正しいハサミの使い方


 ハサミ一本でエイリアンに立ち向かえたらな。

 浅羽直之がそんなごくつまらないことを考えたのは、伊里野との別れから季節が二つほど過ぎた日のことである。切らないまま放っていた髪が伸びて鬱陶しくなり、身体を包む空気は温かくなり、目を閉じたまま歩いても肌を撫でていく風が不安を揉み消してくれる頃。
 つまりは春だった。
 浅羽は晶穂とともに進級し、水前寺は進学して園原中を去っていった。季節とともに変わる彼のテーマに振り回されつつもそれなりに楽しく幸せにやってきたふたりは、ささやかで大切な思い出がしっかり胸の底に根づいているからこそ、卒業式と前後した彼との別れに悲しんで泣くことはなかった。この上もなく楽しい奴が傍からいなくなるのは確かに寂しいことだったが、浅羽も晶穂も涙を見せず遠ざかる彼の背中をしっかりと見送った。水前寺は一つや二つどころじゃない県の境を越えて遠くの高校へ進むことを決意していた。距離と同じくらい遠い親戚に頼って高校生活を送ることになるらしい。可愛い後輩と敬える姉を置いてわざわざそんな道を選んだのは、あの夏に彼が遭遇した事態が一つの因子となっている。焦りでも怯えでもなく、淡々と現状の変化を望んだ彼は長らく親しんだ地から別の地へ移ることをあっさり決意してしまった。いや、本当に彼が「あっさり」と言えるほど気軽に即決したかどうかは浅羽たちの知るところではない。少なくとも浅羽たちの目には水前寺という一つ違いの男が何の迷いもなく「変化」を欲して行動したように映った。だから、「へえ」という締まりのない面持ちでしっかりと見送ったのだ。
 園原電波新聞部の面子がほんの半年という期間できっかり半分になってしまった事実はなんとも切なく、後に残された浅羽と晶穂は特にこれといった気概もなく惰性で部を維持し続けた。もともとそれほど活動的な部ではなくて、大半が気紛れで構成された溜まり場みたいなものだったから、いろいろなものがごそっと抜け落ちたふたりでも何とかなるにはなった。水前寺というエースにしてダークホースの部長を失ったものの、気づけば自動的に部長の座を継いでいた晶穂がテーマを練り出し取材し、暇潰しの形で浅羽が付き合ってあれこれするうちに新聞が刷り上がる、そんなフローが確立していた。
 文献を漁るために入り浸った図書館の書物臭に浅羽が慣れ切った頃、花村と西久保のバカ話を背にしてとぼとぼと足を交互に繰り出す帰り道で、自分の前髪をいじりながらふと思ったこと。それが、冒頭の一節だった。
 金属バットを振り回す根性すら満足に持ち合わせなかった自分にとって、武器として扱えるのはせいぜい握り慣れたハサミくらいだろうな、という益体もない思いが連想に次ぐ連想により綿菓子状となって「エイリアンと戦う己の姿」を脳裏に生み出してしまったのだ。
 どんな形をしているのか、そもそも形があるのかさえ分からない相手に、ハサミ。しかも理髪用。考えてみただけでもアホである。絵にしたらなおさらアホである。気が抜けることこの上なかった。
 ハサミにも刺すなり切るなり攻撃手段はいろいろあるだろうが、それが実際エリイアンなるものに利くのかどうかは甚だ疑問だった。
 いや、むしろ疑問に思うまでもなかった。
 それくらいでどうにかなる相手なら榎本も椎名もその他諸々の人たちも、あんなに必死になることはなかったのだ。単純な論理である。散髪の得意な中学生にハサミを握らせて特攻させるだけで対処可能な脅威など、誰も脅威として数えない。全世界の兵士が笑う。笑い死ぬ。あるいは怒る。憤死する。
