ガールズ・ドント・クライ
第四話 「死角遊戯」


 一限目の授業が終わった。教室にざわめきが広がっていく。
 目に見えて柔らかな活気に膨れ上がった空間の中で生徒たちは隣同士会話しながら机の上に広げていた教科書やノートと筆記用具を丁寧に集めて机に仕舞うと、次第にぽつぽつ立ち上がり始めた。
 林立する緑。僅かに引かれた白いカーテンをぼんやり黄色に透かして降り注ぐ陽光が彼女たちの横顔や背を鮮明に照らし出す。輝きの暈を矮躯に背負い、曇りない若さを縦横に湛えて動く不可塑の瑞々しさは草木が宿す弾性に満ちた確かな手触りの生命力と似ている。
 まばらな木々に囲まれた森の奥の開けた場所に腰を下ろしているようだった。掌を縦にして出せるほどの薄い隙間を開けて風の通り道をつくった窓から廊下側へ流れていく空気もどこか都市とは遠い香りがする。
 夏を想った。芯からの安らぎに溢れる花園をとっくり眺め入ろうと立ち止まって屈む夏の貌を。
 セレスも教科書とノートをトントンと揃えた後、悠揚迫らぬ仕草で腰を上げる。わざわざ席を立つくらいのことに作法があるでもなし、注視する必要はなかったが、ウィンフィールドの視線は意識せず隣の彼女を追った。陽を受けるキレイな指先やすっくと伸びる背。近くに感じられることがなぜか気持ちよかった。
 次いで彼も手早く机上を片付けて立ち上がる。セレスと並ぶ形になった。
 座っていたときから分かっていたが、セレスは彼よりも背が低い。ちょうど鼻がつむじにぶつかりそうなくらいで、話しかけるときは自然に視線が下がる。
「……えっと、さっきの消しゴム、もらっていいの?」
「ええ、もちろん。大仰ね、消しゴムくらいそんなに畏まることないじゃない、ウィン」
 くすくすと、口に手を当てて笑う。
 授業中、ウィンフィールドは用意された筆記用具の中に消しゴムが入っていないことに気づいた。どうしたものかと困っていたところ、隣席のセレスが自分の消しゴムをカッターで二等分し、彼に手渡してくれたのだった。
 かつては稼ぎの伝手もなく食糧をはじめとして生活のためにコソ泥を働いたこともあるが、成長して周りから「最凶」と畏怖されることになった以降は己の腕で口に糊するようになった。そんな彼は他人から施しを受けることを嫌っている。覇道家に滞在している今は只寝只飯食らいに近い状況ではあるが、鋼造が「『恵んでやっている』なんて思ってはいないさ。儂を助けてもらったこともあるし、一応は報酬の後払いといった面もあるだろう。もっとも、儂は『前払い』と思っておるがな。お前さんはいずれこの家にとって必要な存在となる……そう見込んでいるからこそ、ここに留めておきたいのだ。なに、いずれこの程度では足らんほどの働きはしてもらうつもりだよ」と言うものだから、その理屈にごまかされたつもりで暮らしていた。
 たかが消しゴムの切れ端とはいえ、「貰う」ことには抵抗があった。それも、ただそばにいるだけで何やら胸を騒がせてくれる少女からとなれば尚更。直後の礼も尻すぼみになってしまったものだ。
「うん……ありがとう、セレス」
 それでもウィンフィールドは決まりの悪さ──というより恥ずかしさを堪えて、同じ礼の言葉を繰り返す。Thanks(ありがとう)の響きは懐かしく、舌にくすぐったかった。
「じゃあ、一緒に教室を出ましょう」
 もちろん拒むわけがなく、即座に頷いた。
 そして、なんとはなしに仕舞うことができず握り締めたままでいた消しゴムを、そっと意識せず制服のポケットに納めた。
 ささやかなお守りだった。
 本人にその気はなかったとしても。

 ちなみにこうした流れの裏には「消しゴムを貸してもらうことから始まるロマンス……正に男子の夢ではないか。ここでポイントなのは貸してもらうのが鉛筆ではないところだ。消しゴムは体積がちんまりと小さい分、手渡すときに指先同士が触れ合う可能性が高い! 指先から迸る、電流にも似た青春のパッション。ああ、考えただけでもステキすぎるわい。まあ、儂にはさっぱり縁がなかったけどな。さっぱり縁がなかったけどな!」と吼える某老人の企みがあった。筆記用具に消しゴムが用意されてなかったのはわざとである。指示して抜かせておいたわけだ。作戦の成功を信じて疑わなかった某老人は「してやったり」とほくそ笑みつつ、羨ましくてつい孫娘にこの消しゴムプレイをしてもらうよう頼んでしまった。十も過ぎて祖父からままごとをせがまれる孫娘も災難であった。ついでに、消しゴムを切るカッターが近くにないからと、愛刀で真っ二つにすることを強要された稲田比呂乃も災難と言えば災難であった。

