アップル・オブ・ソドム
失認。
僕の陥った苦境はそんな素っ気ない一言で表すこともできる。
閉じていた瞼を上げて光を受容し、景色を解釈したとき、すべての意味が塗り替えられた。
人間が人間に見えない。
音が濁って聞こえる。
味も、匂いも、今まで受け入れていたはずのものが耐えられなくなる。
生活が根底から覆されて、まったく新しい環境に適応することを余儀なくされた。
言ってみれば地獄に落とされたのだ。
一切の希望を捨てる暇もなく。タンクローリーの横転に巻き込まれ、押し潰され、死に瀕したときの記憶は失われている。あのときのことを僕は何も覚えていない。父と母が死んだ瞬間を認識することができず、そのまま入院生活で葬儀にも出れなかったから、未だに両親の死はどこか遠く感じられてしまう。
僕にとっての確かな実感を伴った記憶は、何も見えない暗闇の中で過ごした入院初期。
目を開けて「地獄」に気づいてしまってからの日々。
そして、沙耶という救いを見出してからの暮らし――沙耶。
彼女の存在だけが、死へと逸る気持ちを慰めてくれた。迷いに多かった十代にさえ、僕は真剣に自殺というものを考えたことはなかった。所詮、あの頃に煩わされていた悩みは可愛い障害ばかりだったんだろう。
事故か、あるいは手術の後遺症として、僕は意識を取り戻しても目が見えないままだった。
暗闇の中で医師や看護婦から話を聞き、自分が事故で瀕死の重傷を負い、特殊な脳手術を受けたと知った。両親の死も付随して聞かされたが、実感は湧かず、ただぼんやりと視覚が回復することを祈っていた。
人間はあらゆる認識を視覚に頼っている。かつてない暗闇に置かれた僕は、視界の回復がそのままリアリティを取り戻すことに繋がると信じていた。
目を開け、病室の風景が赤い臓物まみれにしか見えなかったとき、思考が固まった。何かの間違いだと思って、神経質にまばたきを繰り返した。
眼前に居座る黄土色の肉塊が、おぞましい声で――しかし、辛うじて意味の汲み取れる人語を発したとき。僕は一瞬狂った。
それが――どこからどう見ても化け物にしか映らないそれが、紛れもない人間だと理解してしまったからこそ、僕の理性はパンクした。
ほんの一瞬だけ。
幸い、失明の間にインプットしていた情報のおかげで錯乱はすぐにやんだ。一瞬の狂気に取り憑かれた僕は、遅れてやってきた理性によって事態を悟った。変質したのは物体ではなく、僕の認識そのものだと。事故か手術か、どちらかの後遺症が覚めたままの悪夢を見せているのだと。
今思えば、あの「一瞬の狂気」で僕は変質してしまったのかもしれない。
修復した理性は、元の僕に根差していた理性とは形が異なっていたのかもしれない。
あの時点で、僕はもう人間として在るための「何か」を失っていた。それで、そうだ。沙耶の話だった。
彼女は夜、こっそりと僕の枕元に忍び寄ってきた。
死ぬこと以外に何も考えることができず、眠れずにベッドに横たわっていた僕はすぐに気づくことができた。
彼女の気配。
彼女の足音。
彼女の匂い。
僕の視界にゆっくりと彼女の姿が侵入し、微かな笑みを浮かべて顔が映って。
信じられなかった。
夢を見ている気分だった。
僕は――恋に落ちた。
自覚はなかったけれど、何もかもがすべてそのときに始まっていた。人間が汚らしい色合いの肉塊にしか見えない僕にも、沙耶だけは普通の少女として認識することができた。
白いワンピースと、奇妙な髪型と、どこかソリッドな表情。
愛らしさの中に、踏み込んではいけない妖しさが潜んでいた。
手を伸ばせば煙となって消えてしまう林檎の話がある。
彼女の場合は逆だ。
伸ばした手の方が消えてしまいそうな、恐ろしい雰囲気。
