それは、宇宙を侵す愛
−第2話 脳髄の地獄−


 ドクター・ウェストは生まれてこの方地獄というものに縁がない。
 脳髄が既に地獄だったからだ。

 故に。
「なるほど。これはまたえらく大したものであるなぁ」
 すべての光景が臓腑まみれになったところでそんなに動じない。いや、さすがに目を開いた最初の瞬間はビビったが、エルザの説明を聞いてすぐに平静を取り戻した。
 エルザが語ったことを掻い摘んで書けば、こうなる。
 ウェストの投げついた「種」が彼女の額に吸い込まれると、それは全システムを乗っ取った挙句に「芽吹いた」。あらゆる感覚が閉ざされた中で、「芽吹く」感触だけがくっきりと明瞭に伝わったらしい。
 芽吹いてどうなったか、と言えば──何の変化もなかった。少なくとも外見上は。
 システムの管理権限が復帰したことを悟ったエルザはすぐに自己診断プログラムを走らせたが、器質的な変化を遂げた部分は一切ないと判明。ソフト的な面に関しても、何ら欠損したところはないと知ってひとまず安堵した。
 だが、問題は何かが欠けたのではなく、何かが増えたことだった。
 明らかに、復帰した後と前とでは彼女の持つ情報量が変化していた。それは邪神にまつわる知識の一部であり、馴染みは深くないものの、この夢幻心母においてはあながち無縁とも言えない情報群であった。
 中でも人体にまつわる知識は膨大だった。元の彼女が抱えていた知識は人体の構造から「動き」の限界を知り、どうすればその「動き」を上回ることができるか。また、いかにすれば効率良く人体を破壊し、無力化することが可能なのか。そういった直接戦闘向けの事柄しか心得ていなかった。
 「種」の影響で得た知識はそれらと比ぶべくもない。段違いだ。「医学」のレベルすら超え、まだ人間の誰もが到達しえない神秘に易々と手を伸ばし、それをどうにかしてしまうほどの力を、特にさしたる自覚もないまま握ってしまったのだった。
 で。
 「さしたる自覚もない」のに、なぜ「まだ人間の誰もが到達しえない神秘」とやらを知ることができたのか?
 答えは気絶から目覚めて辺りをしげしげと見回しているドクター・ウェスト、彼自身にあった。
「何だか知らないが、本能みたいなものに衝き動かされて我輩の耳に変なマニュピレータ──ぶっちゃけ触手を突っ込んで、脳をいじくり回してしまった、と?」
「すごかったロボ。人間の脳みそをいじるのがあんなに楽しいなんて知らなかったロボ。今度はロボトミーとかもやってみたいロボ」
 興奮気味に目を輝かせるエルザ。彼女が次々とヤバい発言を飛ばすのを軽くいなしつつ、ふむむと考え込むウェスト。
 彼の目に映る景色は前述した通り、臓腑曼荼羅の地獄絵図である。無機質な調度品で倦め尽くされたはずの彼の部屋がすっきり有機臭い状況となっている。「臭い」といったが、本当に臭い。死体慣れしているウェスト以外ならば胃のものを戻してしまってもおかしくないくらいの臭気だった。試しに触ってみた臓器はヌラヌラと濡れて柔らかく、微かに温かかった。
「恐らく我輩の認識をどうにかしているのであろうが……それにしてもこれは随分と面妖である。何かが何かに置き変えられるというより、モノがもたらす印象自体をスイッチしているのではないか」
「なんにしろそんな感覚、エルザは二度と御免ロボ。一度確かめてみただけでも後悔したロボ」
 彼の視界において臓腑の侵蝕を免れているのは彼自身の身体とエルザのみだった。エルザが普通に見えるのは仕様らしい。詳しいことはエルザにも分からない。
「視覚ばかりでなく聴覚や嗅覚、触覚に味覚まで影響を受けるようである。正にパーフェクト。筋金入りの障害であるな」
 ひとしきり頷き、感心したところで突然笑い出した。
「なーはっはっはっはっ! このくらいで天才ウェスト様のSAN値を下げようなど片腹痛い! 乳酸溜まってるんじゃないかというほど痛いのである! 我輩を何と心得る? 墓暴きのウェスト、死体愛好者(ネクロファイル)のウェスト、死体蘇生者(リアニメーター)のウェスト! だいたいこの夢幻心母からしてひと皮剥けばエグさ満点のグロテスク基地であるからな、今更ナイーブになる我輩でもないわ」
 笑いを収めたところで、こうべを巡らせる。
「とはいえ日常生活を送るうえで支障がありすぎるゆえ、これじゃろくに研究もできないのである。是非例の『種』の秘密を明かすべくこの大・天・才にして(狂)科学界の寵児、ドクタァァァ・ウェスト! が調査に乗り出すためそろそろ元に戻してほし、」
 そこでようやくエルザの姿がないことに気づくのであった。