 ともかく、セレスを含む数名の生徒と連れ立って教室を出たウィンフィールドは、セレスの背中に付き従って廊下を進んだ。背はずっと高いのに、まるで子犬みたいであった。
 そうやって転入生が「懐いている」事実を、並んで歩く背の高い少女がからかう。
「うわーセレスってば、笑顔一発で速攻落としちゃったね。すげーよ、マジで。瞬殺無音ってヤツ? なんとも破壊力抜群だね。下級生のみならず転入生まで効果範囲に含むとは。然り、『ほほえみキラー』の面目躍如だわ、こりゃ」
「そう? わざわざお褒めくださりありがとう」
 揶揄の言葉をさらっといなし、セレスは澄ましてみせた。
 端麗な顔立ちを彩る純度の高い微笑は駿馬となって虚空を駆け抜ける。これが下級生の心臓を流鏑馬の的に変えて瞬く間に射抜いてみせたであろうことは想像に難くなかった。
「でもねウィンちゃん、気をつけないと壺とか絵とか買わされるから、この子に懐くのもほどほどにね?」
「は、はぁ……」
 ウィンフィールドと同程度の身長を持った少女は、「馴れ馴れしさ」に突入する寸前の親しさで軽く肩を叩いた。言っている内容に反し、口調はソフト。冗談なのだろう。
「ベローナ、脈絡もなく人聞きの悪いことを言わないでください。ウィンも戸惑っていますよ」
「だってさー、セレスんとこマジで売ってるじゃん、壺とか絵とか怪しげなブツとか。正確に言うと『売ってる』っつーより『売れ残ってる』だけど。年単位で。つーか売る気あんの、あれ」
「あのね……」
 額を押さえて嘆息するセレスの横、話題から置き去りにされているウィンフィールドに気づいた、ベローナのそばにいる生徒──白に近い銀色の髪が涼しげな少女──は、すかさず声を掛けた。
「ウィンズロウさんのご両親は骨董品店を営んでいらっしゃるの」
「骨董品……では、本当に壺や絵といったものを売っている、と?」
「うん。私も一度行ったことあるけど、そうね……もう二度と行ってみたいとは思わないかな」
「ふ、ふーん?」
「狭いスペースに商品をごちゃごちゃと乱雑な並べ方をして、ベローナじゃないけど、心底売る気があるのかどうか疑問になるくらい。怪しい物もいっぱいあったし。変なオーラを出していたりとか。目を離すとちょっとだけ動いてこっちに迫っていたりとか。擦れて消えかかっていて辛うじて『夜に見るべからず』と読み取れる、ほとんど朽ちかけの札が張られていたりとか。怪しい物に惹かれる怪しい人しか通わない気がします。『薄気味悪い』の形容がホントよく似合う、そんなお店」
「そ、そう?」
 小声気味に淡々とさりげなくひどいことを述べた彼女は、それ以上に静かな顔つきでコクリとうなずく。
 今の説明にセレスがどんな反応を示すのか、ちらっと横目に探ってみたが、当の彼女はベローナに絡まれていてこっちの会話を聞いていないようだった。声も小さかったから、あまり耳に届いていなかったのかもしれない。
「ねえねえ、絶対に割れない壺とか置いてないの? 買いてー、あったら買いてー」
 ベローナ──ブルネットの少女は肩の上まで伸びた艶やかな髪を揺らしてけらけら笑った。
 対するセレスは苦笑い。
「もう、あまりしつこく言うと、本当に買わせますよ? そう……出所が不明で得体の知れないステキ在庫を」
 くすり、と漏らして言ったセリフだが、目は笑っていない。
 ふたりがじゃれあっているのであろうことは想像に難くないが、「ステキ在庫」とセレスが口にした際の響きはどこか阿鼻叫喚のテイストを放っており、そんな彼女自身ふざけながらも「笑えない気分」を密かに味わっているようで──傍らで微笑ましく見守るのは難しかった。
 廊下を折れ、一行は階段を下りていく。
 ふとウィンフィールドはこれからどこに向かうのか気になった。僅かな期間とはいえ、今まで他の学校に通った経験があり、教室移動自体が珍しくないことは知っている。ただなんとなく、引っ掛かるものがあった。
 自分を含め、彼女たちは教科書と筆記用具の類を机に仕舞い、手ぶらで教室を出てきたのだ。授業を受けるには必要となるはずの一式を欠いたままで大丈夫なのか、心配になる。
 だから、率直に訊いてみた。
「ああ、ウィンは今日の時間割知らないんだっけ」
 ベローナがあっさりと答えた。
「うん、次は体育だからね、今向かっているところは──」
 思い出した。教室に来る前、ある部屋で「ここのロッカーに入れておきなさい」と指示され、深く考えることもなく言われるままに登校前から持たされていた袋を放り込んでいたのだ。
 あの袋の中に入ってたのって、確か……
 瞬時にして青ざめる。
 もう聞くまでもなかったが、聞くより他に手立てはなく。
「──更衣室だよ」

