レクイエム・フォー・ドリーム


 拳に拠る生き方しか知らなかったあの頃。
 肉を叩き、骨を砕き、血の匂いを嗅ぎ、甲高い悲鳴や、くぐもった呻きに耳を澄ます。それが日課であり、生きることのすべてであった。
 言葉は少なく、ただ拳ばかりが雄弁だった。
 軽快なフットワークを持ちながらも、夜の片隅を駆け抜ける足取りはあまりにも不器用だった。いつもつれて倒れてもおかしくはないくらいにたどたどしく、しかし、走り続ける以外の何かを選択する余地はなかった。
 宵闇の空気は若く、彼もまた若かった。
 つややかな夜と血にまみれた拳、寸前に迫っては遠ざかる死とルーチン・ワークのような殺戮。記憶の大半はそれに占められる。
 友人も恋人もなく、協力者や共犯者もなく。孤独だけが傍らにあった。
 傍らにあり、肌を触れ合わせていながらも、孤独は彼を慰めることはなかった。孤独はただ黙って彼を傷つけた。
 強く傷つき、癒すことも癒されることも知らず、傷つくことに慣れるため、笑って血を吐き続けた。苦しみは堪え、痛みは顔の下にしまった。憎悪さえも腹に飲み込み、感情の発露を封じ、漏れ出づる声を殺すことで技を、業を、高め深めた。
 今でも仕事の合間に手を休めると、ふと思い出す。
 後悔は伴わず、ただ苦笑とともに。
 デタラメで、バカバカしく、まるで冗談のようにあまりにも無惨な暴力で彩られていた少年時代。
「やれやれ、懐古に耽るとは、いよいよ年を取りましたかなぁ」
 自分で自分を揶揄してみせる。
 曲げていた腰を伸ばし、トントンと手の甲で叩いた。
 もう、あんな生き方をしなくていいのだ……と思うと、嬉しい反面、どこか寂しくもある。
 怒りをぶつける対象はあまりにも多く、拳は無限の的に向けることができた。
 拳──今はどこか、手袋に収まって窮屈そうにさえ見える。
 首に巻いたネクタイも、飼い犬を縛る鎖に見えないこともない。
 自由。
 血と暴力にまみれ、明日もろくに分からない暮らしをしていたあの頃は、どんなに酷く、冷たく、哀しみに満ちていようと、自由に満ちていたのだ。
 自由。その、あまりの「どうしようもなさ」に、自分は絶望さえしかけていた。
 この覇道家に身を置いたのは、正に自由というものの「どうしようもなさ」から逃げようとしてのことではなかっただろうか。覇道鋼造という男に魅せられ、その志に感銘を受け、彼のために同じ道を歩もうと思った決心に何ら偽りはない。今の当主である瑠璃にも不満があるわけではない。
 あの娘は……否、あの方は立派だ。覇道家の総帥であるという重圧に晒させながらも必死で頑張り、己の任務を粛々と遂行している。頂点に立つ者の孤独、苦しみをまだその若き容貌の下に隠しながら、弱音を殺して耐えていく、その姿。
 身体と精神の訴える悲鳴を無視し続けた、虚ろに強固な意志。それを鎧った少年とだぶるようでいて、一分だに重ならない。
 自由で、自由過ぎて、何をどうすれば良いのか、自分の力をどう方向付けるのかさえ迷い続けた少年とは……。
「いやはや、まったく、比べ物になりませんよ」

 嘯いた矢先。
 ふと、嫌な「匂い」を嗅いだ。
 気体による匂いではない。
「ふむ。これは予感……という奴ですな」
 煤けた朝の空気。
 澱んだ昼の空気。
 沈んだ夜の空気。
 それらに囲まれて過ごしたあの頃からずっと、この手の嗅覚を超えて捉えられる「匂い」には、絶えず敏感に対処するよう心掛けていた。
 鼻とは違うもう一つの鼻が的確に捉えるや、経験に基づいた分析が結論を下す。
「何か、良くないものが近づいてくるようですね」
 物憂げな表情とは対照的に怯みない決然とした足取りで、窓際に近づいた。
 手袋越しに、複雑な意匠の窓枠に触れた。
 大きな観音開きの窓を押し開ける。ギィィ、と軋んで左右に広がった。
 昼前の温かな風がそよいだ。
 鼻腔をくすぐる爽やかな香り。
 裏腹に、胸の悪くなる「匂い」がますます濃くなっていく。
 もはや予感というのも生温いほど、明瞭な危機感があたりに漂っていた。
 危険はすぐそこまで来ている。
(……そう、間も置かずに「危険」は顕現するであろう)
 人間でありながら、ほとんど人外の域に達した彼の感覚が囁いた。
「ええ、分かってますよ。また性懲りもない方が来なすったようだ」
 呟いた途端、別の声が割り込んだ。
「ははははは、御機嫌麗しゅう」
 ずるり、と。
 音もないのに、粘着質な幻聴を喚起する仕草で、ソレは突如宙に現れた。
 空間の裂け目から一本の腕が這い出た。白手袋と、淡い色彩を持ったスーツの裾が見える。
 腕に続き、肩、頭、上半身、脚……。
 迷彩が解かれていくように、空気のキャンバスにソレの姿が描かれていった。
 豊かな髭を生やした中年の男。
 白手袋をはめた両の手を、空中に固定されたステッキの上に重ねて置き、キュッ、と軽く握った。
 目を糸のように細め、人の良さそうな顔で笑っている。だが、この笑顔を信用し、何かを期待することなど思いも寄らない。
 この笑顔は、ひどく胡散臭い。
「確か、ウェスパシアヌス……とか申されましたな」
 彼の問いに、嬉しそうな声が返ってきた。
「左様、左様だ。君はウィンフィールドと言ったかな? うん、そうだ。そうであろう、間違いない。紳士たるこのウェスパシアヌス、そう易々と錯誤など致さぬよ、ははは」
 にこにこと絶えず笑みを浮かべ、陽気に笑う中年の男。
 次いで、すっ、と目を開いた。
 夜の底よりも、下水道の暗がりよりも、ずっとずっと濁った瞳。何かを救うことも、何かに救われることも、恐らく叶わないであろうほどの暗黒が沈積している。奥には何を閉じ込めているのか、考えただけで怖気をふるいそうになる。
 この男はどんなに笑い声をあげ、相好を崩したところで、瞳に光を宿すことなどないのだろう。
 そう思うと、ウィンフィールドは憐憫さえ感じた。
 亡霊。
 過去の亡霊め。
 今になって来るか。
 自分よりも年経た存在であるにも関わらず、この目の前にいる男はウィンフィールドの忌まわしくも懐かしい過去に肉を持たせた、亡霊のようなモノであった。
 つい先程の甘やかな回想とは似ても似つかない思いが胸に込み上げてくる。
「失礼するよ、っと」
 空中から窓に向かって足を差し入れ、窓枠を掴むと「ほっ」と掛け声を発して室内に滑り込んできた。
 静止する暇もなかった。仕方なく、ウィンフィールドは黙って見守った。この状況で仕掛けても、相手は窓の外に逃げるだけだ。そのまま尻尾を巻いてくれれば良いが、窓の外から魔術的な攻撃を仕掛けられると厄介だ。
 それにしても、警備はどうなっているのだ。こうも易々と敵を敷地内に侵入させるとは。
 いや……魔術師どもに通常の警備など通じないのか。そうだとしたらなかなか気の重いことではある。
「で、ウェスパシアヌスさんは何をしにいらっしゃったのでしょうかな。わざわざ、玄関にも向かわず、こんなのにも無作法な真似をなさるのですから」
 チラッ、と窓を見る。できればここをもう一度潜って、何事もなかったように辞去してほしいものだ、などと考えつつ。
「……何か、よほどの用があおりのようですな。お伺い致しましょう」
 聞きたくもない、さっさと帰れ。
 このときのウィンフィールドの鋭い眼光をその身に向けられたならば、十人中十人が正しく裏のメッセージを読み取り、「すみませんでした」との返事も早々にそそくさと踵を返すことは確実であろう。
 ウェスパシアヌスはどうやら仮定に存在しない、十一人目のようだった。朗らかに笑って返す。
「ははは、良い、実に良いねぇ、その胡散臭い慇懃無礼の態度。紳士で、あまりにも紳士的過ぎるがゆえに、紳士以外の何者かであるように見えてしまう。その点で我々は似ているのだと思わないかね。ん?」
「失礼ですが、あなたと馴れ合うつもりはありません」
 そもそもこの男と馴れ合える者なんているのだろうか。
 ウィンフィールドにはすこぶる疑問であった。
「『失礼ですが』! 『失礼ですが』と来たかね! はぁ、なんとも嘘臭い! 決然とした口振りから少しも失礼になど思っていないのだと丸分かりなのだよ、ウィンフィールド君。もちろん君はそれを読み取らせることを意図しての発言だろう? そうだろう。迂遠な言葉を叩きつけ、相手にその裏を探らせる。実に嘘臭く、実に遠回しで、実に……紳士的だ。うむ、私の求める紳士そのものだ、君は」
「あなたの言い回しはくどい。聞くに堪えません。こちらが馴れ合うつもりはないと明言しているのですから、さっさと本題を口にしてもらいたいものですね」
「やれやれ、せっかちなのが玉に瑕であるなぁ」
 大仰に頭を左右に振って、ため息をついた。嘘臭く、芝居掛かっていて、見ているこちらがため息をつきたくなる。
 更に大袈裟に肩を竦め、パッパッと胸元のありもしない埃を払うと──ウェスパシアヌスは暗い眼差しをウィンフィールドに突き刺した。
「じゃあ、単刀直入に言ってしまおうか。不本意だがね。不本意だとも実に」
 コキッ、と首を鳴らした。
「まあ、要するにだね、要するにだよ? 私が君に言わんとしているのは……」

