていたのは転校生の彼だった。興味と関心、それ以外の何かまで巻き込んで視線の的となり、少女たちによる観察の洗礼を免れることができない。
 波打つ金の髪に彩られたセレス、すっきりと短い白銀を戴くエレノアの中央で幾重にも引き立てられた彼は、さながら黒の峻嶺である。身長差や立ち位置ばかりではなく、精悍さの抜け切らない表情が花園に流れる穏やかさから浮き上がり、彼をこの場の主題となるべき存在にまで強調していた。
 とはいえその顔に表れた疲労の色は薄くない。強靭な精神力を鍛えてきた彼も、今日一日ばかりは勝手が違ったのか。さすがに足がふらつくことはなく、あくまで闘士としての歩法を保っているものの、速度に関しては左右のふたりに合わせてようやくちょうど良いぐらいだった。足幅の差を鑑みるに、負担の質はよほどのものと窺える。
 精神戦の経験がないわけではなく、今までも長時間に渡る水責めや、探知する術が一切ない地雷原でのデスマッチ、音に反応する魔蟲に囲まれての静粛サバイバル、魔弾スナイパーに一マイル(約1.6km)先から狙われたスーパー・ロングレンジ戦など、ふざけた過酷な状況さえ心拍数を乱さず切り抜けてきたし、蠱惑的な美女に化けた異形や幼い子供に扮した怪異を一ミリも眉を動かさず滅してきた。精神を削る策など笑い飛ばし、肉と骨の実在を象徴する拳で粉砕するのが常。彼にとって、精神とは確かな形を持って鍛えられた理性のことであった。
 しかしそうした経験が役に立たない。根本的に部署が異なっている。何せここでは戦うべき敵も、殺すべき魔もいない。理事長は相当に怪しかったが、あっちが先に仕掛ける様子はなかったし、ウィンフィールドが無駄に戦意を燃やさない限りは殺し合う必要もないだろう。
 ここでは無理矢理襲いかかりでもしない限り、戦闘の機会がない。そしてもっとも問題なのが、あの理事長を除けば、ひとりとして拳を交差させたくなるほどの強敵が用意されていないことだ。生徒も教師も職員も誰も彼もが脆弱な一般人に過ぎず、彼が心理的に縛られている凶暴性を解き放てば、始まるのは一方通行の虐殺に他ならない。
 形ではなく中身が問題なのだ。たとえ外見が女子供であろうとその裡に人外の破軍力を忍ばせているなら遠慮なく立ち向かえる。殺意と殺意を協奏し合うに充分であれば、美醜は関係ない。フットワークで拍子を刻み、五指を丸めた鉄槌で歌うまで。噴き出す血と毀れる肉が舞曲に彩りを添えてくれる。最終楽章に至り、相手が泣き喚いて命乞いをしようと容赦しない。その心が砕けていることを念入りに確認するまで、拳を掲げ続ける。背を向けて不意を撃たれるのが怖いわけではない。そんなものは対処可能の範疇内だし、たまに気紛れで試みたこともあった。彼が無様な姿を晒す敵に強いたのは、開幕段階で取り交わした闘争の契約を遂行することだ。
 戦え。最後まで戦え、と。生ある者ならば自らの闘争において死を覚悟する必要がある。
 吐いた唾は飲ませない。戦いの火蓋を切った以上は如何なる相手においても一切反故を認めぬ頑なさで報いてきた。魔人が固守している掟の一つである。彼は自らが退くことを許容しても、相手が退くことを容認しない。その信念は卑怯というより、単に我が儘で自分勝手だったが、本人にそのへんの自覚はなかった。
 契約を結んだときはどんな邪魔も排除して最後まで戦う。ある種の誇りだ。だがそもそも、今の状況は「闘争の契約」自体が成立しえない。ここは殺意どころか害意も悪意も敵意もひたすら希薄なピース・ランド。「元気いっぱい血飛沫いっぱいの喧嘩、要りませんか?」「間に合ってます」。電気も通わぬ未開の地で電化製品のセールスを任されたにも等しい。彼は唯一の目玉商品である喧嘩を売ることも、逆に買うこともできないまま、「子羊の群れに混ざっているだけ」という無意味に近いことを演じていた。それが、予想以上の疲弊をもたらした。
 闘争も駆け引きもなく、ただ騙す。己が乙女の園に紛れ込んだ獣性豊かな少年であることを隠し、隣の席に座って言葉を交わし教室の外でも共に歩く。表面だけ装って、内面はどうにかギリギリで抑え込んでいる。姿かたちを似せることは容易でも芯まで溶け込むのは難しい。口を滑らせて余計な失言をしないよう気を配り、スローテンポで話さなければならないことや、見掛けに相応しからぬ仕草を見せないために指先の動きに至るまで気を遣わねばならないこと、混じり気のない善意を示す笑顔に対して応えねばならないこと。ひとつひとつがちゃんとこなせているのか不安になって動作がぎこちなくなり、もっと不安を呼ぶ。
 強迫観念の一歩手前。彼は恐ろしく神経質になった結果、激しい苦痛を感じる破目となった。
 具体的な目的があれば多少はマシだったはずだ。この学園の奥に排除すべき対象がいて、そいつを狩るために擬装しなければならないというなら、困惑しながらも我慢できただろう。だが、現実として大義名分は喪失している。漠然とした理由だけで女装し、何をすればいいのか分からない状態で、これまであまり接したことのない少女たちと交流する。まるで変態みたいだった。というより変態そのものだった。そのことを自分に対して言い訳することも釈明することもできない。まったく、一切、これっぽっちもごまかしが利かない。
 こんな試練、役者根性に溢れた人間か女装適性保有者でもなければ途中で投げ出したくなってもおかしくはなかろう。彼はそのどちらでもない。逆位置の存在だ。痛苦を覚えて然るべきだった。
「あ、迎えがきました」
 右からの声に懊悩が途切れた。エレノアだ。彼女の見ている先を追うと、正門のそばに一台の車が止まっていた。ずんぐりと詰まった逆L字の濃紺。後部には人影──ウィンフィールドは持ち前の視力で男、それもエレノアに容貌が似ていることを瞬時に見て取った。
 彼が視線を向けたのと前後して運転手がドアを開けて降りてきた。黒スーツをまとった、遠目にも凡庸な印象の男だ。「迎え」というからには、彼女の家の者だろう。後部座席に座っている男ともども。エレノアはこちらに注意を戻すと、顔を上げて、軽く腰を折って一礼した。銀の髪が揺れる。
「では、セレスティーナ、ウィニフレッド。ごきげんよう。またあした会いましょう」
「ごきげんよう、レナ。またあしたにね」
「ご、ごきげんよう……」
 恥ずかしさを拭い切れず、頬を赤らめながらも隣のセレスに倣って別れの挨拶をした。
 たったっ、と足を速めて車に向かう彼女の後ろ姿を見送る。小さな背中が車に辿り着くと、運転手は後部のドアを開け、片膝をついた。その肩に手を掛けながら中に乗り込むエレノア。後部座席の奥に座っていて頬杖を突いていた銀髪の男はチラッと目を遣った後、不意にウィンフィールドたちの方へ視線の矢を飛ばした。
 笑った──ような気がする。しゃがもうとするエレノアの身体に遮られ、口元しか見えなかったが。
 運転手が席に戻ると、車はぶるりと震えて、エンジン音を轟かせながら視界から消えた。

 ──かと思えばまた別の車がやってきて彼らの前で止まった。
 車体のカラーは限りなく黒に近い緑。
 ハンドルを握る運転手と、後部にふんぞり返る爺には見覚えがあった。
 そして、その隣に腰掛けている少女も。
 無意識のうちに顔が忌々しげな表情を形成しようとする。荒ぶる顔面神経──感情制御して噴き上がる衝動を押し殺した。今日は狂いっ放しのコントロールだったが、こんなときだけはうまくいく。感謝していいはずだったが、嬉しくも何ともなかった。
