不帰海


 頭の奥で海が凪いでいる。
 横たわる紺碧の肌はひたすらに滑らかで、どんなに見詰めていようが小揺るぎともしない。刷いたまま乾いて固まった絵の具とも区別が付かず、見れば見るほどに時間の感覚を失っていく。頭上でやかましく喚く海猫たちの存在がなければ、本当に時が経つのも忘れてしまうことだろう。みゃあみゃあ、みゃあみゃあと降ってくる、あのどうにも好きになれない鳴き声だけが凪ぎ渡った膚に魅入られた自分の中で唯一、時を刻んでいる。まったくもって風情がない自然の時計。でもないよりはマシだ。あらゆる音を意にも介さず静まり返った海は茫漠として捉え所がなかったから──

 それは彼女が瞼を閉じたときに映す心象の風景である。たまにほんのりと思い出して耽ることはあっても人に話したことはない。独り占めしたい綺麗な記憶というわけでもないのだが、わざわざ口にするのは恥ずかしい気がして頭の奥に仕舞い込んでいる。
 普通、美しい思い出とかそういったものはみんな胸のどこかに収納するものなのだろう。理屈でどうこう言っても、やっぱり喋ってみれば心は胸の中にあると感じる瞬間が多い。不随でいて感覚の伝わる心臓っていう器官が、名前は伊達じゃないと時折思い知らせてくる。傍迷惑で不自由なものだ。
 実際、「美しい」という意味合いの言葉をいくつも使ってゴテゴテと形容できるようなあの凪いだ海を伊緒が見ていたときも、心に関してはひどかったものだ。雨で泥濘んだ窪地と同じくらいグズグスだった。何せそれはもう涙が制御できぬほど溢れて顎どころか喉にまで降りてくるし、鼻水も啜り切れずにだらしなく垂れ出して涙と合流してしまう惨状だったのだから、「美しい思い出」だの「綺麗な記憶」だのに転化しろと言われても無理な話だった。
 子供の頃に味わったみじめな感触という奴は年を取るにつれて忘れて朧げになっていくものであるし、そんな泣き暮れていたときのこそなんぞ次第に薄れて消えるはずであったが、幸か不幸か心の風景画に宿る感情はみじめさばかりではなかったのだ。みじめなだけなら、あの海なんてとっくに記憶の波頭で打ち砕けている。残すだけの価値があるから、手放せずにいた。
 でも敢えて、残す場所は胸じゃなくて頭と決めた。実感として心があると思える胸部にではなく、理屈の上で記憶が仕舞われる場所とされる頭部にわざと仕舞い込んでやった。
 この経緯を七海伊緒という少女について知らない人間に説明するのは難しい。
 一つの頭脳で行える思考の処理は一つ。それが常識というものだ。思考の並列処理というものがある程度可能であったとしても、コンピュータみたいに完全なマルチタスクがこなせる人間など稀だろう。七海伊緒は、表面的に言えばその「稀」な一人であった。彼女には自身とは別の思考回路を二つ有している。厳密に計測したわけじゃないが、一つとは思えず三つ以上あるとも思えないことからして「二つ」という数字が妥当であった。
 八咫鴉という三千歳にもなる大妖によれば、祖は「七人ミサキ」と云う。七名から成る怨霊を指し、それぞれに個性を認めることは一切ない。全体で七人ミサキという妖怪を表すのだ。通り掛かった者を取り殺して引き込めば、代わりに誰か一人が成仏する。ルーティンワークと化したサイクルを延々と続けて続けて続ける妖怪で、発展性がないというかよくもまあ飽きないものだなと話を聞きながら思った。そんな停滞を旨とする妖怪がよく人間になる決意をしたものだと不思議でもある。
 祖先そのままを体現していれば伊緒は「七人で一人」という脅威の人物にもなりえたが、幸い時代が下って血が薄まり、七人もの怨霊が一つの身体に同居するという難儀な事態は発生しなかった。頭にある二つの思考は人格でさえなくて、いちいち切り替わることもないから実生活で不便に思うことは少ない。けれど、言ってみれば電源の切れない計算機が二つ入っているようなもので、考えたくなくても勝手に物事を考えてしまう厄介な部分はある。どんなに頭が熱くなっていても理性的な囁きが已むことがないというのは一見便利みたいで、結構面倒臭い。
 買い物に行ってセール品を見かけるたび、本当に安いのか、本当にお得なのか、頭ん中の居候が頼まれもしないで算盤弾いて返答を寄越してくるのだが、それを参考にする一方でまだ若い学生である自分が歴戦で熟練の主婦と差し支えないどころか凌駕しかねない購買能力を発揮するのはいささか悲しいものがある。父は理系人間で立派な医者を務めているがそうした雑事に関する思考はとんと苦手で、休日なんかに外出するとさほどお得でもない商品を買い込んでくるから、小言は述べたくないと思いつつもついつい諫言してしまい、困ったような顔をされながら「うん、なるほど、しっかりしているな。伊緒はきっといいお嫁さんになれるよ」と別思考に頼らなくてもごまかしと分かることを言われる気分は筆舌に尽くしがたい所帯じみた虚しさを含有している。
