「三大奇書? 四大奇書? 五大奇書? いったい何大あるんだい!/〇大奇書論」(2025年10月19日の記事)


・俗に『黒死館殺人事件』、『ドグラ・マグラ』、『虚無への供物』を「三大奇書」と呼びますが、これに何かを加えて「四大奇書」とか「五大奇書」にする試みがたまにある。大抵は定着しないですぐに忘れ去られるが、少し前に出た「海猫沢めろん」の『ディスクロニアの鳩時計』が「新たなる奇書」と称しているので「そういえば過去にはどんな奇書があったっけなぁ」と記憶をほじくってみる。

 一番有名なのは「竹本健治」の『匣の中の失楽』でしょう。登場人物は一緒だけど奇数章と偶数章で別々の物語が進行し、「奇数章にとっては偶数章が作中作(フィクション)で、偶数章にとっては奇数章が作中作(フィクション)」という読んでて頭がこんがらがる騙し絵めいた複雑な構成。これを「第四の奇書」と見做す向きがある一方、認めない派閥も結構あるので『匣の中の失楽』以降の諸作を指すときはたとえ同じ作品でも人によって「第四の奇書」だったり「第五の奇書」だったりするのがややこしい。『イニシエーション・ラブ』の「乾くるみ」がオマージュとして書いた『匣の中』を奇書として認定する場合、「『匣の中の失楽』が第四の奇書」ってのは大前提になりますが。

 「第四か第五か問題」を厳密に考えていくと面倒臭くなるので、話を簡単にするため「『匣の中の失楽』は第四の奇書」という立場を取ることにします。「奇書」の明確な定義は難しいが、大雑把に書けば「本格というより変格であり、過度に装飾的(デコラティブ)で衒学的(ペダンティック)、『ミステリとはこうあるべき』という常識や様式美を粉々に破壊する超(メタ)ミステリないし反(アンチ)ミステリ」。もっと要約すると「読んでいて頭がクラクラするような、晦渋で中二心をくすぐられる重厚かつ難解なミステリ」。一度目を通しただけではスッと喉越し良く嚥下できず、何度も反芻や再読を強いられる消化に悪いヤツです。作者自ら宣言したか出版社が勝手に宣伝文句として付けたかはともかく、「奇書」と名乗る作品は90年代頃から現れ始めます。主にミステリ界隈で流行った用語なので、ミステリじゃない作品にはあまり適用されない。『家畜人ヤプー』あたりも奇書っちゃ奇書ですけど、「第〇の奇書」みたいな文脈で語られることはほとんどありません。そもそも「三大奇書」という分類が提唱されたのは70年代末であり、『匣の中の失楽』を巡る論争の中で生まれた概念(※参考)ですから、『匣の中の失楽』以前に「第四の奇書」を名乗る作品は存在しえない。遡及的に第四認定するケースもなくはないが、この際無視するとします。ミステリ界隈の用語として普及していくのも90年代以降であり、80年代は「奇書」というフレーズに宣伝文句としての価値がなかったため、やはり80年代にも「奇書を名乗る本」は存在しえません。なお「奇書」という言い回し自体は中国、「清」の時代に生み出されたものとされており、この場合の「奇」は「唯一無二(ユニーク)」という意味でどちらかと言えば誉め言葉のニュアンスが強い。それが日本に入ってきてからだんだん「怪しい」「イカれた」「イッてる」という誉めてるのか貶しているのか判然としない微妙なニュアンスに変質していった。70年代には『世界の奇書』というガイドブックも刊行されています。