 ダンッ

 喋る最中にステッキの先を床に叩きつけた。厚い絨毯に阻まれたにも関わらず、妙に大きな音が響き渡った。
「……こういうことなのだよ」
 ぐぶり
 凶気の波動が膨れ上がった。
「むん……!」
 押し寄せる不穏な気配を嗅ぎ取り、ウィンフィールドは素早く飛びのいた。
「ははははははははははは!」
 ウェスパシアヌスの哄笑が轟く。
 ウィンフィールドの賢明さを讃えるように、彼が先程まで踏み締めていた床が陥没した。黒々とした穴がポッカリと穿たれる。
 ……ここは覇道邸の二階。しかし、穴から覗くのは、どうも一階の様子ではない。
 黒々とした闇。光を吸い込み、そのまま二度と返さない。見透かすことを許可しない闇は、化け物の腹に繋がる口のようであり、底なき奈落の淵のようでもあった。
 ウェスパシアヌスの瞳に映るモノと、同質の彩。奥に何があるかを想像しただけで落ち着かなくなりそうだ。
「繋がっているのは異界、ですかね。やれやれ、落ちていたらどうなっていたことか」
「まったく用心深い男だね、君は。まあ私も存外用心深い男なんだが。なに、しかし今回のこれに関しては杞憂というもの。気にせず着いてきたまえ」
 言い置くと、身を翻した。
 ひらり、と軽快な身のこなしで自ら穿ったその穴に飛び込んだ。
 何の躊躇もなく、普段から行き慣れた店にでも入るように、自然な所作で。
「な……!?」
 さすがにウィンフィールドも驚き、一瞬その動きが硬直する。戦士にあるまじき停止。
 そこを突いたのか……
 またもや足元の床が陥没した。ゴオッ、と異界からの瘴気が噴き上がる。
 今度は、逃げられなかった。飛ぼうにも、既に床がない。
 身体が穴の中に飲み込まれた。
「く、墜ち……」
 降下する感覚が闇の中、四方八方から襲ってきた。暴力的なまでの引力。じきに、上下の感覚が怪しくなった。
 魔道師ならぬ身の執事。逆十字が一と渡り合った経験があるとはいえ、結局は人間に過ぎぬ彼は、底の見えぬ墜落に対してひたすら無力だった。
 ただ身体を丸め、頭を抱えて、いずれ来る衝撃に備えるほか術がない事実に、ウィンフィールドは内心歯噛みした。
 だが、こんなところで死ぬわけにはいけないのだ。なぜなら自分にはまだしなければならないことがある。
 死を恐れ、死から逃れる必要がある。
 生きるために、無力でも戦わねばならない。

 すとん
 予想に反して着地はソフトだった。
 丸めていた身体を起こすと、機敏に立ち上がる。
 ついっ、と中指でずれた眼鏡を直しつつ、あたりを見渡した。明かりを落とし、厚いカーテンを引いた室内よりもずっと暗い。「光がない」のではなく、「闇がある」とでも形容すべきだろうか。
 ぼう……
 果てを見透かせぬ濃い闇の中に、一つの炎が浮かんだ。近くには、寄り添う一つの影。
 目を凝らした。
 赤々とした光に照らされて、炎のそばに佇んでいるのはウェスパシアヌス。炎の真横に位置して、微動だにせずウィンフィールドを見つめていた。
「用心深い紳士を招待するには不意の不意を突く。これは私の人生訓だ、心して聞くが良い。聞くが良いさ、ウィンフィールド君」
「やれやれ、なんだかくだらない戯れに招待されてしまったようですね」
 くだらないと言いつつも、常にあたりへの警戒を張り巡らせたまま、ウェスパシアヌスのもとに近づく。
 何を企んでいるのか分からない相手への接近は無用心とも言えるが、しかし、魔導師相手に距離を取っても仕方がない。自分は所詮、身体ひとつがすべての戦士なのだから。
 それに、どちらかというとイン・ファイターの気がある彼にとって、距離を置くことでの危険よりも、接近することでの危険の方が身近であり、且つ対処の仕様があるといったものだった。
「そう怖がらなくてもいいさ、なに、取って食いなどしないよ。ただ、そう、そうだね、今回は一つのゲームに付き合って欲しいだけなのだよ」
「ゲーム? ははあ、これは本当にくだらない戯れにお呼ばれしてしまったようですな」
 警戒心を解かぬまま嘯くその言葉は、とても軽口には聞こえない。
「名付けるならば『紳士のゲーム』といったところか。J・G。うん、実に率直で、実に安直。なればそこ、真に紳士的であろう、ははははははは」
 パチパチパチ
 自分で説明し賞賛し、自分自身に拍手を送るその様は、滑稽ではなくむしろ、不快なまでにグロテスクだった。
 あまりに高すぎて自己完結することしかできない、驕慢なナルシシズム。
 ウィンフィールドの記憶が疼いた。過去を映す鏡を見せられているような気分に吐け気すら覚える。
 追想はいくらでもごまかしが利くが……この歪んだ鏡は仮借なく、かつての己をあるがままに見せ付け、思い起こさせる。
 胸がむかついた。もう我慢がならなかった。
「なんでもいいです、早く終わらせましょう。あの人の負担にならないよう、こなさなければならない仕事が山ほどあるんです。わたしも案外、暇ではないんですよ?」
 言い放ち、疾走。一瞬で距離を詰める。
 焦る素振りもなく、ウェスパシアヌスはステッキを振るった。一度、二度。
 あまりの速度に、二人の人間が同時に攻撃を仕掛けてきたようにさえ見える。
 ウィンフィールドは踊るようなステップで応えた。
 ステッキによる二連撃を躱しながら、流れるような動作でウェスパシアヌスのボディへ拳を送り込む。そのスピードは、果たしてどれほどのものだったのか。
 ウェスパシアヌスは、身をよじることで辛うじてパンチを避けた。
「オトー」
 囁きで人面疽を励起する。
「ふっ」
 攻撃がその身に振りかかる前に、ウィンフィールドは全力で後方に飛んだ。足と腰のバネによる、凄まじいまでのステップ・バック。
 俄かに対象を失ったオトーは、奇怪な呻き声を残してふたたびウェスパシアヌスの身に戻った。
 ウェスパシアヌスは舌打ちを一つ漏らし、ステッキをぶんぶんと振り回した。
 頑是無い子供のような仕草だ、とウィンフィールドは少し呆れた。
「いくらせっかちだからって、人の話を最後まで聞く分別は持ちたまえよ、君。確かに『時は金なり』と云うなぁ、忙しい人間にとって時間とは何物とも替え難いほど貴重なんだろうさ。けど、そんなにも、そんなにも生き急いでどうするというのだね? 慌てず、騒がず、悠々と、午後の茶会に欠かさず出席してこそ紳士というものであろう」
「お茶会はわたしも好きですよ、あなたとは到底一緒に出席したいものではありませんが」
 嫌悪を言外に忍ばせ、淡々と言ってのける。
「ははは、紳士にとっては丁重な断りさえ嬉しく感じられるのだよ!」
 指先を怪しげにくねらせながら、ウェスパシアヌスが嗤う。
 位置が変わったせいか、炎は逆光となり、ウィンフィールドには彼がシルエットにしか見えなかった。
「さて、我らがウィンフィールド君はお急ぎのようだから手早く本題を済ませてしまおう」
 ひたり
 急にウェスパシアヌスが押し黙った。異界が沈黙に包まれ、時が止まったかのような錯覚をもたらした。
 しかし、その水面下で緊張の糸は紡がれ続けていった。
 一分経ち、二分が経過した頃、ウィンフィールドが沈黙を破った。
「驚きましたね。泳ぎ続けなければ死んでしまう回遊魚のように、喋り続けなければ死んでしまうように見えた饒舌極まりないあなたが、こんなにも黙っていられるなん」
「ガルバ、オトー、ウィテリウス」
 ウィンフィールドの戯れ言には耳も貸さず、三皇帝の名を呼んだ。
 同時に、ウィンフィールドを中心とした三方向から巨大な気配が膨れ上がった。
「く……」
 咄嗟に包囲を走り抜けようとするウィンフィールドだったが、奇妙に身体が重く、思うように足が動かなかった。見えない力によって引っ張られ、押さえつけられている。
 水の中を歩くようなもどかしい感覚が全身を覆った。
 縛されている。
「魔術、ですか?」
 フッ……
 ウェスパシアヌスがなめらかに地を滑り、目前に迫った。
「逃さぬ、逃しはせぬよ、ウィンフィールド君」
「はっ!」
 ウィンフィールドは両腕を交差させる。
 が、咄嗟の防御も効を奏さなかった。
 ステッキの先端が鳩尾に突き刺さり、ウィンフィールドの身体をその場に縫い止めた。
「ぐう……!」
 呼吸が止まる。
 途切れようとする意識を繋ぎ止める彼の耳に、ウェスパシアヌスの愉快げな──愉快でたまらないといった声が届いた。
「では、これから『紳士のゲーム』を上げよう。いざ開幕、とくと御覧あれ、だ。……残念ながら観客は私ひとりだけだがね」
 ステッキが捻るように押し出され、更なる痛苦がウィンフィールドを襲った。
「かは……っ!」
 おおぉぉん
 三方向から迫る怨念に満ちた叫びが、ウィンフィールドの意識を侵蝕し、隅から隅まで貪っていく。
(く、こんなところ、で……!)
 ギリギリで保たれていた精神が、何一つ残らず、根こそぎに奪われた。
 視覚が、聴覚が……ありとあらゆる感覚が闇黒に支配された。
 糸の切れた操り人形のように、全身から力が抜け、前のめりに倒れる。
「はっはっはっ!」
 喜悦の笑い声を上げ、ウェスパシアヌスはステッキの先で物言わぬ身体となったウィンフィールドをつつく。
 反応はない。「よい、これでよいのだ」と頷き、ステッキをその身体の下に潜り込ませると、梃の要領で引っくり返した。
 仰向けになったウィンフィールドを、じっくり、とくと眺めた。
 顎鬚をしごきながら、誰が聞くというわけでもないのに声を落として、内緒話でもするようにひそひそと囁いた。
「ウィンフィールド君。君は実に良い闇を抱えている。不安で、脆く、母の庇護を受けられなかった少年のような弱々しい心が、今も君の中にあるんだ……眠りながら、目覚めを迷いながら。それを解き放ち、弾けさせておげよう。他の誰でもないこの私が。この私がね」
 ウェスパシアヌスはくるりくるりとステッキを振り回し、満足げな微笑みを浮かべた。
 やはり、子供のような単純な笑み。しかしその表情は、邪悪に満ちて。
「だから、安心して堕ちるがいいさ。そのまま、そのまま、ずっとね。ははははは」
 哄笑はすぐに、異界に広がる無限の闇へと飲み込まれていった。
 炎が揺れる。
 影が踊った。