 わたしの先祖様たちはよくこれに耐えて正気を保って血を繋げてきたものだなぁ、と伊緒は感心せずには入られなかった。
 思考が休まらない日々というのは想像以上に参る。幼馴染みの上杉刑二郎みたいに何も考えてないようなバカになるのもアレだしソレだが、たまにはぼおっと空白の時を過ごしたくなる瞬間ってのが彼女にもあった。もともと活動的ではない彼女は静かにおとなしく暮らすのが性に合っているが、幼馴染みのバカが無駄にうるさいせいで周りからはそのへんを勘違いされている気配はある。賑やかなのが悪いとは言わない。でもたまには落ち着いてぼんやりする時間がほしいのだ。
 そんなときの切り札、頭ん中の居候も口を噤んで黙り込む必殺技が一つある。もったいぶってもしょうがない、それがつまり件の記憶である。空よりも蒼く深い色を映して風一つない海面。凪が、思考を鎮めてくれるのだ。
 七人ミサキは地方によって名称や伝承が違い、発生地点もいろいろだが、海の幽霊と見る向きもある。伊緒の名字である「七海」を見れば彼女の人妖としての血は海がルーツと察せられるが、それもなんだか出来過ぎな気がするし本当かなぁ、と疑って二思考に肯定要素と否定要素の種別と割合を示されたりもしていた。
 溺死人が七人も寄り集まる状況は、単なる転落事故とか集団自殺とかよりも海難事故を想起させる。嵐で海が時化り、船が難破して乗り込んでいた人々が死亡、と大まかな流れはそういったものだろう。とすれば嵐とも時化とも無縁な、穏やか極まりない凪いだ海原を思い浮かべてくるとその血が鎮まってくるものなのか。単なる推測にしかならないが、それでも実効として頭が静かになるのだからたとえ間違っていようと気にもならない。
 だから、他の思考たちに邪魔されたくない伊緒は目を閉じて脳裏に海を喚ぶ。冷静な調子であれやこれやを囁きかけていた二つの思考は覿面に沈黙し、自らの占めていた場所を静寂に明け渡す。素直な振る舞いにほっと胸を撫で下ろしたくなった。
 思考たちが嫌いなわけではない。単に今は感情が耐えられないだけなのだ。平衡を失いかけている心に理性的な話をされても軋むだけで慰めにならない。
 座り込んでいる自分が、立ち上がるための元気を得るまで待ってほしいそれだけなのだ。
 ──と、思った途端にさっきの光景がよぎる。バランスを崩して傾いだ刑二郎の体躯を、自分が支えるよりも先に動いて対処した少女。一年の新井美羽。同じ生徒会のメンバーで、自分とはあまり話す機会のない子だった。
 彼女が刑二郎に想いを寄せていることは誰の目にも明白で、ましていつもつい視線が勝手に彼を追ってしまう伊緒に気づかれないことなどあるわけもなかった。あれだけ露骨な好意に気づかない人間は鈍さの塊としか言いようがない。そして幼馴染みである少年をそう呼ばねばならないことに、溜息をつきたくなったこと数え切れず。
 ホント、気づかないのはあんただけよ、って。
 けれどもう。
「気づい、ちゃったんだね」
 ぽつりと漏れた言葉は予想を遙かに超えて、胸に痛かった。
 頭の中に留めていたはずの海が胸の内にまで入ってくる。海面は荒々しく波打っている。本物の波ではない。伊緒の涙によって歪んだ、幻の波だ。
 思い出が胸にまで押し寄せてくるとどうしても当時のことを思い出さずにいられない。グチャグチャに泥濘るんでいるくせにひどく穏やかで心が洗われていくようで言葉さえ口にできない、あの静謐で苦しい記憶が心臓を圧迫する。悲しみに胸を衝かれた。
 ぐっと涙を堪える。時化り始めた心象の海に思考たちが活気付く。暴れ出す。彼女の想いを克明に検証し、明確に分析して簡潔な結論を下して突きつける。それは思考という名の暴力だ。彼女が彼女自身を傷つける、どうにもままならない自虐だった。
 当時の感情が郷愁を誘ってバカみたいに懐かしくなる。郷愁も何も、海はここ神沢市の海で、どこか遠くに離れた故郷にあるわけではない。行こうと思えば今からでも行ける場所なのだ。
 思考に反論しながらも、本当は分かっている。分かっていて気づいてないことにしたかっただけだ。分かっていても、言葉にはしたくなかったのだ。
 思考はそんな甘えを赦さない。切って捨てる。七海伊緒が帰りたいのはあの海ではなく、あの海があった時代にだということを。気兼ねなく上杉刑二郎の横に在れた、あの幼少期に戻りたいと心が叫んでいることを。