「迎えに来たぞ、ウィニフレッド」
 顎鬚をしごき、ニヤリと口の端を歪める。
 偉そうな態度に加えて偉そうな口調──無理もなかった。実際に彼は「偉い」。それはウィンフィールドとて認めるにやぶさかではなかった。だが、今日はそうした自信の誇示がやけに鼻に付く。隣のセレスを意識し、吐き捨てる口調にならないよう配慮しながら口を開いた。
「まあ……わたしのために、わざわざありがとうございます──鋼造様」
 今すぐ隕石ブチ当たって愉快に即死しろこのクソジジイ。
 楚々たるお辞儀を披露し、どんなオブラートでも包めない本音を血を吐く思いで隠蔽した。
「えぇ……?」
 車上の厳つい老人があの「ハドー・コウゾー」であることを知ったセレスは驚きに軽く目を瞠り、そんな彼女と並び立って学園の風景に溶け込みまったく違和感を醸さないウィンフィールドの物腰を見た鋼造は満足げに顔を綻ばせた。笑う猛禽がいたとすればこんな表情をするのかもしれない。
「おや? おやおやおや……早速お友達ができたのかね、ウィニフレッド?」
「ええ、はい」
「ほっほう」
 射抜かんばかりの眼光はそのままに、くいっと両眉を跳ね上げてみせる。なんともわざとらしい驚き方で、からかいの意志が明け透けになっているが、「予想通りだ」と仄めかすような思わせぶりの色合いはない。送り出したその日のうちに女学園の生徒と親しげに接近していることを割と素直に感心しているらしい。証拠に、口の中でこっそり「げに運命は複雑怪奇よ……」と呟いていた。
「セレス、紹介いたします。この方はわたしがお世話になっている覇道鋼造様」
 恩義は感じているし、敬いの念がないわけではないが、この状況、この格好で様付けをして鋼造を呼ばねばならないのは屈辱的だった。おかげで元来あったはずの敬意も幻となって失われつつあった。現在、理不尽な仕打ちのせいでウィンフィールド内部における鋼造の株は激しく下落している。証券取引所が設けられていればストップ安となるであろう範囲を越えてなおも降下中。
「あ、その、はじめまして──」
 若干慌ててはいたが、礼を失さぬに充分な優雅さをまとって挨拶した。
「──セレスティーナ・ウィンズロウです、ミスター・ハドー」
「そう堅くならずとも『鋼造』と呼んでくれて構わんよ、お嬢さん。なんたって、君はウィニフレッドの『はじめてのおともだち』なんだからな。いやまったく、こちらから握手を願いたいくらいだよ」
「はじめての……?」
 よく分からない、といった風の顔をする少女に向けて、「うん……まあ……いろいろあって、ね」と横から発言するウィンフィールド。家を出て以来は友達らしい友達を持たなかったせいで既に「友達」の概念が皮膚感覚から消えている彼について言及しつつ、「ウィニフレッド」という本来存在しない仮想的な少女に友達ができたことを暗に指し示す、二重の意味を持った表現であることはすぐに分かったが、どちらも事情を知らぬセレスに対して持ち出せる説明ではない。事情を話すわけにもいかないから曖昧な口振りでごまかすのが最善だった。
 具体性の低い態度を取ったことは効を奏したようで、セレスは彼(主観では彼女)のことを「消極的な性格が原因で友達に恵まれなかった子」あたりだと認識したみたいにうなずいた。それでいてウィンフィールドを見る目に憐れみに類したものが浮かぶことはなく、青い瞳は初夏の熱を退け依然として平静で涼しげな潤いを保っていた。過度に濡れもせず、乾きもせず。
 凝視──というほどではなく、ごく普通に関心を寄せている程度の目。微風にも似た澄明さがあった。彼を覆う「ウィニフレッド」のペルソナを超え、核たる姿を見通すように、ただ見ていた。
 その視線に心が騒がなかったと言えば嘘になる。彼のハートはすっかり「Cool」を脱して保温状態に入っていた。なにげない視線を送られるだけで、たちまち加熱してしまう。冷却機関なんてものはとっくに停止しているに違いなかった。
 どうして、「なにげない視線」ごときにこうも掻き乱されるのか。今までの自分を守り切れないのか。
 訝る思いは拭えない。
 しかし──拭わなくても、いい。そんな思いも同時に湧いていた。
 迷いながら歩いて行く道も、心許なさが面白い。胸をドキドキさせながら内心嘯く。
 彼女が自分にとって特別な存在であるかもしれないことを積極的に認める気はしなかったが、あえて否定するつもりもなかった。
 人肌のぬくもりよりも穏やかな熱を持った「なにげなさ」が暖となり、ただ誰かが隣にいるというだけで寒気が拭われていく、ありふれた不思議。彼はそれを実感しつつあった。
「セレスティーナ・ウィンズロウさん、クラスではわたしの隣席で、今日はたくさんのことで助けてもらいました」
「ふむ、具体的にはどんな?」
「え……と、消しゴムを貸してもらったり、」
「っよぉーし!」
「え?」
「いや、なんでもない」
「はぁ……」
「ともあれ、良かったな、ウィニフレッド。『友達を大切にしなさい』ではなく『大切にしたい人を友達と思いなさい』の方針で頑張れ。友達という言葉は一番最後に付いて来るものなんだからな」
「ええ……」
 要領を得ず、気の抜けた返事をする彼へ、「そろそろ乗れ」と目で合図する。
 察したウィンフィールドは車を迂回して助手席に向かう。乗り込む直前、セレスへ別れの挨拶をしようと息を吸い込んだ。
「セレスっ! ご、ごきげん……よう」
 名前はともかく、挨拶そのものはまだ気恥ずかしさが残ってしまう。
「ごきげんよう」
 しかし、にこやかに返されると、「この次はちゃんと口にしよう」という、彼らしくもない殊勝なことを──同時にとても彼らしい明確な決心で誓わずにはいられなかった。

 車上での会話は大して弾まなかった。ひとえに「部外者」の存在があったからであろう。
 ハンドルを握る運転手はもちろん覇道お抱えの人員であり、ウィンフィールドもたびたび見かけたことがある。彼は余計な勘繰りをしないし、必要以上に口を挟むこともなく淡々と己のやるべきことだけをこなしていた。その分、彼の存在は役割以上の影響を及ぼさなかったし、沈黙の原因には数えられなかった。
 「部外者」とは鋼造と並んで後部の座席に腰掛けている少女である。
 彼女はウィンフィールドが乗り込むときも目を合わそうとはせず、黙りこくって座席に身を預けていた。走り出してからも口を開くことはなく、結局覇道邸に到着するまで何も言わなかった。
 要するに「座っているだけ」の人間だったが、運転手みたいに何か役割があるでもなく、「何のためにここにいるのか」、その理由が不明確なおかげで却って存在を意識せずにはいられなかった。
 知らないわけではない。今まで何度か覇道邸でその姿を目にしたこともある。言葉を交わすことはなかったし、何らの付き合いがあるわけでもなかったが、彼女は彼と同じかそれ以上にストレンジャーとして周囲から浮き立っていたため、強く印象付けられていた。
 歳の頃は彼とさして変わらない。同い年か、一つ二つ若いか。その程度と見える。しかしその顔に幼さの色は残っておらず、まるで世界の果てを目撃してきたような醒めた目が実年齢を越えて大人びた雰囲気を発していた。
 鮮やかな緑の髪。澄んだ青の瞳。白い肌の上で際立つ二色は穏やかでありながら見る者を惹き付ける引力に満ちている。
