ガールズ・ドント・クライ
第三話 「光射す花園」


「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 爽やかな朝の挨拶が澄み渡る青空へ響いて拡散する。
 女神の庭に集う乙女たちは曇りない笑顔を浮かべて背の高い門を潜り抜ける。
 穢れることを知らぬ心身を包むのは、深い緑が沈む制服。
 スカートのプリーツも乱さず、白いセーラーカラーも翻らせず。ゆっくりした足取りは、ここでのたしなみだろうか。遅刻ギリギリになって駆け込む生徒は、いそうもない。そんな、心身にまとわりつく爽やかな空気がどこまでも鬱陶しく、気持ちを滅入らせた。
 かくしてプロセルピナ女学園である。
 少年としての声を奪われたショックから叫び続け、叫び疲れて茫然自失の有り様でベッドに伏して眠り込んだ翌日。もう早速登校を開始しなければならないと、クロフォード越しに通達が来た。聞けば、既に入学の手続きや制服一式、教材一式の準備はとっくに済ませているという。提案を受けたつもりもないのに、ショックが抜け切らないことに付け込んで用意が進められ、抵抗する気力も湧かぬうちにこの場所へ連れて来られた。物事を考え、判断を下すことが、半ば面倒になっていた。
 学園の歴史はそれほど古くない。創立はウィンフィールドが生まれるより以前だが、覇道鋼造の生年よりは後である。幼稚舎から大学までの一貫教育を謳い、乙女のみを対象にして運営を続けてきたこの学園、調べていけば20年ほど前から覇道の影が見え隠れするようになっている。そこに何かしらの陰謀を感じるウィンフィールドだったが、まず彼が立ち向かわなければならないのは遠く覇道邸の奥に鎮座する黒幕よりも、現時点で間近な乙女の園だった。
 女学園というくらいだから当然、視界を埋め尽くす人間はみな少女たちだ。若さと裕福さを全身から垂れ流し、「自信など勝手に溢れ出す空気みたいなもの」と無意識に思い込んでいて、誰もが驕らず遜らず自然のままの「自分」を保っている。生きていくために競争するという雰囲気が、まったく感じられない。何も奪い合わずに暮らしていけると信じているような、ある種異常な穏やかさ。
 初めて海を見た人間が抱く気持ちに等しいものが、夏の陽気のもとでゆっくりと胸の底から立ちのぼってくる。精神の蜃気楼。感じることはできても決して掴むことのできないぼんやりとした像が、思考を麻痺させる。
 生むよりも奪う方がたやすく、和解するよりも殺し合う方が明快──無法の法さえ捨て、人であるための最低限事項すら放棄してしまった怪物どもが闊歩する街の影のそのまた影で生命の浅ましさをつぶさに目撃してきたウィンフィールドにとっては、平和すぎる雰囲気が却って不気味だった。かつての彼ならば近寄る理由もない縁遠い空間であり、あそこへ入っていかなければならないことは、なんとも言えぬ精神的苦痛を喚起させる。中に分かりやすい敵──殴って殺してハイおしまい──が待ち受けているのではないのだ。こともあろうに、あの羽のような軽やかさでふわふわ歩く少女たちと机を並べて勉学に励まねばならないとは……血と暴力よりもずっと、胃に悪い。
 そもそも彼には同年代の異性と仲良く何かをした経験がほとんどない。「ほとんど」とは大昔にそんなことをしていた記憶があるからだが、もはやそれも頭の中の靄へ入り込んで細部が曖昧で、ただ「あった」という事実を明記する役割しか果たすことができない。流浪の身となってからは他人と「仲良く」する機会自体が減り、一時的に「仲良く」なったところでさほど時間も経たぬうちに別れ別れとなることが多かった。時に裏切りの苦い味を舐めたこともある。一度や二度ではない。ひとりでいることが一番行動しやすいのだと実感してからは、「仲良く」の概念が喪失した。力を身につけ、強くなりすぎたことが災いした。