 私の記憶で一番古いのは「麻耶雄嵩」の『夏と冬の奏鳴曲(ソナタ)』、リンク先は「新装改訂版」ですがオリジナルは講談社ノベルスより1993年刊行。正確には「奇書」じゃなくて「奇蹟の書」が売り文句だったかな。著者のデビュー作『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』で登場してすぐに死んだ銘探偵「メルカトル鮎」が再登場するミステリであり、メルカトル鮎が生きている以上『翼ある闇』よりは前のエピソードに当たります。主人公は「如月烏有(きさらぎ・うゆう)」という青年、彼は「和音島」と呼ばれる孤島へ赴き、キュビズムに則って建てられた異様な館に滞在することになる。20年前にたった一本の主演映画を遺して夭折した女優「真宮和音」を偲ぶこの島で、「真夏に雪が降り積もり、雪に一つも足跡が残されていない場所で首なし屍体が発見される」という怪事件が発生する……思い入れの強い小説なので以下ネタバレ気味に語ります。この作品は「解決編」がなく、様々な謎とそれを解く手掛かりをバラ撒いた後で思わせぶりな幕切れを迎える。真宮和音が唯一「主演」した映画のタイトルが『春と秋の奏鳴曲』なんですが、その内容は如月烏有とヒロイン「舞奈桐璃」の境遇そのもので、烏有は何が現実で何が虚構なのか次第にわからなくなっていく。殺人事件が発生するけどそれが主眼なのではなく、主人公の内面を掘り下げながら謎を追っていく異様なスタイル。詳しくない人が読めば「90年代だし、EVAの影響を受けているのか?」と錯覚しそうになるが、本書が発売されたのはエヴァンゲリオンが放送されるよりも前です。

 解決編はないけど全ての謎を投げっぱなしにするわけではなく、雪密室トリックなどある程度の謎の真相については明かされる。ただ、和音島は一種の異界と化しており、そこでは「現世のロジック」ではなくキュビズムじみた「異界のロジック」が働く――という事実をまず受け止めなければならない。逆説的な書き方になりますが、この作品は「異界のロジック」を成立させるために「解決編がないミステリ」という異界をわざと作っているのです。「『異界のロジックを前提にした謎解き』のためにあえて解決編を放棄して異界を作る」というシュールなコンセプトはあまりにも時代を先取りし過ぎていて賛否両論真っ二つとなりました。島の崇拝対象である「和音」は恐らくコラージュめいた手法で作り上げられた偶像であり人間としては実在しないと予想される(同名の人物は存在するものの、「名前が同じ」だけで容姿は全然別だ)が、当時は「こんな継ぎ接ぎだらけの虚像を20年以上も崇拝するなんてリアリティがない」と批判されたものでした。けど、今なら「真宮和音は初音ミクみたいなもの」とイメージすることができる。初音ミクの声は声優である「藤田咲」のボイスをサンプリングしたものであるがユーザーのほとんどは「初音ミク≠藤田咲」と認識しているし、オリジナルのイラストは「KEI」が担当しているけどKEI以外の描いたミクのイラストを「偽物」とか「単なる二次創作」と捉えているわけじゃない。「初音ミクのコスプレ」も流行り廃りを越えてもはや一つのジャンルにまで昇華した。初音ミクに人格はなく「キャラ」さえも曖昧、「本物」が実在しないのに偶像(記号)として強固に成立している。現代の読者には「初音ミクの信者たちが20年も集団生活を送っている島で起こる事件」「ヒロインの容貌は『コスプレか?』と疑うくらい初音ミクの肖像画にそっくりだった」と喩えた方が飲み込みやすいかもしれない。本当にクラクラするような内容で、私は「一生麻耶雄嵩に付いて行く!」と誓いましたわ。ちなみに烏有さんはその後の作品にも登場するが、『痾』という長編で記憶喪失になっており、『夏と冬の奏鳴曲』の出来事はすっかり忘れている。余談ながら作者の麻耶雄嵩は解決編を書いていないだけで「自分なりの解決編」は考えていたらしいが、20年くらい経ってその内容をすっかり忘れてしまったとか。『夏と冬の奏鳴曲』の考察はかつて新本格好きにとっては常識レベルで、90年代頃はスゴい数の考察サイトが存在していたけど、もうほとんどが現存していない。ジオシティーズの消滅がイタかった。それでも検索すればまだいくつかヒットするんで、読んで「ワケがわからないよ!」となった人はそっちにGO。

