まとりのSAT(中)
永久は突然の闖入者たちに構わず、手にしたカップを傾けた。
こくこく、と中身の茶を飲む。
俺にはやけに長く感じられたが、要した時間はせいぜい5秒くらいだっただろうか。
「来たんだね」
コトリ
カップを静かに置き、呟いた。
唇の間から、ひどく場違いに明るい声が漏れる。
「──蓮見さん、ようこそ。わたしたちのお茶会へ」
にへら
締まりのない笑みを顔中に浮かべ、永久が席を立つ。
闖入者たち──黒スーツをビシッと着込み、サングラスまで掛けたMIB紛いの三人組は、横並びになってこちらの様子を窺っていた。
彼らから発散される、異様な色合いの気配。
警戒?
いや、これは……殺気か?
ごく平穏な暮らしに慣れ親しんだ俺にはよく分からなかったが、なんにしろ、連中がこちらに対して非友好的であることは目をつむっていても分かるくらいだった。
コキッ
真ん中の影が首を斜めに傾げた。
口の端を歪め、微かな笑みを示しつつサングラスをゆっくりと外す。
青みがかった紫の瞳が現れた。黒スーツはともかく、サングラスはあながち格好つけのために掛けてきたわけでもなさそうだった。
そいつは──蓮見まりあは露骨に敵意を示しながら、しかし余裕に満ちた表情で口を開いた。
「あら、夏森永久。それに春野明生。久しぶりですわね」
「うん、久しぶりだね」
事態を把握しているのかいないのか、にこにこ笑って相槌を打つ永久。横で俺は取るべき行動が思いつかず、座ったまま両者の顔を交互に眺めた。
「わたしたちも是非あなた方のお茶会には御相伴預かりたく思いますわ。けれど、それよりも重大な用件がありますの。残念なことに」
「え? 何かな?」
「とぼけるのはやめなさい。わたし、そういった遠回りな遣り取りを強いられるのはあまり好きではありませんの。話というのはわたしのペースでさせていただきたいものですわ」
僅かに苛立ちを込めて言い、隣の奴の肩を叩いた。
「乾」
「へい、なんですか、まりあさん」
「このボケ女と話をつけなさい」
「わかりやした」
うなづき、サングラスを取った。
「よう、春野。それに夏森。とっととブツを返しな。痛い目見たくなかったら、な。俺たちの用が終わったら後は口を閉じておくだけでいい」
「ん〜、ブツって……」
と例のパックを取り出す。
「これのこと?」
「そうだ」
目顔で「早くこっちまで来て寄越せ」と伝えた。
「うんとね、乾くん。これがなんだか知ってるの?」
「あん? んなこと当り前だろうが。いいからさっさと渡せよ、マリちゃんをよ」
嘲りを交えて言葉を重ねる。
「早くしろよ、ふたりとも。こっちはこれで忙しい身なんだよ。てめぇらは帰ってから一つの布団に仲良く潜り込んでガタガタ震えるなりなんなり勝手にのんびりすりゃいいけどさ、俺たちはそうもいかねぇのよ」
「そうもいかない、ってなんで?」
「るせぇな、てめぇにゃ関係ねぇだろうが。」
声を荒げ、乾は恫喝する。
普段のイヤガラセとは違う、過剰な暴力の匂いを漂わせた口ぶりに、俺は背筋が冷える感覚を味わった。
「関係ないって、これでもかな?」
永久はぽえっ、とした声で問いつつ、懐から例の身分証をもたもたした手つきで引っ張り出した。
「はい」
それを目にした乾の反応はなかなかの見物だった。
食い入るように睨み据えた後、「げっ」と呻いて両目を大きく見開いた。
「て、てめぇまとりだったのか!」
乾の後ろに下がっていた蓮見は一瞬だけ顔を強張らせたものの、すぐに軟化させて薄い笑いを張り付かせた。
「へえ……面白いわ。まとりに新入りが来たというのは聞き及んでいたけど、まさかあなたのような人だったなんて。新手のジョークかしら」
くつくつと笑った。
耳障りな、本当に嫌な笑い。聞いているだけで変な汗が湧きそうだった。
「なんで笑ってるの?」
不思議そうな顔をする永久を見て、俺はこいつが心底ふてぶてしい奴なのか壊滅的にニブチンなのか判断をつけることができなかった。
所在なさげにスプーンでコーヒーを掻き回す。真っ黒い表面に映った俺の憮然たる顔が渦巻きに飲み込まれていった。
「笑うなと言われても無理な話よ、夏森永久。春野明生が白昼堂々通行人の耳目に晒されながら引っ張られていったと聞いたときは慌てるのと一緒に不審の念を覚えましたけど、まさか徒歩でこんなみすぼらしい喫茶店までやってきて、のんびりお茶会を開いていたなんて……しかも肝心の同席者があなた、ボケ放題のクラスメートだったんですから。最初は待ち伏せでも仕込んでるんじゃないかとピリピリしていましたけど……」
首を捻り、店内を見渡して、鼻で笑った。
「どうやらこの狭い店の中にはあなたと春野明生のふたりっきりみたいね。それで、住居部には誰か詰めているのかしら」
それを聞いてふと穂の存在を思い出す。
まさか、あいつ今ここに……!