 意識を取り戻したとき、ウィンフィールドは少年となっていた。
 小さな体躯。細い腕。頼りない身体の重さ。
「な、に……これはいったい」
 戸惑う猶予さえなかった。
 彼の呟きを掻き消したのは、豪風を伴って振るわれた腕。
 太い腕。荒れた肌。かつての輝きは見出せない。
 大きな拳が、少年となったウィンフィールドの頬にめり込んだ。
 頭がもげるような衝撃。
 仰け反り、視界が反転したかと思いと元に戻り、また反転して……目の前に壁が迫って。
 ヅガッ
 背中から壁にぶつかり、跳ねた。呼吸が止まる。
「……!」
 女性の叫び声。地に倒れた彼を呼ぶ声。聞き覚えのある、声。
 そんな、バカな……彼女はもう、とっくに……。
 朦朧とした意識が、少しずつ、本当に少しずつ、晴れていく。
「母、さん」
 言葉は掠れ、ほとんど声にならなかった。
 路地裏に差し込む光。それが逆光となって、女性の姿はシルエットにしか見えない。
 そして、その女性に忍び寄る影も……。
 大きな影。逆らう術などないに等しい、絶対的な影。
 影は悪鬼などではなく、人間だった。ただの、人間であった。
 しかし、それが、少年にとっては死ぬほど恐ろしかった。
「母さ、ん……っ」
 こふっ
 咳が言葉を遮った。喉の奥から血が迸り、ぼたぼたと足元に垂れた。
 痛めたのは胃か、肺か。路地裏は薄暗く、血の色も粘度も判然としなかった。
「……! ……!」
 叫び声。今度ははっきり、それが母のものであると分かる。内容までは聞き取れない。掠れたように不鮮明だった。
「に……!」
 ほんの少しだけ耳に届いた。
 にげて。そう言ったのだろうか。
 母の後ろにある影が、腕を伸ばした。首をもたげる大蛇のような禍々しい動き。
 自分を殴りつけた太い腕──母のシルエットにかかる。影と影が繋がった。
 融合か支配か蹂躙が始まる。
「母さん、母さん、母さん!」
 止めることはできない。
 腕は、母の首に絡みつき、締め上げた。
 母の喉から、息の詰まる呻き声が。
 少年の頭から喉へ冷たい感触が滑り落ち、喉が凍りついた。喉から胸へかけて熱い怒りの火球に変わり、心臓を焦がした。胸から腹へかけて鋭い刃に変わり、彼の心をズタズタに引き裂いた。
 絶望が身体の中を行進していく。
 止めることはできない。
 全身を恐怖と怒りと悔しさがぐるぐると這い回る。
 焦燥が衝動となって声帯を震わせた。
 顎が外れそうなほどに口を開いた。みしり、と下顎が鳴った。両の頬が裂けそうなほど痛んだ。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
 少年の血を吐く叫びは路地裏で谺して、消えた。

 少年──ウィンフィールドを殴り飛ばし、母を扼殺したのは、母の前夫……酒に溺れ、博打に血道を上げたせいで妻子に逃げられた男。ウィンフィールドの実父であった。
 かつてはプロボクサーとして名を馳せ、ウィンフィールドの憧れであり、彼にとって「強さ」の象徴であった男も、試合中の事故で片目を潰され、リングを降りざるを得なくなった。
 男の魂は荒廃し、アルコールに酩酊するか、賭場で目を血走らせて金を張るか、妻子に八つ当たりの拳を振るうかのみによって、生きるようになっていた。
 離婚状を叩きつけられ、逆上した彼はウィンフィールドとその母に暴力を浴びせ、一度は服役したが、離婚が成立した後もなお恨みを棄てずに妻子の周りをうろつき続けた。
 その夜。たまたま近所の友人に長い間借りたままだったものがあることを思い出し、遅い時間にも関わらず、「夜の散歩」と称して家を出た母子は男の魔手に掛かった。
 男は事件の後すぐに姿をくらまし、警察の捜査も追いつかず、行方は杳として知れなくなった。

 二週間経ち、ウィンフィールドは怪我がろくに治りもしない身体で病院を抜け出した。
 向かう先は、家。最後に母と過ごした家に戻った。母の妹──叔母が管理を任された家へ。
 突然の来訪に叔母はひどく驚いたが、ウィンフィールドの表情に宿ったものを見ると、何も言わず迎え入れた。
 彼は叔母の横をすり抜け、廊下を進み、ひとつの部屋の前で止まった。
 母の部屋。彼は叔母の方を一瞥し、彼女が目を逸らすのを見た後で、部屋のドアを開けた。
 たった二週間だけの不在。それが、「死」であるというだけで、ここまで荒涼とした印象を生み出すのか。少年は入口に立ち尽くし、密かに打ちのめされた。目が焦点を失い、視線が虚空をのたくる。
 が……ぴたり、とそれがある一点で止まった。目に色が戻る。
 ピアノ。さして高価でもないささやかな大きさのピアノ。彼はそこにまで赴き、椅子の前で凝然と立ち尽くした。
 沈黙はほんの少しだけ。
 やがて、ゆっくりと椅子を引いて、座った。彼にはまだ支配しかねる空間であり、領域だった。
 四、五秒、指を宙に泳がせた後、迷いを断った。母の好きだった「月光」を弾き始めた。
 窓の外は漆黒の闇。雲に遮られ、一条もの月の光が射さない夜。彼は暗い室内で懸命に指を滑らせた。
 彼の技術はたどたどしく、旋律は狂い、進行は遅れ、ときに早まったが、彼の脳裏には在りし日の母が紡ぐメロディが甦っていた。
 鎮魂歌のように静かに、悼むように。けれど指先に怒りを秘め、鍵盤に己のすべての想念を叩きつけ、頭を空白にした。
 ぼんやりとした意識の中、母を殺した実父への復讐を誓った。
 警察なんかに任せてはおけない。
 あいつを殺すことでしか、自分は前に進めないのだと思った。

 翌日、彼は父の行方を追い始めた。
 そのために何人もの人々と会い、情報を求めたが、貧しく、幼く、力もない彼を丁重と扱ってくれる大人などいなかった。子供は弱い彼を蔑み、戯れに暴力を振るっては笑うのだった。
 強くなれ、と言われているのだと思った。
 ウィンフィールドは力を欲した。
 仇を追い、情報を求めて街を渡り歩く彼にとって、資本となるのは身体であり、力であった。
 まだ力の伴わぬうちは屈辱的な「仕事」にも手を染め、食糧などを得るための金を稼いだが、純粋な暴力への復讐に燃える彼にとって、必要以上の金は欲しくなどなかった。
 力を求める願いは執念となり、執念はやがて妄念に変わった。
 叩きつけられた大きな拳。抵抗を許さない圧倒的な力の差。
 仇の姿を幻視し、そこに向かって拳を振るうことが、少年の日課であり、安眠の儀式であった。
 かつては、ボクサーである父に憧れ、追いつきたいと思ったこともあった。鏡の前でシャドー・ボクシングの真似事をする幼い彼に向かって、父は笑いながら言った。
「そんなへっぴり腰じゃ、うちの犬小屋の老いぼれにだって勝てねぇぜ」
 犬小屋の老いぼれ──ジョージ。寿命の近かった老犬。あの日の一年前、酔った父が殴り殺した。ウィンフィールドはただ見ていた。老犬が悲鳴もなく、吹っ飛び、地に叩きつけられ、命を消していく様の一部始終を、ガラス越しに。
 そのときも父は酔った顔に笑いを浮かべていた。
 我が子を皮肉る父の笑顔、飼い犬を殴り殺す父の笑顔──ふたつが重なる。
 ウィンフィールドは表情を殺し、言葉と思いを拳に託し、その笑顔の幻を破壊し続けた。
 奪われるのは、もういい。今度は俺が奪う番だ。
 怨念に溢れた誓いは、やがて母の笑顔さえ忘れさせた。温もりも柔らかさも既に遠かった。
 風を切る拳の数は数千から数万、数万から数十万、数十万から数百万と積み重ねられ、弱々しい拳はすぐに力のある拳となり、また凶器に変わった。
 そして、やがては魔の領域にまで踏み込むこととなる。

