それは、宇宙を侵す愛
−第3話 あってはならぬもの−


 幸か不幸か。先に目を覚ましたのは大十字九郎だった。
 彼は目に映る光景が悪夢だと思って瞼を閉じ、ふたたび開いて現実と悟るや、愕然とした。

「なんじゃこりゃぁぁぁぁぁ!?」
 狭い室内を絶叫が支配する。薄い窓ガラスがビリビリと震え、天井からは細かな埃がパラパラと降ってきた。
「どうした、何があったのだ九郎!」
 隣のアルも一瞬で覚醒した。猫のしなやかさで跳ね起きる。敵襲を予感し、中腰に構えて警戒しながら辺りを探ったが、これといったものは引っ掛からない。魔力の波動も、存在が放つ気配も、何も。あるのはただ、未だに叫び続けている己が主のみだった。
「なんだか分からんが、とにかくしっかりせんか!」
 一喝し、キドニーへ鉄拳。硬い腹筋を通して確実に撃ち抜く。気合が入るというより絶命しそうな一撃だった。
 九郎もたまらず沈黙し、前屈みになって痙攣を余儀なくされる。
 床を汚す寸前でどうにか持ち直し、荒く息をついた。
「い、痛ぇ、痛すぎる……死ぬかと思ったっつーか、マジで死にかけたぞ、おい。やっぱこれって現実なわけか……!」
 腹を押さえて身もだえする彼へ、「落ち着いたか?」と優しげな手つきでポンポン肩を叩くアル。普段は甘さを控えた態度で接するとはいえ、彼女もマスターを想わぬ人格ではない。たまさかに、気紛れめいて柔和なところを見せるわけだが……
「ひ、ひぃぃぃ! 化け物ッ!」
 パンッ
 肩に伸ばしていた手を撥ねつけられた。
「化け──?」
 さすがにこう言われて冷静を保てる彼女でもない。ただでさえ少ない「寛容」のストックが、一気に底をついた。
 怒りは行動となって現れる。
「この、」
 九郎の膝に足を掛け、身体を持ち上げる。
「前代未聞の、」
 片足だけで膝を蹴り、腰のあたりへ九郎の顔が来る位置まで跳躍。
「大うつけがぁぁぁ!!」
 曲げた膝を顔面に叩き込む。九郎はミラに三角飛び蹴りを食らった腐乱犬さながら勢い良く仰け反り、地に倒れた。無惨な貰い方と述べるより他なかった。
 九郎の意識がブラックアウトする。今度目覚めるときは悪夢が覚めていますように、と願いながら。

