まとりのSAT(下)


「日高先生……」
「圭一郎さん……」
 ふたりの少女がそれぞればらばらに奴の名前を呼んだ。
 振り向くわけにもいかず、俺はただじっと硬直する。
 日高圭一郎──俺のクラスの担任教師。
 眼鏡を掛け、糸のように細い目でやる気なさげに授業をし、その一方で薄気味悪く俺や永久に付きまとってくる。蓮見の奴とも繋がりがあるようだったから、こうやって悪役として出てくることには何の違和感もない。
 だけど、いつの間に──?
 湧いて出たとしか思えないほど急な登場だった。入口付近は蓮見と永久がいたし、壊れた窓のところにも巽と乾がいる。他に店に入ってくる経路なんて……
「いや、なぁ、先生、今日はちょぉっと腹の調子が悪くてな。ここのトイレを借りてるうちに、何だか言い争いが始まったと思ったら、いきなり激しい銃撃戦だ。びっくりしたよ」
 トイレ。盲点だった。蓮見たちもなんだかんだ言って店内をザッと見ただけで、細かくは調べなかったしな。
 しかし、銃撃戦……蓮見の側が一方的に撃ってたんだから「戦」は違うけど。
「先生、あの」
 永久が一歩踏み出す。
「動くな!」
 ごりっ
 叫びとともにこめかみへ衝撃が走った。
「がっ!」
 痛みよりも、ショックで悲鳴が出た。
 銃を押し付けられているという恐怖が、思考力を奪う。
 ガクガクと膝が笑い出した。
「おいおい、ビビんなって春野。そこの夏森がおかしな動きをしない限りは撃ったりしねぇよ」
 おどけたように日高は笑いかけるが、少しも気は休まらず、嫌にヌメった汗がどんどん頬を滑っていった。
「そうだな……夏森、とりあえず危ないものはこっちに渡してもらおうか」
「危ないものって、なんですか先生?」
 ほえっ、とした表情で永久が訊き返す。
 とことん天然で行くつもりか、お前は……俺でも「武器を全部渡せ」と言っているのは分かるぞ。
「圭一郎さん、こいつは──『サトリックス』は武器を携行していません」
「ほう?」
 納得しかねる、と言うように首を傾げてから、日高は呟いた。
「いくら超人的な身体能力を持ってるからって飛び道具も持たないとは、また随分な自信家だな、夏森」
「自信じゃなくて、単に邪魔だから武器は持たないんですよー」
 と嬉しそうに言ってのける永久。「それに……」と続ける。

「飛び道具なんて、いくらでも調達できるしね」

 ちらっ、と木枠に刺さったスプーンに目を遣った。
「ふん……まあ、なにしろおかしな動きは見せないことだ。おとなしくしてないと、お前の大事な『ともだち』が頭をなくしちゃうからなぁ」
 粘りを含んだ声で脅す日高。
「わかりました。わたし、おかしなことしない。だから、明生ちゃんを解放してください……先生」
「そうやってお前が言うことを聞いてりゃそのうち、な。……まりあ」
「はい?」
 名前を呼ばれた蓮見が立ち上がった。パンパン、とスーツに付いた埃を払いながら。
「夏森を撃て」
「え……?」
「いいから撃つんだ」
 命令口調の日高に戸惑ったのか、「でも」と蓮見は反論する。
「この『サトリックス』の性格からいって、人質を取られたら無力化したも同然ですわ、わざわざ殺さなくても拘束すれば……」
「何度も言わせるな。撃て」
 日高が声に強い調子を込めて命令を繰り返す。
 気圧されたのか、蓮見は渋々銃を拾い上げ、取っ手の下から黒い長方形の弾倉を取り出し、懐から新しい弾倉を出して付け替えた。
 チキンッ カチッ キチ……
 作業を終えると、銃口を永久に定めた。
 ふたりの距離は、2メートルと離れていない。
 この距離──永久なら避けられるかもしれない。
 だけど、俺が人質に取られているとなると……。
 ずんっ、と胸のあたりが重くなった。
 眩暈がする。
 永久が死ぬ。
 殺される。
 このままだと、殺されてしまう。
 俺のせいで。
 俺がみすみす捕まってしまったせいで
「やめ──」
 俺は叫、
「あー、そうだ、夏森。避けていいぞ」
「──へ?」
 叫ぼうとして、日高の言葉に勢いを削がれた。
「何を言っているんですか、圭一郎さん?」
「避けていいの、先生?」
 永久と蓮見も不思議そうな顔をしている。
「いいから、やれ」
 有無を言わせない口調に、蓮見も永久も質問をやめた。
 蓮見が銃を構える。「当たらないだろうなぁ」と思っているのが表情に出て、締まりのない顔になっていた。
 パンッ パンッ パンッ パンッ パンッ……
 連射。何度も何度も蓮見の肩が反動で跳ね、空薬莢が次々と床に転がる。
 的の永久は、日高に言われた通り、くねくねと弾を避けていた。残像だらけで上半身が3つにも4つにも見え、すべての銃弾が実体を掠めて後方に飛んでいく。破砕音の連続。
 それにしても今日はハーヴェスト壊しまくりだな。蓮見の奴ら、ちゃんと弁償するのか?
 自分が生命の危機に晒されているという現実を忘れたくてあんまし関係ないことを考えてみるが、やはりこめかみに当たる冷え冷えとした感触は無視しようたって無視できなかった。
 怖い。
 足が震える。
 どうしようもなかった。
 カチッ
 乾いた音が響いた。
「終わりですわ」
 肩をすくめ、蓮見は全弾撃ち尽くした銃を懐に仕舞った。
「ふん、なるほど」
 日高は、声から察するに感心しているようだった。
「大したもんだ。普通だったら絶対に避けられないよなぁ。俺はもちろん、そこのエージェントどもにだってこんな芸当ができるかどうか怪しいもんだよ。なぁ?」
 声が少し遠くなった。
 後ろを向いたのか?
 どうやら、日高は乾と巽に呼びかけたみたいだ。
 ちっ、と憎々しげな舌打ちが聞こえた。巽がするとは思えないから、消去法的に乾か。
「まったく、恐ろしい奴だな、夏森。お前みたいな化け物が野放しにされていたかと思うとホント恐ろしくなるよ、俺は。そこらの暴力を振るいたい盛りのガキがナイフ持って悦に入ってたってよ、俺は別に何も怖かねぇんだ。チャカ取り出してやりゃあすぐにブルッて泣いて謝るんだからよ。ムカつきゃハジいてやりゃいいんだ。けどお前はそうやって何の武器も持たないくせして、銃に怯えない。怯まずに立ち向かってくる。そんな奴が脳天気ヅラして俺のがっこで歩き回っていたんだと思うとよ、俺は恐ろしくて恐ろしくて……」
 急に声を潜めていく。
「……何よりムカつくんだよ! ああ!? ったく、麻取のボケが、こんな化け物を町ん中に入れやがって! 一歩間違えたら、俺がこの化け物にノされていたとこじゃねぇか! チャカ持っていい感じに酔い痴れた俺があっさりこいつに取り押さえられるとか、そんなシナリオもありえたんじゃねぇか? ええ、コラ! ただでさえ脳天気でムカつくってのによ、更にこんなクソみてぇな力発揮しやがって……そういう、『油断を誘ってハイ逆転』ってノリが俺は大っ嫌いなんだよ!」
 叫び、叫び、叫んで──叫び疲れたのか。
 ゼイゼイと荒い息が俺の頬のあたりにまで届いてきた。唾も飛びまくりだ。俺自身の汗と交じって、より一層不快感が高まる。
 永久も蓮見も、呆気に取られて日高を凝視している。
 しばし、なんとも言えない沈黙の中で日高の荒い呼吸音が続いた。
「……よし、落ち着いたところで俺の用件を言おうか」
 勝手に暴れて勝手に落ち着いた日高は、くくっ、と嫌な笑い方をする。
「用件?」
「ああ……そうだな、まず、乾、巽」
 と後ろのふたりに呼びかける。
「なんだよ」
 ふて腐れたような声をする乾。日高にはあまり敬意を持っていないみたいだ。
「お前らはここから出て行け」
「は?」
「さっさと帰れ。報告は俺がするから、旧家の連中には何も言わなくていい」
「でも、」
「いいから出て行け」
 乾の言葉には耳を貸さず、高圧的に言った。
 息を呑むような音の後に、盛大なため息。
 ほどなくして、パリパリとガラスを踏み割られ、ふたりの足音が外へ出ていった。
 ハーヴェストには、俺と日高、蓮見、永久の4人が残ったことになる。
「圭一郎さん……なぜふたりを下がらせたんですか?」
 まりあが恐る恐るといった口調で訊ねた。
「あん? だってお前、あいつらまとりのエスだろうが。ちゃんと俺がトイレん中でケータイ使ってちゃんと報告しといたから、あいつらすぐに捕まるぜ。ここで殺しても良かったけど、何せ俺はただの人間で、あいつらはエージェントだからな。下手にやり合ったら俺の方が殺されかねない」
「でも、エスだったのは巽だけで……乾は違うのですけど」
「春野ぉ、知ってるか? エスってのはなぁ、一旦バレるとそれはもうひでぇ目に遭うんだよ。リンチだぜ、リンチ。二度と裏切り者が出ないようにっつう見せしめの意味も込めて、ギッタギタにやっちまうんだよ。そりゃあもう、あれに参加するだけで拷問史の単位が取れちまうくらいにな。情報は搾れるだけ搾って、要らなくなってもまだ拷問すんだよ。まったく、旧家の連中はサディストばっかだよなぁ」
 蓮見の質問を無視して、日高は俺にねちねちと囁きかけてくる。
 なんだ……? こいつ、蓮見と仲いいんじゃなかったのか? どうもさっきからふたりとも噛み合っていないというか、チグハグな遣り取りばっかだけど。
「圭一郎さん!」
 蓮見がヒステリックに叫ぶ。
「うるせぇな、まりあ。俺だって話はちゃんと聞いてたよ、トイレでな」
「だったら……!」
 震えを帯びた声。ボディガードみたくほとんどいつも付き添っていたふたりがいなくなると、心細いのか。
「俺がそうしたワケはな、ふたつめの用件との絡みがあるからなんだよ」
「ふたつめの用件……?」
「ああ。スパイが巽だけじゃなくて、乾もだってことにしといた方が都合が良かったんだよ」
「それはどういうことなんですか?」
 日高の言ってることの意味を汲み取れなかったのか、蓮見は質問を重ねた。
「それはな」
 ニヤリ、と。
 俺は、ここからじゃ見えないのに──日高が禍々しい笑みを浮かべていることを悟った。
「──こういうことだ!」
「蓮見さん、危ない!」
 俺には、見えた。
 視界の端。ダラリと垂れた日高の手が、小指をくいっ、と引いた瞬間。
 スーツの袖口から小さな、とても小さな銃がこぼれて、日高の手に収まるのを。
 安っぽいムードのアクション映画で見たことのある仕掛け。
 日高はそれを握ると、間を置かず即座に撃った。
 蓮見を狙って。
「え?」
 どろり
 視界が速度を失っていく。
 冗談のように軽かった銃声が間延びして重くなり、銃弾がまっすぐ蓮見へ突き進んでいった。
 呆然と立ちすくんでいる蓮見は、避けるどころか、自分が撃たれそうになっている事実に気づくことさえできないようだ。
 横から永久が蓮見の身体を突き飛ばす。
 破砕音。
 そして、人間の身体が転がる音。
 視覚と聴覚が正常に戻ると、俺の耳に呻き声が届いた。
「うう……」
 身体を丸め、呻いているのは──蓮見だった。
 当たった、のか?
 しかし、俺の見ている前でよろよろと、さほど重い傷を負ってはいない様子で立ち上がる。
 パッと見た感じ、どこにも弾は喰らってないようだった。
 永久の助けが間に合ったのか。
 じゃあ、永久は? 助けた本人はどうなったんだ?
「あいてててて……」
 床に転がり。
 肩を押さえて。
 けれど、明るい声で。
 苦痛を訴えながら、立ち上がった。
 肩にかかった指の隙間からはだくだくと流れる赤い液体が。
 血。
 血、なのか?
 撃たれた?
 当たった?
 日高の撃った弾が永久の肩に当たったのか?
 片方の腕を力なく下げた永久の顔。少し青く見える。
 気のせいか?
 光線の具合?
 それとも──本当に永久は血を失っているのか。
「おいおい、なんで邪魔するかなぁ……」
 余裕の中に、僅かな苛立ちを滲ませた声。
 日高は湧き上がる怒りを抑えるように、淡々と、抑揚を殺して喋った。
「化け物、そう慌てなくたってお前も殺してやるよ。俺はお前にも充分、ムカついているんだ。だが先に、そこの蓮見お嬢様に死んでもらいたいんだよ、俺はな」
「け、圭一郎さん、どうして!」
 蓮見の叫びは悲痛で、ほとんど悲鳴に近かった。
「どうして? んなもの──」
 せせら笑う。

