「本格小説(上・下)」
   /水村美苗(新潮社)


 本を閉じた瞬間、思わず虚脱感を覚えた。睡眠時間を削り、それこそ「寝食忘れて」読み耽っただけに、ひとつの世界が幕を閉じたという事実に感慨よりも先に信じがたい気持ちに襲われた。顔を洗い、冷たい水の感触を肌で味わってようやく「終わった」という実感を得た次第だった。

 本書には三人の語り手がいる。水村美苗、加藤祐介、土屋冨美子。17歳のときに旧家へ女中として仕え始めた冨美子の40年に渡る回想を祐介が聞く。祐介はアメリカに渡って話を聞いたときの状況を交え、一部始終を美苗に語る。美苗は更に個人的な回想を交えて祐介の話を書き記す。そういう三段階での入れ子構造によって物語は紡がれて、いや、むしろほどかれていく。

 「作者」という小説にとって絶対不可避の存在が、水村美苗という作中人物として最初と最後(=あとがき)に登場するだけで真ん中──話が盛り上がる部分ではすっかり忘却されてしまう。冨美子の回想において水村美苗はまったく直接的な関わりがない。そして美苗にとっても冨美子という存在は間接的にしか関係がない。クッションを一つどころか二つも置いたせいで生まれる物語の高い無臭性──いくつも「匂い」がぶつかるが故に「これこそがこの作品の『匂い』だ」と何かを指して決定することができない、透明のような不透明のようなあやふや感が『本格小説』というタイトルになっていないタイトルをこの作品にとって相応しいものとしている。

 いや、そんなことは割とどうでもいい。この物語が三つの構成からなると書いたが、まず美苗の回想が170ページほど続き、次いで祐介の回想が150ページに渡って綴られ、ようやく真打ちの冨美子が語りを開始する。冨美子までの200ページちょっとの部分がつまらないというわけではないが、ストーリーが大いに盛り上がってくるのは三段階目に入ってからだ。

 軽井沢の別荘が隣同士ということもあり、親密な付き合いが続いている重光家と三枝家。冨美子は17のとき、伯父に連れられ三枝家三姉妹の次女・夏絵が嫁いだ宇多川家へ奉公に出た。彼女は家事をこなしつつ、先代の後妻であり宇多川の義母に当たる「お祖母さま」と、下の娘・よう子の世話を焼く日々を送っていた。あるとき、宇多川家に仕え一軒家を借りている六というお爺さんが、満州から引き揚げたきた甥一家が住処を求めているので自分のところに住まわせてやりたいと頼み込んだ。宇多川家はこれを受け、六さんの甥一家──東家がやって来た。その中には、やがて独特の美貌と他を寄せ付けぬ才気でもって成り上がりながらも、ひとりの女性を忘れ得ずに人生を過ごした男、東太郎の姿があった……。

 ところでこの作品は明らかにエミリー・ブロンテの『嵐が丘』を意識しているみたいなのだが、実のところ当方はそれを読んだことがない。と、こんなふうにサラッと流してはいけないような気もするが、事実読んでいないのだから仕方がない。

 だが、そんな事情を物ともせぬくらいに本作品は面白かった。食うものも食わず飲むものも飲まず、飢え、渇くがままに任せてひたすらページを繰り続けた当方には「掛け値なしに面白かった」としか言いようがない。重光家と三枝家、この両家を中心とした数十名にも上るキャラクターが織り成す変遷の物語は、人々の幸と不幸の浮き沈み、連綿と続く死と生で以って時代や世界を「動くもの」として捉えさせる。その一つ一つの「動き」に興味を惹きつけられ、「ちょっとだけ、ちょっとだけ」と思いながらもなかなか中断できずに読み続けてしまった。

 様々な人々の変化を40年というスパンで描く本作は家族小説や大河小説といった要素が濃厚なものの、美苗・祐介・冨美子の三者すべてにとって中心人物と見做される東太郎の恋愛ストーリーとしての面も濃い。東太郎は中心人物でありながら直接の出番はそれほど多くなく、また本心が語られる場面も少ないのだが、語り手たちすべてから優遇されているせいもあってもっとも存在感の強いキャラクターとなっており、共感や反発などそのときどきによって違う感情を覚えようと、「こいつがいないと物語は動かない」という確信を抱かされるため最初から最後まで目を離すことができない存在になっている。

 しかし、最終的にこの物語の主人公は「時の流れ」そのものだったんじゃないか、と虚脱状態のままふと思った夏の夜。随所に舞台と関連した写真が挿入されているが、読みつつ眺めたところで当方がもっともインパクトを感じたのは「笹藪」だった。


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