 ウェストの話に付き合う義理などない、とあっさり踵を返したエルザが向かった先は夢幻心母の外、地上アーカム・シティの一角である。
 言うまでもない。大十字九郎の探偵事務所だ。彼女が向かうところなど、他にない。
「ダーリン、待っててロボ! 今すぐに駆けつけて、そして──」
 無垢、故にどうしようもなく邪悪な笑み。
「エルザ以外、見えないようにしてあげる──ロボ」
 あくまで語尾にこだわるエルザなのだった。

 置いて行かれたウェストは憤懣遣る方ないとばかりに肩を怒らせ、臓腑でズチャベチャとぬかるむ通路をずんずんと惑いなき足取りで進む。
「ええい、また勝手に大十字九郎のところへ行きやがったのであるな、あのバカ娘! お前の考えることなど我輩がまるっとお見通しである!」
 親子ともなると簡単に思考を読み合えるようだった。便利であり、難儀である。
 行き慣れた通路だけに、多少景色が変わったところで道に迷うこともない。元来黒魔術チックで案内板なども置かれていない不親切な建造物である。臓腑ごときで道を失うようならば、平常時にあってさえ一生迷い続けることになる。
 ウェストは床も壁も天井も区別なく覆い尽くしている内臓の群れを踏みつけ、踏み越えていく。昼なお暗いせいもあって、実のところ視覚的にはさして凄惨に映ることもない。蠢く怪しげな影ならば前々から見えていた。
 臓物の海と化してなお不気味でないこの空間そのものこそ、真に不気味と言えた。
「あ〜#%ウェ{&%/ちャ^ん、ど8#+<<%の?」
 不意に濁った声が彼を呼び止めた。聞き取り辛かったが、「あ〜ら、ウェストちゃん。どこいくの?」と言っているようだった。
「こんな喋り方をする奴と言えば、ティベリウスであるな」
 躊躇せず振り向いた。
 その姿を視界に収め、溜息をつく。
「ふう、ひょっとしたら少しはマシな顔に見えるのではないかと期待してしまったが……臓物に臓物が絡み付いて二重螺旋を描いているだけか。若干幾何学的に面白いが、つまらんのである。現実は『マイナスかけるマイナスはプラス』と行くほどロマンティックでもないようである。そのこと知り、我輩はまた一つ大人になった。グッバイ、チャイルドフッド! ハロー、アダルトワールド!」
「!%変わら)~"ワケk%&',ん]#い\?ねー」
 ひょっとするとウェストはこの臓腑魔術師に対してアンビバレントな感情を抱いているのかもしれなかった。
「それよりティベリウス、我輩のエルザは見なかったか?」
「孅.\ё襃uナ、ζ$%・蠶]%(ウホ燬.ッ0イイ#"轗&&男〜」
 いよいよ濁りがきつくなってきたせいでほとんど聞き取ることはできなかったが、とりあえず指差した(ウェストの視界的には触手を伸ばした)先を見て了解した。
 曇天がつくりあげた灰色の空を一機の破壊ロボが翔けていく。もうだいぶ遠くにあるせいで、臓腑まみれかどうかすらはっきりと視認できなくなっていた。
「我輩はあれを追わねばならんのである。失礼する」
 それに対するティベリウスの返答も、やはりうまく聞き取れなかった。