「ううん、誰もいないよ。穂ちゃんは朝早く出て行ったみたいだし、穂波さんはついさっき出かけたところだから」
永久の声を聞きながら、穂波さんが先ほど俺たちにハーヴェストの留守を任せていたという事実に気づいた。
そうだな、穂がいないから俺たちに留守番を頼んだんだ。
とりあえず、穂がこの異常な事態に巻き込まれず済むと知ってホッと胸を撫で下ろした。
「そう……なら、わたしたちとあなたたちで三対二。もっとも、春野明生なんて戦力外もいいところだから実質的には三対一ね。この状況、わたしたちの言うことにおとなしく従う以外、どうにかできるとでも思うの?」
パチン
蓮見は唐突に指を鳴らした。
「乾、応援が来ないうちにさっさと片付けなさい。いくら蓮見家の力で抑えが利くとはいえ、無用な騒ぎは起こしたくありませんわ」
「わかりやし──」乾の返答を遮ったのは、一条の銀光。
顔の脇をすり抜け、背後にいた蓮見の髪をかすりつつ、入口付近の壁にガツッ、と当たって止まった。
ここからだとハッキリ見えないが、恐らくその形状から察するに、木製の壁に突き立っているのはスプーンのようだった。
ハラリ、と蓮見の長い髪の十数本──いや数十本か?──が床に落ちた。
顔を上げれば、手を前に突き出した永久。片方だけ「前へならえ」をしたようにピンと伸ばしている。
ええと、もしかして。
スプーンを、投げナイフのように使ったってことか?
「あら……?」
蓮見は床に落ちている毛を「なにこれ」と顔を顰めて見下ろしたあと、ゆっくりした動作で髪に手をやった。
スプーンに断たれ、少しばかり不揃いになっている箇所を指で探り当てると、ぴたり、と無表情になって硬直した。
1秒もしないうちにサッと紅潮し、唇をわなわな震わせて叫んだ。
「なんて、ことを!」
片手をスーツの内側に突っ込んだ。
ひとつ息を吐く間に黒光りする「何か」を取り出す。
「何か」。
周囲の光を飲み込み、淀んだ鈍い光を発するその武骨で禍々しい形状。
それは、映画やマンガやゲームで頻繁に目にしながらも、本物は見たことも触れたこともないもの。男の子がキラキラと目を輝かせて憧れ、女の子は「なにがいいんだか」と呆れた顔をする、最高にして最低の玩具。暴力の象徴。
銃だった。
小型で、蓮見の手に無理なく収まる程度の。
蓮見はそれを片手で握り、次いでもう片方の手を添えてから前に突き出し、両足を開いた。
手と足で三角形を描いた蓮見は、指を器用に素早く動かしてカチカチと銃の機関を操作する。その度に立つ音が妙に非現実的な響きで耳に届いた。
俺に分かるのは大まかな形だけで、細部のつくりはよく見えないし、蓮見がしっかりと持っているせいでどのくらいの重さなのかも伝わってこない。
だが、蓮見の激昂ぶりと蓮見が取った姿勢からして、それが単なるオモチャだとは到底思えなかった。
本物の銃ではないにしろ、エア・ガンやガス・ガンのようにオモチャというよりは武器に近い「何か」だと感じた。
「おい、永久!」
慌てて立ち上がった。
銃口が向いた先は、微笑んだ表情のまま立ち尽くしている永久がいた。
永久は突き出した手をゆっくりと戻す。
「蓮見さん、撃つ気なの?」
授業中の教師への質問と同じか、それ以上の気安さで問い掛ける。
蓮見は無言で銃のような「何か」の銃爪に人差し指を置いた。
「なら、教えてあげる。あのね、蓮見さん」
にっこりと、太陽さえテレビの上のチョコレートみたいに溶かしてしまいそうな笑顔。「撃っても、当たんないよ?」
それが合図だった。
蓮見は銃爪をくいっ、と引き──
破裂音が鳴った。
安物の花火を思わせる、呆気ない音。
不意に、世界が遅くなった。
時間の感覚がおかしくなる。
弾丸が猛スピードで永久に飛んでいくのが見えた──ような気がした。
錯覚か。
幻覚か。
小さな金属の塊がへらへらと緩んだ永久の顔に吸い込まれていく。
鼻。
鼻のあたりに着弾──
バゾッ
何かが破壊される音。
圧倒的に損なわれる音。
絶望的な音色。
最小最短最悪の響き。
奇怪な世界は、徐々に加速していき──気がつけば俺は後ろを振り向いていた。
視線が捉えたのは破壊の痕跡。
永久のずっと後ろにある、えぐられたように破砕した壁。
永久は──
永久は平然と笑っていた。
銃声に驚いた様子もなく、銃撃に怯えた様子もなく、ただニコニコ笑って立っていた。
その顔をまじまじと見つめた。白い肌には傷ひとつなく、鼻も口も然るべき凹凸としてそこにある。
そんな、さっき、確かに当たってた……。
少なくとも俺にはそう見えた。
見間違いか?
本当に当たってたんなら、永久は今こうして笑っていられるはずがない。
俺は銃弾の威力を正しくは知っていない。だが、喰らえば死んでしまうこともあるくらいにヤバイものだと思っている。「痛い」「怪我しちゃった」程度では済まされないものだと。
つまり、永久は弾を喰らわなかったということだ。弾が直前になって軌道を変えて永久を避けるわけないから、そうなると永久の方がうまく回避したってことになる。
でも……銃弾を避けるって、そんなことできるはずがない。時速何百キロとか、具体的な数字を出されなくたって「人間が銃弾を避ける」ってのが無理な話だってことは俺にも分かる。「弾丸のような」という比喩もあるくらいだ、普通なら銃弾を目にすることさえ不可能だろう。
……あれ?