 単に外見の点で言えば先ほどまで接していた学園の少女たちに勝るとも劣らない。調和の優れた容貌、均整の保たれた身体。まさしく「美少女」と形容するに足る。身を包む黒の衣装は覇道家のメイドがまとうドレス。脛まで隠すスカートが「清楚」のイメージを膨らませ、全体の像をまとめ上げる。
 歳若きメイド。そう表現して差し支えはないはず、なのだが──
「刀──」
 そう、刀。
 武骨な黒鞘に収められた一本の刀が、少女にあるべき平穏を裏切って、美しさの中に剣呑さを混入する。車中においては足を広げ、膝と膝の間へ突き立てて張り詰めたスカートの生地に皺を寄らせていた。さながら歴戦の将軍みたく勇壮に構えていたところは鋼造の影になってセレスの目には届いてなかったが、助手席に座るため鋼造の向こう側に回ったウィンフィールドは刀を抱くようにして鎮座している彼女をばっちりと視界に収めた。驚きはしなかったが、僅かに呆れた。
 稲田比呂乃──彼女もまた鋼造が「拾ってきた」人間のひとりである。サムライとニンジャの国「日本」から遙々やって来たと囁かれ、そのプロフィールを証明するかのように常に刀を提げていた。聞くところによれば決して手の届かぬところには置こうとせず、食事も風呂もトイレも就寝時も、いつでもどこでも傍らに配置するのだとか。「あの子、布団の中でも抱き枕代わりにして寝てんのよ」と語るメイドの話を漏れ聞き、ウィンフィールドは自分のことを棚に上げて「変な奴だ」と思っていた。
 それにあの格好。どうも着の身着のままで渡米してきたらしく、服装に無頓着な彼女は大した考えもなしにメイドたちと同じドレスを支給してもらい、それを着用して覇道邸での生活を送っていた。だが、メイドに相応しい仕事をしていたかと言えば否である。一通りの家事や雑用をこなす能力はあるようだが、いかんせん常に携行している刀が邪魔して作業効率を低める。刀を置いて仕事するように注意しても、いざというとき絶対すぐに手が伸ばせるよう気を払いながら働くので、結果的には大差がない。厨房で他のメイドに叱られているのを見たこともあったが、どこ吹く風とばかりに平然としていたあたり、いかにも神経が太そうだった。「メイド服を着ているが、メイドではない」が覇道家の人間たちにとっての共通見解である。
 メイドらしい仕事をせず、刀をぶら下げた少女。「覇道」という特殊な世界に身を置く者たちならばその答えは簡単に弾き出せる。
 ボディガード。覇道家最重要人物である鋼造をあらゆる暴力から護衛する存在。銃でもナイフでもなく長物であることが非効率なうえ、ろくな経験を積んでいる風に見えない少女にそんな大役を任せることも不自然だが、「東洋の神秘・サムライガール」として無理に納得する向きが多かった。「信じられないこと」が日常と化している覇道の世界では、彼女もほんのちょっとの違和感が通り過ぎた後で受け入れられることが、一つの予定調和になっていたのだろう。
 しかし──なお、不審を覚える者もいる。ウィンフィールドもそのひとりだ。なぜなら彼女は……今も護衛対象であるはずの鋼造に深々とお辞儀するなり傍に控える様子もなくスッ、と足早に去っていった。
「気になるのかね」
 比呂乃の背中を見送るウィンフィールドへ、当の「護衛対象(仮)」が声を掛ける。
「ああ。ボディガードとか言われている割に、あいつがあんたと一緒に行動することはほとんどない。『引退間近』って陰口叩かれてるクロ爺の方がまだ、それらしいことをしてる。だから本当はボディーガードじゃねぇな。もちろんメイドでもねぇ」
「うむ。そりゃあ儂だってあんな若い娘さんに身を守ってもらうためにわざわざ遠い島国へ行ってヘッドハンティングしてきたわけじゃないし、メイドの人手にも困っておらん。まったくもってその通りだ」
 鋼造の口振りが、少し引っ掛かった。
「ん? ……『遠い島国』って、ニッポンはあんたの故郷なんじゃねぇのかよ。えらく他人行儀な言い回しだな」
「ハハ、儂には──遠いさ」
 謎めいた微笑みを一瞬だけ表情に過ぎらせ、すぐに打ち消す。
「──それでな、ウィニフレッド。あの子は『裏』の出だ」
「『裏』──」
 そう言われて何かを履き違えるウィンフィールドでもない。
 彼にとって「裏」とは陽の当たらない世界──今日行ってきたばかりのあの学園とは対極を成す、弱肉強食の律に支配された無法と無道徳の放牧場に他ならぬ。
「日本を指して『サムライ』とはよく言われることだが、もうこの時代にそんな職は存在しない。長き鎖国は解かれ、江戸の治世も終わった。今や帯刀も許されず、あの子みたいに刀を持って道をうろつきでもすればたちまち警吏のお世話になることは確実だ。覇道の権力が行き届くこの街、この屋敷だからこそああも大っぴらに持ち運びできる。そもそも、婦女子が帯刀するなんてことは『表』の世界では到底考えられぬよ。『裏』──女子供でさえも駆り出される稼業だからこそ可能というわけだ」
 あの刀、そして普段の身のこなし──スタイルとして完成された歩法と体捌きを思えば腑に落ちる一面もある。「表」からああした女が出ないだろうことは、容易に分かる。存在として歪すぎるのだ。
「けどよ。それにしては──」
「綺麗すぎる、か?」
「ああ」
 「裏」の人間にはある種のシンパシーがある。法よりも欲、理屈よりも暴力が優先される世界に身を置いた者は独特の臭いが付きまとう。荒んだ、というよりも、どこか淀んだような。夜の底のどん詰まりに相応しい、鼻では嗅げない饐えた臭いが後ろめたく第六感を刺激する。それは親しみを感じるというより、近しいゆえの憎悪を沸かせる類の共感であったが、なんにしろ、闇に生き続け闇を征き続けた彼ならば同病者を楽に探り当てられるはずだった。あの、化け物じみた理事長みたいに。
 しかし、比呂乃にはそうした「距離の近さ」を感じない。少女の美しさや醒めた雰囲気は尋常ならざる性質を帯びているが、かと言って闇住まう世界特有の淀みや臭みがあるかと言えばそうでもない。屈託したところがなく、無垢とまでは表現できないにしても、非常に──そう、「綺麗」と口にしたくなるものが漂っている。
 何よりも「綺麗」と呼びたいものに触れてきたばかりだからこそ、よく分かった。
「そうだな、単刀直入に結論を述べてしまえば──彼女は人を殺したことがない」
「ないのか」
「ない」
「『裏』の人間なのに?」
「そう、『裏』の人間なのに」
 納得のいくことでもあり、不可解なことでもあった。別に人を殺すことが「裏」の条件というわけでもないが、立派な凶器となりうる刀を持っていることと、それを存分に振るえる身体能力があることを照らし合わせれば己ずと出てくる答えは「殺人」であろう。それ以外の使い道は思いつかない。
 家畜を捌くとか? 木を切るとか? まさか。刀剣の知識に疎いウィンフィールドでも、「人殺しの道具」であるか否かは識別できる。あんな長物、まず間違いなく人を殺すしか能がないだろう。鉈や鋸の代わりとして持つ意味は見出せない。
 それでも人を殺したことがないとなると──彼我の圧倒的な実力の差で以って殺さずに勝ち抜いてきたのか。戦う回数自体が少なければ強敵と出会う確率も減る。見たところ好戦的な人間でもなさそうであるし、確実に圧勝できる戦いだけをしてきたか。
 バカな。ウィンフィールドはその考えを打ち消した。