見つめてはいけない深遠。
それでも。
それでも僕は。
彼女と言葉を交わし、彼女の存在に縋ること以外、術がなかった。
僕の認識の中で絶滅しかけていた「人間」という概念を、確かなものとして繋ぎ止めてくれるのは彼女だけだったから。そうして、道を踏み外した。
あのとき。座り込んだ僕の傍らには、バラバラに分断された肉塊が転がっていた。
人間の死体だった。僕にはそう見えなかったけれど、かつて隣人だった鈴見さんのなれの果てが、あれだったらしい。
爛れた肉の破片――おぞましいのに、なぜか「美味しそう」と。僕の認識が囁いていた。
思わず目を背ける。
向けた先は沙耶。
服を失い、白い裸身を晒した彼女が濡れる瞳で僕を見つめていた。
僕の決断を促すように。
僕の決断を恐れるように。
この少し前に、沙耶は僕の病を治せると断言した。「人間には不可能な」手続きを、自分なら行うことができると請け負った。
鈴見さん――怒りに駆られて僕によって刺し殺された彼──は、その手続きを探るためのモルモットのようだった。彼に、「人間が人間に見えなくなる」手術を施し、僕と同じ状態にすることができたから、今度は逆をやれば僕を治すことも可能だと、つまりはそう言っていた。
僕は決断を迫られた。
元の生活を望むか、今のままを受け容れるか。
二つに一つを。人間はここぞというときの選択に限って誤ってしまう。
軽い気持ちで口にした言葉が、取り返しのつかない事態を招く。
戻れるものなら戻りたい、と。
言ってはみたものの、そこに大した意味はなかった。
思考を経由せず、ただ反射的に返答した──
一種の軽口だった。
沙耶が悲しそうな表情を見せて、この軽率さを恨みたくなった。
「当り前だよね」と諦めを込めた口調で呟く彼女に、取り消しの言葉をかけようとして口を塞がれた。
甘いキス。
味わう時間もなく、意識が薄れていった。
「おやすみなさい、郁紀」
眠りを強要する声。
柔らかく、でも、後悔を許そうとしない決然たる響き。
受け容れれば全部楽になる、って。
分かっていながら、抗いたかった。
僕は、シリカゲルに表示された「たべられません」の表示を無視して、破って口に入れてしまうような子供だったんだ。
笑ってしまうだろう?どうしても失いたくない存在に気づいたんだ。
楽になることよりも、ずっと大切なもの。
気づいた以上、奪われるわけにはいかない。
食べられない林檎だと言われても、諦めることはできない。守るということは戦うということ。
武器は掌に収まっている。
鈴見さんを刺した包丁。まだ手放さず、握っていた。血が乾いて半ば手に張り付いている。
それを力いっぱい振って、ふくらはぎを刺した。
もちろん自分のだ。
面白いくらいに、迷いはなかった。
肉を裂き、ゴリリと硬い骨に当たる感触が手に伝わる。
焼けるような痛みとともに視界が晴れる。赤黒く、僅かに蠕動する刃の先端が、自分の体内に入り込んでいる光景がよく見えた。
「郁紀、何を……!?」
遠くへ消えかけた声が戻ってくる。
顔を上げ、認識し、声の根源を捉える。
ああ、後はこれを掴むだけだ──
包丁を捨て、両手を伸ばす。
苛立たしいくらいの時間を使って、やっと沙耶の肩に触れた。
彼女も少し震えていた。
温かい裸身を抱き寄せる。
「沙耶。ごめん──あれは、間違いだ」
途切れそうになる意識をギリギリで保った。
声が掠れる。
「僕は君を失えない──君を失った世界を、どんな形であれ、見ていたく、ない──」
「でも、郁紀は人間なんだよ? 今まで見てきたもの、耳にしてきたもの、味わったもの、触れたもの、一緒に過ごしてきた仲間が懐かしくないなんて──取り戻したくないなんてわけ、ないよね?」