待てよ。
なら、なんで俺には見えたんだ? 蓮見の撃った弾が、細部までくっきり、ってほどじゃないにしろ、永久目掛けて一直線に飛んでくるのが見えた……と思った。ただ漠然と「銃口が永久の方を向いてる」というんじゃなくて、はっきり「永久に弾が向かって行く」ように見えた。だからこそ血が凍る恐怖を感じた。永久が死ぬ──蓮見の銃撃に殺される、と思ったからこそ、あんなにも絶望を覚えたんだ。
どういうことだろう。錯覚だったんだろうか。幻覚だったんだろうか。蓮見が銃を出してきたのにビビって妄想をたくましくして、見えてもいない弾道を見た気になっていたんだろうか。もし俺が見ていたのが現実の光景でなかったとすれば、蓮見の狙いは逸れていた──弾は最初から永久に向かっていなかったという可能性も出てくる。
ただ単に、蓮見が外した。
一番納得のいく考え方だ。
「え……?」
きょとん、と。蓮見は子供のようにあどけない呆け面を晒した。
「そんな、わたしが外すわけが……いくらなんでもこの距離で!」
叫び声は混乱の色が滲んでいた。
どうやら俺にとって「一番納得のいく考え方」は、蓮見にとって承服しかねるものだったみたいだ。
蓮見と永久の距離は5メートルくらいだろうか。水鉄砲しか撃ったことのない俺だが、それでもちゃんと狙って撃てばそうそう外さない距離だっていう気はする。
わからん。考えたところでムダっぽい。
「いえ、考えてもムダね」
偶然にも蓮見と思考が一致した。
「ムダ」と悟ったあいつは、いともあっさり銃爪を引いた。
パンッ パンッ
今度は二発。間髪なく銃声が轟く。
どろり
周りの空気が泥のように粘ついてまとわりつく。
時間がナメクジの歩みと化す。
銃声の終わりが異様に低く聞こえた。
銃口から閃光とともに直線が伸びた。二度。線は短くなっていきながら、永久の腹を目指して突き進む。
先頭の線が永久の腹にぶち当たろうとした瞬間。
ふいっ……
永久の身体が腰から上でふたつに分かれた。もうひとつの上半身が永久の右に伸びる。
いや、違った。
永久が動いたんだ。銃弾とは比較にならないくらいの速度で、身体を右に傾かせたんだ。
ふたつに見えた上半身のうち、ひとつは残像。銃弾が、砕くことも叶わず虚しく通過していく。
続いて押し寄せるもう一発の弾。故意か偶然か、永久の避けた位置と重なるように飛来する。
ふいんっ……
傾いた身体が元の姿勢に戻った。二発目の弾も上半身の残像をすり抜けて後方へ遠ざかり──
バゾッ バズンッ
何かが砕ける音で我に返った。気づけば、まとわりつく泥の感触は失せている。
「避けた……?」
驚愕に目を見開いた蓮見が、呆然と呟いた。
問い掛ける口調ではなかったが、永久は「うん」とうなづいた。
自分の顔は見えないが、たぶん今俺は驚きのあまりマヌケな面になっているはずだ。
蓮見にも見え、永久が認めたってことは、さっきの常軌を逸した光景は俺の錯覚でも幻覚でもなかったということになる。永久は蓮見が撃った弾を、撃たれる以前にではなく撃たれた後に動いて避けたんだ。
「んなバカな……」
それしか言いようがなかった。
じゃあ、これの前の顔に当たったように見えたのも、残像に弾が重なっていただけだったのか?
永久は笑いながら、そんな途轍もない芸当をしてみせたのか?
これじゃまるで……
「支那虎じゃないか!」
「シナトラ?」
ネタが伝わらなかったのか、永久は首を傾げた。
「永久……」
発作的にガシッ、と永久の肩を強く掴んでしまう俺。
「明生ちゃん?」
「カカラヅラもいいが、車田もな」
今度『リンかけ』を全巻貸してやろう……『2』は持っていないんだけどな。
「超人的な回避行動……まとり……東京から新手が来るって……そういえば……」
ぶつぶつぶつぶつ
蓮見は俯いて何かひとりで呟き続けていた。脇から「大丈夫ですか、まりあさん?」と乾が顔を覗き込む。巽は無言のままこちらを睨みつける。
「なるほど」
不意に呟きが止まった。勢いよく顔を上げる。
蓮見の目が永久を捉え、すっ、と細まった。どこか爬虫類じみていてゾッとする。
「聞いたことがあるわ。品川の六機──第六機動隊所属特殊急襲部隊、つまりSATに、サトリが人の心を読む如く的確に未来を予見し、ずば抜けた身体能力を駆使して作戦行動に従事するモノがいた。そいつは発射された銃弾をすいすいと回避し、物理法則を無視したカンフーアクションでテロリストどもを叩き伏せた、ってね。警察官としても隊員としても正規には登録されていない幽霊隊員で、六機の連中すら正体を知る者は少なく、気づけばいつの間にかいなくなっていた……それこそ幽霊のように」
心なしか、蓮見の両隣にいる乾と巽の殺気立っているように見える。
しかし、六機? SAT? サトリ? なんのことだ?