 街の裏に巣食うのは、人間の欲望や狂気だけではなく、ヒトを超越したモノすら存在していた。
 もはや複数を同時に相手にしようと負けることのなくなったウィンフィールドは、己の無敗に誇りを感じ出していた。
 その夜も路地裏で五人のナイフ使いを打ち倒し、帰途に就こうとしていたところだった。
 踵を返した彼の前に、いつの間にか、男が立っていた。
 男はまだ少年であったウィンフィールドよりも背が低く、ボロを身にまとい、その身をふらふらと頼りなげに揺らしていた。
 酔っ払いか……ウィンフィールドは特に興味もなく、男を押し退け、その場を立ち去ろうとした。
 伸ばした手を掴まれた。乾いているのに、濡れたように冷たい手。その握力は意外にも強かった。
 危険を知らせるシグナルが発せられ、その手を振り払うや、ウィンフィールドはほぼ自動的に左ジャブを繰り出した。
 男は少しも避ける素振りも見せぬまま──顔面で拳を受けた。
 予想していた柔らかい肉の感触が、なかった。拳を伝わってきたのは、密度の高いゴムを殴りつけたような鈍く重い感触。
 そのとき、ウィンフィールドは初めて男の顔を見た。落ち窪んだ眼。輝きのない瞳。死人のような色の肌。
 ……いや、こいつは本当に生きているのか?
 つっ、と光を返さない瞳が動き、ウィンフィールドを見つめた。
 視線には力がある。ウィンフィールドの背筋を悪寒が走り抜けていった。
 もはや銃口を向けられる恐怖さえ克服していた彼の瞳が、怯えるように揺らいだ。
「……あああ!!」
 恐怖に支配されたまま腕を振るう。
 鳩尾。腹筋。腕の付け根。首筋。股間。顎。あらゆるところを殴りつけ、あらゆるところが引き締まったゴムのように硬いことを知った。
 やがて、無造作に動いた男の片腕が、渾身のパンチをあっさり止めた。
 どんなに力を入れても腕がピクリとも動かない事実に気づいたとき、ウィンフィールドは実に久しぶりの絶望を味わった。
 彼は死を恐れた。
 頭蓋の内で「月光」の旋律が甦る。
 そして……
 ステップ・バックで下がろうとする彼に、男はただ真っ直ぐ──格闘技でもなんでもない、ただ真っ直ぐ伸ばすだけの、しかし恐ろしい速度を持った拳を向かわせてきた。
 相対速度により、辛うじてその直線的な動きを見ることはできたが、回避行動を取る方法もなく──腹にぶちこまれた。呻く暇さえなく、遥か後方の壁にまで吹き飛ばされた。
 幻覚が見えた。父親の腕。振るわれる烈風の音が、耳をよぎって、消えた。
 ウィンフィールドの身体が轟音とともに煉瓦の壁にめり込んだ。一瞬後、壁に吐き捨てられるように、身体が前のめりに倒れた。彼は血を吐き、咽いだ。夜の底に落ちた血は黒く見え、その色はまたもや判別がつかなかった。
 彼の醜態をしばらく眺めていた男は、やがてつまらなさそうに体を揺らし、ひどく緩慢な動作でウィンフィールドのもとから去っていった。靴音が石の路面を叩いて、高く鳴った。
 積み重ねた努力が打ち砕かれ、地面に転がって敗北の味を舐めさせられたウィンフィールドはしかし、立ち上がった。生まれたての仔馬のように弱々しく震える脚で。
 身体はボロボロでも、精神は少しも折れた様子がなく、屈辱に泣き伏せる気配もなく、痛む臓器に構わず笑った。人外の徒に出遭いながら、殺されなかった幸運に感謝して。そして、あんなにも面白いモノと出遭わせてくれた僥倖にも感謝して。
 彼は恐怖を殺し、それを歓喜の餌に替えた。
 新しい玩具を見つけた子供のように瞳を澄ませ、彼は更なる努力でもって拳を、目を、技を、すべてを磨き上げる決意を固めた。前進した。止まることを、後退することを忘れた。
 彼は何のためらいもなく、魔の領域に踏み出した。魔を殴り倒す者も、また魔であるとするならば、ウィンフィールドは魔人と呼ぶに相応しい者となったのだった。
 一年も要らなかった。酔っ払いの男に見えた人外のモノと再会するまでは。
 十秒も要らなかった。決着をつけるのには。
 彼にとって、もはや刃物も、銃器も、人外さえも、恐れるに足らないものとなっていた。
 暴力を恐れ、暴力を憎み、暴力を嫌悪した少年は、暴力に魅せられ、暴力を好み、暴力を行使する全能感に抗えず……暴力に支配され、囚われた。彼が暴力を使うのではなく、暴力が彼を使うに等しかった。
 人間において敵う者はなく、人外の存在さえ圧倒し、駆逐する少年。
 ソレを、人々は「化け物」と呼んだ。それ以外の呼び方を知らなかった。

 汚臭が鼻をつく下水のトンネルの奥で、ソレは貪っていた。
 三メートルはあろうかという、芋虫に手足をつけたようなソレが身を折り畳み、蠢いていた。
 腹を十字に割かれた女は、まだ命があり、意識があるのか、ビクビクと四肢を震わせ、声にならない悲鳴を発していた。
 ソレは、切り裂かれ、腸を覗かせる女の腹に頭を突っ込んでいた。目もなく鼻も耳もなく、ただ中心から側面の端まで広がった口のある、異形の顔で、女の臓物をぞぶぞぶと喰らっていた。
 ばきばき、と骨の噛み砕かれる音があたりに響く。
 顔全体で人間の中身だけを噛み喰らうこの化け物を、地下の住人たちはただこう呼んでいた。
 ──内臓喰い。
 その存在を知り、打ち倒してやろうと目論んだ者も一人や二人ではないが、誰もが今やキレイに臓器のなくなった身体で下水の何処かに朽ち倒れていた。
 不意に、化け物の動きが止まった。目もなく鼻も耳もなく、それでも何かを感じたのだろうか。素早く後ろを振り向いた。
 三歩先に、一つの影。
 身を構えずに立っていた少年は、薄く笑みを浮かべた。
 首を曲げてこきこき音を鳴らすと、「来いよ」との意志を示すように掌をくいくいと内側に振った。
 化け物は立ち上がるや、すかさず攻撃を仕掛けた。視覚にも聴覚にも嗅覚にも依らず、地下で発達した超感覚でもって少年の位置を探り出し、一片の容赦もない拳を振るう。
 たった三本の指。だが、一つ一つがソース壜のように大きく、節くれだっていた。
 少年は難なく見切り、紙一重の間を置いて避ける。吹き過ぎていく烈風に顔を歪めながらも、薄い笑みは張り付いたままだった。
 化け物の拳が下水道の壁に当たる。
 破砕。
 かけらが榴弾のように飛び散る。
 だが、激しく降り注ぐ地点において、さっきまでいた少年の姿はなかった。
 ひと呼吸の間に移動を済ませた少年は化け物に向かって左ジャブを打つ。人間ならば喰らうしかできないパンチを、化け物は奇怪な身のくねりで避けた。更に連続したうねりの動作で、足を蹴り出す。
 二歩下がって少年はまた絶妙な見切りを行い、髪の毛の先をかかとで触れられながらも躱した。
 化け物に隙ができた。
 しかし少年は攻撃しなかった。殴るには距離があり、踏み込んだ頃には隙がなくなるからだ。
 蹴りを放てば、届いたであろうが、少年の足は浮かぶ気配を見せなかった。
 確かに、蹴りはパンチよりもリーチが長く、威力もある。使いようによってはボクシング・スタイルの今よりも早く闘いを終えられるのかもしれない。
 しかし、蹴りはまた、隙が大きい。避けられたら今度はこちらが危なくなる。
 それにまた、蹴りを放つことで身体のバランスが危うくなる。人外を相手取ると、どんな動きを見せるか予測し切れず、ほんの少しの意想外な攻撃で致命的にバランスを崩してしまう恐れもある。
 だから、少年はあくまで拳にこだわり、足は移動の手段のみと割り切った。
 蹴りを使えないハンデを、少年は卓越したフットワークと超絶技巧のボクシング術で埋めていた。
(俺がボクシングにこだわるのは、何もあいつのせいじゃねぇ)
 胸の内で呟くと、少年はファイティング・ポーズを保ったまま、化け物の攻撃を待った。
 知能がないのか、二度もの攻撃を外したにも関わらず、化け物はまるで警戒する様子もなく突っ込んできた。
 通常の人間であれば頭蓋を粉々にされかねない豪腕を手の甲で弾きつつ、少年は懐に飛び込んだ。
 次いでもう一方の豪腕を弧を描くような体捌きで避けた後、腰を捻り、渾身の右ストレートを放った。
 まっすぐ、化け物の顔に向かって。
 化け物はぞばっ、と口を大きく開いた。自ら飛び込んでくる腕を噛み千切ろうとばかりに。
 やはり、化け物には知能などなかったのだろう。速度の目算すらできなかったようだ。口を閉じるよりも早く、少年の拳が口腔を通過し、延髄を破壊して、後頭部から突き出た。素手の拳が、化け物の血でぬらぬらと赤黒く濡れている。
 化け物は一瞬で絶命した。
 だらり、とそのおざましき体が弛緩する。
 少年と化け物がひとつの影となり、静止した。
「ふん」
 掛け声とともに、少年は腕を引き抜いた。血払いをするように、腕を素早く振る。
 化け物の死体はずるずると頽れるや、盛大な飛沫を上げて下水に浸かった。
 少年は勝利の余韻に耽る素振りも見せぬまま、死体を一瞥すると振り向いた。さっきからこちらを覗いていた気配に向けて視線を飛ばす。
 察知された気配は、飛び上がって驚きを表した。
 闇の中にうっすらとその姿が浮かぶ。
 痩せ細った単眼の男。「内臓喰い」の仲間か。
 そいつには、知能があるようだった。
 震える声で叫ぶ。

「お前は……ウィンフィールド!」

 ヒトを棄てた、ヒトを超えた、あるいはハナからヒトを度外視した正真正銘の化け物でさえ、知能と理性があるモノは彼を恐れ、避けるようになっていた。
 単眼の男も例に漏れず、悲鳴を挙げて少年の前から姿を消した。
 だが、その例に漏れ、敵愾心を燃やし、彼の前に立ちはだかるモノはことごとくが彼の両拳によって屠られた。
 三つの狼頭を持つ大男は、ひと噛みすら許されることなくすべての頭を粉砕され。
 蜘蛛の手足を持つ老人は、たった三秒の目視の後にその背を貫かれ。
 蛇の身体を有した妖艶な美女は、懸命な巻きつきを「退屈だ」と言わんばかりに引き千切られ。
 ウィンフィールドという名は、存在するかどうかも怪しい「最強」の象徴として囁かれることになった。
 自分の力がそこまで達したことに、彼は酔い痴れ、嬉々として拳を振るい続けた。