「──懐かしさはいくらでも埋め合わせが利く。僕は何もかも忘れたわけじゃない。記憶がある。それで──足りる。仲間も、もういらない」
どんどんと力が抜けていく。口を動かすのが億劫になって、言葉が淀む。
「沙、耶──君は、君だけは──記憶じゃ足りない。どんなものとも交換、できない」
「もういいから……郁紀、もういいよ」
沙耶は涙をこぼしていたかもしれない。
よく分からない。
「何も取り戻せ、なくていい──君を、失い、さえしなければ……!」大事なのは証明。
思い知らさなくてはならない。
沙耶に、沙耶の存在価値を。
僕にとっての意味を。
そのために払うべき犠牲は、いくらでも許される。沙耶を抱く手をほどいた。
「郁紀……?」
離れた温もりを不安がる声。
彼女の頬に触れたい、彼女の髪を撫でたい。
そんな思いを押し殺し、肘を曲げる。
震える指先を瞼の下に差し入れて。
硬い眼球を、押し潰していく。
「な──郁紀、やめ……!」
腕に熱が縋りつく。愚かな行為をやめさせようと、強い力が掛かる。
静止なんか聞いてあげない。
力に、力で抵抗する。
「手出し、するな──君はそこで見ていろ、沙耶」
ずぶり、と粘着質な音と一緒に視界が白く弾ける。
もはや激痛という範疇さえ超えた刺激が脳を貫いて、何も分からなくなった。
沙耶の言葉が解釈不能の音となって耳をつんざく。
それでもまだ、指で眼窩を抉り続ける。
いや──指先が眼窩に入っているのかどうかもさっぱり感じ取れない。
何も見えない。
ホワイトアウトでもなく。
ブラックアウトでもなく。
万華鏡に閉じ込められたような、キラキラとした極彩色の混乱が感覚を支配していた。僕は「春琴抄」に出てくる佐助という少年の気持ちが分からない。
彼がなぜ目を潰したのか、説明されても理解することができなかった。
時代以上の何かが、僕と彼の感覚を隔てていた。
勝手に幸せになればいいと思った。
彼に感情移入なんて、少しもしたことがない。
それでも僕は。
沙耶の姿を脳裏の奥に仕舞い込み、一切の光を失うこの方策を、敢えて取った。
一切の希望を捨て損ねたまま地獄の門を潜った身だ。
案外、相応しい選択だったかもしれない。その後のことは混乱していてよく覚えていない。
事故のときと同じように。
沙耶によれば、うわ言みたいに「舌も、鼓膜も、鼻も、奪いたければ奪ってくれ」と呟いていたという話だ。目覚めたとき、沙耶は泣いていた。
──率直に言って、沙耶の本当の姿がどんなふうか、ずっと前から想像がついていた。
人間が化け物に見えて、美しいはずの景色が爛れた地獄に見えるなら。
美しい少女の格好をした沙耶は、きっと──って。
そう、考えた。
要はすべて逆さまだったんだと。
沙耶に見るべき姿を、かつての友人たちに見ていたのだ。
もし僕が元に戻ったとしたら、沙耶は僕にとって──化け物に見えてしまう。
それくらい百も承知だったのに。
うっかり気が抜けて、僕は軽率な言葉を漏らしてしまった。
本当の姿がたとえどんなにおぞましくとも、沙耶の心は愛を欲しがる少女と変わりない。長いとも短いとも言えない間だったけど、一緒に暮らしていてその事実に気づかないわけがなかった。
だからきっと、彼女は僕に本当の姿を見られたくないと思うだろう。
僕の愛が、真実の陽の下に砕け散る様を目撃したくなくて。
恋が幻として霧散するのを惜しんで。
キレイに保存の利く形で思い出を守ろうと、僕へ別れを告げる。
それはみんな予定調和だ。
ラブロマンスの最終幕を、愚直に演じようとする。
沙耶はそんな少女だ。けど──「ラブロマンスの最終幕」と言えば聞こえがいいけど、それじゃまるで「鶴の恩返し」だろう?