 その次が「篠田秀幸」の『蝶たちの迷宮』、リンク先はハルキ文庫版ですが元は講談社ノベルス作品で1994年に発行されています。「犯人は探偵であり、証人であり、被害者であり、作者であり、そして読者でもある」と謳った、『虚無への供物』や『匣の中の失楽』に露骨なほど影響を受けた一作。竹本健治も「人工の狂気をうちたてる殉教的な情熱」というわかるようなわからないような推薦文を寄せている。読んだはずなんだけど、内容をまったく覚えていない……あらすじ読んでも全然思い出せない。とにかく「面白くなかった」「クラクラするというよりはゲンナリする内容だった」ことは印象に残っている。とても再チャレンジする気が湧かない。高評価を得られず、世間的にもほぼ黙殺された。でもまったく売れなかったわけではなく、確か増刷もされていたと思う。この翌月に京極夏彦が『姑獲鳥の夏』でデビューしており、「異様なミステリ」という意味で『蝶たちの迷宮』と『姑獲鳥の夏』を並べて論じる風潮も一時期あった。京極夏彦がどんどんメジャーになっていくのに対して篠田秀幸はマイナー街道を一直線にひた走っていった(一発屋ではなく、その後も10冊くらい著書を出している)から、今は両者を比較する人もいません。

 次、「清涼院流水」の『ジョーカー 旧約探偵神話』。リンク先は星海社FICTIONSの新装版ですがこれもオリジナルは講談社ノベルスで1997年刊行。「匣の中の物語は幻魔作用(ドグラ・マグラ)を失い、世界は暗黒の死の館から、めくるめく虚無の彼方へと飛翔する」と裏表紙に書かれており、明確に「第五の奇書」と宣言している。前作の『コズミック 世紀末探偵神話』も相当な奇書ではあったが、『ジョーカー』は輪をかけて好き勝手やってる。登場人物表に「◎=かなり怪しい。犯人かも?」「×=もし当たりなら、意外な犯人」と作者自らコメントするなど、「商業出版でここまでやるか!」と叫びたくなる悪ふざけのオンパレードで、ある意味スゴい。コレとコズミックがあったからこそ西尾維新もある(デビュー前に読んだおかげで「ここまでやっていいんだ」と開き直ることができた)わけで、「なかったこと」にはできない本だ。でも個人的には読み終わって達成感よりも徒労感を覚える一冊だった。無限に等しい暇さえあればもう一度読んでもいいと思っている。

 「山口雅也」の『奇偶』も「『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』『虚無への供物』『匣の中の失楽』日本推理小説界の4大奇書に連なる第5の奇書!」と喧伝された作品です。元は“メフィスト”という雑誌に連載されていた作品で、2002年にハードカバーで出版された後、2005年に講談社ノベルス版が刊行されている。ノベルス版には「《黒い水脈》=四大奇書に連なる第五の奇書!」となかなかカッコいい惹句が踊っている。「黒い水脈(みお)」は中井英夫が『黒死館殺人事件』について語ったエッセイに書かれていた言葉。なぜかネットでは「埴谷雄高」が言ったことになっているが……どうも「笠井潔」が記憶違いで言及した結果、誤解が広まったっぽい。さておき『奇偶』、一瞬「奇遇ですな」の「奇遇」に見えるかもしれないが「奇数と偶数」の「奇偶」です。「奇妙な偶然」という原則として本格ミステリからは排除されるべき要素を取り込んだ長編であり、作者である山口雅也が実際に体験した「片眼失明」というショッキングな出来事と折り合いを付けるために執筆した自己回復書でもある。40代のときに片目の視力を失った山口雅也は当初まともにタイピングもできず、「作家として終わったんじゃないか」と絶望しかけたそうだ。なんだかんだ適応して現在も仕事を続けている。衒学趣味に溢れていてこれもなかなかクラクラする本です。

 「古野まほろ」のデビュー作『天帝のはしたなき果実』、リンク先は改稿した幻冬舎文庫版ですがオリジナルは2007年刊行の講談社ノベルス版。華族や軍隊が制度として残っているパラレルな「日本帝国」の1990年代を舞台に、連続殺人が発生して学生たちが推理合戦を繰り広げる。タイトルは中井英夫の言葉「小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない」から来ており、『虚無への供物』の影響を受けていることは確定的に明らか。出版社の売り文句としてではなく作者自身が《黒い水脈》に連なることを目指して書いた本であるが、とにかく読みにくくて疲弊する。「奇書は読みやすくあるな、キレイであるな、心地良くあるな」と言わんばかりにマイナスに飛び込んでおり、読破すると寿命が減った気分になります。ややネタバレになるが、最後の方は伝奇展開に突入するので「読みにくさ」に我慢できるのであればライトノベル読者にもオススメです。