 きっかけは思い出せないくらいだからきっと些細なつまらない喧嘩だったのだろう。幼かった伊緒は泣き喚き、訳の分からないことを言いながら家を飛び出した。
 行き着いた先があの海だ。季節は今とだいたい同じで秋。もうすっかり涼しくなってわざわざ海を見に来る人もまばらになった頃のこと。波止場まで走ってきた伊緒はすっ転んで擦りむき、痛みをぐっと堪えながらも痛み以外の何かに負けて盛大に泣いた。誰もいない海の間際を独り占めして存分に声を枯らした。
 全力で走ったせいで身体中に汗が噴き、海から運ばれるベタつく潮風は気にもならなかった。普段は苦手としている潮臭さも、洟だらけで嗅覚がバカになっているから不快にならない。自分が何のために海まで来たのか今となっては分からないが、とにかくそこは思い切り泣ける場所には相違なく、潮なんて無視して佇んでいた。
 うるさかったのは海猫の鳴き声だ。「海の猫」と書けば可愛げはあるが、あの何匹も何十匹も何百匹も群がって一斉に鳴いて已むことのない様を見てなお愛でたくなるのは重度の鳥好きだけだろう。自分が泣きに泣いて息が苦しくなるほど泣き喚いても、海猫は斟酌せずにやかましくしている。なんだか一人相撲をしているみたいだった。どんなに大声を挙げたって群と化した鳥の鳴き声を掻き消すことはできない。だんだん喧嘩するのも虚しくなって、伊緒はそこでようやく泣くことからしゃっくりへと状態を移した。
 ひっくひっくと喉を鳴らす真似はやめられず、喉奥あたりがわななく感覚は気持ちのいいものではなかった。頭の中ではずっと、ぐだぐだな伊緒を責めるように冷静な思考どもが蠢いている。それらは状況を観察して分析して、どう見ても非が彼女にあるとしか思えないことを告げた。やっていることは、子供の我が儘に過ぎない。否定したい伊緒としても、理路整然とした結論に対し感情論しか言い返せない自分を心底で支持することはできなかった。自分が悪いことは理解していた。けれど納得はできず、頭の思考へ向かって「うるさい、うるさい!」と非難を飛ばす策を取った。
 そうして涙が止まるまでどれくらい掛かったか。天の日はまだ傾く兆しを見せなかった。
 ごしごし乱暴に拭って涙を振り払った伊緒の前にあるもの。彼女はようやく巨大な静止に気づいて目を瞠らせた。
 海が凪いでいた。地平線の向こうまで、波一つない青いシートが敷かれている。陽を反射する海面のどこにも砕け散る光は見当たらず、動くものは空の彼方の雲と頭上遙かな海猫たちのみ。都合良くそれらを意識から排除して、彼女は時が止まった錯覚を得る。みゃあみゃあと耳孔に響く声も聞こえていたが、そんなのはただやかましいだけの音楽だった。