 そのツケが今になって回ってきている。穏やかな微笑みと、どこか甘い体臭に満ちた群れは兎とか羊とか、そうした獲物めいていて──自分は簡単に「狩る側」へ回ることができるのだと自覚している分、居心地が悪い。覇道邸には慣れてきたが、あそこはまだ警戒心や破壊欲、好戦的な感情、世を恨む憎悪が渦を成している部分があり、元から馴染みやすかった。
 しかしここは、多様性がなく、とても脆そうだ。外部からの悪意に対して無防備に見える。「返し」の付いた高い塀、頑丈な門、周囲は開けた視界など、物理的・立地的な面では抜かりない。ただ、収められた人々が他者の悪意に無力な、か弱い存在に映って仕方ない。まるで逃げ惑うしか能のない羊のように。
 ──奇妙な気分がする。まだ何もしていないのに、既に何かを掌に収め、どうにでもできる権利を得たかのような。それでいてどこか、己の方こそが絡め取られそうになっているような。
 彼女たちは抗う術を持たない羊たちであり、自分は些細な警備など乗り越え一方的に狩り尽くすことのできる狼だ。なのに、するべきことは猟ではなく、羊たちと「仲良く」すること。騙し油断させ隙をつき喰らうわけではない。ただ仲良くなるために、仲良くする。狼が羊の群れに紛れて楽しく折り合う、なんて。
 本当にそんなことができるのか。全生徒、もしくはほぼ半数が同性であったこれまでの学校でも無理だったというのに。
 自信はない。経験に裏打ちされたものがないからだ。正直に言って不安を感じる。羊の皮をかぶってはいるが、気を抜けば呆気なく脱げてしまうかもしれない。羊たちの群れに、突然狼が現れればどうなるか。歓迎などありえない。想像しただけで憂鬱になる。
 憂鬱──忘れていたというより、名前の知らなかった感情。最近になって知った。重く肺腑に沈むような、無形の苦しみ。そうした形のない印象に名前を与えることで輪郭ができ、次第に他の諸々と整っていって、関連の中で呼び指し示すことができるようになるのはなかなか面白い。面白い。確かに面白いが、愉快ではない。知らない方が便利で気楽なこともある。「憂鬱」は、知って得するものでもない。
 沈んだ気持ちのまま、ウィンフィールドは歩き出す。背中に孤独を引き連れ、門の向こうに覗く女神像を見据えて。
 自信はないし、不安だ。「憂鬱」という感情も湧いている。フィジカルな面では何ら問題がないにも関わらず、心情的に劣勢である。そのことは内心ながら認めている。
 だからこそ、ここで臆して退くのは、彼の流儀ではなかった。
 経験することを恐れるのはバカらしい。呑気にしている羊たちの後ろで狼が怯えているなんて、ジョークにもならない。
 牙を隠し爪を隠し声すらも隠し。不利を承知で、戦ってみよう。
 変化を厭わない──何がどう変わっても、俺は俺だ。
「ごきげんよう」
 横合いからの挨拶。首を振り向ける。
「ごきげんよう」
 想定していた分、スムーズに返すことができた。
 挨拶をした少女は不審の目を向けることもなく歩み去っていく。うまくいったことで心にかかった重しが取れ、背中を後押しされているような気持ちになった。
 ともすれば淀みがちな足を一歩一歩、着実に進めて、門を潜る。
 学園の景色が飛び込んできた。終わりかけている春を惜しませる美しさに、足取りが少し軽くなる。色彩が彼を導いていた。
 初夏の花園へ。
 ほんの僅かに不安を溶かした深緑の少年が飲み込まれていく──

「私がプロセルピナ女学園理事長、アイナ・トーテップであるッ! ──と邂逅一番に叫んでみるのはどうだろうかな、ウィニフレッド君」
「どうもしねぇよババア」
「ババアって言ったね!? 孫にも言われたことないのに!!」
「いるのか、孫」
 しげしげと、興味深く観察の目を向けるウィンフィールドは、「緊張」の二文字とは無縁の自然体で立っていた。

 理事長室。
 窓の向こう、木々は燦々と輝く陽光を受けて黒いに近い濃緑の葉を繁らせている。
 その光景を背に、机上で腕を組み彼と正対している女は、いかにもわざとらしく「傷ついた」といった風情の表情をしている。
 ──まだ若い。