 ある日……彼自身、もう捜しているのかどうかさえあやふやだった仇が、ひょっこり現れた。
 酒によって身体をボロボロにし、ウィンフィールドの成長以上に変わってしまった、実父。
 幼き日の「恐怖」と「暴力」の象徴が、あまりにも情けない現実として路地裏に転がっていた。
 こんなものを。
 こんなものを俺はずっと追いかけて。
 言葉にはならなかった。ただ、拳が雄弁なモノとして、振り上げられた。
 しょぼくれた父はその拳を見上げ、何やらもごもごと呟いたが、ウィンフィールドには聞き取れなかった。
 かつて憧れたモノが、「強さ」の代名詞が、ファイティング・ポーズも取れぬ生ける屍として地べたを這っていることに名状し難い思いを喚起され、彼の拳が打ち震えた。
 この拳を、ほんの一回だけ振り下ろせばいい。それですべてが終わる。俺は自由になる。
 自由? それはいったい何だろうか?
 分からなかった。ただ、目の前のコレを殺しさえすれば自由になるのだ、とだけ思った。
 振り下ろした。
 拳を男の脳天に突き刺さった。頭蓋を砕き、脳髄を破裂させる感触が、儚く伝わる。
 遠くで「月光」の旋律が鳴り、じきに霧散した。
 自由になった。
 恐ろしいほどの自由が、ウィンフィールドを襲った。

 自由は、破滅によく似ていた。
 目的を失い、方向を見誤った力は、自由を手に入れた途端に暴走を始めた。
 殴って、殴って、殴った。傷つけ、傷つけ、傷つけた。痛みを思い知らせた。
「もっと痛みを知れ」
 あるいは殺して、殺して、殺した。甦りを否定する勢いで殺戮した。完膚なくすべてを叩き壊した。
「もう痛みを知らなくていい」
 自分が何をしたいのかさえ分からず、ただ有り余る力を暴走させた。
 すべてを壊したかった。一つの身体に収めておくには、大きすぎる力だった。
 しかし、すべてを壊すには、あまりにも足りない力だった。
 拳では超えられないものもある。
 その事実に打ちのめされたが、すぐに打ちのめされたことを否定し、彼はより強大な力を掻き集めんとした。
 何もかもが憎かった。
 否……ただ、少年は何もかもが愛せないだけだった。
 愛せないことを、「憎しみ」と置き換えた。置き換えて、糧とした。
 憎しみを失ったら、少年の心は空虚となっていたはずだった。空虚ばかりは耐えがたかった。
 空っぽになったら、俺は生きていけないだろう。
 しかし、やがて憎しみさえも薄れた。「愛せないこと」をごまかす手品のくだらなさに疲弊していた。
 少年は死ぬことばかりを考えるようになった。
 死に場所を求め、彷徨い出した。
 欲しいのは死ねるほどの闘争。
 死ぬことに満足を見出せるような素晴らしい闘争。

 我が胸の裡で響く「月光」にフィナーレを。

「ふふふふん、ふん。なかなか面白い劇であるなぁ、いやはや。チープではあるが、なかなかに熾烈な過去。凄いな、いや、まったく凄い。力を欲するというのは誰しも行うことだが、欲してああまで、こうまで力を手に入れることなど叶うまい、普通は。普通はね。つまり、よっぽど普通ではなかったということだな! 力に愛されてしまったのだろう、力が彼をあまりに愛しく思うばかり、彼を強くしてしまった! 彼は壊れんばかりに強くなった! 人間はね、無条件の強さには耐え切れんのだよ。耐えられる強さにも限度がある。あるのだ。それを超えて力を手にするものは、逆説めいているが……弱くなってしまうんだ」
 炎がたゆたい、ウェスパニアヌスの貌を朱く照らす。
「さてウィンフィールド君、君は強くなりすぎたあまり、弱くなった。皮肉だね。面白いね。君の抱える闇はそこにあった。『空虚』を厭い、『空虚』に焦がれ、生きることと死ぬことを求めた少年時代。それが今も君を救いながら、巣食い続けている」
 ステッキを動かす。仰向けに倒れたウィンフィールドの額を指し示すような位置で止めて、囁いた。
「その『空虚』に、『空白』に、『空っぽ』に、私が介入してあげようではないか。私の意志を流し込むことでそれを埋め、奪ってやろう。君の弱さを、君の自由を。なに、お代は構わんよ。私の従者になれなどとは言わん。ただ、君がお仲間たちにとって獅子身中の虫となる……それだけで充分なのさ、はははははははは!」
 力を込め、ステッキの先端を額に突き込もうとした、正にそのとき。

 曇天。暗い昼に街を行き交う人々の顔は疲労の色が濃く、誰も彼もが靴の底みたいにすり減っていた。陽の光を浴びられない植物が萎れ、枯れる一歩手前に発する弱々しい生気が、人々の肌からも滲み出していた。隆盛を極める一方で、人間を消耗品のように扱うこの街──アーカム・シティの、誉めるに値しない一面。目を背けたくなるほどに、明瞭に見て取れる。
 ウィンフィールドは半ば亡者の群にも似た雑踏に紛れて、人々の流れの隙間を滑らかにすり抜けた。人間の密集した空間を、肩を触れ合わせもせず、泳ぐように通過したのである。意識しての行動ではない。絶え間ない闘争によって磨かれた観察力が自動的に人々の次の動きを予測してしまうため、タイミングを計るでもなく、ひと続きの動作として街道を歩き抜けることができるのだった。彼はそんな域にまで達していた。
 あまりにも自然な動作で素早く傍らを通っていく彼の姿は、たとえ人々の目には止まることがあっても、意識にまでは止まらなかった。誰もいない廊下を歩くように何らの停滞も伴わず移動するウィンフィールドを、人々は風のようなものとしか認識しなかった。
 透明な存在となっているウィンフィールドであったが、彼にしてみれば周りの人間たちが透明であるかのようであった。まるで興味を惹かれず、障害にすらならず、ただ彼の周囲で動いているだけのモノたち。夜の街のどこかで蠢いている異形どもに比べ、退屈というより他なかった。
 否。既に彼は異形どもにさえ、飽き始めていた。ヒトとは異なる身体や能力を持っているとはいえ、つまるところは生きモノであり、死ぬモノでもある。殴り続け、破壊し、立ち上がれぬようにしてやれば、そのまま死んでしまうだけのモノ。回復能力はあっても蘇生はできず、必ずどこかに限界のラインが引かれている。ウィンフィールドの拳は──もはや「拳」という言葉の意味範囲を超越した、肉と骨から成る兵器は、易々とそのラインを突破してしまう。彼の持つ規格外な破壊力に耐えられる生命が、見当たらなくなっていた。
 趣向を変え、銃火器を装備し鉄を鎧った半人にして半異形の「知恵ある化け物」たちにも喧嘩を吹っかけてはみたが、鋼をも貫く拳と銃の照準が間に合わぬほどのフットワークを兼ね揃えた魔人にとって、それは期待した「新たなる闘争」ではなく、拍子抜けするような、児戯にも劣る退屈なファルスであった。
 彼に真正面から敵対するモノたちはいなくなり、彼もまた「敵」と認めたくなる存在を見失っていた。何もかもが弱く、何もかもが無用であった。彼を必要とし、熱心に口説いてくる集団や機関は合法非合法を問わず多くあったが、誰もが退屈な提案ばかりをしてウィンフィールドを興醒めさせた。話を聞くのも億劫になり、「味方に付かぬならば」と数の力に任せて潰しにかかる短気な組織どもを反対に潰し返してやり、「いつまでも待とう」と、寛大で気の長い態度をわざとらしく見せつける組織から放たれた尾行や監視は残らず撒き、あまりにも執拗であれば拳で以って釘を差した。面白い話を聞きたいという気持ちも失せ、空虚な意志と鬱屈した精神をその身に抱えたまま、街という街を転々としていた。
 ──と。それまでうつろな光を浮かべていた彼の瞳が妖しい輝きに彩られた。停滞することを知らず流麗な歩みを見せていた足が止まる。
 街角。雑踏と表現する他ない人波の中に、ぽっかりと無人の空間が発生していた。商店と商店の間にある通路。優に四人くらいの人間が並んで歩けるそれなりに広い道を、誰も入っていかず、また、誰も出てこない。不気味な「不在」が横たわり、それでいて誰もが一顧だにしない。
 口の端を歪め、端整な顔に美しいともおぞましいとも言える壮絶な微笑みを浮かばせる。
 すっ、となにげない足取りで、「不在」の角へ踏み込んだ。
 鼻の奥に鋭い刺激が突き刺さる。異臭。常人ならば辟易して足を引っ込めてしまうほどの凄まじい匂いであったが、気にせず歩を進めた。
 匂いとはことなる、もう一つの匂い。危機感が形を取り、「引き戻せ」という警鐘が鳴る。「特に用事はないんだろう? わざわざ首を突っ込まなくてもいい」という理性の囁き──いや、幻聴。その頃にウィンフィールドの理性が疲弊していなければ、彼もおとなしく道を引き返していただろう。
 幸か不幸か、その頃の彼にとって理性は一つのツールにしか過ぎず、意志決定権を委ねてはいなかった。彼はとっくに闘争への狂気にも似た情熱を原動力に生きる魔人と化していた。理性に囁きかける何モノかの声に耳など貸さず、ただ、欲しいモノだけを求め、足を運んで──通路の先にある、隠蔽された存在たちを目の当たりにした。
 不意に目隠しを外されたような感触が走った。まばたきする間もなく、ウィンフィールドのすぐ近くにふたりの何かが、現れた。
 それまで隠れて見えなかったモノが、見えるようになったのだ。