 思考さえも凪ぎ渡る。あれだけ彼女を静かに糾弾していた連中はもっと静かになって、既に何も語りかけなくなっていた。伊緒は物心ついて以来初めて、ほとんど完璧に近い空白を手に入れた。
 何も考えない時間とは想像以上に怖ろしかった。子供のときでさえうざったくて邪魔に思いがちな代物である複数思考回路であったけど、ないという状態を経験したのが皆無だったせいで、大切な何かが抜け落ちた喪失感すら覚えて喘いだ。息が苦しいという、その感覚を分析してくれるものがないことに戸惑いと焦りを感じた。
 失って初めて分かる重みというのも陳腐な真理だが、真理は真理。冷静な思考たちを剥奪してスケートリンクのごとき凪海の前に立たされた伊緒の内面を突き上げるものは、ただただ怖ろしい、あってはならない、目を背けたくて仕方がない、原始的な恐怖の塊であった。
 晴れ渡る空の下、穏やかに凪ぐ海面──そうした平和的情景をトラウマにしないでくれたのは、ひとえにバカで生意気で考えなしな幼馴染みであり、恐怖で悲鳴を挙げる寸前だった彼女の肩を叩いた上杉刑二郎である。
 驚きで悲鳴を呑み込んだ伊緒は噎せ、危うく吐きかねないほど咳と涎を出した後に食ってかかった。涙はとうに已んでいたが新たに半泣きになったせいで頬に伝う感触は熱かった。羞恥心の入り混じった熱さだった。
 このときの刑二郎を客観的に見れば同情するしかない。同じ病院で生まれた自分より年下の少女が海を目前にひとりぼっちで泣いていて、恐る恐る声をかけたのに過剰に驚かれ、慌てて背中を撫でてさすって宥めたのに食ってかかられるなど、正に災難そのもの。ここで喧嘩に発展しなかったのは、刑二郎というより伊緒にとっての僥倖だ。
 根気強い対応にどうにか宥められた伊緒は落ち着きを取り戻しながらも「あっち行って」とすげなくそっぽを向いた。道理も礼儀もない子供っぽさ炸裂の冷たい言葉であったのに、少年はカチンと来る様子もなく「行かねー」とあっさり一蹴した。
 これでカチンと逆切れした少女が「あっち行け!」と叫んだのに対して黙り込み、何も言わずにその場に留まったのは、これ以上話しかけても無用に刺激するだけと悟ったのと、それでも放っておけない思いがあったからだろう──思考に囁かれ、「うるさい……」と力なく応じた伊緒は自らの情けなさを噛み締めつつ肩を落として俯いた。
 一心に海を見詰める。動きのない青の広がり。ここは街を取り囲む壁と違って物々しさもない。外へ出て行くことはできなくても、空みたいにちゃんと繋がっていると知れる開放感が染み渡ってくるようで、先ほどはあれだけ恐ろしさを覚えた凪にも不思議と安らぎを見出せた。それは隣にまだいる男の子のおかげだとは、まあチラッと思わないでもなかったのだが、思考が囁かないのをいいことに気づかないフリをした。