 「舞城王太郎」の『ディスコ探偵水曜日』は上下合わせて1000ページ、文庫版だと上中下の3分冊で1500ページ近くという舞城作品最大規模のボリュームを誇る小説です。これに関しては出版社が「第五の奇書」と銘打ったのではなく評論家の「千街晶之」がガイドブックで「第五の奇書」と認定したパターンです。そろそろ気付いた方もおられるでしょうが、「奇書」が売り文句になると考えている出版社は講談社くらいで、他のところはあんまり好んで使わないんですよね。「ディスコ・ウェンズデイ」と名乗る迷子捜し専門の探偵が一人称で語る形式となっていますが、とにかく勢い任せに喋っているため語りの内容をどの程度信じていいのか戸惑う内容になっています。名前自体、本名なのか偽名なのかよくわからないまま進む。事情があって引き取った6歳の日本人少女「梢」の体がいきなり17歳くらいに成長しては元に戻るという怪現象が頻発し、このまま放置しておくわけにもいかないからと原因の追究を始める。「特異な館」とか「連続殺人」といったミステリ的意匠は施されているものの、時空を超越するディスコが梢の異変の元凶たる「悪」と対峙する「インフレしまくった異能バトル」みたいになっていきます。『ディスコ探偵水曜日』を読んでると、舞城王太郎がシリーズ構成と脚本を担当したアニメ『ID:INVADED イド:インヴェイデッド』はまだわかりやすい方だったんだな、と再認識する。舞城王太郎は「…(三点リーダー)」を2回続けて打つとか、「!」や「?」の後には空白を一字置くとか、そういった文章作法は守らないんですが「語りの流暢さ」が図抜けていて多少意味のわからない箇所でもスルスルと読めてしまう。奇書と呼ばれる作品は大なり小なり読みにくさがあるのですけれど、これに関しては例外。なので「スゴいけど《黒い水脈》に連なる作品ではない」と奇書認定に否定的な意見もあり、どちらかと言えば私もそっち寄りです。

 奇書候補の中で比較的新しい(と言ってももう15年前になるが)作品は「芦辺拓」の『綺想宮殺人事件』。帯には「『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』『虚無への供物』に続く世紀の<奇書>、ついに降臨」とあり、珍しく『匣の中の失楽』を「第四の奇書」としてカウントしていない。それもそのはず、『綺想宮殺人事件』の版元は「東京創元社」で過去に『黒死館殺人事件』や『ドグラ・マグラ』や『虚無への供物』を出したことはあっても『匣の中の失楽』を出版したことはなく、「わざわざ他社の本をカウントする必要はない」という立場を取っています。「森江春策」というシリーズ探偵の、長編としては13番目に当たる作品です。短編集も含めると18冊目くらいかな? 「数式」がテーマになっており、プロローグで「かくして一般相対性理論が立証された」と書いた後に「こうして地球空洞説は科学的に実証された」と述べ、「こうして地球は球体でもむろん空洞でもなく、平面であることが立証された」と綴る……読んでて「ん? んんっ?」ってなる文章が続く。《黒い水脈》の中では『黒死館殺人事件』に影響されているタイプの奇書で、途方もない与太話を聞かされているような気分に陥ると申しますか、読んでいて宇宙猫になること必至の一冊です。作者自ら「最後の探偵小説、あるいは探偵小説の最期」と宣言しているだけあってバキバキに極まっており、極まり過ぎているせいで発売から15年経ってもなお文庫化も電子化もされていない。本編の内容に反してあとがきは飾ることなく「中二病」とざっくばらんに語っていて、当初のタイトルが『第五奇書殺人事件』だったことも明かしている。つまり帯文で『匣の中の失楽』を外しているのは本当に東京創元社側の都合だったのだ。芦辺拓は「アンチ・ミステリ」が「最も嫌いな言葉」らしいが、本書は立派なアンチミステリと言っていいでしょう。