 ひとりは足を地に付けて立っていた。もうひとりは冗談のように──何の浮力もないはずなのに、宙に浮き上がっていた。
 翻る赤いマント。風もないのにはためくそれを手で押さえた空中の怪人。顔が、ウィンフィールドの方へ向いた。
 つるりとした禿頭の下──白い仮面に覆われ、顔の下を窺い知ることは叶わなかった。仮面に掘り込まれた禍々しい無機質な笑みが、偽物の瞳が、まだ若いウィンフィールドを凝視する。
「……新手か?」
 仮面の男が問うように呟く。
 もう一人が振り返った。
 初老の男、だろうか。髪も髭も白くなり、かすかに皺も覗いているが、背筋は鉄柱を呑んだようにひどく真っ直ぐで、強い意志に満ちた眼差しと堅牢な体躯から迸る精気、少しの無駄もないきびきびとした所作は、中年どころか壮年と言って良いほどのパワーを感じさせた。
 漲るような力に満ちた初老の男は、目を瞠り、叫んだ。
「な……部外者だと!? 結界は張ったはずだぞ!」
 結界──異臭。理性に訴えかける「引き返せ」の幻聴。
 ウィンフィールドは、この場所で超常的な手段による人払いが行われたこと、加えて、このふたりの闘争が同じく超常的な手段によって隠蔽されていたことを理解した。
 なるほど、つまり、こいつらは……魔術師か。
 魔術師。邪なる力を用い、社会を、世界を汚す絶対的悪の存在。まだこの街、アーカム・シティに来たばかりのウィンフィールドでさえ、「『ブラック・ロッジ』という秘密組織が魔術師を擁している」といった噂を様々なところで聞かされていた。「悪い魔法つかい」については他の街でも何度か耳にしたことはあるが、彼自身は一度も出逢ったことがなかったせいで、与太の類ではないかという疑念はこのときまでずっと抱えたままであった。
 まだ信じ難い思いはあったが……関係なかった。魔術師でなくてもいい、「魔術師のようなモノ」でも一向に支障はない。
 渇きにも似た、闘争への希求を満たしてくれるのならば。
 あるいは、探し求めていた「相応しき死に場所」を提供してくれるのならば。
 ウィンフィールドは軽く構えを取った。
 相手はふたり。何やら張り詰めた空気が漂っているのは、互いに対立し、闘争していた……否、これから闘争を開始しようとしていたところなのだろう。
「ちょうどいい」
 ふたりとも懇切丁寧に料理してやろう。魔術師という珍味を思う存分味わってやる。
 心が滾った。精神が飢えを忘れていく。
「なんだ、ほとんど魔力もないな。ちょっと勘がいいだけの一般人、んにゃ……ゴロツキか。何を間違えてるのか知らねぇけど、魔術師を相手に喧嘩売ろうだなんて考えない方がいいよ。マジでマジで。万が一、考えたりしちゃったら……いや、ホント、死ぬしかないよ?」
「いい気になってベラベラ喋っているところ、すまないが」
「あ?」
「……とっくに間合いの中なんだよ」
 言葉の最後が空気を震わせる頃には、人知を超えたスピードでの移動が始まっていた。
 ステップ・イン。剃刀のように鋭利な侵入。
 たったの一歩の踏み込みで──彼は標的を捉えた。
 ふっ、と魔術師が片手を上げ、何かを試みたが……遅い。
 何をするつもりなのか、少しだけ待ってやったのだが、あまりにも遅すぎて、ウィンフィールドは痺れを切らした。握った拳を叩き込んで退屈を紛らわせた。
 鋼鉄さえ貫通する拳を受けながらも、仮面はひびすら入らなかった。しかし、空中にいた魔術師は呆気なくバランスを崩し、落ちた。膝を地につけながら、なんとか姿勢を保って倒れることを防ぐ。
 無様だな。冷たい目で見下ろした。
 追撃を掛けようと更に踏み込んだウィンフィールドは、しかし、すぐに追撃を諦めて飛び退った。
 魔術師は膝を屈しながらも、しっかりとこうべを上げ、右手を振りかざし、魔術を発動させたのだった。
 空中に複雑な光の紋様が描かれる。魔術の波動が、ウィンフィールドへ向けて、怒濤のように押し寄せる。
 避け切れなかった。脇腹に見えない衝撃の弾が着弾した。そのまま後ろに吹き飛ばされ、あわや壁と激突……となる寸前に空中でターンし、靴の裏を叩きつけるようにして壁に「着地」。足首まで壁に埋まったが、バランスを崩す前に引き抜き、目の前に迫る地面と頭とを擦らせるようにスレスレで前転して、今度こそ本当に着地を果たした。
 砕けた煉瓦がパラパラと背中に降り掛かった。
 立ち上がり、脇腹の具合を確かめる。大丈夫だ、と判断する。せいぜい車に跳ねられた程度のダメージしかない。
 一方、仮面の魔術師は呆れたような声を漏らしていた。
「ほう、随分とタフなゴロツキだねぇ」
「………!」
 初老の男も驚愕に顔を歪めているが、声は発さない。
(爺さんはここからじゃちと遠い……仮面野郎を先に片付けるか)
 単純明快な理由によって行動の予定を組み、動いた。
 再度、ウィンフィールドが地を蹴った。
 一陣の風と化し、疾走る。
 複雑なステップによって描かれるジグザグの軌道。
 足跡に合わせて路面から噴水のように破片が噴き上がった。
 右から──仮面の魔術師に取っては左半身の方から斜めに突入し、懐まで肉迫する。
「───!」
 呪文の詠唱。
 しかし、やはり遅い。いちいち待っていたら、退屈し過ぎて死んでしまいだ。
 もっと、もっとスピードを上げろよ──挑発の意を込めてフェイント。左、右、左、と揺さぶった上で仕掛けた。しかし、相手はフェイントを掛けられたことすら気づかなかったようだ。ウィンフィールドにとっては「無防備」としか形容しようのない身体に、あっさりと拳が突き刺さる。
 右、左。的確に胸を二連打。何か特殊な防御を施しているのか、肉体の破壊にまでは繋がらなかったが、さっき仮面を殴ったときとは違って確かな手応えがある。
「げう!」
 呻き声。囁くような呪文のつながりが途切れた。
 肺の空気を搾り出されては、詠唱なんてしたくてもできないのだろう。こうなると魔術師といえども、ただのザコだ。
 もう数発だけ、仮面以外の身体の部位を殴り続ければ、案外あっさりと片が付きそうではあるが……それでは面白くない。
 ウィンフィールドは内心、嘲笑った。生きるか死ぬかではなく、面白いか否かの尺度でしか、闘争を計ることができぬ自分を。
 いいだろう。では、あえて愚かな手段を取るとしようか。
 気色の悪い笑みを張り付けた仮面を殴った。一発殴ると、すかさず二発目を。二発殴ると、すぐさま三発目を。三発殴ると、かててくわえて四発目を。五発目、六発目、七発目八発目九発目十発目十一十二十三……。
 一定のリズムで、力強く、精密に、ピストン運動のような連打を繰り出した。仮面のただ一点、鼻と口の間──人中のあたりだけを狙って殴り殴り殴り殴り殴り殴り殴り殴り殴り殴り殴り殴り殴り殴り殴って、更に容赦なく殴った。殴り続けた。殴り止めることなど考えもしなかった。
 永久に続くかと思われたピストン運動にようやく終わりの兆しが見えたのは、卵の殻でも割るような破砕音が鳴り響いた、正にそのとき。
 どれほど強固な魔術が仕掛けられていたのかは不明だが、遂にウィンフィールドの猛撃に屈し、仮面はその表情にひびを入れることを許した。ひびは重ねて加えられる拳によって仮面全体に広がっていき、遂には破壊の音を立て、仮面を無数のピースに分断した。
 魔術師の素顔が晒された。
 そこにはさっき砕かれた凶笑の面よりも、なお暗く禍々しい笑みが塗り込められていた。