「通称『サトリックス』。六機の猛者たちが揃って『あれは人間じゃない』と畏怖したとされる化け物。極秘書類にはただ『ESF』とだけ表記された存在……それが巧妙に厚生局へ潜り込んでまとりになっているという噂を聞いたときは思わず笑ってしまったわ。そんな御伽噺が囁かれるのは、麻取がわたしたち旧家の力を恐れ、恐れながらも反感を抱き、劣勢を覆してくれるヒーローを欲しているのだということの証明だと思ったから。そして、よりによって縋る相手が『サトリックス』なんてバカバカしい化け物だなんだから、ほんと、笑うしかなかった。……まさか、混じりっけなしの真実で『サトリックス』が実在していたなんて。悪い夢でも見てる気分だわ」
目を閉じ、首を振った。
「あのね、蓮見さん。わたしは──ううん、わたしたちまとりは『夢を見せる』のが役割じゃないの。むしろ、『夢を終わらせる』ことが役目なの。薬物に体も心も蝕まれて、ほんのちょびっとの恍惚に永遠の辛苦を対価として強いられる人たちがやまない、そんな悪い夢みたいな現実に終止符を打とうとしているの」
始終へらへらしている顔を引き締め、永久は両腕を広げた。
「現実に対抗できるのは現実だけ。それと、適応できない現実を否定するために必要なのはより強固な現実。だから、わたしと対峙したなら、わたしを夢や幻だなんて思わない方がいいよ。わたしは現実。あなたの信じている現実よりも、もっと強い現実なんだよ」
「現実という事象に強いも弱いもないわ、夏森永久──あ」
ふと何かに気づいた、といった表情で蓮見が言葉を止めた。
「ひょっとして、ESFはエターナル・サマー・フォレストの略だったのかしら?」
「う、うん。恥ずかしいからやめてって言ったのに、みんなそう呼ぶんだから困っちゃったよ」
と、頬をぽりぽり掻いて苦笑する永久。
おいおい、またへらへら顔に戻ってるぞ……。
俺にはよく分からんが、なんか緊迫した状況なんだろ? そんなあっさり元に戻っていいのか?
「『夢を終わらせる』だなんて、妙な言い回しですこと。あなたはここがどういう場所で、わたしたちがどういう存在か分かっていて強がっているのかしら? ちゃんと状況読めてる?」
「大丈夫だよ蓮見さん、ちゃんと分かってるから。……明生ちゃん」
「あ? ああ、なんだ?」
「さっきの話、どこまでしたか覚えている?」
「話って……『まとり』のか?」
「うん。『まとり』になった若者の子孫が滅ぼされたって、そこまでは言ったよね?」
『まとり』の秘密が「麻薬」だと漏れたせいで、『まとり』の存在が脅威ではなくなった。
だから、子孫である人々は積年の恨みとともに殺された──
「けれど、麻薬そのものは根絶しなかった、って」
「そうだよ」
永久は一旦俺から視線を外し、蓮見たちを眺めてから、また俺の顔を見つめた。
「……『まとり』が何の材料を使い、どんな方法で精製して『粉』にするのかは分からなかったの。書物に一切書き記さないで、口だけで自分の子供たちに伝えていたから、村の人たちにつくり方が漏れることはなかったの。唯一知っていた子孫の人たちも殺されてしまったし、家にも火が放たれて全部焼けてしまったから、もう誰にも分からなくなってしまったの。けどね、明生ちゃん。村の人たちは知ってしまったんだよ。人の魂を取ることのできる『粉』の存在を……」
「そう、知ってしまった。和を尊ぶ老人どもならともかく、野心に燃える若衆がそれを知って……どうにか利用したい、と考えなかったわけがあるものかしら?」
蓮見が言葉を挟んできた。気分を害したふうもなく、うなづいて永久は話を続ける。
「村の若い人たちの中で、特に知恵と学問に秀でた何人かが『粉』の研究を始めたの。『粉』の現物は残ってなかったから最初は暗中模索が続いて、本当に『粉』を再現することができるのかどうか分からなかったんだけど、その人たちは諦めなかったんだよ」
「老人どもは『そんなことやめろ』と止めたにも関わらず、ね。……そしてついに努力が実を結んだってわけ。若衆は麻薬精製のノウハウを積み始め、ついには『粉』と同じようなものをつくり出すに至ったのよ。若衆は近隣の村々で使用して邪魔者を排除し必要な者を取り込むことで、徐々に自分たちの村の権勢を強めていった。知ってる、春野明生? 近代までずっとこのあたりには『恐ろしい妖怪がいる』って、周りの村々から畏怖されていたんですのよ? 今でも年寄りの方々は幼い孫の耳にせっせと吹き込んでいるわ。無論その妖怪は『まとり』と呼ばれているんだけど」
「いや……」
俺は首を振った。
「その『まとり』が、今でもまだこの町を支配しているの。麻薬の栽培、輸出入、密売──たくさんのルートを利用して捌いて、たくさんのお金と権力を握った『まとり』。それが蓮見家を筆頭とする旧家の人々なんだよ」
「ええ。中央の目を掻い潜りつつ力を強め、中央の目を欺けないほど巨大化したところで、誰にも手出しできなくなった。『まとり』はこの町、いや、この地方においてすべてを支配する影の存在となったんですのよ」
ほほほ、と蓮見は嘲りを混ぜて笑った。
その様子を見て俺は、ムカムカと吐き気を催した。
「誰も逆らえない、誰も取り締まれない。ルートが拡大するにつれ中枢との繋がりも深まり、蓮見家の裏稼業に気づいた者は──黙り込むか、協力するか、消されるかの三つに一つを選ばなくてはならなくなった。警察も麻取もそう。この町が他に比べてやたらと麻薬の取り締まりが厳しく見えるのは、わたしたち旧家があるからこそよ。麻薬を扱う者は、麻薬に溺れてはならない。だから異常とも思えるくらい、ここでは麻薬の使用が禁忌とされているの。クスリの流れも末端まで行くと細くなりすぎて把握しきれないから、旧家は仕事を警察と麻取に丸投げしてるってわけ。取り締まっているようでいて単に協力しているだけよ」
耳を疑うような話だった。
昨日までの俺なら、「くだらねー」と一笑に付していただろう。
けど、蓮見のこの自信満々の語り口。そして手に持った銃。
俺は既に思考と感覚が麻痺していて、どんなぶっとんだ話でも今なら簡単に受け容れられてしまえそうだった。
「旧家に断りなくクスリを捌いた者や、クスリを使った者は原則として見せしめのため容赦なく挙げられるけど、旧家と繋がりがある者は見逃されているし、万が一捕らえられても『手違い』としてすぐに釈放される……」
そこで言葉を止めると、蓮見は目を普通の大きさに戻して澄ました顔になった。
「というわけで夏森永久、春野明生の逮捕は『手違い』なのよ。おとなしく『すみません、大麻と小麦粉を間違えちゃいました』って事務所に連絡して引き下がりなさい。それで通るように話はできているんだから」
「蓮見さん」
永久の声は──ひどく静かだった。
「なにかしら?」
「じゃあ、やっぱり、明生ちゃんは旧家と繋がりがあるの?」
繋がり?