 誰だって──そう、彼だって最初から強かったわけではない。才能の違いはあれど、誰もが弱さから這い上がっていく過程で強さを磨き、自分のものとしていく。途中をすっ飛ばすことなんて不可能だ。強さを身に付けるには、徐々に実戦を重ねて積み重ねていくしかない。そして「裏」における実戦とは即ち殺すか殺されるかのレベルまでレートを上げないと気が済まない鬼神の賭場。殺しもせず殺されもせずに切り抜けるなんてヌルい真似が許可されるものか。
「おかしいだろ、それは」
「いやいや、そうでもないさ。彼女は『裏』の出ではあるけれど、本格的にそっちの世界へ慣れる前に追い出されたんだからな。稲田家は代々『裏』の稼業で闇に名を馳せてきた家系で、実力主義の方針からあの子も例外なく鍛え上げられた──文字通り、鉄を鍛錬するみたいに激しい熱で以って。そうして仕上がったあの子は『業物』と賞賛され一身に期待を浴びたが、つい先日執り行われた試験の結果で、一族を失望させた」
「試験?」
「ルールは極めて単純。一年に一度、稲田の名を継ぐ仮資格を得た候補者たちにそれぞれ一振りの刀を与え、争わせる。一対一の連続で紡ぐトーナメント形式とか、そんなまだるっこしいことはしない。バトルロイヤルだ。会場に候補者すべてを集め、蠱毒の如く殺し合わせる。なんでも数百年の伝統を持つ行事なんだとさ」
「なるほど、分かりやすいな。込み入ったところがない。で、『失望させた』ということはその試験に落ちたのか」
「落ちたと言えば落ちた」
 肯定する鋼造に対し、首を傾げる。
「いや、でも、『殺し合わせる』ってことは『試験に落ちる=死』じゃねぇか? 参加しなかったわけじゃないんだよな?」
「無論」
「だったらあいつ、なんでまだ生きてるんだよ」
「簡単さ。勝ったからだ」
「勝ったって?」
「候補者全員を倒したんだよ」
「はぁ? 落ちたんだろ? なのに勝ったって……」
 ふと、「彼女は人を殺したことがない」という言葉を思い出した。それと今の説明を組み合わせて考えるとすれば。
 信じがたいが、矛盾しない答えがある。
「もしかして、殺さずに勝ったっていうのか? 候補者──何人いたのか知らねぇが、そいつら全員に」
「人数か。確か十数人はいたと聞く。まあ、全員と一斉に戦ったわけじゃなし、半数は互いに潰し合った形になるだろう。死者が──当然、彼女の手によらない──何人か出ているからのぅ。とはいえ、あの通りあまり体格に恵まれていない『女』だからな。初の実戦ということで気を昂ぶらせ、『与し易し』とばかりに飛びついた奴も少なくはなかったそうな。それでも彼女は生き抜いた。勝ち抜いた。さすがに無傷とは行かず、当時の傷がまだ残っておるらしいが、致命傷を受けることなく最後まで会場に立っていた。相手の骨を砕き、昏倒させ、地に叩き伏せながらも一つとして命を奪うこともなく。なあ、ウィニフレッドよ。これを稲田家の連中が喜んだと思うか?」
「殺さずに済ませる技量は大したものだろうが──その姿勢を褒めるとは思えない。いくら強かろうと、『殺し合い』で殺せないんじゃあ、刺客には使えないだろ」
 迷わず答えた。「人殺し」を稼業とする者が、「殺してはならない」という条件があるならともかく、「殺さねばならない」という条件でそれを遂行できないとなれば大問題だ。根本的な機能に欠陥を孕んだ製品と同じである。無用の長物どころか、置くだけで害悪となりかねない。思想は毒だ。
 始末される可能性もあったはずだろう。あるいは、再教育という名の洗脳が施される可能性も。今もなお生きている事実と、鋼造の「彼女は人を殺したことがない」という発言を信じれば、その二つはどうにか回避されたみたいだが。
 しかし、なぜ。
「ああ、『稲田の名を継ぐ資格なし』ってことで破門されたんだ、あの子は。だから本当は『稲田』比呂乃ではないんだが、まあ稲田の威光がステイツまで届くわけでもなし、便宜上の姓として登録しておる」
「おいおい爺さん、なんで破門で済んだんだよ。そうした『裏』の家系みたいなのは東西を問わず秘密主義に徹するのが普通だろ。秘伝だか何だか知らないけどさ、とにかく情報が漏れるのを嫌がるじゃねぇか。だったらあいつ、殺されてもおかしくなかったはずだぜ?」
 いくら失敗作とはいえ、機密の含んだ「生ける武器」を野放しにするのは狂気の沙汰だ。社会の裏を安寧とする者たちは「開く」ことよりも「閉じる」ことを志向する。不要書類を破り捨てるのと同じ感覚で彼女が処分されても、条理には合う。
 彼女が紛れもなく今ここに生存している事実を鑑み、鋼造の話を疑った。
「資格なき者には死。確かに稲田もその則を採用している。武器として鍛えられた者たちを惜しげもなく殺し合わせ、仕事もさせぬうちに使い潰す。およそ効率的とは言えない。だが、事故死も厭わぬ厳しい訓練によって叩き込んだ戦闘の技能も、生死の境を分かつ細い糸──デッドラインを直感して事態に即応する精緻で繊細で何より大胆不敵な実戦感覚を体得させるまでは不十分。半端な殺傷・生存しか望めぬ未完成品を十つくるよりは、完成品たる一を求めて効率を捨てることの方が彼らの理念に添う」
 老人は溜息をついた。
「知っているだろう、ウィニフレッド。物の強度を具体的に確かめるには『どこまでやっても壊れないか』、言い換えれば『どこまでやったら壊れるか』、破壊を実践するしか方法がない。確かめることで対象を失いかねないというジレンマに囚われている。故に、強度を確かめながらも対象を残しておける策は、『同質のものを複数用意する』ことだ。それぞれの特性を活かすために異なる教練が行われていたとしても、『稲田を継ぐかもしれぬ』という仮資格を与えられた時点で候補者たちは同質のものと見做される。彼らは自らの強度を証明するために、自身を破壊する代わりとして他の候補者を殺し、『我に資質あり』と訴えるわけさ。それを、あの子は皆を戦闘不能に追い込んでずば抜けた強度を見せつけながらも殺さぬことで『我に資格なし』と断じ、稲田の理念を真っ向から否定した。それは侮辱といった域を凌ぎ、『殺せぬ者が勝ち残る』という不条理で以って稲田に矛盾を突きつけた。何しろ、あの子の在り方は途轍もなく奮っていた──」
 もはや見えない比呂乃の姿を探し求めるように視線をさまよわせ、フッと笑った。
「ウィニフレッド、あの子は『殺せない』だけではなかった。稲田があの子を『処分』ではなく『破門』で報いた訳は他にある。分かるか?」
「一つ妙に思ったことがある」
 突然の設問にも動じることなく、淡々と言葉を返す。
「ほう、なんだ」
「あんた、あいつの戦いについて語ったとき、『骨を砕き、昏倒させ、地に叩き伏せ』って言ったよな」
「うむ」
「そこに──あるべき言い回しがない」
 鋼造の顔が愉快げにニヤリと歪む。どうやら正答らしい。
「問題としては、簡単すぎたか」
「なあ、爺さん。本気であいつは、刀を持っていたのに『斬る』ってことをしなかったのかよ?」
「斬らなかったどころではない。あの子は、刀を鞘から抜くことさえしなかった。峰ではなく鞘そのもの、時には柄まで駆使したと云う。それは剣術よりも杖術に近かったのかもしれない。先を狙って打って出ることもなく、斬りかかってきた相手を火の粉を払うみたいに薙ぎ、打ち、突いた。固く縛った紐を解こうともせず、刀身を鞘に収めたまま反撃に特化して佇んだ。おかげで居合わせた者たちは誰ひとりとしてあの子の強さを実感することができなかったので、その連勝をただのまぐれと軽んじて頭を冷ます手間も放棄し、挑みに挑んだ。理屈も組み立てず、『俺なら殺れる』と童子の如く自らの力を過信して。そんな血に浮かれた者どもに直面し、最後まで冷静に動きを読み、誘導し、隙を突いて捌き切ったあの子は苛烈と華麗を窮め、さながら『迎撃の修羅』であったそうな」