「バカめが!」

 叫びと共に、殴打の音が消えた。
 魔術師の叫びも残響となってあたりを漂う。
 ウィンフィールドは静止していた。拳を振り上げ、今にも振り下ろさんとする格好のまま、ピクリとも動かなくなっていた。
 動かないのではなく──動けなかった。身体すべてが縫い止められたように、拳も、目も、口元さえも震わすことができなかった。
 彼の身体の周り。静止した空間に、無数の白い破片が宙に浮かび、彼を覆い尽くさんとしていた。いちいち見るまでもない。それらはすべて、凶笑面のかけらであった。
 しばらくは時間が止まったような沈黙が、場に下りた。
 素肌を空気に晒した魔術師が、凶笑を引っ込め、淡々と、教え諭すように述べた。
「見たのだから分かると思うが、あれなるただの面じゃねぇよ。東洋より発掘された、呪われた面さね。付ける者には……つまり、恭順を示した者には力を与える代わり、刃向かう者は容赦なく呪う。もーこれでもかってくらい呪う。向こうじゃ『最悪の面』として有名で、あまりにも最悪なもんだから鎮めようがなくて祀ってたくらいなんだよ、これが。お前はそんな面を、よりにもよって破壊したんだら、喰らう呪いはそりゃー尋常じゃないさ。当然さ。なあ、ゴロツキだっていくらなんでも耳にしたことはあるだろう。古今東西に伝わる、『呪具を破壊した愚か者にはどんな結末が訪れるのか』ってのを語った、御伽噺くらいは」
 せせら笑う。
「まあ、あれだ。お前のパンチは早かった。すげぇ早かった。早すぎて、己にゃ全っ然見えなかったわ。笑っちまうくらい見えなかったよ、うん。胸にぶち込まれたときはマジで『ヤベー』って焦ったさ、うんうん。でも何考えたんだかねぇ、呪いの面破壊するなんて。もう、あんな一生懸命になって叩いちゃって、お面になんかトラウマでもあったの? お面つけたオヤジにレイプされたとか。ハハッ、まあ、いっくら神速のパンチを持ってたって、所詮ゴロツキはゴロツキってこったな。来世あたりでボクサーにでもなんなさいや」
 光沢のある禿頭をぺろん、と撫でる。
 言うだけ言って興味をなくしたのか、初老の男の方に向き直った。
「さて、それなりに結構大事で有効な装備をなくしてしまったから、これ以上あんたと戦うのは難しい。残念だけど己は退くとするわ。でも追ってくるなよジジイ、己を追ってたらこのゴロツキを見捨てることになるぜ? まあ、せいぜいお得意の魔術研究の成果でも発揮して助けてやんなせぇな」
「くっ……!」
 初老の男が歯噛みする。
「はっはっはっ!」
 くるり
 余裕に満ちた笑い声を挙げ、禿頭の男は揚々と踵を返した。
 ふと、風を感じて足を止めたとき。
 こうべを巡らす間もなく、一撃の拳が頬をえぐった。
 首を刈るような重いフック。
「げばっ!」
 頬が裂かれ、骨が砕かれ、更には突き抜けて──脳髄までも破壊した。
 男の脳漿が飛び散り、地面を汚す……かに見えた次の瞬間、巻き戻すように脳漿が砕けた頭蓋に吸い込まれ、頭蓋が修復し、裂けた頬まで元通りになった。
 まったく過不足なく修復された男の顔には、しかしさっきのまでの余裕が嘘だったように激怒が込められ、赤黒く染まっていた。
 キッと鋭い視線を傍らに向ける。
「こ、のゴロツキがぁぁぁぁ!」
 静止していたウィンフィールドの腕。一瞬だけ活動を取り戻し、伸びて、伸び切ったところでまた止まっていた。
 ぶちぶちと血管が切れ、腕は血だらけとなっている。
「ド素人がてめぇで呪いを破れるわけ、ねぇだろうが!」
「知、る、か」
 動かない身体を、無理矢理に動かす。
 コツはつい先程掴んだばかりだ。
 まだ死に時ではない。
 まだ死に場所には至っていない。
 こんなつまらないファルスの中で死ねるか。
 闘志を奮い立たせ、血まみれの腕をもう一度振るう。
 頭の中で血が沸騰した。視界に火花が散る。耳鳴りが聞こえる。口に鉄錆の味が広がる。
 筋肉が悲鳴を上げた──無視した。
 無数の血管が千切れた──無視した。
 腱が断たれる感触がした──無視した。
 骨が潰れそうなほど軋んだ──無視した。
 痛みも苦しみも身体中が訴える危険信号も何もかも、すべて無視した。
 霧散しそうな力を掻き集めて。
 ただ、殺意を一点に凝縮し。
 目の前の標的だけを見て。
 一点の曇りをも許さず。
 願いを込めるように。
 ──破壊の意志を貫く。
 虚ろで、躊躇うことも惜しむことも迷うこともない、ただ強固なだけの意志に、拳という現実を、実体を、肉体を、まとわせる。
「単なるゴロツキの分際で……!」
 最後まで言わせない。
 パキュッ
 破裂音が踊る。
 踊って、散る。
 拳は今度こそ、徹底的な破壊を──殺尽をもたらした。
 頭部は粉々に砕け、肉片と骨片と脳漿を撒き散らした。
 ドサッ
 こうべを失った死体が頽れる。首の断面から滴る血が、マントの鮮やかな赤を、より鮮明な赤に染め上げた。
「お前も単なる魔術師だったろうが」
 ぼやいた。口の中が乾き、声は掠れていた。
 やっと一人、片付けた。だが、安心している暇はない。まだ一人残っている。
 煮え滾る闘志。不屈の心理。けれど体はそれらを裏切った。
 片腕はボロボロで、脚はガクガクと震えていた。腰を捻ることもできず、もう一方の無事な腕が動かせたところで、威力のあるパンチを打とうというは、無理な相談だった。
 カツカツカツ……
 背後から足音が近づいてきた。
 あの初老の男であろう。あっさり魔術で始末せず、近くで散々御託でも聞かせた後に嬲り殺そうというのだろうか。
 ならばせめて、面白い話でも聞かせてもらいところだ。
 振り向くことさえ不可能だった。
 きっと間違いなく自分は死ぬのだろうと思ったが、不思議と何の感慨も湧かなかった。
(俺が求め続けていたのはこんなものだったのだろうか)
 路地裏に転がる父親の死体がふと脳裏に浮かんだ。
 彼は死を覚悟するより先に、なんだかすべてがどうでもよくなってしまっていた。
「は、好きにしやがれ。殺すなら殺せよ……爺さん」
「───!」
 叫び。
 よく聞き取れない。
 耳を澄ます暇もなく──世界が暗転する。
『……にげて……!』
 遙か遠くから母の声。
 もう彼女の笑顔さえ忘れたというのに、あの叫びはまだ、ウィンフィールドを呪縛し、規定していた。
 奪われるのはもういい。
 奪うのも、もういい。
 俺はただ逃げずに立ち向かいたいだけなんだ。
 守るべきものを、守れるようになりたいだけなんだ。

 細かい振動に身を委ねていた。
 気だるい身体を、温もりが包んでいた。やけに硬いが、不思議と安らげる感触があった。ずっと昔に経験したような、懐かしさが胸の奥に広がる。どこかで無くして、もう二度と取り返せないのだとばかり思っていたものと巡り合えた、そんな気がして心が落ち着く。
 俺は……?
 明瞭としない意識。
 眠い。睡魔に襲われた。
 ふたたび意識が闇に落ちていこうとする。

「──が君の強さだというのかね」

 意識の墜落を、声が遮った。
 ゆっくりと瞼を上げた。まず視界に飛び込んだのは白髪。老人とも思えぬ雄々しい髪型が身体に伝わる振動に合わせて、ゆらゆらと揺れた。風になびくススキのように淡い輝きを帯びている。定まらぬ視線が、揺れる毛先を追った。
 光を取り戻しつつある瞳が、ついっと視線を逸らした。
 白髪の向こうに、沈み行く夕日と赤く染まる空があった。わけもなく、胸を締め付けられた。
 広い背中の上にいた。両腕が男の首に回っている。傷だらけの腕。しかし、血は拭われ、ほとんどの傷が既に塞がっていた。感覚はなく、動かそうにも動かなかったが、どうでもよかった。
 しばらくぼんやりした。
 数秒後、男の背中に自分が背負われているという事実に、ようやく気づいた。
「なんで、だ……?」
「お、目が覚めたかね」
 嬉しそうな声。不可解より先に、不快感が湧いた。
「……さっきの爺さんか。てめぇ、何をしやがったんだ」
「何を、とはひどいね。わざわざ君の呪いの残りを解いて、怪我の応急処置までしたうえ、こうやっておんぶまでしてやってるんだ、礼の一つでも──」
「うるさい。降ろせ」
 ふう。ため息が聞こえた。
「降ろしたところで歩ける身体でもなかろう。大人しくしてなさい」
 男の言う通り、確かにウィンフィールドの身体は怪我と疲労でズタズタだった。歩くどころか、立てるかどうかさえ怪しかった。
「………」
 言葉を失い黙り込む彼の姿は、どこか不貞腐れた子供を連想させるところがあった。
「………」
 男も、黙ってウィンフィールドを運ぶ。
「なんで助けた」
 突然、訊いた。拗ねたような響き。
「んん? むしろ訊くが、助けてはいけない理由でもあったかね?」
「………」
「ないなら別に構わんだろう。瀕死の怪我人を放っておけなんて、頼まれたってできんわい」
「命の取り合いをしようとしてたんだろうが。何をふざけたことを」
 ウィンフィールドのささやかな愚弄に対し、男は何ら不快の念を見せなかった。
「確かにふざけているかもしれんな。甘いかもしれん。儂は『人を殺してはいけない』なんていう綺麗事を言うつもりは毛頭ないし、またその資格もない。殺すか殺されるかという状況を避けてばかりでは、目的を達成することができないと分かっている以上、敵を殺す覚悟は決めている。話し合いの通じない、和解のできない、どうしようもない相手とは刃を、銃火を、魔術を交え、打ち倒すのも已む無しと思っておる。殺し合いを厭いはせん。じゃが……」
 ふふっ、と含み笑いを漏らした。
「殺すことはできても、見殺しにすることは無理だ。見たからには、助けずにはおれんよ。仕方ないさ、儂はそういう人間なんだからな」
 言い切ると、今度はカラカラと大声で笑った。
 呆れた。こいつは「善い魔法つかい」を気取ってやがるのか? 魔術師なんてのは、極悪非道の人非人と相場が決まっているのに。
「……おい、爺さん」
「なんじゃね」
「さっき、なんて言ったんだ」
「さっき──?」
「俺が起きたときだ」
「ああ──」
 得心したような頷いた。
「『あれが君の強さだってのかい』と、そんなようなことだったな。ただの独り言さ」
「独り言?」
「今は君が聞いていることだし、折角だから言ってしまうか。君は自分を強いと思っているみたいだが、それは随分な勘違いだよ」
 頭の中がほとんど空っぽだったウィンフィールドは、男の言葉を無感動に聞いた。
「ふん、勘違いだからどうだっていうんだ。グダグダ言ってると……殺すぞ」
 背負われたままでは、凄んでも怖くないのに、虚勢を張る。
「おお、怖いな。儂とてむざむざ殺されたくはないのぅ」
 おどけたように飄々と言い放つ老人に、ウィンフィールドは久方ぶりに「苛立ち」という感情を覚えた。
「爺さん、若いからって俺を舐めない方がいい。俺は『容赦』という言葉の意味が分からないもんでね」
「分からないのはそれだけではあるまい。本当は君、『強さ』の意味が分からないんだろう?」
「だから、それがどうしたと……!」
「君は脆い」
 男は断言した。
 背中で、ウィンフィールドが沈黙する。
「君はどんなに強くとも、脆い。粘りがなく、折れ易い」
 なおも男は続ける。
「まだ折れてはいないようだが……時間の問題だ。遠からず、君は折れる。今のまんまじゃ、心が保たないだろう」
「別に、どうだっていいさ」
 図星を指されたのか、否か。
 ウィンフィールドの中から、殺意にも似た「苛立ち」は消えつつあった。
「ところで。実はな、少年。……儂にも分からんのじゃ」
「は?」
「なんか、さっきは偉そうなことを言ったが、実のところ、儂にも『強さ』の意味なんぞ分からん」
「………」
 この瞬間、ウィンフィールドの中で「苛立ち」はすっぱりなくなった。
 呆れたのだ……この、威風堂々とした男が滑稽に萎縮する様に。
「おいおい、爺さん、あんな大口叩いといて……」
「あいすまんかった。ひとまず謝るから許してくれ」
 ぺこり、と勢い良く頭を下げる。つられて背中のウィンフィールドも傾く。
「だからな……君に本当の『強さ』の意味を教えてあげることはできない。儂自身、掴もうとして掴み切れぬまま、この齢となったのだからな」
 男は首をもたげ、沈む夕日に顔を向けた。
 ウィンフィールドはなんとなく、男が遠い目をして、夕日を眺めているような、そんな気がした。
「じゃが……一緒に『強さ』を探すことはできる」
「はあ?」
「手助けをするとは言わん、手助けしてくれとも言わん。ただ、迷える者同士が協力して目標に向かうってのも、悪くない提案だろうと思ったんじゃ」
「はあ……」
「無論、無理には誘わんさ。その気になったらでいい、いつでも儂のもとに訪ねてきてくれ。儂は逃げも隠れもせんからな、本当にいつでもいいぞ」
 言って、カラカラと朗らかに笑った。
「というか、このまま儂のところに来るかね?」
 ウィンフィールドは、自分の身体が預けられた広い背中を、じっと見つめた。
「……おい」
 呼び声に、背中が「ん? なんじゃ?」と答えた。
「名前……爺さん、あんたの名前はなんて」
「はは、なんじゃ、まだ言ってなかったか、儂の名前はな──」
 男は笑ったまま、名乗りを上げた。