 折悪しく、大十字九郎とアル・アジフの両名は昼寝を貪っているところであり、ズカズカと遠慮のない足取りで踏み入ってきたエルザを見咎めることはなかった。
 ふたり仲良くボロいソファに腰掛け、一つしかない毛羽立った毛布にくるまっている。その姿は恋人同士というよりも、歳の離れた兄妹みたいに微笑ましかった。実際のところ死ぬほど歳が隔たっているうえ、「兄妹」ではなく「姉弟」と形容すべきなのだが。
 すやすやと寝息を立てる薄紫髪の少女──アル・アジフ。時経て魂のみならず肉体まで手に入れた魔道書であり、別名『死霊秘法(ネクロノミコン)』。狂える神々に精通し、「外道という外道を外道する」と口走ってもおかしくないくらいに濃い知識がギュッと濃縮された1冊ゆえ、魔術師(マギウス)、神秘探求者(オカルティスト)、好事家(ディレッタント)、愛書狂(ビブリオマニア)、ありとあらゆる人種から「ころしてでもうばいとる」とばかりに望まれている。もっとも、その大部分が「姿形は幼女」という事実を知らず、もしそのことを知ればうっかり新しい趣味に目覚めてしまいかねない。
 いろんな意味で秘匿推奨の書物と言える。
 その、外道たり外道なす者の頂点にある存在が、怖いくらい無防備に眠りこけていた。目と鼻の距離に敵対するロボットが立っていることなど、毛ほども悟っていない様子。
(こいつはまさしく好機ロボ)
 紙束の分際で厚かましくも彼女のダーリンに付きまとう少女。スタイルの点で言えば絶対なる勝利を確信していた(土管に負ける道理などない)が、相手はあの大十字九郎だ。巨乳スキーでありながら同時にペドファイルという無類の節操なし。某お人好しシスターでさえ「子供は預けたくない」と語り、某総帥も「ときどき性犯罪者の目をいたしますわねぇ」としみじみ述懐する。傍らの執事は「私は彼のことを信じていますよ」とにこやかに言ってのけるが、目は笑っていないうえ微妙に視線が逸れている。
 いかな寸胴であろうとそばに置くのは危険。エルザと彼が送る蜜月のために容赦なく排除することが好ましい、と判断。
「結論。塵は塵に、灰は灰に。本は本棚に、ゴミはゴミ箱に」
 散々な評価を得ているとも知らず、ソファ上のアル・アジフはまんま幼児の寝顔で大十字九郎の腕にしがみついている。その穏やかさは、見ているだけでバグが発生しそうなくらい不快だった。
 生まれて日の浅いエルザはまだ嫉妬と呼ばれる感情を正しく理解していない。大十字九郎の関心がこちらに向かず、どちらかと言えばアル・アジフの方へ向きがちである事実に苛立ちを感じながら、その「苛立ち」が何に根差したものであることを把握できていない。
 自覚のない嫉妬は、可愛らしくも恐ろしい。日々過剰になっていく愛情表現(という名の攻撃)と、親たるドクター・ウェストへの八つ当たり的暴虐は同一の根を有している。
 つまり、焦燥。
 トライ&エラーを繰り返せども繰り返せども、少しもフラグ成立の兆しが見えてこない事態に彼女は焦っていた。自分でも気づかないが、焦っていた。
 スタイル云々といった条件なんかとは無関係に、いくら頑張っても報われることなどないのではないか。
 愛とは勝手に奪って首輪をつけて飼い慣らすものと決め込んでいる彼女だが、何分、恋愛経験は皆無。自信を持って断言したところで裏打ちはない。ポジティヴに考えようとしても限界がある。
 嫉妬。並んで寝ているふたりの姿によって喚起されるその気持ちは、いったいどこから来て、どこへ遣ればいいものなのか。
「いっそここで──」
 千年の永き時を刻んだ老害へ終止符をブチ込んでやろうか、と手刀を構えた。卑怯な不意打ちとはなるけれど、恋敵を恋愛曲線上から弾き飛ばすことができるならば是非もない。
 だが、湧き上がる殺傷コードは警戒原則に阻まれ、霧散した。フッと呼気を漏らして腕を引っ込める。油断しているように見せかけて油断させる罠とも受け取れる。こちらが敵意を見せた途端、あらかじめ仕組まれた方式に則って反撃し、交戦を開始するかもしれない。
 今ここで事を構えるのは本意ではない。確かに彼女は敵性魔道書であり、可能ならば無力化したうえで奪取することが望ましい。しかしそれよりも優先したいことがある。
 視線を横にずらす。肩にもたれた少女と相似形の寝顔をする、大十字九郎。耳を澄ませば鼾も聞こえてくる。
 その平和極まりない表情をじっと眺め、両手を眼前に翳した。
 掌紋や指紋まで再現された精密な器官から、うぞうぞとおぞましくうねる触手が伸びた。一本、二本。アメーバのごとく蠢き、やがて細い針の形となって安定する。彼女が新しく獲得した、オーバー人知のメス。
「術式確認──終了。委細問題なし。オペを開始する」
 奇妙な粘液を垂らす針状触手──淀みない動作で大十字九郎の耳へ突き入れた。
 ビクリ、と全身が跳ね、すぐに弛緩した。つい先ほどまで響いていた鼾はぱったりとやみ、ひどく静かになった。
 そして、邪神をも畏れぬ狂気の執刀が、大十字九郎の脳髄を奈落の底へ叩き落す──

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