「はっ……」
 思わず笑ってしまう。
 ジョークみたいな話ではあった。二つの拳であらゆる激戦を生き抜いてきたウィンフィールドゆえに彼女の技量そのものに関しての疑いは抱かなかったが、それまで実戦を経験したことがなかったであろう彼女が、少なくとも「同程度」と見積もられる輩を殺しもせずに済ませたという「事態の結果」が冗談の響きを放っていた。歴然たる力の差──つまりウィンフィールドの場合で言えばここのところ転々としてきたハイスクールにおける粋がったガキども相手の遊びめいた喧嘩ぐらい格差が付いてなければ「殺すのもバカバカしい」と手を抜いたりしない。敵が同程度なればこそ、容赦の念を介入させる余地はなかったはずだ。
 手を抜かず、容赦せず、だけど殺さない。全身全霊で不殺を貫く。そこが理解できなかった。
「そんなこんなで、多少の傷と引き換えに、罅だらけでほとんど壊れかけの鞘を手にしたあの子が勝ち残った。稲田家が状況を素直に受け入れたと思うか? もちろん、否だ。彼らはこの通過儀礼に等しい試験を信仰すらしていた。彼らもまた、その試験を経由した身であるからこそ、時代の変化も無視して共食いの蛮行を続けてきたのだ」
「なるほど。老害の連鎖ってわけか。腐った家系だ」
「あの子は『抜かざること』で以って彼らの教義へ根源的な疑義の刃を向けた。そう、きっと、あの子が戦おうとしていたのは稲田を継がんと血気に盛る若者たちではなく、稲田の中枢で狂った歯車を回し続ける年配者たちだったんじゃあないかな。殺すか殺されるかの淵に立たされ追い詰められた獣みたいに荒れ狂う受験者たちが本質としての敵ではないことを、戦う前から見抜いていた──」
 本質としての敵。その言葉に、鋼造は遠い目をする。何を見ようとしているのか。ウィンフィールドには、まだ分からなかった。
「そして、抜かざる覚悟──何があっても鞘中の刃に頼りはしないという命懸けの信念があの子の技を際限なく澄み渡らせ、その心を明鏡止水の境地にまで導いたのだと、遂には稲田家も認めた。死にたくない一心の生き汚さ、他人の命を奪う優越と快楽を原動力に刃を振り回した連中とは、視線の鋭さが違う。別に彼らも弱かったわけではない。生き汚さも、人の強さを支える一面を担っているんだからな。ただ、死を間近なものとしても貫ける信念を胸に抱いた無形の強靭さが、技量の範疇を超越して他のすべてと一線を画した。時には理想の精神が現実の戦力を退けることもある。そんな、まるで御伽噺を彷彿とさせる生い立ちが現在のあの子と直結しているわけだ」
「ふぅん、あいつが、ねぇ」
 ひと通り聞くと、興味がなくなったみたいに投げなり呟きを漏らす。少しは面白い話だったが、既に「異常が正常」という感覚が根付いているせいもあって、それ以上の注目を保つことは難しかった。彼女のことよりも、むしろ自分のこれからが気になっている。
 鋼造の話はまだ続いていた。
「所用で日本を訪れたときに、ある伝手からあの子のことを小耳に挟んでな。感じ入るものがあったんで、特に他意もなくスカウトしてしまった。あの子がこちらのことをどう思ったかは分からん。熱心に口説いたわけじゃないが、割合あっさり付いて来よった。ま、ずっと稲田の内で育ってきたせいか外の暮らしに慣れておらんで、堂々と腰に刀を差したまま道端に出てくるもんだから往生した。幸い人目がなくて面倒は起こらなかったものの、慌てるこっちに『──何か?』と顔の筋肉一つも動かさず涼しげに見遣るあの子がちょっとばかし憎らしかった。しかしそこが可愛くもあり、怒るに怒れなかった。うむ、あの子はきっとイイ娘になるぞ。但し、まあ、瑠璃ほどではないだろうがな」
「孫煩悩めが……」
 蔑む少年を無視して老人は締めくくりに掛かる。
「破門され、『稲田』の姓を名乗ることを禁じられたあの子は『不抜の比呂乃』と呼ばれた。字を思えば皮肉に聞こえるかもしれんが、惰弱者と謗られたわけではない。『不抜』という言葉には『揺るがぬもの』の意味がある。肌身離さず刀を持ち歩き、油断を最小限に抑えるよう心掛け、いつでも抜き放てる身構えをしている風に見えながらも、ここぞというときに限って決して抜刀しようとはしない。刀は峰であっても硬いからな。抜いて振るうとなれば相手の死を防ぎ切ることは叶わん。徹底して相手の死を拒んでいるのだ。だからと言ってむざむざ殺されてやる犠牲精神もあの子にはない。暴力そのものも否定しない。いざ荒事となれば、鞘を損なうことも忌避せず戦う。面妖と言えばこれほど面妖な剣客もいないだろう。刃を用いぬのに、刀に固執するなんてな。一度、杖術に切り替えないかと提案したこともある。なるべくあの刀に似せた形、材質、重量の杖を造ってやっても良かった。それが『──いらない』と頑なに首を振るもんだから、諦めざるをえない。刀をひしっと抱き締めて絶対に渡そうとしないし、自分以外の手には触らせようともしなかった。あの子にとって、あの刀はライナスの毛布──拠り所となる何かの象徴なのかもしれんね」
「──待て」
 キレイに話をまとめようとしたところで、声を挙げた。「不抜」云々と言われたことで、不意にある光景を思い出してしまったのだ。
「なんじゃ」
「『決して抜かない』とか言ってるけどよ……俺、あいつが刀抜いてるの見たことあるぜ」
「ほう。いつ、どこで、どんなふうに」
「夕方につまみ食いでもしようって厨房を覗いたとき、大根を桂剥きにしてた。滅茶苦茶巧かったぜ。片手で大根、独楽みたいに回して数秒で剥き終えやがった」
 あのときは普段比呂乃を胡散臭く見ているメイドや料理人も拍手して賞賛していたものだ。
「そうか。儂は玉葱を微塵切りにしているところを見たことがある。無表情でぼろぼろ涙を流すもんだから大層怖かったぞ」
「抜いてんじゃねぇか、バリバリに! しかも本来とは全然違う用途で!」
「あっれ〜? 言わなかったっけ。『ここぞというときに限って決して抜刀しようとはしない』って。要するに、『ここぞというとき』じゃないときはフリーに抜き放題ってことなんじゃがのぅ」
 なぜかとてもムカつく口調で言ってのける鋼造に殺意を覚えたが、即座に冷却して理性を取り戻した。
 つまり──稲田比呂乃は、命の遣り取りが絡むような事態においてだけは、刀を使わない。どうでもいいような、それこそ野菜を切るみたいにくだらない理由のときだけ、鞘から抜く。そういうことか。考えてみれば刀なんて差しっ放しにできるものではない。手入れをせねばならないのだから、厳密な意味での「不抜」は無理だろう。
 だからといって、これでは。
「理想を追う反剣士というより、単に頭のおかしい女じゃねぇか」
「とりあえずハサミがなくて困っているときはあの子に頼むといい。指定に合わせてキレイに切ってくれるぞ」
「『バカとハサミは使いよう』をいっぺんに兼ねるセリフだな、それ」
「おっと、こうしてはおられん。そろそろ瑠璃とお遊戯をする時間だ」
 時計を確認するなり、急にそわそわし出した。
 つくづく──孫煩悩の男である。財閥の総帥ともあろう男が、孫娘との約束に胸躍らせるとは。
「じゃあの、ウィニフレッド。明日に備えて今日は予習・復習に励むとよい」