「大っ嫌いだからに決まってるだろうが」

 蓮見と日高。ふたりの間に流れる空気が一瞬で重く冷たいモノに変わった。
「……!」
 驚きの色は消え、代わりに浮かべたのは、絶望の表情。
 撃ち尽くした銃を力なく下げ、目をつむり、唇を噛み締め、首を振った。
 一連の動作を終えて蓮見が目を開いたとき、絶望は拭い去られていた。スイッチを切り替えたように、別のモノが浮かぶ。
 闘志。出口から逃げ出すのは無理で、弾切れで攻撃手段もないのに、それでも諦めず蓮見は闘志を奮い立たせていた。
「いい顔して睨むじゃないか、まりあ。まったく、7年前とちっとも変わってねぇ」
 くつくつと忍び笑いを漏らしながら、日高がからかいの声を掛ける。
 7年前だと?
 俺たちの……俺と穂と美花の記憶が途切れ、付き合いが断絶した年。
 あのときに何があったんだ? それは今、日高が言ったこととも関係あるのか?
「考えてみりゃこの状況もお前のせいなんだよな。せっかく邪魔なガキどもをぶっ殺せるって段になって、お前がそんな目をしやがったから……蓮見家が変な温情働かせて、こいつらが生き残っちまった。それで今になってもういっぺん殺し直さなくちゃならないってハメになったんだから、本当に面倒をかけやがる。なぁ、いくら『ともだち』だからって、立場の違う奴を助けたってしょうがないんだよ。まだわからないのか?」
「………」
 何も言わず、蓮見は日高を視線で射殺すとばかりに睨むつける。
「無駄なんだよ、無駄。無視されて恨んでいじめて、その実ホントは気になっていて、危なくなったら自分とこ引き込んで助けようなんて、見事にアオ臭い青春ごっこやってるけどよぉ、お前のしたこと全部無駄なんだよ。こいつには何も分かってない」
 「こいつ」で銃を動かし、こめかみをえぐる。
 俺のことを言っている……?
 俺が何を分かっていないっていうんだ?
 確かに、その前の『無視されて恨んでいじめて』や『危なくなったら自分とこ引き込んで助けよう』が何を意味しているのかは分からないが。
「だってな、こいつ……いや、正確にはこいつと他2名、か。こいつと他2名は、記憶を消されてるんだからよ」
「記憶を? 消されてるって、」
 険を緩め、訝る表情をした蓮見の顔が、言葉の途中で強張った。
「まさか……!」
「その『まさか』だ。聞いたことがあるだろ、旧家の連中が知られてはまずいことを知った奴を、どうしても殺すわけにはいかないってときのために使う手段。『記憶を消す』っての。なにせクスリを扱うのが本業の集団だ、どんなクスリを嗅がせて、どんなふうに暗示をかければ記憶を封印したり消去したりできるのか、大昔からずっと研究してきたんだよ。人心掌握に洗脳は欠かせないからな、テレビでやってる胡散臭い催眠術なんて話にならんくらいのスゲェ効果があるんだよ」
「『洗濯屋』……そう呼ばれている集団の存在については耳にしたことがあるわ」
 蓮見の声から力がなくなった。燃え盛っていた闘志が、跡形もなくなっている。
 というか、『洗濯屋』?
 名前はマヌケだが、ふたりの話を聞く限り、そいつらが人の記憶を消すことができるみたいだが。
 もしかして……
「俺たちの記憶が7年前であやふやになってるのって……」
「そうだ、春野。『洗濯屋』の連中がお前らの記憶を消したんだよ。でな、よく言うだろ? 催眠術かけて『死ね』って命令したって、本人がマジで死にたがってなけりゃ利かないって。あれと同じで『忘れろ』っても、忘れたがってなきゃ記憶なんて喪失しねぇもんなんだよ。そこをクスリと洗脳で無理矢理操作するんだから、こいつらの頭にはかなりの負担がかかっちまった。おかげで忘れさせたい範囲以上の記憶がなくなったうえ、性格まで変えちまったってわけだ」
 そこまで言って、不意に日高の声が音量を増した。
「おい、まりあ、お前も覚えているだろ! 『あの日』の後、こいつが死人みたいな顔して歩いてたのをなぁ!」
「──!」
 蓮見の返答はなかった。
 彼女は糸が切れた操り人形のように体を弛緩させ、膝を床につけた。
「じゃあ……じゃあ、あと後ずっとわたしのことを無視していたのは……」
「避けてたんじゃなくて、単純に覚えてなかったんだ、こいつらは。お前は『せっかく助けたのに、無視されるのは、わたしが嫌われたから?』とか勝手に思い込んで恨んでたみたいだがな」
 ひとりごとに近い蓮見の呟きを、日高の嗜虐が篭もったセリフが拾う。
 わからない。
 これじゃ、まるで……俺が蓮見に助けられたことがあるみたいじゃないか。
 そんなバカな。
 7年前。『あの日』。いったい何があった?
「春野ぉ、まだ思い出さないのか? これだけまりあが苦しんでんのによ。薄情な奴だなぁ」
 にやにやとイヤな顔で笑ってるだろうことは、見るまでもなく、想像で充分だった。
「ならこの際だから説明してやろうか。それまでお前と、まりあと、ついでにそこの化け物の命は一時お預けにしてやろう」
 日高の口が滔々と語り出す──