俺と旧家の連中が?
永久の言葉に、俺は困惑を覚えた。
確かに蓮見には普段からイヤガラセを受けていたが、それを「繋がり」と呼ぶのは抵抗がある。
それに「旧家」と言ったって、俺にはこの蓮見以外の奴は即座に思い浮かばない。そう呼ばれている奴らとは、付き合いがない。そもそも俺は人付き合いの輪が狭いほうなんだ。7年前の事件以来、なぜかずっと無気力で……。
「7年前……『あの日』からずっと、明生ちゃんは、穂ちゃんと美花ちゃんたちと一緒に利用され続けているの?」
「答える義務はないわ」
冷たく言い捨てる蓮見。
なぜ否定しないんだ? 俺とお前らに繋がれなんてないだろう。そんなものあるはずが……。(樹、)
頭の中を鈍痛が走り抜けた。同時に浮かび上がるヴィジョン。
(芙蓉の樹、)
痛い。
そしてこれは何だ?
やけに懐かしくて、嫌な感じのする、見覚えのある眺望。
(芙蓉の樹の下に永久が、)
芙蓉? 永久?
確か、永久の住んでいた山に芙蓉の樹があった。
それがなんだというんだ?「ぐっ……」
頭痛に耐え切れず、片手で頭を押さえる。
錆び付いた扉が開いていく感触がある。
軋る音が痛みとなって苛む。
不快な思い出。思い出したくない記憶。「忘れろ」と囁かれた光景。
カサカサと虫の這う音が囁く。忘れろ──
思い出すな──
封印しろ──
閉じ込めて、二度と開くな──ちくしょう、誰が、何が俺に囁きかけるんだ!?
「ぐうう……!」
痛みはキリキリと激しさを増していく。
吐き気がする。今すぐにでもトイレへ駆け込みたい気分だ。
「明生ちゃん……」
覗き込む永久の顔には不安と心配の色があった。
「わかったかしら。この件には触れない方がいいのよ。ムダに負担をかけることになるから」
くすくすと笑う蓮見だが、その顔は心なしか少し青い。
いや……気のせいか?
「わたしは、あなたたちのやり方が許せない」
永久の声に怒りや憎しみの響きはない。
だが、淡々と紡がれていく言葉に、奇妙な重さがある。
「許せない、ですって?」
「人のこころとからだを蝕んで、弄んで、好きなだけ自分の快と益を貪る。そんなやり方は同じ人として許されるものじゃない」
「わたし、あなたと議論するつもりはないわ」
何の気負いもなく、蓮見は永久の言葉を受け流した。
「それよりあなた、わたしに刃向かうということは蓮見家率いる旧家連を相手に回すということよ? そこのところ理解しているかしら」
「うん、もちろんだよ」
「言ったでしょう、この町は警察も麻取も旧家の支配下にあるって。あなたがどういうツテで潜り込んできたかは知らないけど、わたしたちに対抗し得る組織なんてどこにもないのよ、この町において。だから抵抗したって逆らったって、都合良く味方をしてくれるところなんてないし、せいぜい味方するふりして密告で売り飛ばすセコい連中が出てくるくらい。そこも分かっているかしら」
「うん。ちょっと調べたけど、絶望的に孤立無援だったよ」
にこにこしながらうなづく。
こいつは表情と言葉を一致させるつもりがないのか?
頭から手を離す。痛みはもうだいぶ引いていた。
「そう──で、夏森永久。あなたはそれでもなお、わたしたち旧家に対して戦いを挑むつもりでいますの?」
「うん、そうだよ」
「本気で?」
「うん」
「まさか、勝てるとでも?」
「負けるつもりでやらないよ〜」
緊張感が一気に抜けるお気楽声。
パンッ
不意を打ったのか、ただムカついたのか、蓮見が発砲した。
永久の足が霞み、銃弾はふとももをすり抜けて床をえぐった。
「ふん、それしきでわたしが怯むとは思わないことね。蓮見家とて、超人のひとりやふたりは召抱えているわ……エージェント・イヌイ」
「へい」
「やりなさい」
命令が下った瞬間。ハーヴェストの床材が砕け散った。
「な……!」
まばたきをする間に、乾は跳躍していた。天井ぎりぎりの高度を、真っ直ぐマッチ棒のように伸ばした身体できりもみしながら近づいてくる。
膝を屈伸する前動作も視認することもできず、俺にはまるで……乾が靴底に噴射装置でも仕掛けていたかのように見えた。
首が痛くなるほど仰け反って、見た。
待つまでもない。
乾が、もう手を伸ばせば届きそうな位置にまで迫ってきた!