 もちろん再度目を覚ましたところで悪夢っぽい光景は進行中だった。
 事務所を席巻する内蔵の群れ。普段から眺めが良いとは言いがたかった室内が、一層見れたものではない状況に陥っている。床に張り巡らされた蔦はよく見れば血管であり、足を乗せればドクドクと力強い脈拍を返してくる。靴を隔てていてもなお気持ち悪かった。
 さっき自分を気絶させた黄土色の化け物が、慣れ親しんだパートナーのアル・アジフであることを確認すると、思わず絶句した。
「そんなに変わり果てちまって……いや、実はそれが正体だったのか!?」
「今の汝が妾をどのように見ているかは知らぬが、腹の立つこと夥しいセリフだぞ、それは」
 聞き取り辛くなったアルの声を懸命にヒアリングし、会話を続けて行くうちにおぼろげながら事態が飲み込めてきた。
 どうやら寝ている間に脳がどうにかなってしまったらしく、見るもの聞くもの触るもの嗅ぐものすべてが不快な代物に変貌しているのだった。「たぶん味覚の方もやられていよう」とアルは請け負ったが、試してみる気にはならない。
「で、どうやったら治るわけよ?」
 と単刀直入に尋ねてみたところ、アルは顔をしかめた。九郎サイトで見ると吐けるほどグロテスクな動作であり、思わず口を押さえた。
「残念ながら魔術的なトラブルではないしな。妾は魔道書であって脳外科の嗜みはない。諦めるがよい」
「えー、あ・き・ら・め・る・が・よ・い……? ってふざけんじゃねぇ! サラッと流すところかよ、これは!」
「冗談だ。そういきり立つな。確かに妾はどうにもできんが、記憶が──否、記述が正しければダンセイニの奴がそうした方面に詳しかったはずだ。あやつが帰ってくるまで待てばよかろう」
「そういや買い物に行かせていたんだっけな……にしても、邪神にお使いなんか頼んでもホントにいいのか?」
「なに、ダンセイニは気安い奴だ。案ずるな。それにこの街は邪神を抜きにしても相当の混沌を極めている。今更ダンセイニのひとりやふたりが現れたところで驚く市民もいまい」
 今現在、教会の子供たちと一緒に市場で「おい、なんだそいつは!?」「ショゴスだよー」「名前はダンセイニっていうんだぜ」「(……こくり)」「いや、でも、こんな生き物見たこと……」「パパー、さわってもいーい?」「お、おいこら、よしさない!」「いいよ」「ほら、こいつこのへん触ると喜ぶぜ」「わ、ぬるぬるしてやわらかーい。変なかんじー」「でね、ここを押すと……」「うお、な、なんか出てきた!」「あったかーい! ねえ、パパ、あったかいお汁がピュッピュッってでてくるよ! すごいすごい!」「ダンセイニ、大喜びだな」「だいぶこの子を気に入ったみたいだね」「(こくこく)」「へ、へえ……世の中には変わった生き物もいるもんなんだな……」といった具合に和んでいることをふたりは知らなかった。
「あっ」
 ふと、九郎があることを思いついた。
「どうした、九郎?」
「あのさ、今の俺って、要は幻術を食らっているようなもんなんだろ? 見えるものの快・不快が逆転してしまう、みたいな感じの」
「厳密に言えば違うが、まあ、似たようなものだな」
「だったら、それを更に引っくり返す幻術を自分にかけたらマイマイがプラ、って具合にならねーか?」
「はて……」
 ごくシンプルな発想であり、アルにもすぐ理解できた。
 しばし考え込んだ末に、「可能かもしれぬ」とコメントした。
「ただし、こうしたケースは妾も出会ったことがない。ずっと以前に盲目のマスターが魔術の力を借りて光を取り戻したことはあったが、脳そのものがどうにかなっている場合は保証の限りではないな。魔術とは本来秩序を回復するものではなく混沌を呼び狂気を撒くものだ。けだし狂気は癒しがたい。妾は今まで狂気に堕したマスターを救うこと叶わず見捨ててきた実績がある。自慢にはならぬが。──我が主、大十字九郎よ」
 声を落とし、囁く。
「汝の脳髄が真に狂獄へ囚われたならば、妾には如何ともしがたいのだ。ダンセイニの奴が帰ってきて不調を治したとしても、一度失われた正気が戻ってくるとは断言できぬ。正気とも狂気とも判別できぬ形に変質した理性が、永く汝を蝕み続ける可能性は否定できない」
 真剣味を宿した口調に、九郎は返答するべき言葉を失った。
 彼女が言わなかったことで、彼女が言いたかったこと。それを言葉の裏から読み取ってしまったからだ。
 「狂者は自らが狂者であることを知ることはできない」──いくら九郎が「俺は正気だ」と言い張っても、周りのものが見れば異常と思えてしまう「何か」が今回の事故(?)をキッカケに残ってしまうかもしれない。
 そしてもちろん、「何か」が何なのかは分からない。
 強いて喩えるなら、相手を人間と知りつつ、「人間には見えないから」と言って殺してしまえるような冷酷さだとか。
 現に、異形の姿で悪臭を放つアルがだんだん人間には見えなくなってきて──
「いや、アルは元から人間じゃなかったか。あっはっはっ」
「間違ってはおらぬが、まっこと腹の立つ言い回しが巧いな、汝は」
 とりあえず、肉体的な存在と同じかそれ以上に、霊的な存在を重んじる魔術師にとって、「見た目」はそれほど本質的な事柄ではない。ただ、今のままでは若干不便というレベルだ。
 吉と出るか、凶と出るか。それが分かるのは賽を振ってからのこと。
「まずは試してみないとな」
 暗いことを考えるのはやめ、そっと目を閉じ、指先に魔力を集める。
 身体に伸び渡った回路を通じ、超常なる息吹が四肢の先端へ宿り出す。
 水は土から根へ。根から茎へ。茎から枝へ。枝から葉へ。
 メタファーとしてのイメージを還元し、深奥から引っ張り出した魔力を放出。アル・アジフの一部に綴られた記述を召喚し、行使する。
 声が力となった。
「ニトクリスの鏡」
 眼前。背後。九郎を挟み込んでふたつの鏡が現れる。
 鏡面──この世とこの世ならざる場所の境界面から妖しい光が撃ち出され、跳ね返され、何度も何度も往復を重ねる。
 いざ鏡に鏡を合わせ、無限にして夢幻の眩惑回廊へ──
 九郎の全身が光に呑まれた。