 この町が旧家連の威光でクスリつくり放題だからって、まさか町中のあちこちで大麻だの芥子だの栽培するわけにもいかないだろ?
 一応、ここは「水郷の里」としても有名だからな、一般の観光客もよく来る。そいつらに混じって目の利く奴がいたりでもしたら、場合によっちゃかなりの面倒になる。いくら町ぐるみで「消し」にかかっても、外部で不審に思う奴らが出てこないとも限らない。そっちまでいちいち手を伸ばすことを考えていたら、バカにならんほどの手間暇を労することになる。
 後ろ暗いことは他人の目につくところで堂々とやっちゃダメなんだ。かと言ってコソコソやるのもダメだ。隠蔽にはコストがかかる。
 だからな、イケナイ仕事は人目につかないところで思う存分堂々とやればいいんだよ。
 分かるか? つまり、この町で言うと山だ。もちろん登山客が入るような山はダメだが、ハイキングに適していない、町が「立入禁止」に指定している山なら、人目を気にせず大っぴらに栽培できる、正にうってつけの場所だ。周りに登りやすい山がいくらでもあるのに、わざわざ「入るな」と言われている山に入っていく物好き、というかバカだな、そんなバカはそういない。たまにいるが、そういうのは仕方なく「消えて」もらっているよ。さすがにそんだけのバカとなると「消えて」も騒ぐ奴は少ねぇからな。
 で、山にはずっと旧家連のためにクスリを栽培・精製している一族がいた。
 そう、「いた」。過去形だ。
 一族の名は夏森。
 そいつらは増えもせず減りもせず、旧家に都合の良い程度の集団として管理されてきた。この数百年、ずっとな。すべての伝承の始原である「まとり」、要は異人の血を引いているとの話もあるが、詳しいことは分からん。そいつ(と永久を指す)みたいにときたま色素の薄い奴が出てくるが、それも確か証拠とまでは言えないしな。
 とにかく、山の中で生まれ、山の中で育ち、山の中で死んでいく一族がいた。町から物資が送られることもあったが、基本は自給自足だ。言葉は話すし読み書きもできる。非文明的な暮らしをしているわけでもなく、生活は町の人間よりいくらか水準が落ちるだけだった。近隣の町で親を亡くした孤児を何人も送ることで近親婚による血の緊密化を防ぎ、絶えず血を新しくする仕組みになっていた。おまけに神社まであったんだぜ。町の分社じゃなくて、むしろ町の方のが分社だって言われるくらいだ。
 詰まるところだな、一族は町の人間とそんなに変わりがなかった。
 そのことがむしろ厄介の種となったんだよ。
 時代が下るにつれて、一族は余計な知恵を付けるようになった。終戦からこっち、旧家への忠誠が薄れ、次第に反抗的な態度を見せるようになってきた。もちろん、旧家の連中も捨て置くわけには行かず、始末するか好きにさせるかの話し合いの結果、一族の人間を限定的に町へ出してもいいようになった。まだ幼いガキどもを、旧家の息がかかった町民何十人でもって監視しながらな。
 やっぱり妥協はまずかったんだよ、ガキでも町に出しちゃいけなかった。まったく別の生き物が生きていると信じていた山に、自分たちとそう大して変わらない人間が住んでいたって事実が町民どもを刺激した。奴らは山に住んでいるのが「身の毛がよだつほどの化け物」とか勝手に信じ込んでビビっていやがった。それがただの人間と知るや、「恐れるに足らず」と思って旧家の目を盗み、山を荒らし始めた。旧家が独占していた麻薬に手ぇつけてやろうと目論んだんだな。大戦の影響で旧家連の体力もいささか弱っていてな、町の裏切り者どもすべてを押さえることはできなかった。
 結果はひどいもんだぜぇ。たったひとりを残して、一族皆殺し。欲に目が眩んだ人間たちが虐殺に走るとどんだけ酷いことができるか、いくらでも記録が残っているぞ。自分たちと同じだから思い留まるんじゃなくて、自分たちと大して変わらないからこそ歯止めが利かなかったんだ。笑えるよなぁ。
 生き残ったのは、夏森永久の母親──佐和とか言ったか? そいつだけだ。後はみんな死体になった。裏切り者どもはバカばっかでな、ろくに栽培法も精製法も知らないくせして、一族の人間を殺して回ったんだ。連中がいなけりゃ、今ある分は別としてもこれからの分はできないってことに気づいたのは、殺戮の興奮から覚めた後だったわけだ。もともとそんなに大人数でもなかったからな、人狩り喰らってあっという間に滅亡間際まで行っちまったんだなぁ。生き残りの女もまだ若くて、栽培や精製のノウハウを充分に知悉していなかった。言葉も読み書きもできた連中だが、こと麻薬に関しては口伝で語り継ぐのみだったらしいな。かくして数百年も積み重ねた知識は僅かひと掴みを残して潰えてしまったんだ。
 これは旧家連にも痛手だったが、無くしたものはしょうがない。諦めて裏切り者どもを一斉に粛清した後で、山の事業をもう一度始めからやり直すことにした。何も麻薬事業は「山」だけじゃなくて、他にもいくつかあったからな。そこらのノウハウを完全に活かすことはできないにしても、再出発をするのは可能だったってことだ。
 こうして山は元通り麻薬の密造所に立ち返りましたとさ、ってなればめでたしめでたしなんだが、そうはいかなかったんだよ、春野ぉ。
 敢えて旧家連の失策を上げるとすれば、一族の生き残りをそのままにしちまったことだ。ぶっ殺せば禍根も何もなくスムーズに行ったものをよ。
 やっぱり、一族の知識を少しとはいえ覚えていたことが、消すには惜しいと思わせたのかもな。その女にひとりの男を宛がって、「夏森」を存続させた。言わなくても分かるだろうが、「ひとりの男」ってのが夏森永久の父親だ。
 やがて娘も生まれてきたふたりは、麻薬密造に手を染めることに対して忌避感を強めるようになった。何せ、それが原因で親兄弟含む血族も知人もみぃんな殺されちまったんだからな、女の方は特にひどかった。男は納得ずくで仕事を始めたはずなのに、女の姿を見ているうち後悔が差してきた。なんとも麗しいロマンスじゃないか、なぁ?
 やめたいと申し出たところで旧家連が許すわけもない。朝方、ふたりは取るものも取りあえず、娘だけを連れて山から逃げ出した。御丁寧に大麻畑を焼き払った後でな。
 逃げ出して、逃げ切れればハッピー・エンドだったかもしれないが、さすがに旧家の連中はそこまで甘くない。すぐに追っ手がついて、捕まった。
 それでどうしたかって? わざわざ訊くほどのことか? あっさり始末されたよ。やる気のない奴を生かしたってしょうがないだろう。
 追っ手は娘だけ取り逃した。ふたりは娘のために囮となって捕まったんだ。
 とはいえ、足場の悪い山の中で小さな女の子と身の軽い野郎が鬼ごっこして、どっちに利があったと思うよ?
 またよりによって娘はよく目立つ白い衣装を着ていたもんだからな、追っ手としても実に見つけ易かった。
 見てきたような言い方だと思うか?
 そりゃそうだ、実際見てきたんだからな。
 追っ手は俺だったんだよ。ちょうどその場に駆り出されていたんだ。まだガキと言ってもいい年頃だったが、ちょっと家庭の事情があってな。やばい仕事にも手ぇつけてたんだよ。
 山ん中を走り回るのは若い時分にも結構重労働だったんだぜぇ。今みたいに銃も携帯を許されてなくて、夏森一家を見つけても石投げつけるくらいしかできることなかったしな。幸い当たったけどよぉ。
 逃がした娘も追って、とことん追って、遂には追い詰めた。
 それが例の芙蓉の樹のとこなんだが。
 ……春野、まだ思い出さないか?