 あの夏のエイリアンが、ハサミ一本で戦いを挑んで勝利できるような連中だったら、伊里野加奈は死を覚悟して飛翔することはなかった。そもそもそんな連中が「脅威」だったなら、兵器としての伊里野加奈は生み出されることもなく教練されることもなく、彼女の苦しみは無だったはずだ。彼女は戦いを知らない少女として育ち、たぶん浅羽とも何の接点も持たないまま日々を過ごして、どこかで幸せとも不幸せとも限らない暮らしに送っていた。きっとそうだった。
 自分が──世界中のいろんな人たちが立ち向かえない相手だったからこそ、伊里野は血を吐き身体をぼろぼろにして精神をすり減らしながら力を手に入れ力を操り、効率的で必殺的な兵器となるよう鍛え上げられた。偶然に支えられながら必然に蝕まれ、奇跡を享受することなく飛び立った。雛でも小鳥でもなく戦士として翼を得た。彼女は彼女の空を掴んだ。命懸けて。
 美しく腹立たしく悔しくて目を背けたくなる真実だった。浅羽には己の無力に絶望する余地もなく、彼女の闘争において端役でしかった。何も手伝えず何も協力できず何も分け与えられず、状況がつくり出した荷物を投げ出し彼女に負わせて最後の最後でその小さな背中を押した。彼女に戦う口実をあげてしまった。大口を開けて鳴く雛に餌を突っ込んで、巣立ちのチャンスを提供した。自分自身を絞め殺したくなる過去だった。
 どう足掻いても戦えない自分が、唯一戦える彼女を奮い立たせた。隅っこに座り込み俯く彼女の顔を上向かせ、世界のために倒すべきものを直視させた。皮肉で痛みを伴うシナリオによって、自分たちの立つ世界は、今こうしてここにある。
 それを幸福とも不幸とも決めかねる浅羽だった。

 帰宅した浅羽はベッドに腰かけ、ハサミを眺めている。銀色の細い刃が交差し、持ち手が輪っかになっている至って普通のハサミだ。何度となく手にして見慣れて見飽きているそれを、浅羽はじっと曇りなく輝きもない瞳で見つめ続けている。視線で穿孔しようとしているかのようである。
 家が理容店ということもあってか、持っているハサミは理髪用だった。本人にしてみれば部屋に置いてある小学生時代より使い続けてそろそろ手に小さくなってきた持ち手が緑色のみすぼらしいハサミよりはマシなものが欲しかっただけで、100円ショップに積まれている栓抜きやら何やらの機能が付いた二徳か三徳くらいのハサミでもあればそれで別に構わなかった。ないから代わりに多少使い慣れた理髪用のハサミを取ったまでだった。
 持ち手の輪に入れた指を動かし、互い違いの刃を開閉する。ショキッ、ショキリッと鳴る独特の響きは空気を切る音ではなく単に金属同士の擦過音で、それを知らなかった幼少時の浅羽は「ショキッ」の響きを聞くたび「あれは見えないけど空気を切っているのだ」と怖いような格好良いような気持ちになった。何より、髪を断つときの「ジョギッ」と篭った音。耳にすれば、聞き親しんだ今でも小さな興奮を覚えずにはいられない。散髪が好きなのは環境ばかりではなく、遺伝子レベルで仕込まれた「ジョギッ」への嗜好も作用してのことだろう。生まれ付いての髪切り野郎なのだと自覚する。
 これで、エイリアンを切る。
 想像しようとして、二、三分で断念した。タコの足を細かく切る映像と、いつか見た解剖フィルムが脳裏に浮かぶだけで、実際的なシミュレーションなど不可能だった。
 榎本は「真相」らしきことを教えてくれた。エリイアンとおぼしき敵がいるということ。しかしそれが具体的にどんなものであるかまでは言わなかった。彼も知っていたかどうかは大いに怪しい。たぶん情報は錯綜し、実在まで疑われるモノに対して確かなイメージを付与することなんて無理だったのだろう。どんな姿か、生き物なのか、精神はあるのか──何もかも判然としない相手に脅かされ、危機に晒された人類のごく少数であり同時に意志決定権を持つ人々が、最後の手段として伊里野を放った。エイリアンと戦っていた──少なくともその気になっていた──人類の少数派の中に、確たる敵を知ることができた者はいないのかもしれない。イメージを思い描くこともできなかった、というのが実際のところだろう。迫った危機だけが一番分かり易く、危機の向こう側にあるモノは理解するのが難しかった。迫った危機への対処に精一杯で、危機の裏側にあるモノにまで手を伸ばすことができなかった。みんなの腕は短くて真実は遠かった。そんなこんなで、伊里野はあやふやな「敵」に命を懸けなければいけなかった。