 激甚なるショックが予定調和的に彼を打ちのめし、その両足をピタリと静止させた。

 場面は切り替わって、更衣室。
 ティーンの婦女子がさしたる気負いもなく身を包んだ制服を脱ぎ捨て、半裸の身体を惜しげもなく晒す男子禁制にして不可侵のサンクチュアリ。若い体臭が溢れ返るなかで少女たちは平時と変わらぬお喋りを続けつつ、ネクタイをほどき腕を伸ばして上着を脱ぐ動作を特に急ぎもせずのんびりと行っていた。
 異性ならばなんぴとであれ目撃することを許されない、まさしく秘密の花園。
 ウィンフィールドは、その片隅にいた。
 ──止めた歩みを再開するやすぐに打開策を打ち立てようと考えを練ったが、事実を知るのがあまりにも遅かった。混乱したまま目的の更衣室に辿り着いてしまい、中に入ることを躊躇っていると、「ほーら、入った入った」とベローナが背中を押してきて無理矢理入室させられた。入ったところで完全に思考停止の憂き目に遭い、これからどうすればよいのやら、まるで判断できなくなっている。
 同年代の女子はみんながみんな、まったくの無防備だった。
 それも当然、ここは男性がほんの数名の教諭しか存在しない場所であり、「異性の目を気にする」という機会がほとんどない。あの破格めいた理事長に相応しく、敷地内の警備も念入りに布陣されている。ウィンフィールド級の超戦士や人外の怪異ならばともかく、たかだか不埒な欲望を抱いた輩など、近づいただけで目を付けられ、いざ侵入でもしようものならたちまちのうちに取り囲んで確保される。まだ歴史が浅いこともあってかそうした椿事は数えるほどしかなかったものの、プロセルピナはあたかも「女神に守られている」かのごとく安寧が約束されていた。
 気を緩めている少女たちを叱咤するわけにもいかない。「着替えは更衣室で」という校則を順守し、教室で堂々と脱いだりしない分だけまだ良い方である。
 かくて、そのあられもない姿をみなひとりの少年の視界に収められているとも知らぬまま、着替えの手を悠然と動かしている少女たち。ウィンフィールドがそこにいて、こちらを余すところなく見ていることを知りながら、気にかける様子はない。本来ならば異分子として排除されるはずの彼を「同類」として捉え、存在と視認の権利を与えている。「与えている」という意識さえないまま、彼を許容してしまっている。
 己の五体が空気になった気分であった。子羊に紛れた透明人間。半ば妄想的なシチュエーションであり、思春期真っ最中の少年にとってこの状況は生き地獄に等しかった。
 彼の性遍歴についてとやかく言及するのはよそう。あえて書くとすれば彼は晩熟(おくて)であり、初心(うぶ)であった。それをからかわれることを一番に嫌っているため、たとえ相手が覇道鋼造であろうとセクシャル・ハラスメントな話題を持ち出されたら決闘を仕掛けるに違いない。既に似た事態が発生済で進行中とはいえ。
 とにかく、とことんジェンダー方面には弱かった。
 鬘である長い髪と、制服を着こなす痩せ型の身体、高く清らかな声。そして何より端整な相貌。
 この場にいる少女の過半数が抱く「男性」のイメージを覆した容姿は一切疑いを持たせる余地がない。手の届く距離、逃げ出せない地点に牙と爪を隠した狼が立っていることを知る手掛かりはすべて伏せられていた。見方次第では、絶体絶命。ウィンフィールドの心が少し濁るだけで、すべての少女はここから無事に退出することが不可能となる。
 紛うことなく、彼は生殺与奪の権利を握っていた。
 キリッ……歯を食いしばる。無法の法さえ否定するその身は「紳士」と呼ぶにあたわず、道徳も倫理も薄紙程度の脆い観念として認識している。彼女たちを襲うことが魂を焼く「罪悪」だと、確信することができなかった。
 呆然と──いくら内心で激しい懊悩に苛まれようと傍から見れば関係ない──突っ立っているうちに半数以上の生徒は着替えを終え、更衣室から出て行ったが、それでもまだ室内は欲望を煽らんばかりに布きれ一枚二枚に守られただけの「ほぼ裸身」群が確かな熱と香りを持って占拠していた。
 張り出した肩甲骨の優美なラインが官能を誘う。緩やかにくねる鎖骨が首の下に彫り込んだ翳りもどことなく艶かしい。若々しくて瑞々しい肢体をこれほど多く、これほど長く眺めたのは初めてで、異性を苦手と思いながらも異性に興味がないわけではない彼の精神を参らせる。
 特に、セレスティーナ──彼へ最初に言葉を掛けてくれた少女。
 無論のこと、彼女もウィンフィールドを警戒する素振りはなく、至って自然体で制服を脱ぐ。恥じらいのない仕草が、挑発しているようにさえ思えてくる。勝手な思い込みだ。クラスメートたちと一緒の更衣室で挑発する人間がどこにいる。
 ──徐々に晒されていく肌が、思考を奪う。
 抜けるような白さ、という言い回しはどこか戯れ言めいて聞こえる。だが、彼女は肌がガラスの透明さにも似た艶を帯びていた。光を当てられれば反射し切れず、屈折させてどこかへ照射してしまう繊細な魅力。強い輝きではなく、儚い輝きによって際立つ。螢の美しさだった。