 結びの言葉が引き金になった。

 頭に重い音が響き、目が眩む。
 視界の景色が溶けるように崩れ、クリーム色に染まっていく。やがて輝きを帯び、灼けるような閃光がすべてを包んだ。
 記憶が遡行する。
 足元を、時間の川が逆流していく。
 2年前、3年前、4年前……ビデオテープが巻き戻るように流れていき、7年前のところまで近づいて不意に緩やかになる。
 丘に聳える芙蓉樹に辿り着いて流れは止まり、正方向に再生を始めた。

 あの日は一緒に集まるはずの公園に永久が来なかった。
 新しい友達を紹介するためみんなを呼び寄せていたのに、肝心の永久が来ない──そのことが異様なくらい、俺たちの心を騒がせた。
「おーちゃん、永久ちゃんどうかしたのかな?」
 不安をいっぱい顔に出して、美花が訊いた。
「明生……」
 いつもは弱い表情を見せない穂も、拭いきれない「嫌な予感」に顔を歪めていた。
 少し時間に遅れるくらい、大して気にする必要はないという思いもあった。永久は時間にルーズな奴じゃなかったし、このときまでも約束の時間に遅れることは一度としてなかったが、前例のないことが絶対に起こらないなんて、いくら子供の俺たちだって信じていなかった。
 けども、胸をじりじりと焦がす黒い気分に抗うことはできなかった。
 ふたりの不安を否定しなかった俺は、ただ「さがしにいく」と一言だけ言い置いて公園から走り出た。
 「ちょっと、明生!」と叫びながら穂が追いかけてきて、「まってよ、おいてかないでよ〜」と半泣きの美花まで付いてきた。
 誰かひとりだけが行って、あとは待っていればよかったはずだった。それなのに俺たちは「今すぐ永久を見つけ出さなきゃいけない」って思いに駆られていたんだ。「衝き動かされる」というのは、たぶんあんな感じのことを指すんだろう。
 永久を探す場所なんてひとつしかない。
 山だ。
 おとなたちは「入っちゃいけない」とか「恐ろしい化け物が住んでいる」とか強く注意していたけど、それを聞いて立ち止まるほど俺たちの足は従順じゃなかった。おとなたちの言葉ではなく、抑え切れぬ冒険心に従って俺たちは緑が氾濫する山へと分け入り、心臓が凍る吊り橋を走って渡り、軒先で風に当たりながらスイカを食べていた少女と出逢った。それが永久だった。
 道のない険しい山に、小柄な子供だからこそ通れるルートを経由して俺たちは吊り橋の前にまで来た。吊り橋の向こうで、いつもは永久とその両親しかいない家の周辺に多くの人の気配があった。もっと先の方でもくもくと煙が上がっているのも見えた。やけに物々しい雰囲気に恐れを抱き、俺たちは吊り橋に近寄ることもできなかった。
 「どうしよう」と今にも大声で泣き出しそうな美花をなだめていると、「芙蓉の樹だ、あそこまでガキを追い詰めたぞ!」って怒声がした。
 ガキと聞いて、俺たちは当然永久を連想した。わけが分からないままに走り出して、丘の芙蓉樹まで向かった。
 大きな樹の下には永久と、その首を絞める、俺たちよりも大きくて、おとなよりも若い少年の姿が──