 気づかないフリをしていただけで、本当は気づいていたのだ。今も昔も。

 あいつは何も言わなかったと、伊緒は追憶の海に浸りながら鮮明に思い出す。
 ……ただ海ばっか眺めてるわたしの横でじっとしていた。恥ずかしさと情けなさで依怙地になっていたわたしはムキになって視線を向けるものかと無視を決めてかかった。あんなに強く意識していたのに「無視」だなんて、ホント、滑稽だなぁ。
 自嘲と憐れみ。当時の彼女もそれに近いものを感じていたかもしれない。自分が悪いことを知っていながら、「悪いのはわたしばかりじゃない」と自分で自分を慰めていた。愚かな話であるが笑えない。今だって、そこから一歩も立ち上がれている気がしなかった。
 秋の日は釣瓶落とし、なんて言葉そのままに日は急速に落ちて景色は黄昏始めた。黄色く赤く染め上げられ、いつもは炎のようなさざなみを見せる海が相変わらず凪いでいて秋日の絨毯を敷き詰めている。
 奇跡のようだな、とやっとここにきて実感する。
 どれだけ時間がかかったのか分からない。座り込んで膝を抱える自分を、海はぴくりとも震えずに見守っていたし、全神経を傾けながらずっとそっちを見ないようにしていた刑二郎の方だって伊緒を見守っていた。普通じゃまずやれない、バカみたいな真似である。シカトかましている女の子のそばで何も言わないで何もしないでぼんやりただ「居る」だけなんてこと、子供がやるとしたらそいつはきっとバカに違いない。相当に、優しいバカだ。
 痛いくらいに伝わってくる優しさが罪悪感を喚起してますます顔を膝に埋めて己の世界に埋もれていきたくなる気分が生じる。目を閉じて首を振っていると、凪の呪縛から離れた思考たちが、こうしていたらいつまでも刑二郎はそばにいてくれる、とずるくて抗いがたいプランを提出してきた。
 いっそこのまま……ってふうにあいつの優しさに甘えて縋ることができたら、今の関係は違っていたかもしれないな。伊緒はそう思わないでもなかった。
 けれど過去は変えられない。あのときの彼女は毅然と立ち上がってしまったのだ。これ以上、一方的に幼馴染みの少年が与える優しさを貪り続けてるなんてダメだと、重い腰を上げてしまったのだ。
 夕日の赤い光線が、とっくに涙は已んでいるとはいえ泣き腫らした目に痛かった。あくまで振り返らず、背中越しに「帰ろう」って、何事もない当たり前のことみたいに言ってのけた。
「やっぱりさ、おうちには夕日が落ちる前に帰んなきゃいけないと思うんだ」
 間抜けな言葉に「ああ」とシンプルな答えを返し、刑二郎は海から離れていく彼女を追ってきて、それに対して彼女がようやく顔を向ける気になったとき。
 どうにもぎこちない、笑顔というには無理のある表情を伊緒が浮かべるのに対して、彼は何ら気兼ねのさせない大らかな笑顔で迎え撃ってきた。負けた、と思った瞬間である。
 不意討ちで手を握ってきた。
 衝撃が指先を通じて襲ってきて「これはがっしり手を握られているね」「ああまったくもって握られている、指まで絡めて」という状況を単にそのまま捉えた思考だけが垂れ流されて建設的なことを何も考えられなくなった彼女を、ぐいぐいと強引に引っ張るやニカッと少年らしい笑みとともに導いていく。
 振り払いたかったら振り払うこともできたが、しなかった。
 顔が真っ赤なのは夕焼けのせいだし、手の中が自然と汗ばんでベタベタしてくるのも長時間潮に晒されたせいだし、息が弾んで呼吸が乱れてくるのも泣いて疲れていたせいだったから、恥ずかしがる必要なんてなかったのだ。本当に、なかったのだ。
 だから、彼女は手を引っ張られるがままに任せて。
 背後ではもう、凪から目覚めて波を取り戻しているかもしれない海を振り返ることもなく。
 少年の躍動する肩甲骨とかそのへんの筋肉をじっとシャツ越しに眺めて「……ばか」と呟いて、彼が見ていないのをいいことに、とってもだらしない笑顔をこぼしてやった。

「──伊緒?」
 意識がバックする。
 ハッと回想から引き戻った七海伊緒は自分が神沢学園の正門前に立っていること、同級生じゃないけど親友のトーニャ・アントーノヴナ・ニキーチナを待っていたことを瞬時に思考群から状況把握させられ、動揺を表に出さないように努めた。
「あ、トーニャ。終わったの? やけに長かった気がするけど」
 声を掛けると、紺色のジャージをまとった銀髪の少女はふっと短く溜息を漏らす。
「ええ、あれ以上は荒れないと思った局面が見事にまあ荒れちゃってね。さしもの私もぐったりって寸法」
「ふーん、でも、トーニャが出てくるってことはどうにかまとまったんだね」
「そうね、あれで刀子先輩については今後とも安泰……だといいなぁ」
「そこは言い切ってよ。お願いだから」
 ちょっと遠い目を見せてしまうトーニャの肩を叩き、ついでに「じゃ、帰ろうか」と促した。
「今は疲れてるからあれからの一部始終を教えるのはまた次の機会に、ってことでよろしくね」
「あれからというか、わたしはあんまり良く分かってないんだけども、今回のこと」
「確かに伊緒ってば早々に逃げ出していたもんね」
「そりゃー逃げるでしょ、あんな刀子先輩見ちゃったら」
「上杉先輩を捨ててでも?」
 悪戯っぽく投げかけられる言葉に苦笑。
「そうね、刑二郎の奴を見捨てちゃったのは薄情だったかな。なんだか知らないけど、あいつ痛い目遭ってたみたいだし……介抱のチャンスは後輩に取られちゃうし、あはは、いいとこなし」
 笑って、