「ミス・ナツノモリ──死ね」
凶声が響く。
足を天井に伸ばし、頭を地面に向けた倒立の姿勢で、乾は懐から取り出す。
銃を。
向きを永久に定め──
ドッ ドッ ドンッ
三点射。銃声がほとんどひと繋がりになっていた。
永久の頭が霞み、三つに分かれたように見えた刹那──着弾の音。永久の背後にあった椅子が粉々になっていた。
「わたしは──」
永久がテーブルの上のカップに手を伸ばした。穂波さんにお代わりを淹れてもらいながら、ほとんど飲んでいなかったコーヒー。既にぬるくなっているであろうそれを、永久は引っ掴んだ。
「わたしは殺せないよ」
バッ
ひと呼吸で腕を振り、コーヒーをカップから直上に撃ち出した。
「──犬ごときには」
塊となった黒い液体が宙を泳ぎ、乾の顔にぶつかるや、四方八方に飛散し、ハーヴェストの店内を汚す。
俺の顔にも飛沫が掛かった。わざわざ拭う気は起きない。
「ぶっ!?」
マヌケな悲鳴とともに目をつむった乾は、しかし、銃を手放すこともなく、姿勢を崩すことさえなかった。そのまま永久の頭上を通り過ぎる。
何ら動揺の兆しが見えない手つきで銃の向きを補正し、更に三点射。見えていないにも関わらず、狙いは正確だった。
永久はトンボを切って銃弾を躱し、乾を追うように飛んでいく。
着地の姿勢に入ろうとして引っ込めかけた乾の足を片手で掴んだ。空中の不安定な姿勢をものともせず、腕の力だけで振り回す。
途中で放して投げ飛ばした。
乾の身体が弾丸のようにすっ飛ぶ──俺の方に向かって。
「うわっ!」
慌てて屈み込む。烈風が髪をそよがせた。
乾が頭の上を通り過ぎていった直後、「パンッ」と銃声がした。
「おわっ!」
乾の情けない悲鳴に次いで、背後で何かが砕ける高い音、前方で肉を叩くような音と、何かが床に叩きつけられる鈍い震動が続く。
恐る恐る顔を上げると、床に身をよじったヘンテコな格好で横たわる乾と、銃口をこっちに向けた蓮見、そのすぐそばに立って拳を軽く持ち上げた巽、三者三様の姿があった。
「ってぇ……ま、まりあさん、今の、もうちょっとで俺に当たるとこだったじゃないっすか!」
「うるさいわね、あんたの身体が邪魔で狙いが逸れたじゃないの!」
「そ、そんな、あれは不可抗力ってやつですよ」
「何が不可抗力よ、エージェントの分際で元SATなんかに投げ飛ばされて。だいたい、巽がいなかったらあなたこそわたしにぶつかっていたところじゃないの。空中の姿勢制御もろくにできないのかしら」
「や、別にまりあさんを避けるぐらいはどうにかやれましたけど、巽が問答無用で横から殴ってきただけで……って巽、なんで殴りやがったんだ!?」
「………」
仏頂面のまま巽が拳をゆっくり引っ込める。
あいつらの話をまとめると、こういうことらしい。
永久に投げ飛ばされた乾はまっすぐ蓮見に向かっていき、驚いた蓮見は永久に向けようとしていた銃口がずれ、撃ち出した弾が乾に当たりそうになった。蓮見の横にいた巽は蓮見を守るため、飛んできた乾を殴り飛ばした。
で、乾は受け身も取れずにヘンテコな格好で床に叩きつけられた、と。
確かに、巽には乾を受け止めるなり、蓮見を抱えて庇うなりといった選択もあっただろうと思うが……。
「てめ、巽、まだトルコ風アイスクリームのこと根に持ってんのか? 仕方ねぇだろ、暑くてへばってたし、あれがお前のだなんて知らなかっ、」
どすっ
這いつくばったまま喚き散らす乾の腹に、巽の爪先が埋まった。
「げっ……」
口をパクパクして悶絶する乾。巽は何を考えているのか分からない表情でそれを見下ろしている。
「あなたたち、遊んでいる場合じゃないでしょう! 早く『サトリックス』をどうにかなさい!」
蓮見が叫んだ。
サトリックス──永久。
そう言えば、永久は……?
振り向いた。
永久が、椅子を肩に担いでいた。今にも「ヘイヨーヘイヨー」とラッパーごっこを始めそうな格好だった。
「おい、もしかしてお前、それを投げ……」
最後まで言わせてくれなかった。
永久は片手で椅子の背を持って振りかぶり、片足を浮かせた姿勢からピッチングした。流れるような動作。惚れ惚れとするようなフォーム。
しかし、惚れ惚れとする暇もなく、椅子は俺の方に豪速で迫ってきた!
「ひぃ!」
またもや屈み込んで避ける俺。
銃声。
銃声。
銃声。
破裂音とともに丸めた俺の背へ硬いものが降り注ぐ。椅子の破片だろうか。
咄嗟にテーブルの下へ潜り込んだ。
ここなら安心してい──バヅッッッ
「のわっ!?」
突然、テーブルの板が真ん中からへし折れた。俺の背中に壊れた板と足が圧し掛かる。
なんなんだよ!?