 言い残すと、いつの間にかそばまで来ていたクロフォードとともに去っていこうとする。
 そのまま見送りそうになった直後、慌てた。
「お、おい待てジジイ!」
「なんじゃウィニフレッド、用があるなら早くしてくれんか」
「その、さっきから『ウィニフレッド、ウィニフレッド』って……いい加減この芝居を休憩にしてくれ。投げ出すつもりはねぇが、このまんまじゃ寛げねぇっての。そろそろこの格好を、」
「んー、ああ、それはダメ。NG。やめといた方がいい」
「なンでだ!?」
「だってほら、その声で元の格好に戻ると気持ち悪いし。『キャハハ、キモーイ!』『ボーイソプラノが許されるのは小学生までだよねー!』と笑われるぞ、お前さん」
「だから、声ごと戻せってンだよ!」
「オススメせんなぁ。声帯変換の魔術はの、繰り返し掛けたり解いたりしていると喉に負担をかける。あんまり頻繁にすれば喉を潰しかねない。と、いうわけでしばらくはこのままで暮らすといい。なに、せいぜいあと2年ほどの辛抱だ。慣れてしまえばあっという間さ」
「はぁ? このまま……あと2年……?」
 呆然とする。今日一日の長さを思えば、気が遠くなる悠久の年月だった。
「うむ、だもんで、お前さんのことはこれからも『ウィニフレッド』と呼ぶ。うっかり『ウィンフィールド』と口走ってしまわぬよう、第三者の耳がないときもな。クロフォードにも言いつけておいたぞ」
 隣で眼帯の老人が首肯し、「そういうことだ、ウィニフレッド」と言った。
 いつからいたんだ、クロ爺……と訊く気も失せる。
「お前さんも乱暴な口調は控えて、なるべくその格好に相応しい喋りを身に付けることだ。くれぐれもボロは出すなよ。出して一番困るのはウィニフレッド、お前さん自身なんじゃからな」
「ふっ……ざけ……っ!」
 鋼造は今にも飛び掛からんとする少年に背を向ける。
「──遊んでやれ、クロフォード」
「承知」
「っがぁぁぁぁぁぁ!」
 背後から響く、拳戟の音と乙女の怒号が混ざり合った素敵なカオス・ミュージック。
 それら一切を無視して悠然たる足取りで屋敷の方へ歩き出す彼の背中には覇王の風格があった。
「さて、儂は瑠璃と遊んでやるとしようかのぅ。今日はクトゥグアちゃん人形が届いておるはずじゃ」
 目的が孫娘との戯れであったとしても。

 少女の制服姿で拳闘に耽る己を客観視して穴に閉じ篭もりたくなるほど恥ずかしくなったウィンフィールドが拳を引いたのは、それから二分後のことである。頭に血が上った状態ではクロフォードに勝てない。けれど冷静になってしまえばこれ以上スパーリングを続ける気もしなかった。老雄との尋常ならざる拳打を経て、過熱していた脳味噌もすっかりクールダウンした。
 後に残るのは疲労と倦怠ばかりである。
 制服を乱し、頬を上気させ、目の端にうっすら涙を滲ませながら荒く息をつく彼の姿はいろいろな意味で危なかった。
「クロ爺、俺たちってさ……なにやってんだろうな……」
「………」
 半ば虚脱した表情で呟く彼の肩を隻眼の執事は黙ってポンポンと軽く叩いた。
 武骨な手が、やけに優しく思えた瞬間であった。

 途方に暮れた面持ちで自室に向かうウィンフィールドは途上、見知った者とばったり顔を合わせた。
「あ……」
「──ん」
 唐突なことだったので声を挙げてしまい、知らずうちに見つめ合う形となった。
 彩りの映える翠髪──比呂乃。ついさっきばかり、鋼造と話題に上げていた少女だ。着替えてきた様子もなく、メイド服のままで、片手には刀を握っている。何一つ変わりのない姿。改めて見るにつけ、おかしな奴だと思った。
「えっと──」
 いつもなら挨拶もせず通り過ぎるところだったが、直前に話題に上っていたこともあってか無意識に足を止めてしまった。他人に対しては無関心な素振りを隠そうともせず、平時ならば彼以上に華麗な無視を見せつける比呂乃も、なぜか今回に限っては立ち止まっている。
 無視して行くこともできる。何の用事もないのだから。しかし両者がこうして向き合ってしまうと、何もなしに通り過ぎることが不自然な気が高まり、「何かしなきゃ」という焦燥感に駆られた。
 差し当たって目礼し、無言のまま傍らを通過しようと試みた。
 すると。
「──おまえ」
「え?」
 予想もしていなかった声を掛けられ、反射的にビクリと身体を竦ませる。
「ウィンフィールドの、姉妹?」
「あ、ええ、はい。妹の……ウィニフレッド、です」
 どぎまぎしてしまったが、何とか受け答えした。
 彼女が自分のことを知っていることに内心、驚きを感じていた。これまで一度も言葉を交わしたことがなかったのだから、まさしく「意外」の一言に尽きる。
 うまくごまかせただろうか。
 ニッポンの伝統という「能」の面を思わせる静止した表情──蒼色の瞳が凝視してくる。
「──うそ」
「……!」
 全身の毛が逆立つような悪寒を覚えた。
 ──嘘って。
 この女、見抜きやがった……!?
 しくじったのか。いや、バレる要因はなかったはずだ。声も、格好も、仕草も擬装としては充分であるに違いない。鋼造、クロフォード、理事長──あの連中はあらかじめ知っていただけで、他の連中は誰ひとりとして疑いを掛ける様子はなかった。互いに顔を見知っている運転手も、気づかなかったみたいだし……
「おまえ、血と獣の臭いがする──あいつと、まったく同じ。ごまかしても無理」
 拙い英語で伝えられる、呆気ない真相。咄嗟に、自嘲の笑みを浮かべたくなる。
 「裏」の人間にはある種のシンパシーがある、と考えたばかりだったのに。不殺の剣客とはいえ、死線を潜り抜けた経験のある女ならば、染み付いて離れない彼の血臭を嗅ぎ取ってもおかしくない。思い至らなかった自分に腹が立つ。
「おまえはあいつ──そうでしょ?」
「ああ」
 ごまかせないなら、開き直るしかない。コミュニケーションの方針を変更しよう。
 警戒の念を周囲に放射するや、別の存在を探知した。廊下の向こうからふたりのメイドが並んで歩いてくる。聞かれるわけにはいかないと判断し、近くの空き部屋に連れ込んだ。
 きぃ……
 微かな音を立てて閉まったドアに寄りかかる。
 どう説明すればいいのか。始まりの言葉を探しあぐねる彼へ、比呂乃が問いかけてきた。
「趣味?」
「は?」
「趣味なの?」
 小首を傾げている少女──女装趣味があるのか、と訊ねているらしい。
「違う。俺にこんなことをする趣味はない」
 本当は肯定してしまった方が話はスムーズになるのだが──さすがにそれは誇りが許さなかった。
 こともあろうに、好きでこんな真似をしていると認めるなど、虚偽申告であっても万死に値する。確実に自分のことを許せなくなるだろう。
 あくまで、イヤイヤやっているのだ。しょうがなく、こんなことをしている。絶対に好きだからではないんだ。いや、でも、だからといって鋼造に服従しているわけでもなく、自分の意志に基づいているけれど、それは女装趣味があるからではなくて……
 そうした、自分相手にも道筋の立っていない説明を他人へ上手に伝える自信はなかった。彼自身が口下手だったし、聞き手である比呂乃も英語は堪能ではないらしい。完全な意思疎通を望むとなると、優に一昼夜はかかってしまうだろう。
 濁りのない、けれども無垢でもない醒めた瞳を見つめ返す。
「いろいろ──あって。趣味じゃないが、こうすることになった」
 まったく説明になっていないことは彼自身が痛感していたが、要するに、言いたいことはそれがすべてだった。