「これじゃあ──失恋しちゃってもしょうがないかなぁ」

 つるっ、と口を衝いて出た言葉に彼女自身、びっくりした。
 隣でトーニャが俯く。
「……ごめん」
「や、やだなー、なんでトーニャが謝るの。やめてよ、ついなんかこう、未練がましい自虐をかましちゃったわたしが悪いんだから……」
 不意の失言で空気が重くなった。何の会話もなく、ふたりはとぼとぼと歩を進める。
 やがて思い出したように、若干わざとらしく伊緒が口を開く。
「あ、えーっとね、トーニャの制服はクリーニングに出しておいたけど、ボールペンのインクって消えにくいのもあるらしくて、綺麗に落ちるかは分かんないんだって」
「……そう」
「で、あーっと、その、明日には間に合わないだろうから……トーニャは替えの制服ある?」
「それがあいにくと洗濯に出したばかりで。帰って取り出しても、朝までに乾かすのはタイトかな。天気予報じゃ夜から朝方にかけて曇るらしいし」
「なら、わたしの予備を使いなさいよ。これから一緒に取りに来ればいいって」
「伊緒の制服か……サイズが合わなくてダボダボになりそうなのが不安だなぁ」
「貸してあげるんだから文句言わないの。背に腹替えられないでしょ」
 本筋から逸らすように、他愛もない喋り合いを続けても、いずれは尽きる。またふたりの間を沈黙が横たわった。
 行き着いた先の横断歩道の信号がちょうど赤に変わるところで、ふたりは停止を余儀なくされる。もう下校時間がだいぶ過ぎて日の傾きもギリギリで、道に通行人の姿はなかった。眼前を行き交う自動車やトラックをぼんやり見詰めていると、トーニャが言った。
「まさかあのふたりがああも早く……だなんて」
 あのふたりというのが刑二郎と新井美羽をほのめかしているのは明らかで、触れられたくない話題だったが、既に冷めた思考が「それはそうさ」とばかりに事態の趨勢を分かりやすく解説してくれていたせいもあって取り乱すことはなかった。
 とはいっても、心の動きばかりは止められない。胸のところへやってきた海がざあざあと波を立てる。
「本当に、ね。可能性から目を逸らしたかったからってのもあるけど、やっぱり今日だなんて、考えられなかったわ。うん……」
 足元の小石を爪先で弄ぶ。信号は依然赤だ。
「刑二郎のバカ」
 こつん、と小石が前に出る。
「刑二郎の、ばか」
 こつん
「──けいじろーの、ばかぁ……!」
 ごっ
 情動に任せて思い切り蹴った石が歩道を飛び越えて車道に向かっていくが、直前でひゅんと風切り音を立てて伊緒の目の前を通過したものが巧妙に弾いた。トーニャのキキーモラだ。ベクトルを変えた小石はてんてんと跳ねながら後方へ消えた。
「ごめん……」
 謝る伊緒に小さくかぶりを振って、紐状の人妖能力を仕舞う。
 信号が青になって渡り出す。
「でも、バカな刑二郎に今日という今日まで一度たりとも想いも何もきっちり示せなかったわたしが……一番、バカだよねぇ」
 渡り終えて、泣きたくなった。おなかに力を入れて、涙よ出てくるなとばかりに堪える。
 トーニャがそのおなかをぽんぽんと軽く触れた。
「無理しなくたっていいよ、伊緒。あなた、あのときに一度涙を堪えていたでしょう? 一日に二度も堪えることなんてないんだから──」
「え……気づいてたの? だってあのときトーニャ、目が」
「私をなんだと思ってるの。あなたの親友サマよ、親友サマ。それくらいのことが分からないとでも?」
 余裕綽々の素振りで笑いかける。その瞳は柔らかい眼差しを発して包み込んでくる。
「だからほら、遠慮なく気兼ねなく、今だけ──泣いちゃいなさい」

