「捕虜収容所の死」
   /マイケル・ギルバート(創元推理文庫)


 「脱走」や「脱獄」という言葉にロマンを感じるのが反逆嗜好かどうかはともかく、『大脱走』や『穴』といった名作が面白いことは確かです。監視の目を騙し、無事塀の外へと逃げ出すことができるのか。ポップコーンとコーラを片手にワクワクと胸を弾ませ、薄汚れた捕虜や囚人が殺伐とした表情で暗く狭いトンネルを這い進んでいく様を見守る。ベトナム戦争で活躍した、というより暗躍した「トンネル・ラット」について書いた作品にスティーヴン・ハンターの『真夜中のデッド・リミット』やロブ・ライアンの『アンダードッグス』などがありますが、神経を削る暗闇や満足に手足を伸ばすこともできない狭所というのは考えただけで息が苦しくなります。延々、いつになったら開通するか分からないトンネルを掘り、補強し、土を捨て、気の遠くなる時間をかけて穴を塀の外まで伸ばしていく。単調な作業の繰り返しはトンネル自体の陰鬱さと相乗してダウナー気分を生み出す。ナチが捕虜に命じて穴を掘らせ、掘り終わったところで元通りに埋めさせるという拷問を行ったことは有名で、とにかく意味のない穴を掘らされることは、砂場遊びをする子供を除いてほとんどの人間に苦痛しか与えない。強固な意志を持つ者たちでも、ひたすら穴ばっかり掘っている日が続けば気が滅入ってきます。考えてもみてください、スッチャカスッチカと陽気な曲をバックに流しながらミュージカルみたいな動作でリズム良く穴掘ってる捕虜や囚人が出てくる映画が「脱走」「脱獄」という言葉のイメージに重なるかどうかを。彼らがナチの拷問を受けた捕虜たちみたく精神の淵から転げ落ちないのは、ひとえに穴の向こうに「自由」が広がっていると信じているからであり、何も穴掘りそのものに魅力を感じているわけではありません。「ウホッ! いい土……」「 掘 ら な い か ? 」とヤマジュンネタを飛ばす余地は一切なし。絶対にノー! と言いつつ、これ書いてる当方は穴掘りが好きです。雪掻きに匹敵するくらい。「脱走」「脱獄」系統の作品でトンネルを掘るシーンを読んだり見たりするたび、無性に胸が高鳴ってしまいます。土の固さや掘るうえでのコツ、滲んでくる汗や汚れていく身体、困難になっていく呼吸について言及してくれるともうサイコー。「脱走」「脱獄」系統の作品以外でも墓を掘ったり暴いたり、何かを埋めたり掘り出したりするシーンがやけに楽しいです。たぶん精神年齢の一部か全部が砂遊びをしていた頃から大して進んでないんでしょう。砂場遊びといえば乙一の「むかし夕日の公園で」、短いながら穴掘りスキーには満足のいく内容でした。

 さて、無駄話はこのへんまでにしつつ、マイケル・ギルバートの『捕虜収容所の死』。著者は翻訳点数も少なく、あまり日本では名が知られていないようで、当方も巻末の著作リストで覚えがあるのは『十二夜殺人事件』くらいでした。上の方で書いた話題からも察せられる通り、本書は捕虜たちの脱走を描いた冒険スリラーです。陽気すぎず、かといって硬すぎない筆致で淡々と文章を紡いでおります。キャラクターはある程度見分けがつきますが、個性らしい個性はあまりなく、キャラの魅力などを強く求める向きには不満かもしれません。しかし、本書の見所は「脱走」以外にももう一箇所あり、それが物語を引き立て、盛り上げているわけなんですが……。

 第二次世界大戦末期、イタリア──アルペン山脈の第一二七捕虜収容所では、静々と脱走計画が進行していた。英国軍人を中心とした「脱走委員会」の決定に従い、捕虜たちはこっそりトンネルを掘っていた。開通するのはまだずっと先。掘り終わる前に連合軍が上陸してイタリアが降伏してしまうかもしれない。だが、イタリアが降伏したところで捕虜たちが自由になるとは限らない。追い詰められたイタリアが捕虜たちをどう扱うか、見極めるのは困難だった。万が一に備え、トンネルはしっかり貫いておかねばならない。だがある日、トンネルの奥で死体が発見された。クトゥレス中尉、ギリシャ人捕虜。土砂に埋もれていた彼はイタリアのスパイという噂があり、周りから疑われていた。トンネルの入口は到底ひとりで開けられるものではない。だとすれば、彼が中に入るのを協力、あるいは強制した者たちがいる。彼をスパイと断定し、私刑に走った連中がいるのか? だが、そんな情報は聞こえてこない。これだけ大事を起こせば、何処からか情報が漏れてくるはずなのに。イタリア側にトンネルを発見されないよう、「脱走委員会」はクトゥレスの死体を別の場所に遺棄した。すると捕虜のひとりが「殺人犯」として拘束される羽目になった。焦る「脱走委員会」。打つべき手は見つからない。掘り進むトンネル、真相が分からない謎の死、拘束された捕虜に迫る判決。戦火の外側で、事態は進行し、やがて──決着の時を迎える。

 「脱走」を巡る冒険スリラーにプラスして、「謎の死」を巡る本格ミステリ的要素も楽しめる、「ひと粒で二度おいしい」作品。トラップ・ドア(トンネルへの入口)がどこなのかは物語の開始から間もなくして明かされるが、なかなか絵になるシーンで良いです。トンネルを掘る脱走パートと、クトゥレス中尉の死について調べる捜査パートが交互に織り込まれた構成は読んでて飽きが来ない。収容所の中に「脱走委員会」なるものが構成されていて、脱走に必要な資材の提供や情報の収集、発生したトラブルの解決などに当たっている……という設定も面白かった。著者自身が実際大戦期に捕虜となった経験があるせいか、収容所内でのライフは活き活きと描写されています。とはいえあまり濃密ではなく、どちらかと言えばサラリとしてますが。

 冒険スリラーとしては極端に「燃える」「熱い」といった内容ではないので、過剰に期待すると肩透かしかもしれません。また本格ミステリとしても、「伏線を張る」「伏線を拾う」といった部分はちゃんとしているものの「純粋に謎解きとして見ればどうか」と問われたらちょっと言葉に迷うところはあります。ふたつの要素を混ぜ合わせ、うまく調理してみせた点では良作なのですが、どちらか一方にのみ目を向けると「中途半端」というように映るやもしれない。まー、古処誠二あたりの作品を楽しめる人なら問題はないと思います、はい。端整な一品です。


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