「あれが、あんただったのか」
「お、思い出したのか?」
 「愉快」の二文字を表す声色に、頭が沸く。
「永久の首を絞めて、殺そうとしていたのがお前か──!」
「そうだよ、やっと思い出してくれたか。嬉しいなぁ」
「なにが嬉しいんだよ!」
「だってさ、春野」
 ゆっくりと声が沈んでいく。
「──思い出してもらえないんじゃ、復讐なんてできやしないだろう?」
「復讐?」
「そう、俺が、お前らに復讐するためにな」
 日高の言ってることが、よく分からなかった。
 なんで日高が俺たちに復讐しようとしてるんだ?
 あのあと、俺たちは少年──日高に飛び掛って足を押さえ、噛み付き、引き倒して永久を助けた。穂と美花は永久を連れて逃げ出したけど、俺は 日高に捕まった。日高は怒り狂っていて、意味不明なことを喚きながら俺をぼこぼこにした。それで、意識がなくなって──
「お前らのせいで俺は夏森永久を取り逃した。てめぇをボコってから後を追ったが見つからなくてな。後で佐倉と吉野のふたりは他の連中が確保しても、結局あいつだけ行方が掴めなくなった。どうも協力者がいたらしくてな、夏森一家を県外へ逃がすために山の麓で待機してたようなんだ。佐倉と吉野がそれと接触して、永久を引き渡したってわけだ。なりふり構わず検問まで敷いたが、それも無駄だった」
 そうだったのか……。
 永久が「引っ越していた」って言っていたのは、そういうことか。
「で、反乱分子となった夏森一家を残らず消すつもりが、娘だけ捕まえ損ねたなんていう大失態をかました俺は一気に立場が悪くなった。俺は蓮見家の遠縁に当たる日高家の生まれなんだが、両親を早くに亡くしているせいで旧家筋の連中に世話されることになった。でもな、奴らはただで食わせてくれるほど優しかない。まだ年端もいかないガキだったが、俺はいろんなことをやらされたよ。きつい労働も汚れ仕事も、なんだってな」
 こめかみに当たる銃の震えが突然大きくなった。小刻みにぶつかる銃口が鋭い痛みを与えるが、文句を口にする余裕はなかった。
「俺は優奈のためだと思って耐えた……! たったひとりの妹を守るためにどんなことだってしてやった! 心の声を無視して嫌なものにまっすぐ目を向け手を突っ込んだ! 優奈だけには辛い目に遭わせたくないから、俺はあらゆる感情を押さえつけて仕事をこなした……!」
 血の滲むような叫びが耳朶を打つ。
 狂気と悲痛に染まった毒々しい響きに鼓膜が震えた。
「夏森一家の逃亡を阻止するために動員した兵隊の手当てやら焼かれた畑の被害やらを補償するために、捕まえたガキどもを臓器密売ルートにでも流そうかという話になったが……それをまりあが止めた」
 その名を呼ぶ声には確実な憎悪が篭もっていた。
 殺意すら混じった憎しみに怯むことなく、蓮見は俺の横の日高を睨みつけている。
「こいつはおとなたちが自分の『ともだち』の名前を口にして不穏なことを言ってるに怯えて、祖父に『ひどいことをしないで』とせがんだんだよ。旧家の筆頭たる蓮見、その当主も孫の情にほだされたのか、ガキどもには『記憶の消去だけ』と随分手緩い処分を下しやがった。『あの子たちは直接事件に関与していない。それに、町からいっときに子供が3人も消えたら騒ぎになる』とか言っていたがな……孫娘のことを思ってそう判断したのは明らかだった」
 気づけば銃の震えはやみ、日高の声は平静を取り戻していた。
「だって、そうだろ? いっときに3人も消えたら騒ぎになるけどよ、だったらふたりを生かして、ひとりだけ消したら良かったんだ。両親は騒ぐだろうが、それくらいなら旧家の連中が手を回して揉み消すのも楽だったはずだ。何も、ガキどもの身代わりに優奈を密売ルートに乗せる必要なんかなかっただろ?」
「え──?」
「な──!」
 日高の言い放った言葉の恐ろしさに、俺と蓮見が揃って絶句した。
 言葉の内容にも関わらず、日高は平静を保っていた。
「損害を補償するために、どうして俺の妹を使う必要がある? 確かに優奈は俺を除けば家族なんていなくて、騒ぎ出すおとなはゼロ人だけどよ……いくらなんでも、旧家のために尽くしてきた俺の妹を消すなんて、あんまりじゃないか。そりゃ、ガキをひとり捕まえ損ねたのはミスだったけどよぉ、たった一回の失敗で全部パーだなんて、そんな話があるかよ?」
 怒りや悲しみが抜けて、ただ疲労ばかりが積もった声で淡々と続ける。
 ようやく、分かった。
 こいつはとっくの昔に心のバランスを壊してしまっているんだ。
 怒ったり、悲しんだり、憎んだり、笑ったりするのはみんな反射的な行動で感情が伴っていない。
 日高は──ただ機械的な作業で「復讐」を行っている。
 「復讐」のために生きているのではなくて、「復讐」によって生かされているのだ。
 神を忘れ、「復讐」を信仰し、人間の皮をまとったモノ。
 彼は「復讐」の装置だ。
「やっと、やっと思い出してくれたな、春野。お前たちは7年前の『あの日』を忘却の淵に追いやり、夏森永久は姿を眩ませて、ほとんど状況は絶望的だったが……仕込みは成功してくれた。こうしてようやく復讐の機会に巡り会えたことを、俺は何に感謝したらいいんだろうな?」
 仕込み。
 その言葉でふと思いついた。
 もしかすると……。
「先生」
 この期に及んで彼をこう呼ぶのは抵抗があったが、構ってる暇はない。
「ん、なんだ?」
「俺の部屋に麻薬置いたのは、先生ですか?」
「ああ。そこのまとりと、」
 銃口で永久を指し示す。
「そこのお嬢様」
 横にずらし、蓮見を指した。
「……を同時に引っ張り出すには、お前を利用するしかないと思ってな。俺の復讐は最低限、お前を含めた3人を揃えることが条件でな。欲を言えば佐倉と吉野もここに集めてしまいたかったとこだが、まあ、あいつらは優先順位が低い。後で殺しても差し支えはない」
 日高の言葉に、まりあの冷たい──けれど弱々しい──声が割って入った。
「圭一郎さん、わたしを殺して逃げ切れるとでも思っているのですか?」
「逃げ切るつもりはないさ。いずれは捕まって殺されるだろうが、当面は乾と巽に責任をなすりつけて凌ぐことができる。佐倉と吉野を殺して、あとついでに旧家の連中も何人か血祭りにあげることができたら……思い残すことは何もない」
 乾いていた。日高の声も、まとう空気も乾き切っていた。
 人間らしさは失われている。
 「復讐」のために何もかもを捨てた男──乾いたまま生きる彼が、気だるげに言葉を紡いだ。
「長話したせいで手が疲れてきたな……そろそろ撃っちまおうか」
 生きることそのものに疲れた声。
 誰も冗談とは受け取らない。
 日高は本気だ。
「……妹さんのことは、分かります」
 それでも俺は、言わずにはいられなかった。
「あ?」
「先生の気持ちが分かるというわけじゃない。分かるのは、妹さんが受けた仕打ちは正しくないってこと。そんなことを為したおとなは、どうであれ間違っている」
 肚に力を入れた。必死で叫んだ。
「だけど──永久は悪くない! 蓮見も! 子供だからというんじゃない、ただ単に俺たちは間違ったことなんてしていない、それだけのことだよ! あんたは復讐を盲信して永久や蓮見のせいにしている! 永久や蓮見のせいにするのが分かり易いからって、『分かり易さ』に逃げ込むな! 戦わなきゃいけないのはどう考えたって俺たちとじゃない! 子供を食い物にする奴らだろうが! 俺たちを殺す理由は短絡的すぎて、納得なんていかない! いくもんかっつの! あんたももっとよく考えろよ! 本当にそんな考え方に納得できるのかよ! ふざ、ふ、ふざ──」
 焦燥に舌がもつれそうになる。
 溜まった唾は飲み込まず、遠慮なく吐き散らかした。
「ふざけるな!」
 鼓動と咆哮が一致する。
 興奮に引きずられながら大声を出す。
「狂気に付き合うな! 復讐に任せるな! 妹さんを言い訳にするな! あんたの頭で判断しろ! 永久が悪いかどうか、もういっぺんキチンと考え直してみろ!」
 こんな言葉は日高に届かない。
 狂気と復讐に妹への思いを塗り込んだ日高に、善悪を判断する機構なんて残されていない。
 彼はただの装置だ。
 分かっていても止められない。
「日高──!」
「春野ぉ、ひとつだけ教えてやろう」
 少しも揺るぎない口調で、日高は言った。
「──いい化け物はなぁ、死んだ化け物だけなんだよ」
 右手の銃を握り、構え、照準した。
 的はもちろん、永久。
「避けんなよぉ、化け物。てめぇが避けたら大事な大事な『ともだち』の、叫ぶしか能のない空っぽなオツムが余計空っぽのスッカラカンになっちまうぜぇ」
 ぐりぐりと銃口をこめかみに押し付けてくる。
 「死」の実感が膨れ上がって、爆発する。
 不安。
 恐怖。
 絶望。
「あ──」
 畜生……このままだと永久が!
 焦りで鼓動が早まり、全身の体温が上がる。
 耳元で血の巡る微かな震え。
 熱が逃げ場を求めて身体中を暴れ回る。
 けど、どうすればいいんだ?
 ちょっとでも動けば日高は間違いなく俺の頭をすっ飛ばす。どんなに機敏に動いても、この近距離じゃ避けようがない。『サトリックス』って呼ばれた永久みたいに超人的な動きで回避することは絶対に無理だ。あんな真似はできない。
 でも、だからと言ってこのまま立ち尽くしているつもりか?
 バカみたいに突っ立って、永久が射殺されるのをおとなしく見ていろと?
 永久は、呆然と立ち尽くす蓮見の横で、血まみれの肩を押さえたまま、こちらをじっと見つめている。
 不安も怯えも表さず、泰然として。
 何か策があるのか?
 それとも……永久は死を前にしてさえ少しの動揺を示すことがなく、ただ黙って受け容れる。そんな奴なのか?
 俺は──
 俺はどうすればいい?
 永久のあるかなしかも分からない「策」を期待して何もせず立ち尽くすか。
 永久の「諦め」を放棄させるべく、何らかのアクションを起こすべきか。
 どっちだ。
 どっちが良い?
 どっちが悪い?
 どっちでも同じか?
 どっちの方が──
 考えはまとまらない。思考がグチャグチャのスープとなって頭の中で掻き回される。
 死にたくない。
 死なせたくない。
 どっちが大事で、どっちが大事じゃない?
 熱い……。
 混沌たる感情がどろりと渦を巻き、頭の芯をとろかせる。
「さ、それじゃあ死んでもらおうか」
 キチチ──カチッ
 どこかを操作する音。
 日高の声がどんどんと冷えていく。血が通わなくなる。「生」の熱を失い、「死」の冷血へと適応する。
 低温。極低温の獣。
 俺の心まで凍りつかせる極寒の声で、言い放った。
「お前はあのときに死んどけば良かったんだよ、化け物」
 途端に──
 血が沸騰した。全身が燃え立ち、視界が熱で歪んだ。
 心臓が破裂したかと思った。尋常じゃない量の血が血管という血管を広げ、奔流となって全身を巡る感触が肉と肌から伝わってくる。
 殺す。
 こいつは間違いなく、確固たる意志で持って永久を殺す。
 憎しみよりも必然。「殺すべき」と信じて殺す。
 そのつもりでいる。
 こめかみに押し付けられた銃口──筋肉の自然な運動として伝わる微かな震え以外、何もなく、ほとんど固定されたようになっている。
 こいつの感情は動いていない。
 殺意の源として、憎悪も怒気も採用していない。感情は置き去りにしている。
 そもそも殺意が希薄だ。
 「殺してやる」という煮え滾る意志に拠らず、「殺さなければならない」「だから殺す」というクッションの置かれた段階的な判断と意志、即ち理性に拠っている。
 理性の殺意。
 理としての殺人。
 感情の震えも迷いも観測させず、思い留まるということを知らない。
 厚い氷に包まれた悪意。理性の殻をまとった害意。
 それがこいつにとっての「復讐」だ。
 こいつは言葉だけじゃ止められない。感情だけでは引っ張れない。
 俺がどんなに叫ぼうと、怒ろうと、憎み、殺意を迸らせようと耳を貸さない。柳に風で聞き流す。まったく、何もかもが損なわれない。奴の装甲は硬すぎる。俺の怒りも憎しみも殺意も、奴にとってはゴミでしかない。
 こいつを止めるのは行動だけ。物理的な干渉によってのみだ。
 ならば──動かなくては。
 すぐ隣にいる、手の届く、その気になれば蹴りつけることも組み付くこともできる俺が行動を起こさなくては、永久を救えない。
 永久を救う。
 そして、自らを救う。
 今なら日高の注意はほとんどが永久の方に向かっているはずだ。
 虚を衝き、仕掛ければ少しは隙ができるんじゃないか?
 保証はないし、少しの隙でどうにかなるとも信じられない。
 だけど、このまま何もしないというのは無理だ。
 俺自身、今にも行動を起こそうとする自分の身体を押さえつけられない。
 焚き付けるのではなく、解き放つ。それだけで、俺は動き出す。
 身体の動きを縛り付ける何か。理性? とにかく、そんな感じのものをぶつぶつちぎって、根の生えたような足や強張る手、及び腰となった全身にGOサインを送る。
 「及び腰」から「乗り気」へ一瞬で転換した。
 俺はこめかみの銃を払うため、手を振った。
 ぱしっ
 弾いた。
 暴発は──しない。
「おおおおおおおおおおおお!!」
 叫んで日高に飛びかかる。
 銃を使わせる間のなく一気に──片をつけてやる!
 つけないと、俺も永久も、ついでに蓮見も大変なことになるからな!
 勢い良く地を蹴った直後。
 腹に足が突き刺さった。
「げぇっ!」
 口から空気と悲鳴が漏れる。他のものも喉元まで込み上げてくる。
 日高の蹴り──飛ぶ直前に見えたが、回避が間に合わなかった。爪先が俺の腹をえぐり、直進する力を殺して後ろに吹っ飛ばした。
 遠ざかりながら、日高を見る。
 顔は笑ってなかった。
 怒ってもいなかった。
 ただ、「邪魔だな」「ウザいな」と目つきで言っていた。
 物凄くかったるそうな手つきで、俺の顔に銃口を向ける。
 黒い穴が覗いた。その向こうは暗すぎてよく見えない。たぶんそこにあるのは、復讐心ではなく、単に薄っぺらい殺意。
 殺す順番を変えようとするだけ。
 チリ取りに乗せられなかった埃を足で蹴って拡散させる、何の他意もない怠惰。
 乾きに蝕まれた日高は、復讐の際に感情の昂ぶりを必要としない。
 きっとゴミを捨てるときよりももっと低い気持ちで俺を殺す。
 俺が今まで抱いていた「殺人」の印象とはかけ離れている。
 そのせいか──俺はもう、恐怖すら感じなかった。
(……ーン……)
 ノイズが頭の中で騒ぐ。
 走馬燈は回らない。幻聴だけが黄泉路の供か。
(……プー……を使っ)
 いくつかの音がどういう意味を成すのか把握する時間もなかった。
 銃声が響き。
 銃口から小さな黒い影が飛び出して。
 まっすぐ俺に襲い掛かってきた。
 野球ボールよりもずっとずっと小さいのに、大型犬に圧しかかられるとき以上のプレッシャーが迫ってくる。
 周囲の時間はいつしか停滞していた。
 見えるはずもない銃弾がしっかりと見える。
 早い……
 本能的に避けようと身体が動くが、それも遅くて、何の迷いもなく直進する弾から逃れるのはどうも無理みたいだった。
 このまま当たって、俺は死ぬのか。
 諦めようとした。