「覇道、鋼造……!?」
 ウェスパニアヌスの声が驚愕に彩られていた。
 彼がステッキをウィンフィールドに突き入れる寸前に、老人の幻像が立ち上がった。
 強い意志を秘めた貌。獅子の風格を持つその老人こそ、覇道家前当主・覇道鋼造。
「『ブラック・ロッジ』……貴様らの好きにはさせん」
 芒ッ
 急速に術式が解凍され、ウィンフィールドの記憶に刻まれた回路を疾走り、力の奔流となってウェスパニアヌスに迫る。
「ふんあ!」
 ステッキを横一文字、縦一文字……逆十字を刻む。燐光を発し、ウェスパニアヌスを守るようにシールドが展開される。
 力の奔流と逆十字がぶつかり合い、せめぎ合った。
 拮抗する魔力と魔力は、やがて──対消滅した。膨大なエルネギーが衝撃波となって双方を襲う。
 衝撃波から逃れるべく、ウェスパニアヌスが飛び退りながら新たなシールドを展開。
 老人の方は、幻像そのものが盾であるかのように、衝撃波を難なく耐えた。
「覇道ォォォォォ! 貴様、ここまで予見していたというのか!?」
 叫ぶウェスパニアヌスへ、老人の幻像が掌を向けた。
 青と緑の光が乱舞し、更なる魔術罠が牙を剥く。
「くぅぅ、死人如きに遅れを取るとは! 不覚、不覚の極みよ!」
 青い筋と緑の筋。二条の光線がうねり、交錯しながらウェスパニアヌスに向かって行く。
 バッバッ
 マントを右に左にとはためかせ、光線を逸らした。
 後方で着弾の音。
 閃光と共に、異界が揺らぐ。
「ちっ、ここも持たんか……」
 舌打ち。
 ギリッ、と歯軋りの音が次ぐ。
「仕方ない、退こう、退こうではないか!」
 叫び、飛び上がろうとするウェスパニアヌスの襟を、一本の手が掴んだ。
「くうっ!?」
 思わず姿勢を崩す。
 目を向けた先に立つ、幽鬼のようなソレは幻像ではなく……実体を伴った人間。
 ウィンフィールド。
 目を閉じたまま、震える足で立ち上がっていた。
 無言で、自らが掴んだ標的に向かって──拳を放った。
 全身全霊を懸けた一撃。
 「砕け」という純粋な祈り。
 破壊を願う虚ろな意志ではなく、未来を切り拓こうとする充実した意志が、五指より溢れる。
 研ぎ澄まされた拳が、矢の如き鋭さで以って、疾走った。
 すべてを呪うのではなく。
 立ち塞がるものにさえ、祝福と鎮魂を。
「ガルバ! オトー! ウィテリウス!」
 ウェスパニアヌスは三皇帝を呼び、即座に異界から姿を掻き消した。
 パンチが空を切り、よろけたウィンフィールドは、そのまま倒れ込んだ。
 同時に、異界が──温められたバターのように、どろりと崩れていった。
 意識が飲み込まれていく……。

「ウィンフィールド……すまんな。儂はまだ『強さ』の意味を見つけられない。運命に抗うことが、運命に立ち向かうことが、本当の『強さ』と呼べるのか……分からないのだ」
 懐かしい、声がした。
 気配が、傍らから立ち去っていく──。

「鋼造様!?」
 慌てて飛び起きる。途端に走り抜けていく痛みに、顔を歪める。
 返事はなかった。
 部屋はがらんとして、静まり返っていた。
 驚きの余韻を引きずったまま、ウィンフィールドは呟く。
「そんな……今、確かに」
 覇道邸、二階。
 気づけばウィンフィールドは絨毯の上にうつ伏せで倒れていた。訝りながらも手を床についたまま、屈伸の要領で起き上がった。寝起きのように、身体が微かに重い。
 よろめき、もう一度倒れそうになった身体を懸命に支えた。
 まだ頭がふらふらして、思考が覚束なかった。
 両手で頬を張り、意識をしっかり取り戻すと、もう一度呟いた。
「鋼造様……」
 返って来るのは、静寂のみ。
 どこかに誰かが隠れているなどということもなく、部屋にはウィンフィールドがひとりきりで立ち尽くしているだけであった。
 彼はズレていた眼鏡をクイッ、と直してから、首を傾げた。
「夢……まさか」
 自分が仕事中に寝てしまうなど考えられない。三日三晩、不眠不休でコカトリスの群を狩った経験もある身だ。
 だが、あのときはずっと目を閉じていなければならなかったので、二重に大変であった……。
 と、それはどうでもよい。
「いや、しかし……」
 記憶が曖昧模糊として、さっきまでのことさえ、よく思い出せない。
 朦朧とした白昼夢。
 胡乱な悪夢。
 けれど、最後に感じた希望は……
「はあ、疲れているのでしょうか」
 思わずため息をついた。ここのところ、覇道家は今までとはまったく違った種類の難業が発生し、どこもかしこが働き詰め、右往左往、サボリが発覚したら減給といった有り様で、現当主の瑠璃に負担を集中させたくない一心で、誰よりも進んで雑事をこなすウィンフィールドの疲労は実のところ、かなり蓄積されていた。本人はまだまだ大丈夫、と軽く見て自らをしごき続けたが、その仕事量たるや幻覚や幻聴が一ダースどころか一個師団となって襲い掛かってきてもおかしくはないほどであった。
「やれやれ、もう若くはないってことですかね」
 その頬に、そよそよと生温い風が触れた。鼻腔をくすぐる爽やかな香り。
「ん……?」
 見ると、観音開きの窓が大きく開け放されている。
 なぜ、窓が……?
 訝りながら近づいていった。
 とりあえず閉めようと、手を伸ばし──ハッとした。

「あ!」

 門を潜って覇道邸に向かってくるふたりの姿が見えた。
 探偵・大十字九郎と、その連れであるアル・アジフ。
 いつもと同じように、微笑ましくどつき漫才を繰り広げている。
 ふたりの叫び声まで聞こえてきそうだ……
「ええい、もう二度と飯なぞつくってやるものか!」
「応っ、是非ともそう願いたい!!」
「ふな!?」
 ……聞こえてきた。
「ふふ」
 あまりの微笑ましさに、声を出して笑ってしまう。
 自分の青春時代と少しも重ならないように見えるが、大十字九郎──彼の姿を見ていると無性に懐かしく、親しみを感じてしまうのだった。
 わたしとはまったく違う人なのに……なぜだか他人とは思えません。
「おっと、こうしてはいられませんね」
 軋む窓をなるべく静かに閉めると、ウィンフィールドは部屋を出た。
 来客の報を伝えるため、当主の間へと向かう。その足取りは軽く、すいすいと低空を滑空しているようであった。見るからに摩擦係数が低そうなその歩行術は、彼以外の人間にはワイヤー・アクションでも駆使しなければ実現できそうになかった。
 途中。
 廊下の壁に掛けられた前当主・覇道鋼造の肖像画を前に、ふと足を止めた。
 無意識にピッ、と姿勢を正す。
 ネクタイが曲がってないかどうかもチェック。
 最後にさっき直したばかりの眼鏡の位置をもう一度修正した。
 一連の動作を終えると、顔をしっかり上げた。
 厳ついながらも柔和な雰囲気を醸し出す顔貌が視線を迎えた。
 不確かな明日を見つめる、確かな意志を持った瞳。
 しかしそれが、同時に深い悲しみと諦観を潜ませているようにも見える。
 仰ぎ見る彼に謝意を示すかのようでもある。
 ウィンフィールドは眩しそうに目を細めた。
「わたしはまだ、探し続けますよ……『強さ』の意味を」


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