 細く淡い色合いの川魚を女性の身体に喩える向きがある。セレスという少女を指すならば、むしろその魚が遊ぶ川の水だ。透き通り、水底へと視線を引き寄せる。
 裸の肩にかかる金の髪が扇情的で、どこまでも欲望が研ぎ澄まされていく。繊細なレース編みのブラジャーが覆う双丘は小さく、片手に収まりそうなほどであったが、「小さい」という事実は何の抑止装置にもならない。むしろ「片手に収まりそう」という何気ない連想が明確なイメージを喚起し、劣情と呼ぶしかない気持ちを膨張させる。
 まだ瞼には教室での微笑みが残っている。けれど、思い出せば出すほど、逆効果になった。視線が下がらないようにするだけで精一杯で──
 と、目が合った。
「どうしたの、ウィン?」
「え? ……な、なななんでもっ……ない……よ」
 どもりながら弱々しく首を振るウィンフィールドをしばらく疑問符付きの表情で見守ってから、彼女は着替えの作業に戻った。その姿を凝視しないよう、目を逸らす。
 けれど、肌の白さは網膜に焼き付いていて、視界の外にあっても「すぐそこにある」ことを思うだけで息苦しくなるほど昂った。
 知らず知らずのうちに顔が火照ってくる。暴れ回る心臓を感じて、困惑が加速した。
 感情を制御する自信はあった。闘争において冷静を失うことは死に繋がるのだから、一時たりとも気の抜けない日々を、珍しいものとも思わず今まで送ってきた。悪意を剥き出しにする人間たちにはすぐ慣れた。優しい顔をして近づきいざという時になって裏切る連中にも慣れた。最初は驚愕を余儀なくされた異形も、慣れた。
 心を鍛えよう。身体の強さを極めよう。何ものにも負けず、何ものにも揺さぶられない硬質な精神を持とう。
 ──力を得よう。
 己への誓い。己以外の何者も恃まぬ願い。
 人より獣に近い、生き抜くことに特化した存在となるため、感情を凍らせる術を学んだ。恐怖と危機に怯えてガタガタと震える弱さを捨て、たとえ自分の格上である相手でも平然と立ち向かうことにした。必ずしも戦う必要はなく、勝つ必要もない。勝ち目がなければ戦わねばいいし、戦わねばならないとすれば負けないように工夫すればいい。逃げようと、引き合いになろうと、命が保たれる限りは真の敗北ではない。
 もちろん逃げ出すことは屈辱だった。自分の弱さを自分で認める行為なのだから、ごまかしが利かない。それでも矜持のためだけに死ぬつもりはなかった。まだその頃は生きる目的があった。どんな奴とも戦って勝てる力を手に入れたときには、目的を失っていた。だから空虚な意志だけが残った。戦うこと。勝つこと。意味を見出せるふたつのことにだけ、すべてを傾注した。
 世界は広く、まだ彼はそのすべてを知っていない。だがそれでも彼なりの真実、否、真実であると信用できる想いがあった。
 自分は弱くなどない──少年が抱く唯一にして無二のプライド。
 なのに、それが、このありさまだった。
 歳の近い乙女たちが水も弾く白い柔肌を晒す光景に耐えかね、「敵前逃亡」と形容するしかない態度で目を背けている。正視できないというより、直視したい気持ちを抑えられない。未だかつてない異性への渇望の激しさに、心が千々に乱れていく。
 立ち去りたい──ここに留まっていたい。見たくない──もっと見たい。触れてしまうのが怖い──どうしようもなく、手を伸ばしたい。
 たまらず後ろを向いてすべての光景と欲望を遮断した。
 命に関わる危機であれば、たとえこんな状況であっても冷静に対処できたはずなのだ。少女たちを意識から外し、「危機」へと焦点を当てることで乗り越えることができる。信頼する拳を刃に変え、心騒がすこともなく暴漢だろうと怪異だろうと構わずブチのめしているだろう。
 しかし、ここには、本当に何の危険も潜んでいない。あくまで平和。歳若き小鳥たちが安らいで時間を過ごす平和だけがある。彼女たちを守る必要も、彼女たちと戦う必要もない。ウィンフィールドも同様に平和を享受していれば、それでいいのだ。
 完全無欠の「平和」には、己が積み重ねてきた剛拳の威力がてんで通じない。当たり前の事実だったが、彼にとってこれほど過酷な事実はなかった。戦うことしか能のない身を、戦ってはならない環境に置くことがつらい。
 この時この場において、彼は無力。一切の経験が役に立たず、部屋の隅で恥ずかしがりながら湧き上がる欲望の芽を摘み取る行為でいっぱいいっぱいだった。
「どうしたん?」
 近くで着替えていたベローナ──いつまで経っても制服を脱ごうともしないでもじもじしているウィンフィールドに訝しさを覚えたのか、キョトンとした顔で声を掛けてきた。
「え? あっ……」
 思わず声の方向に向いてしまい、言葉を失う。
 スラリと伸びた彼女の身体はひどく滑らかだった。構成する曲線が丸みを与えながらも、細いスタイルは若枝のしなやかさを感じさせる。薄くもなく、厚くもない、適度な肉付き。「無駄のない」という言葉がよく似合う。厳密な均整に支配された、もはや相関の次元で美しい肉体だ。肌の白が髪の黒に映え、見る者の目を一層惹き付ける。少年たちが思い描く理想のボディ──豊満な肢体とは異なっているものの、誰が見ても「芸術的だ」という観点を持つことは間違いない。貧弱な想像力では思い描くことさえ叶わない、理想を越えた更なる理想の結実。