(スプーンを使って!)

 諦めを砕いたのは永久の叫びだった。
 声ではない。
 頭に直接響いた。
(なんだ!?)
(いいから、スプーンを使って、明生ちゃん!)
 ふと自分がスプーンを握りっぱなしにしていたことに気づかされた。
 コーヒーを掻き混ぜているところにいろんな騒ぎが巻き起こって、持ってたこと自体を忘れていた。
 これを使え?
 どういうふうに?
 永久がしたみたいに投げつけるのか?
 ──違う。
 直感した。この場合の正しい使い方は「投げる」ではない。
 逸らす、だ。
 そうこうしているうちに銃弾はすぐそばまで来ていた。まばたきすら許さないほどの至近距離。
 手が勝手に動いた。判断が追いつくより先に行動していた。
 銃弾の先頭をスプーンの面と接触させる。
 火花が散った。
 銃弾が持つエネルギーにスプーンを弾き飛ばされそうになる。
 くっ……!
 離してたまるか!
 力いっぱい握り締め、スプーンを押し当てる。
 緩やかに描く曲線。
 そこに──銃弾を乗せる。
 具現した殺意を座礁させる。
 渾身の力でベクトルを矯正する。
 まっすぐに進もうとする銃弾の意志を捻じ曲げる。

 逸れろ!

 祈りは通じた。
 見事に銃弾は俺を迂回して、脇へ逸れた。
(や……やった!)
(まだ、次が来るよ!)
 安心しかけた俺を、永久の言葉が引き締めさせた。
 閃光。
 マズルフラッシュが瞬き、第二の銃弾が放たれた!
 連射か!?
 驚いている暇はなかった。
 直線の猛獣が容赦なく飛び掛ってくる。
 俺の身体が宙を飛んでいるせいで、俺の目からは銃弾の位置が動いているように見えた。
 さっきは顔のあたりに来たが、今度は腹。
 咄嗟に腕を下ろす。
 どうにか間に合い、銃弾はふたたびスプーンの曲面と接触。
 だが──
(しまった!)
 強く当てすぎたせいか、スプーンの強度が耐えかねたようだ。
 ゆっくり、
 ゆっくりと。
 首のあたりで曲がっていく感触が俺の肌を戦慄させた。
 ステンレスが悲鳴を上げ、鉛が勝ち鬨を上げる。
 去りかけた「死」が舞い戻ってくる。
 そんなのは──イヤだっつの!
 心の中で叫んでスプーンを握った。
 強すぎず、弱すぎず、微妙な力を込めて銃弾を押す。
 逸れ……た!
 銃弾の進行方向が変わったのと同時に、スプーンが折れた。
 水中から浮かび上がる木片のように、ちぎれた先端がスローモーションで空中を泳ぎ出す。
 折れたせいで逸らし切ることができなかった。
 脇腹を灼熱が通り過ぎていく。
 あまりの痛みに我を失いそうになる。
(明生ちゃん、しっかり!)
(くそ……!)
 頭に響く永久の言葉を頼りに正気を保った。
 手に残されたのは柄だけとなったスプーン。
 日高からの3発目は──ない。
 2連射だったのか。
 ほっ、と安堵しそうになる自分を叱咤した。
(気を緩めるな)
 これから撃つところなのかもしれない。
 だとすればやばい。もう俺の手には防御の手段がない。ただの的だ。
 なら、するべきことはひとつ。
 相手よりも先に攻撃に移れ!
 迷うことに価値はない。
 今度こそ、正しい選択は「投げる」だった。
 フォームもクソもなく、無我夢中で日高を狙って柄を投げつけた。
 ステンレスの矢は日高に向かって行く。
 俺の認識ではダーツよりも少し遅いくらいだが、飛来する銃弾がそれよりも更に遅く見えたことを考えると──
 ──考えるのをやめたくなった。
 あやまたず手の甲に突き刺さった。
 皮を破り、肉を裂いて、骨に到達して──粉砕。
 血が噴き出し、手が原型を失っていく過程。
 そんなものをじっくり目にして、気分が悪くなった。