「あー、いい感じ。戻ったっぽい」
 光が途絶え、ニトクリスの鏡が宙に掻き消えた後、九郎は周囲を眺め回しながら言った。感じ入った響きが篭っている。
「やっぱ臓物だらけってのは落ち着かねぇしな。アルの姿も無事ロリ復元されたし、あるべきものがあるべきところに返った感じするぜ」
「何が『ロリ復元』だ、たわけ」
「俺が思うにアルの肉体は形状記憶呪脂で構成された復元型幼女──」
「それ以上喋るな」
「だからいつでもどこでもつるぺた──」
「喋るなと言っておろう!」
 ゴリッ、と足の小指を踵で踏まれ、九郎悶絶の巻。
「き、気をつけろアル、お前は俺の小指を踏みつけにしている」
「ほれ」
 グリッ、と更に踏みにじり、悲鳴が怪鳥音と化した。
「畜生、地味に痛い……」
 うずくまり、半泣きで足を押さえ込んでいる。
「まったく、汝の愚かさは筋金入りだな」
 まったく同情する素振りを見せぬ仕草で翠瞳の少女がソファに腰を落とす。
 ボスンッ
 若干勢いがついていたせいで弾み、チラリと服の裾が上がった。
 もちろん九郎アイズはこのチャンスを見逃さない。
 時間にして1秒もあったかどうか。覗いた隙間に矢のごとく視線を飛ばし、腿と腿の間にある布を射抜いた。

(肉眼で確認。対象は萌黄色のパン──

 思考が半ばで途切れた。
 彼の視線が不可知を捉えたのだった。
 それはビッグバンに匹敵する激甚の衝撃でもって理論理性を打ち砕く。
「ア、アル……」
 喉を上下し、言葉を詰まらせる九郎。呼ばれたアルは彼の顔を訝しげに見返す。
「どうした、今度は何があった?」
「パ、パン、いまチラッと見えたパンツの脇から──何かはみ出していたぞ、おい!」
「はみ──」
 頬を紅潮させ、くるりと後ろを向いた。もそもそと裾を上げ、じっくり確認し始めたが、
「別に何もないぞ」
 むっつりした表情を浮かべ、埃を払うようにパンパンと裾を叩きながら振り返った。
「いや、俺は確かに見た! マジで見たって!」
「ない! 断じてない! そもそも妾にはみ出すようなものなど──」
 何もない、と言いかけて口を噤んだ。さすがに、言葉にするのは恥ずかしかったようだ。
 対する九郎は収まらない。「絶対見たってばよ!」としつこく食い下がる。
「ええい、気のせいであろう。まだ頭の調子がおかしいのだ、きっと」
「ごまかさないでくれ! 俺は見て見ぬフリってのが一番後味悪くてイヤなんだよ! 関わったからにはとことん全力を尽くす主義なんだ!」
「分かった、分かったからちょっと休め、我が主。充分睡眠を取ってもらってから汝の話を聞くとしよう」
 早く話題を終わらせようと溜息をついたアルが、一瞬だけ目をつむった。まばたきよりも長く、瞑目よりも短い須臾の間隙。そこをすかさず突いた。
「百聞は一見にしかずだ!」
 グッ、と力強い手つきでヒラヒラした裾を掴む。
「はっ!? しまっ──」
 咄嗟に振り払おうとするが、単純な力比べでは到底適わない。
 魔術を行使するには時間が要る。どう見積もっても間に合わないだけの時間が。
「俺はスカートをめくるぞ、アル! 俺はさっき見たものを確認するッ!」
 有無を言わせぬ迫力でめくり上げた。背中のあたりに「ドギャアアアアアアアン!」と擬音が描き文字になって現れる。
 スカートを押さえる繊手の抵抗も虚しい。易々と持ち上げられ、彼女の履いていた下着が白日のもとにさらけ出される。
 何の変哲もない、萌黄色のパンツ。九郎が訴えるような異常性はどこにも見られず、「はみ出している」と言われても首を傾げる他ない。これでは単に「嫌がる少女のスカートを無理矢理めくる性犯罪者」の図だ。誰かがすぐに通報しなくてはヤバい。
 ──と、これはあくまで通常サイトの話。
 ニトクリスの鏡を用いて自らに幻術を掛け、どうにか通常サイトを取り戻したかと思われた九郎の目には、異なるものが映っていた。
 見える。
 確かに見える。
 パンツの脇からはみ出したものが。
 堂々と存在を主張するものが。
 あってはならぬものが。
 目を潰さんばかりにしっかりと付いている。
「アル──」
 それは大十字九郎にとって、とても見慣れたもの。親しみさえ覚える器官。
「おまえ──」
 一般に生殖器と呼ばれるうち、♂の方。
「やけに扁平なスタイルをしていると思っていたけど──」
 肉茎。
 つまり、その、アレだった。
「──実は男だったのボァッ!」
 信じられないものを見た九郎は、信じられないうちに鉄拳を食らい、またもや気絶を強要された。
 ……これだけオチやすければ、きっとハードボイルドの探偵にだってなれるだろう、たぶん。

第4話へ


>>back