 「神世希」の『神戯』はミステリというよりハルヒなどのラノベに近いノリで、奇書扱いすることに違和感を覚えるかもしれないが、一応「選考委員が『虚無への供物』や『匣の中の失楽』に匹敵する奇書と評した」という逸話があるので挙げてみました。講談社BOXがあのクソダサいデザインを何とかしようと試行錯誤していた時期の作品で、大きな箱の中に500ページくらいの少し厚めの本が2冊収納されており、計1000ページの極厚作品となっている。私はもう既に手放してしまったが、とにかく幅を取るので本棚に飾っておくと異様に目立つ本でした。文体に強烈な癖があってハマる人はハマるだろうが、ほとんどの人にとっては「読みにくい」という感想になるだろう。学園モノであり、ラブコメ要素がある一方で伝奇バトルもあったりと、ごった煮ムードが凄まじい。ボリュームがボリュームだけあって仕掛けは大きく、後半は唖然とするような展開に突入します。内容もさることながら『虎よ、虎よ!』並みにタイポグラフィを駆使した文章もスゴいというか、これのせいで電子化は難しいだろうな……翌年に『未来方程式』という続編も刊行され、出来は悪くなかったのだがあまり売れなかったらしく、じきに「消えた作家」となりました。ちょうど入れ替わるような形で出てきた新人が「浅倉秋成」なんで、浅倉秋成の活躍を目にするたび神世希を思い出してしんみりしてしまいます。

 以上。おわかりいただけただろうか? 列挙した作品のほとんどが講談社刊行物であり、何なら『黒死館殺人事件』も『ドグラ・マグラ』も『虚無への供物』も『匣の中の失楽』も全部講談社文庫版が出ている。つまり「〇大奇書」というフレーズ自体、講談社が宣伝戦略の一環として流行らせたようなもんなんです。こんな記事を書いている私もまた、講談社の掌の上で転がされているに過ぎない。

 あと、奇書に該当するかどうかは微妙なところながら、笠井潔の“天啓”三部作も「奇」度は高いです。雑誌連載を経て1996年に単行本が出た『天啓の宴』に始まり、1998年に単行本化した『天啓の器』、そして2004年に連載が終わった『天啓の虚』で完結した……はずなのですが、20年以上経っても単行本が発売されない。『宴』や『器』は私が10代の頃、青春真っ盛りの時期に遭遇した作品なんですが、まさか40超えたオッサンになってもまだ『虚』を待ち続けるハメになるとは思わなんだ。

 内容としてはメタ・ミステリです。1989年、新人作家「天童直己」はデビュー後の第二作が書けずに苦しんでいた。そんな彼に編集者の「三笠桂輔」は『天啓の宴』という小説の存在を知らせる。5年前、新人賞に応募されて受賞が内定したものの、「作者」が辞退したせいで刊行されなかった幻の作品。作者を名乗る女性は選考委員の手に渡った原稿のコピーまで回収していくという念の入れようで、読んだ者は口を揃えて「傑作だった」と言うが誰の手元にも原稿は残っていなかった。やがて原稿を回収していった女性は惨殺死体となって発見されたが、現場に『天啓の宴』は残されていなかった……という具合に、血塗られた呪物『天啓の宴』を巡ってストーリーが展開していきます。「三島由紀夫の自決」をフックに「作者の死」について論じており、笠井潔の過去作『梟の巨なる黄昏』や『黄昏の館』ともリンクしているが、関連作は別に読まなくてもいい。『天啓の宴』は作品のタイトルでもあり作中作のタイトルでもあるが、「作中作としての『天啓の宴』」も「『天啓の宴』という作中作を追う話」になっており、マトリョーシカじみた入れ子構造で頭がクラクラする。ザッと流し読みしただけではわからない、という点では相当奇書いのだが、物語構造を無視して殺人事件の部分だけ着目すると案外地味なんですよね……面白いけど《黒い水脈》に連なる作品ではないと思います。