「がぁ!」
 叫び声が普通に聞こえたことで、スローモーションの世界が終わりを告げたことに気づいた。
 床に尻餅をついた俺は、手首から先のない左手をぶら提げた日高に呆然と目をやった。
「く……なんてこった。春野ぉ……ここに来て目覚めやがったか……」
 突然の苦痛を無感情の刃で殺し、驚愕を取り払いながら──日高は隠しきれぬ畏怖を込めて言う。
「目覚め……?」
 日高の言葉に、自分がさっきやったことの意味に思い至る。
 飛んでくる銃弾を見て、それをスプーンで逸らすなんて、どう見たって人間技じゃない。
 こんなの、「サトリックス」の永久がしそうな真似じゃないか。
「春野ぉ!」
 日高は敗北を認めていた。
 声は既に「復讐」を諦めていた。
 それでも、動き出した岩は止まらないようだった。
 破滅と知りながら、ただ坂道を転げ落ちていく──
「勝ったなんて思うなよ!」
 残った片手の拳銃を向け、発砲しようとした。
 震えるそれを、脇から飛来した銀の光が弾いた。
 スプーン。
 首を動かせば、出入口に突き刺さっていた奴が消え失せ、永久が投擲した後のフォームとなっているのが見えた。
 スローモーションの恩恵がなくなったせいではっきりとは見えなかったが、それでも一瞬、永久の投げたスプーンが手ではなく銃そのものに当たったところを目にすることができた。
 なんていうコントロールだ。
「ぐぁぁ……!」
 片手を失い、武器を失ってなお、日高は動き続けた。
 床に転がる銃を拾おうと腰を屈め、手を伸ばし──
 ドンッ
 一発の銃弾が、彼の「復讐」を完膚なく打ち砕いた。
 窓の方から撃ち出された銃弾はこめかみを貫いて血と脳漿をぶち撒けた。
 その一部始終が、ゆっくりと流れる世界の中で、しっかりと目に焼きついた。
「まりあさん!」
 乾と巽がハーヴェストに入ってきた。
 着ているスーツはボロボロで、各部にかなりの負傷が見られる。
 銃を片手に乾は蓮見へ駆け寄り、「大丈夫っすか!?」と切羽詰った口調で訊く。
「ええ。見ての通り、怪我はないわ」
 蓮見の声は精彩に欠き、疲れ切っていた。
 それでも胸を張り、視線を逸らさず、乾と巽に向き合っている。
「そうすっか……」
「あなたたちは無事──みたいね」
「これでもエージェントの端くれっすから」
 安堵の吐息を漏らしながらも警戒を怠らず、俺と永久に鋭い眼差しを向けてきた。
「まりあさん、こいつら、」
「いいわ、乾。今回は引きましょう」
「へい。……へ? い、今なんて?」
「引くって言ったの。聞こえなかったのかしら?」
「いえ、はい!」
 どっちなんだ。
「夏森永久、春野明生。今回は見逃してあげますわ。今はなんだか……何をどう考えたらいいのかよく分からない。仕切り直して、次回また話をするとしましょう」
 ちらっ、と交互に俺と永久へ視線を投げてから背を向けた。
 乾と巽を引き連れ、出入口に歩いていく。
「蓮見さん」
「何かしら」
 永久の声を聞いて即座に立ち止まったが、振り返らなかった。
「蓮見さんはなぜ、麻薬の密売なんていう犯罪行為に加担しているの?」
 蓮見が口を開くまで、少し時間がかかった。
「……それはね、この町の勢力が大きくなりすぎたから。徒にトップである旧家連を潰すことはできないの。もし旧家連が潰れたら、この町を中心にした麻薬ビジネスはひどい混乱に陥る。そうなったら、もたらされるのは平和じゃなくて──戦争よ。頭を押さえつける『上』がいなくなった下部組織は覇を唱えて抗争に明け暮れる。きっと多くの血が流れる。無関係な人々も、たくさん巻き込まれて。違法であろうと、強烈なトップの存在は『下』の暴走を抑止する」
 あくまで振り向かずに、言い切った。

「──それがわたしの戦い方」

 カラン
 ドアを開けると、速やかに退出した。後のふたりも影のように静かに付いていく。
 俺と、永久と、静寂が取り残された。
 重い腰を上げる。鈍く痛む腹をさすった。脇腹の傷は浅く、血の流れは緩やかだった。
 日高の死体に歩み寄り、言葉もなく見下ろす。
 死ぬ直前の鬼気迫る形相はなりを潜め、素となった彼の表情は、悲しくなるほど虚ろだった。
 「復讐」を血肉として生かされた者には、こんなも末路しか用意されていないのか。
 その場にしゃがみ込みたくなるほどの徒労感が全身を覆った。
 恐ろしくて、哀れだった。
「明生ちゃん──」
 そばに来た永久が俺の肩を支えた。
 疲れのままに永久へ寄りかかりそうになって、大事なことを思い出した。
「っつか、怪我!」
 俺のは大したことなかったけど、永久は肩を撃ち抜かれて結構な怪我だったはず。
 慌てて身を引き剥がした。
「あ、だ、大丈夫だよ」
 否定するように手を振ったが、「痛っ……!」と呻いて情けない泣き顔になった。
「無理すんなよ」
 半ば呆れる思いで永久の手を引っ張った。
「あ……」
 そのまま住居部──穂と穂波さんの住むところへ向かって行く。
「手当て、しないとな」
 呟いた途端。
 カラン
 と、ドアが開いた。
「あら?」
 入ってきたのは──
「ずいぶんと派手にやったみたいね」
 穂波さんだった。
 買い物帰りなのか、ビニール袋を手に提げてにこやかに立っている。
 って、言葉ぶりからして事情を知っているみたいだけど……?
「穂波さん──」
「あ、永久ちゃん怪我しているじゃない。早く手当てしないと」
 俺の疑問はひとまず置くとした。

 穂波さんに手当てされる永久をぼんやり見ながら、俺はふたりの説明を聞かされることになった。
 穂波さんは永久の母親の友人で、7年前の逃亡事件にも一枚噛んでいたらしい。協力者は他にも俺の母と美花の母、それと俺の知らない人たちが何人かいたようだった。
「佐和はちょっとの間だったけど、山から下りて学校に通ってた時期があるの。わたしと明と一花の3人と一緒によく遊んだけど、わたしたちは佐和の事情は知らなかったわ。でも、旧家筋の娘が佐和をいじめ出して、だんだん佐和を取り巻く自体が分かってきて……でも、わたしたちには何もできなかった。無力な子供で、何をどうすればいいのか分からなくて。いざ佐和と別れるときになって、必死でなんとかしようとしようとしたけど、全然無駄だった。ただ自分の無力を余すところなく思い知らされただけ。それでも諦め切れなくて、旧家連のこととか調べているうちに、この町の麻薬組織に抵抗しているグループと接触して、地道に活動していた。わたしたちは麻薬組織の撲滅よりも佐和のことを案じるので精一杯だったけど。あの人と出逢って、穂が生まれて、あっという間に年月が経って──7年前の『あの日』が来た」
 唇を噛み締め、悔しさを押し殺すように言葉を続けた。
「これで佐和たちを助けられると思った。計画はお世辞にも完璧とは言い難かったけど、勝算は充分にあった。佐和たちが監視の目を抜けて逃げ延びることができれば、成功はまず間違いなかったけど……佐和は麻薬の密造に手を染めていたことに罪悪感を感じていたんでしょうね。畑を焼き払ってからでないと気が済まなかったみたい。それで目立って、見つかってしまったけど、永久ちゃんだけは逃がすことができた。佐和たちは助けられなかったけれど、永久ちゃんだけは助けられた。それが唯一の救いね」
 そう言って笑って、永久の額を撫でた。曇りのない笑顔だった。
 永久はくすぐったそうな顔で笑い返した。