 見るにせいぜい、30代前半。どんなに行っても40の壁は越えていないだろう。黒く艶やかな光を放つ頭髪は、ほとんど金属のような硬質さを発していた。前髪の格子に隠れた眉は細く、見分けることが難しい。粘ついた潤いを保持する瞳は赤く爛々とし、どこか両生類じみた怪しさを感じさせる。
 まずもって尋常な人間とは言いがたかった。
 印象を一言でまとめれば「漆黒」。しかし、のっぺりと無表情な宵闇のそれではない。夜に燃え盛る炎が四方へ懸命に舌を伸ばしながらも、あと一歩というところで届かせることができない場所にある闇。火明かりによって存在を強調される光沢を帯びた墨色の空気だ。
 ──とち狂っている。余すところなく光が降り注ぐ手弱女の庭園に相応しい存在であるわけがない。猫と鼠を一緒のケージで飼った方がまだマシだ。
 ああ、まったく、こいつは狼よりタチが悪いな。羊も狼も牧羊犬も牧童も一切合切、食い尽くしてなお足りそうにない。底なしに深い飢え、極上の獲物を追い求める貪欲さ。ついさっき、自らを狼に見立てた行為が可愛くなる。狼が史上最強というわけじゃないのだ。
 ここには、こんな化け物がいやがるのか。
 ちょっとだけ、嬉しくなる。
 己と同質、否、それ以上かもしれぬ凶悪な存在を前にしてようやく彼は寛いだ気持ちになった。戦いうことでしか糧を得られなかった若き魂は神の憐れみを知らず、牙なき少女が行き交う庭よりも戦場のキナ臭い危険が香る一室でこそ安らぎを覚える。因果で滑稽な心理だった。
「ま、いい。君の暴言は不問にして、ついでに我が学園への入学も認めよう。寛大だなぁ、私は。君もそう思うだろ? んん? んんん?」
「うるせぇ。返事をねだるなババア」
 話があらかじめ通っているとはいえ、実にあっさりした口ぶりに、ウィンフィールドは眉根を寄せた。女学園の理事長がいとも簡単に男の入学を認める。世間の常識とは乖離した裏世界の血に汚れた道を歩んできた彼でも違和感を受け取らずにはいられない決定であり、態度であった。
 そんな思いを斟酌したのかどうか、アイナはくっくっと呻くように笑った。卑しい響き。こいつは本当に学園の理事長なのか、と疑いの念が芽生えてくる。
「鋼造君は以前から面白いことを考え付く男だったけれど、今回もまたなかなか腹のよじり甲斐がある悪戯だねぇ。ホント、彼はいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも笑わせてくれる。お茶目というか、大した道化だよ。こっちの油断を誘いたいんじゃなくて、あくまで素でやってるんだからたまらない。知ってるかい、ウィニフレッド君? たとえすべてのことを予知できる力を持った超存在がいたとしても、そいつは自分の『すべてのことを予知できる力』そのものの影響をうまく考えに含めることができないせいで、完全に『未来』ってものを知ることは不可能ってことを」
「知るか」
 途中で理解を放棄し、豪快に聞き流して退屈そうにスカートの裾に付着した糸屑を取っている女装少年。それでもアイナはめげない。
「うーん、つまりね、『未来』って子は恥ずかしがりやでね、覗かれたと気づいたら悲鳴を挙げて逃げ出しちゃうんだ。かと言って逃げないような『未来』は可愛げがないから覗いても楽しくない。うん、皮肉さ。皮肉だから、おかしいんだ」
 にっこりとスマイルを投げかける。
「ま、どうでもいい話だけどね、実際。私ってばほら、どうでもいい話を垂れるしかすることないから……それでさ、もう行っていいよ」
「あ? 話は終わりか」
「うん。教材の類も揃ってるんだろう? 早く君の新しいクラスメートたちに会って自己紹介でもしてきて、早速授業を受けるといい。せいぜいボロを出さないように頑張りなよ。本音言うと出しても別にいいけど。バレても君を裸に剥いて磔にして投石を指揮しながら敷地の外へ放り出すだけだから」
 サラリとひどいことを言い放つと、もう興味が失せたとばかりに視線を外した。拳を握り、小指だけピンと立てて耳に突っ込み垢をほじっている。質問をしても聞く耳持たないだろうことは容易に推測できた。
 繰り返し、こいつが本当に理事長かよ、と疑う。