 大袈裟だが、ウィンフィールドは「女体の奇跡」を思い知らされずにはいられなかった。
 ──世の中にはまだまだ凄い秘密があるもんだな。
 あまりの素晴らしさについ見惚れてしまう。頬の赤味が増した。
「おや? そーかそーか、なるほどね」
 彼の様子を見て、身体を隠そうともしないベローナが笑う。完成された肉体に相応しいようで、相応しくないような、少し崩れた気配を覗かせるスマイル。好意的な表現をすれば「愛嬌がある」とも言える。
 そこにふと、鋼造の茶目っ気が彷彿とされた。
「あの……?」
「いやいやみなまで言うなウィン。君がとってもシャイな子だってことは察したよ。あたしのすっげぇ冴えた直感でね」
「シャイ……」
 彼女がウィンフィールドの正体を知らない以上、そう受け取られても仕方ないことに気づく。
「みんなの前で着替えるのが恥ずかしいんだね。たぶんあれだ。君、ひとりっ子だったんでしょ? なんか箱入りっぽい感じするし。あたしたちとも接するのが慣れてないっつーかさ」
 別にひとりっ子は関係ないし、箱入りというのも全然違っていた。接するのが慣れてない理由は別にある。しかし説明するわけにいかない。
「いえ、ひとりっ子では……兄が……」
 一応、設定上は「ウィニフレッドにはウィンフィールドという兄がいる」ことを思い出し、ごまかすように言う。
「へえ、お兄さんいんの。いいなぁ……うちは姉貴ばっかでさ。三人も。ろくなもんじゃないよマジで」
「そうですか」
 としか答えようがない。あくまで設定上で、本当は兄なんて存在しない──正しく言えば、彼に「ウィニフレッド」という妹は実在しない。彼自身が演じているだけだ。つまりウィニフレッドとはベローナが今さっき思いを馳せた、「お兄さん=ウィンフィールド」の変奏的虚像である。兄弟姉妹の話題で盛り上がれるわけがない。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんで『ろくなもんじゃない』ですよ」
 ぼそっ、と会話に加わったのは廊下で一緒に歩いた銀髪の子。ほっそりした身体の割に、脱いでみると意外と胸の膨らみが目立つことが印象的だった。いわゆる「着痩せ」といった類。強く自己主張しているわけでもないのに、見つめていると鼓動が高鳴ってくるのを感じる。ギャップの威力というものか。
「レナのお兄さんか……確かにあれはね。さすがにあたしも願い下げってとこかな」
 うなずくベローナ。レナと呼ばれた子も、兄を貶されたのにコクリとうなずき返す。
 そばにいるウィンフィールドを見て、身内しか通じない会話をしていることに気づき、「あ、ごっめーん」と頬を掻きながら笑って謝った。誠意ではなく愛嬌で和らげる。そんな魅力が伝わってきた。 「この子はね、エレノア・ギャレット。あたしも含めてみんなは『レナ』って呼んでる。……あれ? えと、呼ばれてるよな? あたしの記憶力、確かだよね?」
「あなたの記憶力は微塵も保証しませんしあなたが健忘症だろうと知ったこっちゃありませんが、呼ばれていることは確かです」
「おとなしいけど平気で毒っぽいこと吐くから注意ね。ま、根はいい子だから」
 ギャレット。聞き覚えのある姓だった。確か覇道邸のどこかで耳にしたはず。アーカムシティの一区画で力の強い家。表では各種の卸売り業を営んでいるが、裏では酒の密売に関わっているブートレッガーだと専らの噂だ。
「よろしく、ウィニフレッド」
 比較的表情のなかった顔に少しだけの笑みが宿る。ペローナの言った「平気で毒っぽいこと吐く」が俄かに信じられなくなる、子供よりも邪気の抜けたにこやかさ。彼女はウィンフィールドにとって異質で、この学園においてはまったく違和感がない、「平和」と同質の匂いを醸している。
 廊下や先ほどの遣り取りといい、率直すぎるというか、言葉を飾らない印象は受けた。「毒」とまでいかないにしても。
 とりあえず、彼の顎のところまでしかない低身長の割に発育のしっかりした身体は「目に毒」と言えた。
「わたしの方こそ……よろしく」
 やはりこの声、この口調には慣れず、たどたどしい喋り方になってしまう。
 エレノアはにこやかな顔を崩さぬまま頷くと、ふと笑みを引っ込め、ベローナに首を向けた。
「──そういえばベローナもまだ自己紹介してませんでしたよね」
「あっ、そっか! やべぇ、完っ璧に失念してた」
 ぺしりと自分の額を打つ。長身の彼女には不思議と似合った仕草であった。「じゃ、私はもう行きますから」と更衣室を出ていくエレノアを尻目に、ようやくウィンフィールドへの挨拶らしい挨拶を始める。
「っと、今更はじめましてもないけど、そんなわけであたしはベローナ。ベローナ・トンプスンね。さっき言った通り三人の姉貴がいて、あたしは四番目。妹はいないけどね、末っ子だから。んー、趣味は強いて言や土いじりかなぁ。こう見えて結構植物とか好きなんで。まー直射日光に弱い方なんで長時間外にはいられないヘタレだけど。食べるときは肉でも野菜でも。特に好き嫌いないし。それから特技……はなんかあったっけかなぁ……」