 多くの兵士は前線に立って戦い、自分の倒すべき真の敵に巡り会えぬまま、敵の末端と命の張り合いをやって、死ぬ。熟練の兵士もちょっとした偶然で怯え交じりの初年兵に突き殺され、恐慌をきたす初年兵も味方の弾に当たって死ぬ。
 伊里野は、最後の兵士となった彼女は、真の敵と巡り会えたのか。それは本当に敵だったのか。命の奪い合いを仕掛けるべき存在だったのか。和解の余地が微塵もない相手だったのか。
 ──ぼんやりと平和を享受して、今もダラダラと生きているだけの自分が発する問い。愚問でしかないのだろう。
 ショキリ、と力なく刃を閉じ、瞼を下ろした。
 真の敵に巡り会いたかった。このハサミ一本だけでもいいから、伊里野に代わって倒すべきモノの前に立ちたかった。そして断ちたかった。
 身体をベッドに投げ出す。掛け布団とマットレスの柔らかい感触に沈む。
 窓の外で、ゆっくりと落ちていく夕日。
 浅羽の願いは同年代の少年たちが抱く「分かり易い悪とか敵とかを滅ぼして悦に入りたい、優越したい、賞賛されたい」──そんな感じの英雄願望より、もっと空々しい。自殺衝動にも似た、形のない殺意だった。

 春に訪れた夜を踏みしだく。見上げた天に月はなく、辺りの家に明かりはなく、道は街灯に照らされた空間以外がすっぽりと抜け落ちたような暗さに包まれている。漂う静寂が、近くに誰もいないことを保証する。
 浅羽は重い吐息を漏らして宵闇を歩いた。
 行く当てはなく、ただの散歩と言って良かった。いつまで歩くかも決めていなくて、適当な方向をうろつき、いつの間にか家の近くまで戻っていたら帰ることにしようと思った。帰り着かず、夜明けまでずっと歩き続けたとしても、それはそれで良かった。
 ふと、どこへともなく消えていった猫を思い出す。伊里野と逃げ込んだ先の小学校で拾った仔猫だった。名前は校長。浅羽が付けた。
 そいつが家からいなくなったとき、浅羽は「伊里野を探しに行ったのかもしれない」と思った。今もそう思っている。
 まるでその足取りを追おうとしているかのようで、つい苦笑してしまう。
 結局のところ、夏を終わらせることはできたけれど、たくさんの気持ちは未消化のままだった。彼女や彼女に関することを引きずったまま、季節を越えてしまった。そういうことだろう。
 情けない人間だと思う。最高に締まらない。物語ならば、観客の失笑を買わずにはいられない主人公になっている。それでも捨てられなかった。アルバムに貼り付けた写真のように、しっかりと心のどこかに彼女への想いが付着していて、剥がすことも、剥がそうと思うこともない。
 戦いたかった。
 逃げ出してばかりで、弱音を吐いて、何の役にも立たなかった自分に腹は立たない。後悔の念はない。ただ想いばかりを引きずり、引きずられて摩擦する想いが、浅羽に眠る戦意を誘発する。
 僕は戦いたかった。明確な敵と、伊里野を守るために倒すべき敵と。
 敵の正体は曖昧で、守られたのは自分だった。戦う機会が欲しかった。彼女を食い止め、代わりに自分がこのハサミで持って真の敵の真正面に立ちはだかる。そんな展開が欲しかった。
 持ち出したハサミをポケットから取り出し、ショキッ、と夜気を断つ。
 外から見ればただの危ない人で、パトロール中の警察官でも通りかかれば職務質問をかけられること請け合いだった。真夜中、それこそ丑三つ時の頃、ハサミ片手に出歩く少年を見落とし見逃す警察官は、無能かよほどやる気がないかのいずれかだ。