 なんであれ、「理事長室」と掲げられた部屋にいて「理事長」と名乗る女が鋼造印の茶番劇を投げやり気味に了承している以上、争うべき論点はない。だいたい口論なんてものは鋼造相手に吐き気がするほど行ったし、それがまるっきり不毛に終わった時点で取るべき選択肢から外れて消えた。
 ここに至りて言葉はもう必要ない。何も言わず諾々と鋼造の思惑に踊るか、黙ってこの学園を立ち去って何もかも反故にするか。
 今までの彼だったら躊躇する余地もなく後者を採択し、当てのない放浪へ戻っていくはずだった。無頼にして無法。守るべき約束も縛られるべき掟も認めない根無しの男である。そのことを恥じるつもりも怖じるつもりもない。
 ただ、今の彼は鋼造と出会ったことで「ひと味違う」ことを求めていた。
 初めて目にしたケレンの魔術に魅せられたわけではない。魔術ではないにしろ、闇に棲まう妖しい法ならば既に体験済みだった。オカルトの毒々しい力にのぼせる身でもない。彼の拳や足捌き、偵察する目と耳──常軌を逸した格闘術の結晶は、もはや一つのオカルトと形容できた。強烈な自負があり、立ち位置を見失わない冷静さも持ち合わせていた。
 では鋼造の何にどう触発されたのか? 問われれば答えに窮する。
 分からない。その答え自体を掴みたくて、彼のそばから離れられないのかもしれない。
 とても曖昧で漠然とした動機。それでも、空虚な殺尽機械として生きてきたウィンフィールドには、生存の意志を補強して「希望」みたいな何かを垣間見るのに充分な材料だった。
 ──確かに俺は鋼造の狙い通りに踊らされているのかもしれない。
 そう思う。
 思っても、不快ではなかった。
「……せいぜい踊ってやろう」
 リズムに耳を澄ませ、ステップを探り出し、全身を天啓の器に変えて。
 悲壮じゃない決意は心地良い。だからこそ彼はジョークとしか解釈できない仕打ちも本気で取り組んでみせると決めた。
 きびすを返し、数歩進む。部屋を出る直前のところで立ち止まって首を後ろにひねった。
 アイナは椅子を回転させ身体の前面を窓に向けている。こちらから見えるのは椅子の背と彼女の背。のんびりと景色を観賞しているのか。

 もしも。

 もしもここで気持ちを翻してあいつに飛びかかれば、馴染んで馴染んで馴染みった凄惨な日々と同じキリング・フィールドへ立ち返ることができるかもしれない。ゆらめく邪気。本性を隠し切ろうともせず、わざとらしく誘いを仕掛けてこちらの出方を窺っているその背中。つい、打ち砕きたくなる。
 一撃でやれるかな……やれないかな?
 拳に伝う汗が涎じみて粘つく。
 鼓動の高鳴りに同期して体温が上昇していく。
 あいつは強そうだ。きっと、あいつは人間の皮を被った化け物で──
 否、ひと皮、ふた皮と剥いていけば、「化け物」どころじゃ済まなくなるかもしれないぞ?
 闘争本能が甘美な香りを漂わせて囁きかける。進軍を讃えるマーチの旋律が幻の鼓膜を震わせた。
 懐かしく、いとおしい日々への帰還。安寧へ架かる橋。
 破壊、殺戮、蹂躙、暴虐。
 力こそが、信仰するに足る唯一のモノであるはずだ。

──「そもそも、『力を行使しない強さ』を信じていないんじゃないか?」──

 甦る声。フッ、とわだかまる熱がほどけた。
 首を軽く左右に振ってヌルい囁きかけを散らすと歩みを再開した。
 自嘲気味に、というより照れたように、心の中で嘯く。
 ──ふん。俺は、安寧なんて嫌いだっての。
 安易な拠り所など不要。否定しても否定しても否定しきれない何かを手に入れるため、ただ今は試練と割り切って老いぼれ寸前の誰かさんがお膳立てした企画に乗ってやる。
 信念を折らず、しかし盲信せず、困難に立ち向かうこと。
 それが自分には必要なことだ、とウィンフィールドは噛み締める。
 不安はなくもない。
 この女ばっかりの甘ったるい空間に「力とは呼べぬ強さ」など実在するのか。あっても、見つけることはできるのか。
 退室する彼の背後──闇の暗さをまとった年齢不詳の女がクスリと笑った。

 自己紹介は簡潔にまとめた。