 思いつくまま口にしているふうだったベローナが、不意にハッと顔を上げる。
「つーか、あんたの着替え! いくらなんでもそろそろしないともう授業始まっちゃうよ」
「あ……」
 言われて周りを見渡し、ほとんどの生徒がいなくなっていることに気づく。残っているのは彼と着替えかけのベローナ、そして既に着替え終わっているセレス。彼女はいくらか心配している面持ちでこちらを見ている。あと三名ばかりのんべんだらりとしている名前の知らない女子もいたが、彼女たちもあと少しで体操服姿に変わるところだった。
 それに対してウィンフィールドはまったく着替えていない。制服のタイすら結んだままだ。時計に見るに、急いで着替えねばならない。
 ──この時に至ってようやく彼は一つの危機、見逃していた破滅的クライシスと直面した。
 更衣室でクラスメートたちが制服を脱ぎ、半裸になって体操服へ着替える様を嬉し恥ずかし暴発寸前といったムードで眺め、抑えがたい欲望と戦うことに並んで避けがたいもう一つの試練。
 何より、彼自身が、ここで着替えねばならないということ。
 今頃になって状況の危うさをまざまざと思い知らされた。
「ほら、これがあんたの体操服よね?」
 見る間に手早く着替えを終わらせたベローナが、ウィンフィールドへ割り当てられたロッカーを勝手に開け、中から体操服の詰めた袋を取り出して彼に押し付けた。
 反射的に受け取り、のろのろと開いて中身を取り出したが、そこでどうすることもできず固まってしまった。
 バレる。今、ここで着替えたらバレてしまう。
 己の状況判断能力がかつてないほど低下していたことを知って、胸の奥が重くなる。
 もっと早く事態を理解し、対処しておかねばならなかったのだ。こうしてベローナに注目される前に部屋の片隅で見られないよう気を払ってこっそりと着替えるか、なんとかごまかして更衣室から出てトイレの個室なり何なりで着替えてしまえばよかった。
 授業開始の時間が迫り、いかにも面倒見の良さそうなベローナが「早く着替えろ」と視線で促し、着替え終わるまで注視して待つ姿勢を崩さない現状となっては、その手は使えない。
 なら、せめて。ベローナたち、今残っている女子に背中を向けてくれるよう頼んでみるか? ベローナは秘密を隠しているウィンフィールドのことを「シャイ」と思ったようだし、「着替えを見られるのが恥ずかしい」と言って懇願すれば、全身で「平和」を体現する善良極まりない少女たちだ。聞いてくれるかもしれない──
 悪くない案だった。
 せめて咄嗟に言い出せていたならば。
 しかし遅かった。せっかくの考えも、間に合わなかったのだ。
「ああもうじれったいなぁ。ホント、時間ないし。強引だけど、ごめんね」
 シュルリ
 鮮やかな手つきで、一瞬にしてタイがほどけた。首の周りがスッと擦れる感触でそのことを悟った。
 ベローナの手に収まったタイ。彼女が今これから何をしようとしているのか。イージーすぎるクイズ──分からないわけがない。
「──あたしが着替えさせてあげるよ」
「え……?」
 優しく微笑んで、制服の裾を掴む。まったく悪意のない、あくまで善意の延長線上にある行為として、強硬手段を取っていた。
「ほら、身体硬くしないで、任せて」
「で、でも、」
「あたしんとこ姉貴ばっかで妹いなかったからさ、こういうお姉ちゃんらしいことって、してもらったことはあってもしたことないんだよねー」
 と、「したことない」のセリフに反した巧みな手つきでウィンフィールドの制服を脱がした。それは「末っ子の妹」という自己申告を疑わせる、とても堂に入った熟練の技。世話を焼かれてきた者でありながら、世話を焼くことに精通している不思議を実感させる。
 実感させられているうちに涼しくなった。被服防御力、保温と被覆の面で減少。
 半袖の制服を失い、彼はシンプルなデザインのキャミソールをまとった上半身を晒す。無地の白。胸のあたりが申し訳程度に隆起している。詰め物だ。ブラジャーの下に綿入りの布を忍ばせ、少年ではなく少女として映るよう擬装していた。揉まれでもすれば即座にバレることは必定だったが、幸いこの学園にそうしたセクハラをしてきそうな生徒はいなかった。それだけは安心していいだろう。
 だが、キャミソまで脱がされたら隠し切れない。この薄着に防御された状態でも僅かに透けて見えるので既にギリギリだったが、着ていない状態ともなれば一目瞭然である。バレない、なんて楽観視は死を意味する。
 もはや、これまでか。
 諦めるしかないのか。
 暗い気持ちに蚕食されていく。
 心が、挫けそうだった。さっさと隠し事をやめ、何もかも告白して楽になる誘惑に駆られる。諦めれば、もう苦しむことはないのだ。諦めれば、それで済む。良くも悪くもゲームセット。
 諦める──
 諦める?
 言葉を反芻し、弄ぶように繰り返す。