わけも分からぬまま這い出すと、永久が蓮見に飛び掛ろうとしていたところだった。
位置的に見て、どうも俺の潜り込んでたテーブルを踏み台にして跳んでったようである。
踏み台にしただけで喫茶店のテーブルが破壊される跳躍力。
どう考えても狂ってる。
普通じゃない。
これじゃまるで……
「化け物がぁっ!」
乾が叫ぶ。
その顔面を蹴り飛ばしつつ、永久は着地した。
蓮見は──
蓮見は無言で永久へ怒りの視線を固定し、横に転がった。
一回転し、床に肩膝をつくと、一発撃った。
パンッ
反動で蓮見の肩が跳ねる。
永久はすいっ、とボクサーがスウェーするように仰け反って避けた。
パンッ パンッ
二連射。
永久はなおも激しく仰け反り、ほとんどリンボー・ダンスみたいな格好で二発とも避け切った。
両手をつき、ブリッジの姿勢を取った後、両足で床を蹴った。
全身を引き絞り、一条のバネとなる。
即座に、溜まった力を解放した。
両手が床から離れた。
まっすぐ天井へ飛び上がり、ぶつかる直前に身体を丸め、足を伸ばしてターン。桟を砕きつつ、蓮見に向かって落ちていく。
蓮見は必死に反応しようとするが、あまりの速度に銃の照準が間に合わないようだった。
二つの白い手が、蓮見の喉へ伸びる。
「てめ……!」
立ち上がった乾が、ふらつきながらも銃を向ける。
やばい。いくらなんでも、着地寸前に空中で回避行動を取るなんて不可能なんじゃないか?
肌が粟立つ。
「やめろ!」
俺の制止は──届かない。聞いてすらいないようだった。
「死ぃ──」
乾の指が銃爪にかかる。
引き絞られていく。
曲がった指が圧力をかける。
その一瞬一瞬が、やけに遅く流れていく時間の中でくっきりと明瞭に見て取れた。
銃口が火を噴く──
「ねがっ!」
──と確信した途端に乾が吹っ飛んだ。ボールのように軽々と勢い良く飛んだ身体は天井にぶち当たり、床に落ちてワン・バウンド、テーブルを跳び越えて窓と衝突。甲高い破砕音と一緒に外へ突き抜けていった。
破砕音がやむと騒がしさが一段落し、店に一時の静寂が流れた。誰も動かず、誰も言葉を発さない空白のスポット。
「いったい……」
沈黙レースから真っ先に脱落したのは蓮見だった。永久の下に組み敷かれながら、わなわなと唇を震わせて喘いでいる。
怒りの視線は自分の喉を引っ掴んだ永久ではなく、その横へと向けられている。
「どういうことなの?」
蓮見の疑問は同時に俺の疑問である。
何が起こった?
いや、そうじゃない。
なぜ起こった?
乾が銃爪を引こうとする直前、腰へと伸びた影。
一本の足だった。乾の腰を蹴り、易々と空中のお散歩(バウンド付き)に招待してやった、その足の持ち主。
「………」
「エージェント・タツミ……あなた、どうして?」
元より口数の少ない巽は蓮見の問いに答えず、永久の方へ顔を向けた。
ひとつ、うなづく。
永久もうなづき返した。
「まさか……!」
蓮見の目が驚愕で見開かれる。
「まりあさん!」
ガラスと窓枠を破壊しながら乾が店内に舞い戻った。
そちらの方には目をやることもなく、放心した顔つきで、蓮見がゆるりと呟く。「あなたが──エスだったのね」
「いや絡新婦ってる場合じゃねぇすよ、まりあさん!」
「おかしいと思ったのよ……ここ最近やけに情報漏洩が激しいから、きっと内部に裏切り者がいるんだろうって、考えてはいたし、探ってはいたけど、まさかあなただったなんて……」
乾のツッコミにも耳を貸さず、ぶつぶつと半ば独り言のように呟き続けている。
「だって、だってあなたは特に怪しい連中とも接触した気配がなかった……」
「あのね、蓮見さん。わたしのあだ名、知っているでしょう?」
「『サトリックス』……人の心を読んだかのような、正確無比の行動」
「ううん。読んだかのような、じゃなくてね。読めるの」
「え……?」
ぽかん、と口を開けた。
「ほんのちょっとなんだけどね、相手の思っていることが読めるの」
「そんな……」
蓮見は「信じられない」と言いたいように首を振る。
「えっとね、それだけじゃなくて、こっちの考えていることも相手に送ることができるの。やっぱりほんのちょびっとだけど」
「バカみたい……あなたはテレパシーで巽と密通してたとでも言うわけ?」
「うん。学校だったら、いくらでも接触する機会はあったからね」
「そんな、デタラメな話があるわけないわ……」
言葉の内容に反し、蓮見の口振りは弱々しかった。
「デタラメみたいなのは認めるけど、本当だよ。わたしにはね、昔からこの奇妙な能力があったの。最初はときどきチラッ、って人の心が聞こえるくらいで随意性はなかったけど、訓練を積んで送受信ができるようになってね、秒単位でなら相手の動きが読めるんだよ」
「まったく、大したデタラメだわ……信じられないし、信じたくない」
力をなくした蓮見は、あっさり永久に銃を奪い取られた。
永久は懐から手錠を取り出し、蓮見に掛けようとした。
が、思案する素振りを見せ、やめた。
「巽くん、これで乾くんの動きを止めておいて」
と手錠を差し出す。
「………」
巽は首を横に振り、懐から荒縄を掴み出す……ってそんなもの仕舞ってたのか、お前。
「ううん。乾くんはエージェントだから、縄くらいじゃあっさり抜け出しちゃうよ。どんなに複雑な縛り方をしても、ね」
「………」
渋々うなづくと、巽は手錠を受け取り、こっちに近づいてきた。
真意の読めない暗い瞳を一瞬だけ俺に向け、すぐに逸らして何事もなかったように通り過ぎていく。
壊れた窓の傍で凝然と突っ立つ乾の前で歩みを止めた。
「裏切りもんが……!」
憎悪を込めて吐き捨てるが、蓮見を人質に取られたような状態とあっては抵抗する気も起きないのか、無造作に両手を突き出す。
「………」
こちらからは背中しか見えないが、そこから巽に迷いが生じている様子が読み取れた。
裏切ったとは言え、いや──裏切ったからこそ、元の仲間に手錠を掛けるのが辛いんだろうか。
その割には進んで荒縄なんか出していたけど。
縛るのはOKで、手錠プレイはNGなのか?