 永久は県外へ逃げた後、住む場所を転々と移しながら追跡の手を逃れていた。
 やがて逃亡生活の中で特異な能力を開花させ、東京で特殊なツテを経て第六機動隊のSAT──特殊急襲部隊に潜り込んだ。
「お母さんとお父さんを助けられなかったことと、明生ちゃんと穂ちゃんと美花ちゃんを後に置いてわたしだけ逃げたことが、ずっと心の中で棘になっていたの。明生ちゃんたちの情報が入ってくるたび、わたしはこの町へ帰ってきたくなったけど、『お前はまだ弱いからダメだ』と何度も止められたの。だから、早く強くなって明生ちゃんたちを助けようって、頑張ったんだよ。わたしは明生ちゃんたちに助けられたんだから、今度はわたしが助ける番だ、って」
 それから麻薬取締官事務所に移って、この町にやってきた、と。
 あとは夏休み前に転入して俺と再会し、学生を装いつつまとりをやっていたらしいのだが。
 俺の家でマリファナを見つけたときは陰謀が動き始めていることを悟って、俺の身柄を保護するためああいう行動を取ったらしい。
 ……どこをどうやったらあれが「保護」になるのか激しく問い詰めたい。
「明生ちゃん」
 急にキリッとした顔つきになった。
「攻撃は最大の防御だよ」

 ──怪我人なので思う存分しばき倒せないのが残念なところだった。

 ついでに思い出したことがひとつ。
 俺と蓮見は友達だった。地域の催しで子供の平均台ドツキ合いゲームで本気のドツイ合いを繰り広げた結果、なんか打ち解けてしまった記憶が今更湧いてきたのだ。そのときまで周りを舐め切った高飛車なお嬢様だと思い込んでいたが、話してみるとそうでもなくて、穂や美花たちを交え速攻に友達となった。
 翌日は永久と会う予定だったから、引き合わせる約束をして──
 翌日は「あの日」だったから、その約束は果たせなかった。
 結果として俺たちは蓮見を裏切ることになった。
 しかし、日高の言っていたことからして、蓮見は「あの日」に何か大変なことがあったのを察して俺たちを助けようと必死にせがんだようだから、約束が果たされなかったことを恨んでいるのではなかった。
 彼女が傷ついたのは、『あの日』以降、俺たちは記憶を失って「蓮見とは親しくないけど?」という態度を取ったからだ。
 蓮見はそれを「避けている」と受け取った。自分が必死になって助けたのに、怖がって無視してるのだと思い込んだ。
 怖がる必要はない、誤解だ──と説き伏せ無視するのをやめさせようとしたが、もちろん俺たちにはわけが分からなかった。
 自分の努力がまるで効を奏さないことに苛立った蓮見の行動がエスカレートして、いつしか俺たちをいじめているような形になってしまったと。
 要はそういうことのようだった。
 蓮見の悪意的な干渉は「わたしを無視するな」という強烈で悲痛なメッセージの、表裏あるうちの裏……負の面だったのだろう。
 7年を経て、彼女との溝は絶望的に深まっていることを気づかされた。
 立場の違いというものもある。
 「忘れていたよ」「思い出したのね」といった具合にあっさり和解できるとは思えない。
 お互いに複雑な気持ちを抱いたまま対立してしまうのかもしれない。
 俺としては、いつか彼女を「まりあ」と呼べる日が来ることを願うが。

 最後にもう一点。俺の能力について。
 生と死のギリギリで日高に立ち向かったり、その前に蓮見の撃った弾が見えたり、永久と乾の戦闘をつぶさに観察したりすることができたのは、俺に永久たちと似た能力があったからってことのようだ。今までずっと眠っていて、それが唐突に目覚めてしまったらしい。
 スプーン一個で銃に立ち向かうなんて、ギャグとしか思えないけど……体験してしまったことを否定することはできない。
 思えば、7年前の『あの日』。
 俺はひとりで日高を食い止めようとして、ぼこぼこにされたが──はたして、日高が俺ひとりにかまけて永久たちを取り逃すことなんて、普通に考えてありえただろうか? あの頃の日高が若かったとはいえ、俺よりも永久の方が優先度が高いと判断する頭はあったはずだ。なら、俺を「ぼこぼこに」するまでもなく、軽くあしらってから永久たちを追えば良かったはず。
 なぜ日高は、ターゲットを捨て置いてまで自分よりも小さいガキをぼこぼこにしてみすみす足止めされたのか?
 それは、俺を徹底的に叩きのめす必要があったからではないだろうか。俺を脅威と認め、立ち上がれなくするまで叩き伏せねばならないと判じたからこそ、永久たちを追うのを後回しにした──
 今となっては確かめることもできないけど。
 永久が掴んだ情報によると、組織の奴らは俺をエージェントとして引き取る肚もあったらしいが、「あの日」のことがあって躊躇したみたいだ。記憶を消しているとはいえ、うっかり思い出されたら獅子身中の虫となりかねない、って。洗脳という荒っぽい手段の実行も検討され始めたので、永久は一層に俺を確保する気持ちを強めた。
「でもそれは蓮見さんも一緒だよ、きっと」
「は?」
「蓮見さんも明生ちゃんを洗脳するなんて乱暴なことはイヤだから、慌てて自分の方で確保しようと思ったんじゃないかな。蓮見さんにとってみれば旧家連と同じくらい麻取や抵抗組織を信用できないから、あんな強引な行動を取ったんだと思うよ」
「そう、なのかな」
「やっぱり、蓮見さんは明生ちゃんたちを心から切り捨てられないでいるんだと思う」
 もし──
 立場の違いなんてなくて。
 この町が麻薬の陰謀に溺れる世界じゃなかったら。
 俺は蓮見を「まりあ」と呼べたのかもしれない。

「それで、明生ちゃんはどうするの?」
「どうするって、なんだよ」
「うん。もう明生ちゃんはこの町の陰に足を踏み入れてしまったから、もう引き返すことはできないと思うの。わたしみたいに県外へ逃げても、当てのない逃亡生活が続くだけ。だから、明生ちゃんが自分と大切な人を守るためにはどっちかの陣営につかなきゃ無理なの。わたしみたいに抵抗組織の側について麻薬撲滅を正義とするか、蓮見さんみたいに旧家連の側について麻薬のコントロールを必要悪とするか、主にこのふたつだけど」
「ふたつにひとつ、か」
「──明生ちゃんは選んでいいんだよ」
 己の信じるがままに。
「………」
 目を閉じて内なる声に耳を傾ける……なんてまどろっこしいことはしない。
 俺は永久の目を見据えて、迷わず彼女の手を取った。
 小さく、柔らかく、温かく──握っているだけで力が湧いてきた。
 いつか蓮見たちともこうして手を握り合える日が来る。
 なんて、おめでたい発想だけど、そう信じることができるから──俺は戦える。
 真っ赤な血潮を蝕む麻薬を許すことはできない。

 俺は、永久と一緒に、まとりのSATになる。

 窓の向こう。
 茹だるような熱気と、白くて眩しい陽光と、騒々しい蝉の声。
 汗ばみながら駆けていく子供と、日陰で休む人々の姿。
 穏やかにそよぐ風、水面をきらめかせる川。
 かざした掌が似合う太陽。
 夏があった。

Fin.


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