 理事長室を立ち去ってから担任教師に付き添われて自分の所属するクラスへ足を踏み入れたウィンフィールドは、固い決意の殻にくるまれ毅然とした態度で同級の少女たちと向かい合った。
 けれども。内心、僅かにうんざりしていた。
 見渡す限り、少女、少女、少女と目に痛いばかりの光景。全視界を同年代の異性たちに支配される初めての事態に胃のあたりがもぞもぞする。
 緊張しているわけではない。
 ここはあまりにも危機の要因に欠いていて、むしろ油断の念を押し殺すのが大変なほど平和だった。窓から斜めに射す陽はあくまで場を優しく包み込んでいる。誰もが警戒せず、誰もが安心し、平静を保っている。さざなみ一つない湖面の穏やかさ。
 その平和すぎる雰囲気が、彼には不快だった。
 加えて……
「はじめまして」
 あたりの輝きを取り込んで意のままに従わせるような、軽やかな表情。
 ──笑顔。
 なんだ、この笑顔は。
 席に着こうとする彼を、柔らかな微笑みが迎える。一つや二つではなく、辺り一帯。完全に善意のみで編み込まれた包囲網だった。少しも底意を邪推させることのない、あけすけな感情が肌に突き刺さる。冷たさではなく、温かさによって彼を苛む。
 偽装しているとはいえ、新参であることに変わりはない。学校とは開放されているようでいて、逆に閉ざされた空気の漂う「小さな社会」であることは、アーカムシティのハイスクールを転々としてきたウィンフィールドも実感として知っていた。まだ若く幼い、少年と少女──彼らは新参者を無条件で受け容れることなどない。彼らは彼らなりの判断基準を持ち、暗黙のうちに試験を強いて、仲間に相応しいかどうかを検分する。相応しければ輪に迎え入れ、相応しくなければ無関心の刃で切り裂くか、あるいは全力で排除にかかる。ウィンフィールドくらいの、無視しようにもできない存在……瞼を閉じていても網膜まで到達する強烈な光は、特に。
 初対面の笑顔は、相手の警戒を解く機能がある。「心の非武装」を訴えかけることで、相手が無用に神経を張り詰めないよう先手を打つ。信頼して笑いかけるのではない。信頼とは、ろくに知りもしない人間に向けるものではない。
 迂回なのだ。出会い頭に衝突し、双方が望まぬ事態を避けるべく様子見して観察するための、棚上げ。不知を遠回りして互いの手を握りやすくする、儀礼的な定石。
 知らない者に笑みを捧げる者は、本当の意味で警戒を解いてはいない。
 それがウィンフィールドの常識である。長じてからは強者であり続けた彼は、衝突を厭うこともなくなり、無為に笑うことをやめた。スマイルを「媚びへつらう姿勢」、人間関係における弱者の一時降伏手段と位置づけ唾棄してきた。彼が浮かべるのは冷笑と嘲笑の二つに一つ。そこには川の水温ほどのものさえ交えない。表情から血のぬくもりを排し続けることで、己の強さを誇示し、守ってきた。
 だが、彼を取り囲む笑顔は薄気味悪いまでに警戒がなく、子供さえこうもなれるとは思えないレベルで「無邪気」だった。一片の邪気もない、それこそ春風のようなぬくもりを帯びた微笑が目の届かない背中にまで感じられる。
 相手に武器を降ろさせるために自分の武器を隠し、無手であるように振る舞うことは衝突の回避手段として理解できる。だが、隠すのではなく、捨てて、本当に無防備を晒すところまで来れば愚かだ。それはもはや虜囚となるべき者の作法だろう。
 いまウィンフィールドに視線を送っているすべての少女が、十年来の友人と交わす信頼に劣ることのない「気安さ」を寄せている。「気安さ」。冗談みたいな話だった。人間をやめる寸前のところで踏み止まっている彼に「気安さ」の念を向けるなんて変人は覇道家にいてさえあの老人くらいであった──孫娘の瑠璃もにこやかな表情の下で警戒していた──のに、ここの連中はその法則が逆転している。
 否、逆転よりもひどい。「あの老人」の逆位置に存在すべき者が、ひとりとしていないのだから。
 ここは……そんなに平和な空間なのか。
 ふと遠い気持ちになる。