 諦める。
 諦める。
 諦める。

 その響きはなんて──ウィンフィールドの魂を滾らせるのか。これだけ切羽詰った状況で、ふてぶてしい嘲りと、仮借なき怒りが込み上げてくる。速やかに動揺が消えていった。
 もし、誰かが訊ねたとする。
「諦めるのか?」
 その問いを、彼は思い切りコケにして、笑い飛ばすだろう。
 彼は何よりも、他の誰よりも、彼自身を恃む。
 諦めない──それ以外の選択はありえない。諦めるべき状況に出遭ってこそ、彼は諦めない道を選ぶ。どんな不本意な決断であれ、彼は「決断しない」──つまり、「諦める」ということをしなかった。屈辱も汚辱も呑み込み、諦めの念を吐き捨てて決断した。辱めを厭わず、代わりに諦めを憎んだ。自分で自分を見捨てるのはごめんだった。
 そうして生きてきた。他の生き方を知らなかった。諦めない心が彼の精神を規定していた。
 だから、ウィンフィールドという少年の決断はただ一つ。果敢であること。それだけだ。
 彼の心意気に答えんとばかりに、ベローナが剥いだ制服から何かがこぼれた。反射的に空中で拾う。それは──
「消しゴム?」
 セレスが分け与えてくれた欠片。なんていうことのない、けれど、何よりも心強い象徴。
 これを、勇気に変えよう。
 指先に力を込める。爪で一部をえぐり、欠片から更に小さな欠片をつくった。押し潰し、練り、球状にする。時間にして僅か二秒。
 準備は整った、と判断した。
 そして、迷わず指の力だけで打ち出す。無音。第一関節から先が霞んでブレた。
 戦闘の到達者が放つ指弾は神速の域に及び、荒事と縁のない少女たちの動体視力では捉えられない。彼女らの間をすり抜けるように突き進んだ極小の塊が、対角線上の標的に命中する。
 ピシッ
 小さな音。驚いて、みんな振り返った。
「あっ」
 セレスが悲鳴じみた声を挙げた。
 標的──ロッカーの上に置かれていた一個のバレーボール。誰かが置き忘れたものか。事情はどうでもいい。ただ、そこにあったことが彼にとっての僥倖だった。
 スケールの差を考えれば通常、消しゴムの欠片など、なしの礫とばかりに物ともしないはずだ。しかし、ウィンフィールドの込めた尋常ならざる威力が、ほんの少し──辛うじて目視することのできる分だけ、動かすことに成功した。元々不安定な位置に置かれていたボールはたまらずバランスを崩壊させ、ゆっくりと、じれったいほどゆっくりと、落ちていく。
 その瞬間、ウィンフィールドは少女たちの死角に立った。誰も彼を見ていない。全員が全員、落下するボールに目と意識が行っている。
 絶望は泡沫となった。
 快哉を叫ぶことはない。雄叫びも封じた。絶好のチャンスを活かすため、己を律し迅速にミッションを遂行する。
 単純明快な目的がある──その事実は清々しかった。