何一つ恩を売っていないのに、勝手に「恩返し」されてお別れなんて、そんな展開が承服できるものか。
沙耶。もし君が鶴や天使だったらその羽根を折ってやった。天女だったら羽衣を焼き捨ててやった。どんなに汚い手を使ってでも、繋ぎ止めてやっただろう。
君に折るべき羽根がなかった以上、別の弱点を突かざるを得なかった。
ああ、僕自身の眼球だ。文字通り突いてやった。
そんなに本当の姿を見られたくないなら、見れなくすればいい。
濁った声を聞かれたくないなら、聞こえなくすればいい。
匂いが気になるなら鼻を。
感触が気になるなら肌を。
どうぞ好きにしてくれればいい。
僕は感覚の遮断を受け容れる。
だから、沙耶。
君も、僕の想いから逃げるな。
くだらないラブロマンスの法則を盾にしてこの気持ちを裏切らないでくれ。と。
そんな大時代がかった覚悟に引っ掛かり、沙耶は未だに僕から離れられないでいる。
刺した脛と、潰した目は彼女によって修復された──これは予想の範疇外だったので驚いたが、もし彼女がどうかすればまた潰してやると脅した。「そうしたらまた治してあげるよ」と笑って返された。
そんなこんなで、沙耶の「手術」は無期延期となった。世界は相変らず地獄絵図のままだ。
僕が人間として暮らしていた日々は遠い。
でも沙耶とともに寝起きし、食べ、ごろごろしながら送る毎日は幸福だ。
日を追うごとに沙耶への愛しさが募っていく。
仔猫のようにじゃれついてくる彼女を抱き締めると、艶やかな髪が優しく頬をくすぐる。
沙耶は身動ぎし、たまに鼻をすんすんと動かす。
「郁紀の匂い……」と呟いてうっとりする彼女は、仔猫というより仔犬かもしれない。
僕はお返しに緑がかった髪の中に鼻を埋め、彼女の匂いを探る。見つけ出した香りは「沙耶の匂い」と表現するのが一番しっくり来る。目をつむっていても、彼女の存在をしっかりと感じられる。
どうやら僕たち揃って犬になってしまったようだ。昼も夜も関係なく、お互いの体臭を求めて身体を擦り付け合っている。沙耶はたまに唄を口ずさむ。
僕の知らない言語と、解釈の難しい旋律。
何を歌っているのか知らないけれど、聞いていると不思議に落ち着く。
沙耶が歌うたび、僕は彼女の喉を触る。
最初は戸惑っていた沙耶も、やがて触られるがままに歌い出すようになった。
指先に伝わる震えが心地良い。
僕もいつかは、この振動を手掛かりにして彼女の唄が歌えるようになりたい。
密かに願っている。時折入る邪魔さえ、ちょうどいい刺激になった。
どこから嗅ぎつけて来たのか知らないが、死に損ないの女医がまた僕たちを襲いに来た。今度こそ殺したと思うが、あいにくはっきりとは確かめていない。先日まで住み込んでいた隠れ家ごと燃やしてしまったから、生死は不明だ。常人ならまず死んでいるだろうが、あの女医は全身ケロイドになってもまだしぶとく生き延びて追いかけてくる気がする。
それを鬱陶しく思う気持ちが半分と、娯楽として享受する気持ちが半分。
沙耶も燃え上がる廃屋を見ながら嬉しそうに、楽しそうに微笑んでいる。
「なあ、沙耶。次はどこで何をしようか?」
炎に背を向け、僕たちは歩き出す。爆ぜる音に続いて倒壊していく響きが耳朶を打つが、振り向くことはない。
「んーとね、郁紀と一緒ならどこでも楽しい気がするから、郁紀の好きにしていいよ」
「そっか。なら、良い場所を探そう。食料も確保できて、襲撃にも備えられて、暇潰しもできそうなところ──」
車に乗り込み、地図を広げる。紙一面に小さな虫が蠢いているので僕自身は読むことができないけど、助手席から身を乗り出した沙耶が一つ一つ指でさしては細かく説明してくれるので、難儀はしない。時間はかかるが、これも一つの共同作業だ。それなりに楽しい。
「──ねえ、郁紀」
不意に地図から目を離した沙耶が、じっとフロントガラスの向こうを見つめた。視線を追っても、先に広がるのは夜の闇。
「なに?」
「あの、ね。郁紀はさ──この惑星(ほし)を自分のものにしたいって、思わない?」
「思わない」
唐突な問いだったが、気負わず返した。
「えっ? 即答だね……」
「僕は沙耶さえいればそれでいいよ」
「──うん」
照れたように俯く沙耶の頭をこしこしと撫でる。
「でも、もし沙耶が欲しいって言うんなら──僕はどんなことでもするよ」
確信は静かな音色。
沙耶は言葉を噛み締めるみたいに黙っていたが、小さく頷いた。「そう。私も、郁紀がいれば充分だから──いいや」
声の温度から、彼女が何かを諦めたことを悟った。
それは彼女にとって重要なことだったのかもしれない。
けれども、僕は沙耶を失う事態が何よりも怖かったから、深くは聞かないことにする。
代わりに、犬の耳にも似たその髪をゆっくりと掻き回した。
特に意味のない行為を、くすくすと笑いながら受け容れる沙耶。
伸ばした指先が柔らかい髪に絡みついて、ほどけ、また絡みつく。
好きなだけ触れられる。
それが偽りの形としても。
彼女は灰となって消え失せる林檎なんかじゃない。飽くことなく、僕は夜明けまで沙耶の髪を弄り続けていた。