 これで納得してくれると話は早いのだが──
「わからない」
 そう、うまくはいかないみたいだ。
「ああ、でもな、その、いろいろあって──」
「いろいろじゃ、わからない」
 ひしっ、と見詰めて率直に言う。
 なんだよ、言えってのか。アーカムシティ中のハイスクールで退学処分を食らったこと。行き先が女子校であるプロセルピナしか残っていなかったこと。強制的にこんな格好をさせられ、不本意ながら登校するハメとなったこと。未知の花園で胸の高鳴る体験をしたこと。その全部を。
 少女は葛藤しているウィンフィールドに頓着する素振りもなく、淡々と、色の薄い唇でストレートに要求を紡ぐ。
「ちゃんと教えてちょうだい」
 ……ひとまず、「未知の花園で〜」という部分だけ除去して説明した。

 彼女の知らない単語や分からない慣用句を避け、訥々と語っているうちに、窓の外では陽が暮れかかっていた。
「おおむね、わかった」
 顎を引き、こくり、と神妙にうなずく。
 ただでさえ昼のことで疲弊していたウィンフィールドは重ね重ねぐったりした。
「そういうことだから、このことは他のみんなには黙っておいてほしい」
「みんな?」
「そう、みんな──いや」
 言ってから、この秘密を知っている人物のことを告げ忘れたことに気づいた。黒幕が鋼造であることは彼女も読み取れたであろう──なにせわざわざ学園まで迎えに来たのだ──が、念のために言っておくとする。
「ジジイども──鋼造とクロフォードのふたり以外、全員だ」
 言った直後のことだった。
 彼は頚部の前に握り拳を翳して、人差し指だけ跳ね上げた。
 ピタッ
 示し合わせたかのように、黒鞘の先端が指の腹へ押し付けられた。
 もちろん、突きつけているのは、比呂乃。
「──なんのつもりだ」
 眉一つ動かさずに訊く。
 喋っている最中に敵意を感じた彼は喉元へ鞘を突き立てられぬよう、咄嗟に指一本で受け止めたのだった。タイミングがずれていれば、突き指どころか骨折していたかもしれない。また、指が間に合わなかったら喉を突かれて噎んでいたことだろう。
 比呂乃の表情も動いていなかった。
 ──否。凍りついていた。
「呼び捨てにするな」
 冷たい声だった。ただでさえ温度のない声が今は一層、冷え込んでいるように響く。
「鋼造様とお呼びしろ──ウィンフィールド」
 もはやその表情は明確に修羅を覗かせていた。氷の中に眠る鬼。合図一つで目を覚ましそうな気配がある。
 それを見たウィンフィールドの反応は一つ。
「はん……」
 嗤笑。
 愉快だと、思った。
 たかだか敬称を省いただけでおとなしい振る舞いをかなぐり捨て、さも調教された動物みたいに食って掛かる、忠犬ぶり。拾われた時期は彼と大して変わらないはずなのに、こうも態度が異なるとなれば、笑うしかない。野良犬と、トレーナー付きの名犬──捨てられたとはいえ──の違いか。
 骨身にまで染み渡っているのだろう主従意識──反射的に嘲りたくなる。
 鋼造とこの少女の間で何があったのかは知らない。話のときも意図的に出会いの箇所を省いていた節があるから、複雑な事情があるのかもしれない。でなければ、こうも心酔したりはしないだろう。
「先に仕掛けるなんて──迎撃魔の看板は下ろしたってことか?」
「うるさい。言い直せ、早く」
「言い直さなかったらどうなるんだ? ええ? 抜きもしない武器で脅そうってのかよ。はっ、てめぇが爺のことをどんだけ崇めようと勝手だが、俺までそれに付き合う義理はねぇよ。まぁ、たとえ義理があろうと呼ぶ気はさらさらねぇがな。爺をどう呼ぼうが俺の自由だ」
 ドスを利かせても一向に声色は可愛らしいままで、そこが間抜けと言えば間抜けだった。挑発の意志は伝わるのだから問題ないが。
「貴様、その──えと、ふ、ふ、不遜?」
 単語に自信がないのか、不意に言い淀んだ。
「大丈夫、合ってる」
「──な物言いをやめろと言っている」
「やなこった、お断りだ。指図するんよ片言女」
 フォローはするくせに撥ねつける態度は強固だった。対峙する比呂乃は別段ショックを受けた様子もない。
 スッ、と静かに鞘を引き戻すと、流れるような動作で鯉口を切った。落ちかけた陽の光を跳ね返し、険悪な輝きが目を射る。
「なんなら──その格好に不必要なものを、切り飛ばしてあげてもいい」
 睨みもせず淡白に少年の全身──深緑の制服にパッケージされた細い身体の主に下部分を見遣る瞳は、蒼の中に「本気」の色を湛えていた。
 殺気はない。だが、ヤる気はある。満々に。
 脳裏をフラッシュバックするセリフが一つあった。

──『ここぞというとき』じゃないときはフリーに抜き放題ってことなんじゃがのぅ──

 つまらない理由でのみ、つまらないものだけを切る女。
 そう、つまりはそういうことだ。
 突き詰めれば、こいつは自分の価値基準で「つまらない」と判じたものを切ることができる──!
 ウィンフィールドのアレさえも、野菜みたいに!
「面白すぎるジョークだぜ……」
 言いながら、笑う素振りは一ミリもない。凍りついた顔で比呂乃を睨み据えた。
「安心して。殺しはしない。たとえあなたが『いっそ殺してくれ』と哀願しても」
 少女は体勢を沈ませ、低い位置を狙う構えを取った。スカート脇のスリットから白い素脚がこぼれ出るが、それに見惚れて隙をつくるほど、空気の読めないウィンフィールドではなかった。
「──それで、まだ訂正する気はないの?」
「くどい」
「そう。なら、ちょっと痛いかもしれないけど──我慢、することね」
「ほざけよ……!」
 バックステップ──吼える頃には既に距離を取ってファイティングポーズを築いていた。少女趣味の靴は頑健さに欠いていたが、致命的にフットワークが損なわれるでもなく、黒いニーソックスが張り付いた脚をしなやかに躍らせた。
 刀使い──サムライと鎬を削った経験は彼にもあった。故に鞘から抜き放たずに構える彼女のスタイルが「居合」と呼ばれるものということは分かる。太刀筋が読みにくく、リーチの見積もりを誤ってうかうかと圏内へ踏み入りでもすれば電光石火の斬撃に鋼の洗礼を見舞われる。喩え一撃目を運良く避けたとしても、計算し尽くされた追撃が退路を塞ぎ、逃れる目のない立体的な網を敷く。居合をマスターした者は鞘の中で相手の死を確認してから抜刀しているのではないかと疑うほど、迅速にして理詰めの利いた剣術を繰り出す。
 彼らの技は因果を掌に収め、抜くよりも先に殺してくる。現実の死は余禄に過ぎない。
 決定済みの運命を貫通する、徹甲弾じみた意志を具象の拳に結び付けて握り締め、「死ぬより先に殺される」矛盾へと立ち向かうことだけが唯一の対抗手段だった。計算は、前提が狂えばすべて御破算になる。
 この女には殺気がない──鋼造の言った「不殺」は恐らく本当のことだろう。「不抜」の方は嘘になりつつあるが。ともあれこの喧嘩、どう転んでもウィンフィールドが死ぬことはないと見えた。
 しかし──殺気はないが、本気なのだ。「切り飛ばす」を有言実行しようとしていることは退けることのできない真実。もしそれが実現でもすれば──人間としての生はともかく、男としての生が完膚なく命脈を断たれる。それこそ「ウィンフィールド」たるパーソナリティを殺害され、残りの人生を「ウィニフレッド」の名とともに送るハメになるのだ。ホルモンのバランスなんかもおかしくなったりして。