 続編の『天啓の器』は『虚無への供物』を巡る物語。『虚無への供物』はもともと江戸川乱歩賞に応募された作品であり、最終候補まで残って落選した後、前半部分しかなかった原稿に後半部分を書き足して出版された。当初のペンネームは「塔晶夫」だったが、途中で現在よく知られている名義「中井英夫」(本名)に変更されている。誰も「塔晶夫=中井英夫」と信じて疑わないが、もし「塔晶夫≠中井英夫」だとしたら……? という着想に基づいて書かれた長編。さすがにそのまんまではマズいからか、『虚無への供物』ではなく『ザ・ヒヌマ・マーダー』というタイトルになっている。『虚無への供物』は「氷沼家」を襲う悲劇の数々を描いており、「ザ・ヒヌマ・マーダー」は章題の一つでもあります。続編ということになっているが、『天啓の宴』とはノリがだいぶ違うので戸惑うかもしれません。そもそも“天啓”三部作は『匣の中の失楽』の作者「竹本健治」が書いたメタ・ミステリ『ウロボロスの偽書』へのアンサーとして始まったシリーズであり、天童直己のモデルも竹本健治です。『天啓の宴』自体は『ウロボロスの偽書』を読んでいなくても一応内容が理解できる仕組みになっていますが、『天啓の器』は完全に『ウロボロスの偽書』および『ウロボロスの基礎論』を読んでいることが前提になっているし、『虚無への供物』の内容や「中井英夫の旧ペンネームは塔晶夫だった」という予備知識がないと何が何だかわかりません。発想そのものは面白いのだが、クラクラというよりはグダグダなストーリーで、そのグダグダっぷりも含めて個人的には好きな一冊ながら人には薦めにくい。

 “天啓”三部作の完結編に当たる『天啓の虚』は5年くらい雑誌で連載して完結したらしいのだが、単行本にまとまっていないため私は読んだことありません。聞いたところによると『虚』はこれまでと違って天童直己がメインではなく、サブキャラというか名前がちょこちょこ出ていた「宗像冬樹」――要するに笠井潔本人を投影した作家がメインになっているそうです。宗像冬樹は『黄昏の館』という小説から登場しているが、この時点ではあまり「笠井潔の分身」という感じではない。『天啓の宴』では「第二作を発表することなく失踪した」先輩作家として重要な役割を果たしている。『天啓の器』にも宗像は出てくるが、『天啓の器』は「笠井潔と竹本健治のふたりをあえて『天啓の宴』のキャラの名前で呼ぶ」というややこしい趣向になっており、『宴』の宗像と『器』の宗像は別人なんです。『虚』連載中に別の雑誌で連載をスタートさせた『青銅の悲劇 瀕死の王』にも宗像冬樹は登場する。プロフィール的にほぼ「笠井潔の分身」と化していますが、独身設定なので完全に一致するわけじゃない(本物の笠井潔は舞台となったこの時代、とっくに息子が生まれている)。『虚』は読んでないからわかりませんが、宗像冬樹というキャラクター、実際は「名前が一緒」というだけで設定的には全部パラレルというか別人の可能性が高いんだよな……『黄昏の館』では『昏い天使』という小説でデビューした後、第二作として予告した『黄昏の館』が書けずに懊悩している。『天啓の宴』も『昏い天使』でデビューした点は一緒だが、『黄昏の館』がまったく出て来ない。『天啓の器』は先述したように笠井潔が「宗像」と名乗っているだけで宗像冬樹じゃない(普通に息子もいる)。『青銅の悲劇 瀕死の王』では『昏い天使』含む探偵小説を3冊出した後に『鬼道伝』というファンタジー(恐らく『ヴァンパイヤー戦争』がモデル)を執筆してヒットした設定になっており、プロフィールが『黄昏の館』や『天啓の宴』と明らかに違います。

 『天啓の宴』で「マルセル・プルーストは『失われた時を求めて』を一応完成させた後で死ぬまで推敲していた、そのため推敲が終わった箇所と終わらなかった箇所で歴然とクオリティが違う」みたいなこと書いてましたけど、『天啓の虚』も「死ぬまで推敲」のコースに入っちゃったのかな……優先順位的に矢吹駆(フランス篇)>矢吹駆(日本篇)>その他みたいだから、少なくとも向こう10年は出そうにない雰囲気です。

(2026年3月5日 追記)

 新たに「奇書」をテーマにした『ナッハツェーラーの城 或いは最後の〈奇書〉』が出る模様。3月24日発売予定、要チェック。


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