 同じアーカムシティでありながら、ここには貧困も混乱も絶望も匂わず、守護天使の足元にあるかのような安息に満ちている。彼女たちに荒んだ色合いはない。罪は洗われて漂白し、疑いの価値が暴落している。信仰と信頼以前に、ただ「信じること」が彼女たちの背中を支えている。
 プロセルピナ女学園──女神の花園。
 「平和ボケ」という皮肉さえ陽だまりに溶けていく。
 無条件の優しさが痛々しく心に染み透り、もう二度と出会うはずのなかった無垢と対面したウィンフィールドがぎこちなく頬を歪める。
 空いていた席、その右隣に座っている少女に話しかける。
「はじめ……まして」
 挨拶。それだけでは足りない気がした。
「──あなたの、名前は……?」
 少し硬い笑顔をつくる。釣り合いを取るみたいに、向かいの少女がふわっと表情の柔らかさを深めた。
 焼きたてのパン──何年も口にしていないそれを連想させられる。
「わたしはセレスティーナ・ウィンズロウ。セレスでいいわ」
「セレス……」
 アーチを描く眉の下で青い瞳がしなやかな意志を湛えていた。迷いのない透徹した視線──こちらを探ろうとしている気配はなく、ただ鷹揚にうなずく。
 緩やかに波打つ金の髪が光を散らした。
 微笑みを彩る煌きに、目ではなく胸が騒いだ。抑え切れぬ鼓動の高鳴りに困惑する。
 不思議だった。こんな、制御することのできない感情が湧き上がってくることに。
 戸惑わずにはいられない。何よりこの困惑が、決して不快なものではなかったからだ。無為に視線が泳ぎそうになるにも関わらず、なぜか居心地の良さすら覚えて心が安らぐ。
「お」
 れ、と言いかけてやめた。油断しているとすぐ粗雑になりそうな言葉に気をつける。
「わたしも……ウィン、とお呼びください」
 ウィニフレッド、ないしウィニーでは呼ばれても咄嗟に反応できる自信がない。戦闘はともかく、演技の訓練をしたことはなかった。
「そう。よろしくね」
「こちらこそ、よろしく……」
 意図せず喉が狭まり、声が小さくなった。
 にこやかに応対している少女に畏縮めいた所作をしている自分に気づいて、ふと可笑しくなる。さざなみが走るように、ウィンフィールドの緊張がほぐれていった。表情から硬さが消える。嘲りではなく、対外的な目的もなく、それこそ「何の意味もない」、小さな笑みが少年の顔に宿った。
 忘れていたわけではなかった。つくり方を思い出せなかっただけ。「つくる」という自覚もないままにその笑顔を浮かべることができたのは、皮膚の下で血のぬくもりとともに眠っていたささやかな喜びの念が長い年月を経て目を覚ましたからなのかもしれない。
 ほんの一瞬だけ、暗黒の日々が夢のように思えた。錯覚はすぐに立ち去ったが、夢の余韻というべき寂しい気持ちはいつまでも消えなかった。
 セレス。彼女の名前を、その瑞々しい唇の動きとともに胸に刻んだ。

 初めの授業は歴史だった。十九世紀の合衆国について、男性教諭はテキストをろくに見もせず滔々と述べている。ウィンフィールドは鋼造が用意していた教科書に目を滑らせつつ、教諭の説明に耳を済ませた。教科が教科だけに、基礎の蓄積がなくともある程度は付いていける。思考の端に棚をつくり、分からないことはそこに置きつつ、理解の及ぶ範囲内で学習を行った。保留分は後で噛み砕くことにする。
 やがて生え際の後退が目立つ中年教諭はチョークを手に取り、黒板へ要点をまとめた文章を書き始めた。大きく、流暢な字で、遠くからも判別しやすい。ウィンフィールドは授業の良し悪し、教師の良し悪しについて判断する評価軸を持っていないが、特に不快感を覚えることもなく、おとなしい態度で椅子に座っていた。
 できることなら机の上に足を投げ出し、思い切りだらけた態度で臨みたいところだが、さすがにこの格好、この環境で実行するような冒険には乗り出せなかった。行儀良く足を揃え、背筋を伸ばし、まっすぐに前を見ている。かくあるべし、とされる模範的な姿勢である。厳しい規律に支配された経験はないが、身体の健康については人の倍以上、その気になれば礼儀作法で令嬢にも海軍兵士にも追随することは可能である。あくまでフィジカルに言えば、であり、メンタル的にはそうでもなかったが。