 無理するのをやめた。

 眼鏡を外す手間ももどかしく、自分よりも小さな親友の胸に縋って泣く。子供のときみたいな身も世もない大声は出せなかったけれど、ジャージの背中にしっかり皺が付くほど強く握って流れる涙をこすりつける。トーニャはいつもの性格に鳴りを潜ませ、囃すこともなく慰めかけることもなく、黙々と伊緒の髪を梳いた。青い瞳は穏やかに澄んで、凪いでいる。
 その輝きを見ずに、伊緒は思った。心象風景。細部のあちこちが霞むくらい昔の、幼い頃の自分だったからこそ笑えて、切ない時代──あのときに見た海は二度と帰ってこないのだ。あのときに一緒に海を見ていたはずの、今よりももっと小さい刑二郎との時間は帰ってこないのだ。
 彼を「ばか」と気軽に呼び続けて変化を臆病に拒んでいても、年月は着実に過ぎ去っていく。幼馴染みの少年が、自分以外の誰かと恋に落ちることもある。もうあいつとあの海を見ていた頃に帰れないのは胸が苦しくなる真実だけど、受け容れなくてはならない。
 もう街はすっかり黄昏ている。
 いつまでも泣き耽ってなんかいられるものか。埠頭にしゃがみ込むのはやめて、もう帰っていかなくちゃダメだ。帰ることのできないあの海なんかじゃない、自分の生活へと。恋に破れたって、好きな人にフラれたって、世界は終わらない。暮らしは続く。
「わたしさ、恋ってもんがよく分かんないんだ。成就するとか失うとか破れるとか言うけれど、他にあいつが好きな娘のいる中で勝つとか負けるとか考えるのが苦しい……勝つと考えても、負けると考えても苦しいんだ。ふたりを祝福したいのか、仲を引き裂きたいのか──自分でも決めらんない」
「今は考えちゃダメよ、伊緒。どんな考え方したって、今は負担になるだけ。何も考えないようにしなきゃ。考えられる余裕が回復するまでね」
「そう言っても……っ! わたしの頭の中で声がするのよ! 『おとなしく引き下がれ、現状を維持しろ』っていう痛いけれど生温くて心地いいビジョンと、『猛進撃あるのみ、現状を打破しろ』って、気持ちを鼓舞するようなビジョンを携えて! 声が已まないのよ……!」
 感情のままに泣きながら、脳裡では目まぐるしい計算が行き交っている。進むべきか、退くべきか。どちらも地獄であるが、選択するとすればどちらかしかない。選択しないというのも、卑怯な遅延策で自己嫌悪に陥る。已むことのない思考の訴えは自我を突き上げ、己がどういう人間であるべきかを問い質し続けていた。
 もはや心の中に凪はない。時化があった。七人ミサキが好んで跳梁する、感情の荒波がすべてを埋め尽くしていた。
「伊緒──」
 声もなく見下ろす親友の姿。濃紺のジャージが夕焼けの光を帯びて暗くなっていた。
 夕日に照らされて赤橙に染まった紺碧の膚、過去の光景が視界に甦ってくる。
 だけど。
 そこには凪はないのだ。もう気づいてしまった。奇跡のように凪ぎ渡ったあの海はもう帰ってこない。垂れ流される思考の囁きを押し留めることはできない。
 気づいた以上、もう歩き出すしかなかった。
 どう歩んでも後悔することは避けられない未来を、打算の音が已むことのない頭を抱えて進んでいくしかない。後悔以上のものがきっとあるだろうという、儚い希望を焚きつけながら一歩一歩、気の遠くなるくらい地道に前進していくしかない。
「苦しいよ……」
 泣き言を留めことができなくとも、なお。

 板子一枚下は地獄──
 不帰の海に背を向けて、七人ミサキは大時化の嵐へと漕ぎ出した。

(了)


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