 洒落にならない。
(俺は俺だ。たとえ……を失ったとしても)
 だが、さすがにそればかりは願い下げであった。
 もちろんここに来て頭を下げるのも癪に障る。鋼造への敬意はたとえ暴落中とはいえまったく残存していないわけでもなかったが、「様付け」を強制されることは不本意であり、今日の昼もそれで腸が煮えくり返る思いをしたのだから、彼が憤るのは当然であった。
 とはいえ内心バカらしくもある。喧嘩の理由があのクソ爺を巡ってのこととは。とんだ三角関係だ。  いつだったか酒場でサムライが礼儀にうるさいことをネタにした与太話を聞いたことがあったが、よもや呼び方一つでこうも殺伐とした状況に発展するとは夢にも思わなかった。サムライ全般についてはよく知らないが、少なくともこの女の頭が固いことは確かだろう。理を説いても無駄だ。こういう奴は相手が自分の意見に従うまでゴリ押しの実力行使をやめない。
 こちらに折れる気は毛頭なく、あちらも同様。
 ならば、どちらかがどちらかを無理矢理に折るまで。
 ──よし、折ろう。
 答えに迷うウンフィールドではない。我の強さは筋金入りだ。
 一応彼としても殺害の意図はなかったが、もし死んだ場合は自分の弱さを恨んでもらうとした。
「刃向かう以上、相応しい力を見せろよ?」
 比呂乃は答えず待ちの姿勢を保持している。開戦の狼煙は彼が先に上げるしかないようだ。
「ひゅっ」
 呼気──リズムを刻む。肺から搾った息を吐き出し、全身の動きを把握して左右に揺れ、斬撃のタイミングを撹乱しながら突進した。血の通った機械、とでも呼べば良いのか。時に正確なテンポを蹴り出し、時にランダムな靴音を紡ぐステップ。
 腰まで届く髪を棚引かせ、空間を圧縮せんばかりの勢いで肉薄する。絨毯に水面のような波紋を走らせ、一片の慈悲も許さぬ殴打を繰り出す。告死の大鎌と化した拳──左フック。幾度となく冥界から死神を召喚してきた一撃は不吉な吐息を渦巻かせる。
 その時点で比呂乃は既に抜刀していた。引き下がった左手に残る虚ろな鞘こそ滑らかに弾け飛んだ緊張の残滓。銀の閃きは風を切り裂いて産声を上げ、斬界の外へ出ようとラインをズラした標的に、踏み込む足と揃って追尾する。切っ先が持ち主の意志を反映して醒めた光を宿らせながら一途に弧を描いた。
 深甚なる応酬は互い一手にして疾くも終端へ到達せんとしている。
 拳が先か、刀が先か。
 爪牙を削る野蛮な闘争の方程式が今ここに明快なる解を打ち出さんとしていた。

 が。

「あれ? ──おふたりとも、何をなさっているのですか?」
 誰だって車が急に止まれないことは知っているし、ましてブレーキの壊れた暴走機関車が怯えて叫ぶヒロインの目の前で都合良くギリギリに停止するのは映画の世界だけだと理解している。
 だからこそ、稚い少女の声を耳にするなりフルスロットで躍動する筋肉に歯止めをかけ、見事ピタリと止まってみせた少年少女は奇蹟の体現者に他ならなかった。架空の全米でスタンディングオベーション。
 だがエンドロールはまだ遠い。
「る、瑠璃……様?」
 風圧で比呂乃の前髪を浮き上がらせてほとんど額に触れかかっていた握り拳を開き、向き直るウィンフィールドと、彼の履いているスカートを半ば持ち上げる形になっていた愛刀を何も言わずに鞘へ戻して乱れた裾を直しつつ立ち上がる比呂乃。ふたりはさっきまで、互いの攻撃を避けようとして奇妙なよじれを描いていた。そのよじれが解けたとはいえ、なぜそんなものをわざわざ描いていたのか、謎はまだ解けない。
 不審がる気配をありありと浮かべてウィンフィールドと比呂乃を交互に眺める覇道瑠璃の後ろから、豪快な笑いを撒き散らして魁偉な相を持つ老人が登場した。
 言うまでもなく、鋼造である。
「否、否、訊いてやるな瑠璃。ここにいるふたりはな、とても人には言えないようなことに耽っとったんじゃからの」
「まあ」
 祖父の説明に目を丸くする瑠璃の前で、制服姿の少年とメイド服姿の少女は黙然と立ち竦んでいた。
 計ったようなタイミング──否、むしろ計ってなかったとは思えない頃合で現れた覇道ズに困惑する一方で、どうやってこの場を言い逃れしようか、離脱の案を練っていた。
 ボクたち、拳と刃で冷たく語り合ってました、てへ☆
 とはまさか口にしようもない。それこそ「とても人には言えないようなこと」である。相手が年端もいかぬ少女となれば尚更。
 どちらが先というでもなく、自然に目と目を合わせた。アイ・コンタクト。仲はともかく両者ともに練達の者だからこそ旧知の友人同士に等しい精度で以って意思疎通を可能とする。
(ウィンフィールド)
(あん?)
(おまえがどうにかしろ)
(はぁ? おいコラ比呂乃、てめ、全部俺に押し付けんのかよ)
(うん)
(うん、じゃねぇ!)
(うむ)
(うむ、でもねぇよこのボケが!)
(わたしにはどうにもできない)
 お手上げ、と両手で小さく万歳する。日本刀を持ったまま。その仕草には無表情な顔や場違いなメイド服と相俟ってどこかほのぼのとした雰囲気が漂った。メルヒェン。牧歌的と言ってもよい。
 や、役に立たねぇ! こいつは本気で使えねぇ──!
 意思疎通ができたからといって必ずしも状況が切り開けるとは限らないことを学習し、ウィンフィールドは人付き合いにおける階段を一歩分だけ上った。次の階まではまだまだ遠くずっと先だろう。
 隣にいるこいつのヘッドドレスを思いっきりはたき落したい、という衝動をぐっと堪え、さっきからやけに熱心な目をして説明を請っている瑠璃と相対した。
「お嬢様……」
「あら、何かしら、ウィニフレッドさん?」
「差し当たって申しますと──わたしたちのしていたことはちょっとした喧嘩で、お嬢様が気になさるようなことでは……」
「喧嘩? ちょっとした?」
「ええ」
「私、喧嘩はあまりしたことがありませんけれど──あなた方の喧嘩というのは、あんな風に激しく情熱的に絡み合うものなんですか?」
「激っ……情熱っ……絡み合っ……!?」
 攻撃と回避の交錯が結果的に編み出したもつれ合いは、傍から見ればそんな具合にいかがわしく映るのかもしれない。
 にしてもなぜ、この子は真っ直ぐな目をしながらこうも淫靡な口振りができるのか。
 ひとえに──
「瑠璃よ、瑠璃よ、世の中には好き合うからこそ、愛し合うからこそ争わずにはいられない関係というのがあるのさ……プッ」
 ──覇道の血のせいか。
 笑いを噛み殺す鋼造に質量化寸前の恨みがましい視線を向ける。隣の比呂乃も心なしか不満げな目つきをしていた。
「もしかして、その、おふたりはひょっとすると──」
 頬に両手を当てて赤らみつつ言い淀む姿に、ひどくイヤな予感がした。
 的中してくれるな、という願いも虚しく。

「百合、と呼ばれる方たちなのですか?」

 比呂乃が手にした愛刀を取り落としかける様子が視界の端に映った。なぜかその単語の意味は知っているらしい。
 限界を超えて蓄積された疲労が、津波となって自分を呑み込む錯覚に陥る。
 ねえ、どうしてそんな言葉を知っているの、お嬢様──
 問うまでもない。
 答えは一つ。
 この、下品なゲラゲラ笑いを漏らすまいと耐えてニヤニヤ頬を引き攣らせている老いぼれにあると知りつつも、ウィンフィールドの意識はすぅっとどこか遠くへ遊んでいくのだった。

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