 やはり自分ともあろう者が「行儀良く」していることにむず痒い不快感を覚える。身体のつくりが頑健かどうかなんて関係ない。部外者に特有の圧迫感を強いるあの覇道邸においてさえ自儘に振る舞っていたのだ。この場の雰囲気に溶け込むような一介の乙女に諾々となりすますなんて……「俺らしくない」という念が改めて湧き上がり、反発心を呼び覚ます。
 だからといって「やっぱヤメだ」と放り出すのも、それはそれで気が進まない。曲がりなりにも一度「やってやる」と誓ったことを破棄するのは幼児めいている。そもそもの発端が詐欺臭かったにせよ、投げ出すことは自分にとっての敗北に他ならなかった。
 やり通すしかない。決まりきった結論。だから、ほどけかかった集中力を縒り戻して授業を聞くことに専心した。
 黒板上半分を使って文章とその補足を書き終えた教師がノートを取るよう支持する。言われるままにノートを開き、鉛筆を滑らせるウィンフィールド──だが、スペルミス。訂正しようと筆箱を漁った。
 消しゴムが見つからない。丹念に探せども、影も形もなかった。これでは書き損じを直すことができない。
 仕方ないから、上に線を引いて消したことにしようか。そう思い、実行しようとした寸前だった。
「ウィン」
「あん?」
 しまった。
 隣からの声へ、反射的に荒っぽい返事をしてしまったことに気づき、内心ちょっと焦りながら言葉を重ねた。
「……え、えっと、セレス……?」
「もしかして、何か足りないものでもあるの?」
 さっきの返答が届かなかったのか──いやそんなわけあるまい。
 聞き流してくれたのか? 表情に驚きも不快もない。度量が深いとも、単に鈍いとも、判じがたかった。
 忙しなく筆箱を探っていたことを言われているのだろうと思い、先程の失敗を繰り返してはならないと、細心の注意を払う。
「あ、うん。その……消しゴムが、なくて」
「そう。分かったわ」
 彼女はノートの折り目あたりに置いていた、まだ使い始めてそれほど経っていないであろう新し目の消しゴムを少し動かすと、机の中からカッターを取り出して躊躇なく半分に断った。
「一つしか持ってないから。これでもいいかしら?」
 切った半分の、まだ一度も掛けたことのない綺麗な方を摘む。さしたる考えもなく自然にそっちを選んだような何気なさ。心情的に自分が使用していた側は渡しにくいのだろうか。理由を推測できても、受け取ることに抵抗を感じた。抵抗といっても、不快な感覚ではない。申し訳なさと、感謝が入り混じった壁。拒みたくなる気持ちよりもずっと、乗り越えたい気持ちが湧く。
「う、うん」
 頷く彼に、セレスの手が差し向けられる。細く白い指が摘んだ消しゴムの欠片。ありがたく受け取ろうと、ウィンフィールドからも手を伸ばし、

 指先と指先、爪と爪が触れ合った。

 柔らかさ、硬さ。両方が等分に伝わる。接触面積はごく僅か。なのにこれほど明瞭に知覚されるのはなぜか。分からない。どうだっていい。
 彼の全神経は今、そこにあった。
 頭が真っ白になりそうで、なけなしの理性を総動員してホワイトアウトに歯止めをかける。たった一秒でも、意識を手放すことは彼の沽券に関わる。
 何よりも。セレスに対して礼も言えないままなんて、そんなのは、嫌だった。
「あり……がとう
 尻すぼみになった。咄嗟に言い直そうとするが、喉の奥に何かわけの分からないものが絡まった感じがしてうまく声を出せない。
 消え入りそうだった言葉を聞き届けた彼女は「どういたしまして」とばかりに微笑みを送り、授業に戻っていった。
 彼も、戻る。
 黒板がよく見えない。
 教師の声がとても遠い。
 まるでからだが心ごと椅子から離れてしまったみたいだ。
 さすがに今度ばかりは集中力を結び直すのがひどく困難だった。

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