アナゴ・ビバップ
「フグタくん、銃を抜きたまえ」
静かな声でアナゴは挑発する。
ポトッ……
無造作に提げた反身の太刀から生温かい血液が滴り落ちた。
「抜いてもいいのかい」
更に静かな声で、フグタは問い返す。
足元から──無惨な斬り痕を晒す秘書の死体から、目を逸らしながら。海山商事社長室。
平時ならば恰幅の良い社長が支配するその一室で、地獄が進行していた。
突如乱入したアナゴが一瞬の隙も見せず抜刀、即座に秘書を斬殺。呻き声ひとつも立てず倒れた彼女を跨ぎ越し、悠然と社長のデスクに歩み寄ったのだった。
その最中に居合わせたフグタが今、アナゴから挑発されている──。「ア、アナゴくん、いったい何のつもりかね!」
青ざめ、震えながらも己を鼓舞して喝する社長。
しかし彼はとうに部屋の主としての座を失い、発言力を奪われていた。
社長の言葉など一片だに耳を貸さず、アナゴはただじっと向かい合う相手を力の抜いた顔つきで見つめている。
だが、その脱力した表情は偽りの仮面だった。
会社帰りに一杯寄っていくことを楽しみとしたサラリーマンの面影を残しつつ、今の彼は暗殺者──同業者から「三段斬りのアナゴ」と畏怖を込めて呼ばれる男として、そこに立っていた。
対するフグタは、いつも通りの気の抜ける顔でぼうっと暗殺者の目を見返している。だが、血の匂いが立ち込める室内で平常心を発揮するその様は却って異常と言えた。
「なに、君が銃を抜いたところで危機が高まるなんてことはない。いいから安心して抜きなよ、フグタくん」
諭すような柔らかい声にも反応はなく、ただ掴み所のない茫洋とした表情が返ってくるだけであった。
「おいおい、怖気づいたのか? ……いや、違うようだね。君に怯えの様子なんか微塵もない。じゃあ、よっぽどの自信があるってのかい? こっちが動いてからでも充分反応できると」
「アナゴくん、できればその……こんな殺伐とした遣り取りはやめにしないかい? おとなしく剣を引いてくれないかな?」
問い掛けに対する答えは、場にそぐわないほど穏和だった。
「やれやれ、言うにこと欠いてそれかい。いいさ、君が抜かないならそれで別に構わない。仕事に戻らせてもらうよ」
仕事というのはもちろん、サラリーマンとしての業務を指すのではない。
チャコッ
柄を握り直し、ひと呼吸の間もなく社長に切りかかった!
「え──?」
一転して自分が傍観者から被害者に変じつつある事態を正確に把握できぬ声。
やがて切っ先がその頭頂を叩き割らんとする瞬間を──ドンッ
一発の銃弾が遮った。
銃弾は過つことなく刀身にヒットし、ベクトルを強制的に修正。
耳の横すれすれ、社長の至近を通って刃が木製のデスクに食い込む。
噴出するように木屑が散り、一片が社長の頬を傷つけた。
「ひっ──」
ようやく自分が殺されかけたことに気づいて悲鳴をあげる。硝煙がたなびく銃口。
フグタの手にはいつの間にか一丁の銃がホールドされていた。
雷電の速度で抜き放つや素早く射撃。およそ普通のサラリーマンには不可能なクイック・ドロウを実行しながらも、その顔は相変わらず炭酸の抜けたビールと大差ない弛緩っぷりだった。
一方、攻撃を逸らされたアナゴは──笑っていた。
声なく、ただ口の端をねじらせて。「なるほど、大した早撃ちだ。想像以上だよ、フグタくん。君の脅威レベルを少し見直さないとな」
笑いながら、食い込んだ刃を引き抜き、予備動作を極小の範囲に留めて踏み込む。
慌てず、銃口の向きを微修正して銃爪を引くフグタ。
発射される前に弾道を見抜き、直進したまま太刀をかざすアナゴ。
重い銃声とともに吐き出された弾がアナゴに迫り──絶妙な角度を築かれた刀身に乗って、標的から外れて遙か後方へと飛んでいく。
ボスッ
壁にかけられた絵画に当たり、厚塗りの絵の具ごと額と壁を破砕した。
銃撃という新たな局面に圧倒的な脅威を感じた社長は悲鳴を漏らしながらデスクの下に潜り込む。
弾が逸らされたことを、絵画に着弾する前から悟ったフグタはすかさず姿勢を落として連射。決して逸らせぬ浅い角度で撃った。
予測済みだったのか、アナゴはそれまでのスピードを上回る体捌きで水平方向に移動してみせる。空気だけの場所を銃弾が飛び去り、再度壁に着弾した。
アナゴの手から銀の閃きが放たれる。
刃はまっすぐフグタに向かい、素っ首を叩き落さんと咆え猛る。
阻んだのは、銃の背。
己の位置からは見えない太刀筋を風の唸りだけで読んだ、フグタの的確な判断が、アナゴの殺意を遮った。
刃と背は直角に衝突し、火花を撒き散らしながら運動を停止する。
力押しすることなくあっさり刃を引き、もう一度切りかかるアナゴ。
二の太刀──ほんの一瞬の計算と判断によって繰り出された攻撃は低く、フグタの体勢からは防ぐことができない。
フグタもそれを悟り、溜めていた膝のバネを利用して跳んだ。
成人男性の常識を覆す、見事な跳躍。
太刀はぎりぎり彼の靴底の下を通過した。
空中で、出来うる限りの姿勢制御を行いながら射撃。
太刀を避けられた時点で銃撃を予想していたアナゴは切りかかる際の勢いを使って前転し、射線から脱した。背後を銃弾が突き抜け、床に突き刺さって爆音を立てる。
転がりながら身を捻り、空中のフグタに向かってなおも刃を送った。三の太刀──空中ともなれば、逃げる余地もない。
為す術もなく、土手っ腹に鈍き銀光が吸い込まれるのか──と思いきや、フグタは空中に「逃げる余地」を見出した。
頭の中で室内の様子を構築し直し、シミュレート。成功したことを知ると躊躇なく脳内動作と同じ方式で足を動かした。
靴底が、辛うじて壁を捉える。
蹴った勢いの反作用を得て、フグタは斬殺の軌跡を掻い潜って着地した。
膝立ちで、しっかりと銃をホールドしながら。
銃口の先でアナゴが油断なく警戒を張り詰めさせ、立ち上がる。
「なんてことだ、フグタくん。『三段斬り』を二つ名として冠されたこのアナゴの太刀に三度目を出させて、且つ避けるとはな。飲み屋じゃいつも間抜けな醜態を晒す君だが、どうしてどうして、なかなかやるじゃあないか──」
ゆらり
鬼気をまとわせながら、流水の滑らかさで太刀を構える。
他方で、指が銃爪に絡み、鋼鉄の機関が歓喜を称えて待機する。
ふたつの殺意が再びまみえ──海山商事に銃声と風切り音のハーモニーが炸裂した。(未完)