もしかしてこいつらの関係には特殊なこだわりが……
ギロッ
「ひっ!?」
何の前触れもなく唐突に巽が振り返り、鋭い一瞥を突き刺してきた。
な……見抜かれた?
そんなバカな。
「心が読める」とかどうこう言ってたが、あれは永久の話じゃなかったのか?
「明生ちゃん、ごめ〜ん」
永久が申し訳なさそうな声をあげた。
へ? なぜお前が謝る?
「あのね、ついうっかり明生ちゃんが考えていること読んじゃって、それを更にうっかり巽くんに送っちゃったの」
は?
「重ね重ねうっかりなの」
いや待て。それを「うっかり」で済ませるのか? 「二重うっかり」でオチがついたとでも思っているのか?
しかし──これって、永久の能力が本物だってことの証明になっちまうんじゃないか?
蓮見との会話を聞いていたときは「おかしなハッタリかますな……つか、本気?」と半信半疑、というか自分に関係ないから「どうでもいいや」という気分だったが、いざ巻き込まれてみるとなんとも複雑な感じが。
……まあ、いい。読まれる相手が永久ってんなら別に気にすることもないだろう。
と自分でも驚くほどあっさり諦めと認めが湧いてきた。
「あくまでも『うっかり』がなければだけどな」
読まれた思考が永久だけで止まらないというのはさすがにイヤだが、この問題はまた後々追及するとして。
とりあえず俺を襲った不可解な事態は終息したんだ、と安堵の吐息を漏らす。
「なんか、思いっきり疲れてしまった気がする……」
「おいおい、若いのにだらしないなぁ」
からかうような笑い声。
すぐ背後から聞こえた。
乾? ──違う。
巽? ──違う。
蓮見でも永久でもない。
男の、それもよく聞き覚えのある声。
誰かは知っている。
だが、なんでここに?
いつの間に?
「せんせ──」
振り返ろうと首の筋肉を伸縮させた直後に、こめかみをえぐられた。
殴られたのかと思った。
体育の授業中、事故に見せかけてぶつけてきた乾の肘の硬さ。
それすらも凌駕する硬質な「何か」。
「前を見てろ、春野。面白い見世物をやってるんだからなぁ、しっかり見とけよ」
普段のやる気がなさそうな、それでいて妙な熱心さを感じさせる手掛かりは微塵もない。
気だるい声帯の震えから隠しきれない、隠そうともしていない悪意がだらだらとこぼれ出す。
俺は──
永久に突然手錠を掛けられたときよりも、
穂波さんにトレーで容赦なく叩かれたときよりも、
蓮見と乾と巽がハーヴェストに殴り込んできたときよりも、
蓮見が銃をぶっ放したときよりも、
永久と乾が人間離れのアクションを演じたときよりも、
永久にテレパシーじみた特異な能力があると知ったときよりも、
今日の事態の如何なるときよりもずっと、比べ物にならないにならないくらいの恐怖をこの瞬間において味わっていた。
こめかみを蝕む熱い痛みに紛れて伝わってくるひんやりした冷たさは、恐らく金属の温度。
肌に押し付けられ、くっついて離れないそれの正体はたぶん、きっと、間違いなく、俺をあっさり殺してしまえる非道の凶器だろう。
動けない。
俺がちょっとだけ、ほんのちょっとだけ立ち向かう素振りを見せただけで後ろにいる「あいつ」は必ず俺を殺す。例外も容赦も忖度も一切認めず殺す。
そう思っただけで全身は震え出し、震えること以外のあらゆる行動を停止してしまう。
じんわりと嫌な汗が噴き出し、俺は無様な粘土細工となって立ち竦んだ。
舌の根が乾いて言葉は出ない。
命乞いさえする気が起きない。
プライドだとか、余裕だとかではなく、ただ恐怖に縛られて一言も発することができなかった。
今にも股間から小便が漏れ出しそうだ。
それを恥ずかしいと思うこともできない。
「下手すると、お前にとって最後の楽しみとなるかもしれないんだから──じっくり見ておいて損はないぞ?」
狂った笑いが天井や壁に当たって跳ね返り、ハーヴェスト中を汚して回る。
世界が突然の狂気に侵蝕される一方で、俺は今にも途切れようとする意識を繋ぎ止めるのに必死だった。ここでブラック・アウトだなんて、そんなのは、あまりにも恐ろしすぎる──。