 落ちるバレーボール。
 持っていた体操服の上下を真上に放り投げると、返す手で頭を掴み、鬘を剥いでそれも投げた。キャミソールを脱ぐ。飾り気のないブラと、明らかに詰め物と分かる布が見えた。誰も視線を戻しない。絶対時間は続いている。

 落ちるバレーボール。
 腕を突き上げ、跳んだ。飛翔するための運動エネルギーを使い果たして上空で重力と釣り合った服を、掴む。足が地面に達するまで待たず、空中で着衣。まばたきする間もなく袖を通した。靴底はまだ空気を踏んでいる。ハーフパンツと鬘はまだ宙に浮き、徐々に落下を始めている。

 落ちるバレーボール。
 後転。オーバーヘッドキックの要領で身体を倒し、スカートを翻らせ、つま先をハーフパンツの僅かに開いた口へ差し入れる。慎重に。急いで。針の先に糸を通すどころではない集中力で、屈した膝を伸ばしていく──片足を通すことに成功。続いてもう片方の足──これも成功。

 落ちるバレーボール。
 そろそろ地面が近い。倒立気味の姿勢で腕を伸ばす。掌が更衣室の床に接した。そのまま身体を支え、短パンが重力に引かれて足を下がってくるのを待つ──待つ。衣擦れの感触。膝のあたりを過ぎたところで引っ掛かった。肘を折り、バネを一瞬溜めて跳ね起きる。跳ね起きながらハーフパンツを引き上げ、スカートを脱がぬまま履いた。

 落ちるバレーボール。
 最後のドッキング対象は、長髪の鬘。後方に腕を振り、ヒュドラの蛇頭の如く四方に広がりながら降下する塊を勘だけでキャッチしてみせた。激しい運動に乱れた短髪を手早く撫で付けた後、流れる勢いで被る。鏡を見る暇もないし、細かいところまでは整え切れないが、残された猶予──コンマ一、二秒で許される範囲において髪を梳かした。

 落ちるバレーボール──

 ターン、タン、タン、タタタタン……
 乾いた音を立てて跳ねるボールから意識を引き戻し、ウィンフィールドに向き直ったベローナは、そこで脱ぎ放たれたスカートを手にして既に着替え終わっている彼の姿を目撃した。
「え? ……あれ? あれれ? ウィン、いつの間に着替え終わってんの? あたしが目を離したのって一瞬……だよね?」
 奇術師のイリュージョンに幻惑される観客さながらの反応。「落ちるバレーボール」が注意を逸らすレッドヘリングになっていたことにも気づかず、ただただ呆然としている。
「ん……一瞬ってほど、短くもなかったよ……?」
 早業すぎることがこの緊急回避の欠点だったが、彼女は正確な時間を計っているわけでもなかったし、多少のごまかしは利く。早く授業に出ようとせっつき、うなずきながらも納得いかない風のベローナを引っ張って更衣室を出た。
 他の女子たちも続く。
「?」
 最後に出てきたセレスは、バレーボールが落ちる少し前、音がして振り返った途端、自分の顔に何か──つまりウィンフィールドが打ち出し、バレーボールに当たって跳ね返った指弾──がぶつかる感触がしたことに首を傾げながら、更衣室のドアを閉めた。

 体育の授業。ウィンフィールドは精神的な疲労もあって動きに精彩を欠いていた。
 それを目に留めたセレスは心から労わるように「体調が悪いなら、先生に申し出たら?」と提案してきた。
「あっ……」
 言われて初めて彼は「見学」という手段があったことに思い至り、余計にぐったりした。

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