 たとえ無能でやる気がない奴だったしても、出会いたくはなかった。無人の闇を、ハサミとともに歩きたいだけだった。月のない夜。街灯の明かりにハサミの銀を輝かせ、ショキッ、ショキッ、と虫の代わりに鳴かせてみせる。
 このハサミは髪を切るためのもので、人やエイリアンを切るものではない。侵略者の無慈悲な攻撃によって妻子を失った職人が「宇宙人を殺せ!」と怨念込めながら鍛えた曰くつきの品ではない。都合良く窮地で謎の力が発揮される仕様にはなっていない。何の後ろ盾も保証もない。ただの道具だった。
 けれど、その気になれば人くらいは殺せるだろう。
 と言っても、浅羽は殺人鬼などになる気は毛頭ない。「深夜の凶行!」とテレビや新聞を騒がせ、被害者の遺族が慟哭する様を紙面やブラウン管越しに見せつけられたあげく、うっかり残してしまった証拠物件をもとに捕まり、家に「14歳の狂気がどうたら」と口走る取材陣の濁流を呼び寄せ、両親と妹の背中にでかでかと「人殺しの家族」というレッテルを貼り、弁護団から諭されたり助言されたりしながら家裁に向かうだなんて、そんなの、あまりに悲惨で笑えない。悲惨すぎて笑ってしまう物事もあるが、これに関してはただ悲惨なだけで笑えない。
 浅羽がするのは殺人とは無縁の、「想う」という行為だ。伊里野と呼ばれた少女が、恐怖をおして、泣きながら無理矢理な笑顔をつくって飛び立ち、戦いに挑んだということ。そして、その相手が、結局何だったのか、どうなったのか、ちっとも分からないということ。
 恐らくこのハサミで断ちたいものはとっくに失われている。弱虫の自分が勇気を振り絞ることでこの想いをどうにかする機会は、きっと未来永劫訪れない。
 浅羽は何かを求めているのではない。何かを求めようと胸の奥から湧いてくる衝動を、共食いするように、慰撫するように、想いを仮託したハサミで丹念に断っているのだ。夜の片隅でハサミを掲げる彼の姿は幻想的なんて到底言えるものじゃなく、ひたすらに間抜けで、気まずいほど必死で、彼と親しいものならば微笑みながらその仕草を見守ることはできないはずだった。危ういというよりとっくに危なく、悲しいというよりは酷い。
 ショキリ
 擦過音を奏で、浅羽は生まれたばかりの感情群を断つ。伊里野への想いを忘れず、それでいて晶穂や夕子や両親や花村や西久保その他いろいろの知人や他人と大過なく日常を過ごしていけるよう、引きずるには邪魔な想いを剪定する。伐採といってもよい勢いで。
 ショキ──
 不意に音がやんだ。代わって、後方からの足音。
 浅羽は咄嗟にハサミを隠した。やってくるのが警察官であれ一般人であれ、夜中に街灯の下でハサミをショキショキしている少年を見て好印象を抱くとは、まず思えない。警察官なら職質だろうし、一般人なら通報だろう。単に夜歩きしているだけの少年ということにしておけば、まだなんとか普通の目で見られるはずだ。
 今いるのは住宅街。あたりは寝静まっており、外を出歩いているのは自分と後ろの誰かさんのみ。浅羽は「誰かさん」が危ない人ではなく、かと言ってこんな真夜中に挨拶してくるような人でもなく、無愛想に目もくれず通り過ぎてくれることを望みつつ、チラッと足音のする方に目を向け、

 磁石に引き付けられる砂鉄の気分を味わった。
 激しく「回れ右」をして身体全体を向けていた。

「あ──」
 信じられないものを見たとき、人はまず信じないことから始める。
 自分の視覚が捉えたのは目の錯覚とか気のせいとかそういったもので、光線の具合で電柱とかバイクといった静止物がたまたま別の何かに見えてしまう、そう、分類するならば「幽霊の正体見たり枯尾花」のケースだろう──と思い込んで目を擦る。まじまじと見つめ直す。第一段階である。浅羽の目は、眼球がこぼれ出す寸前まで見開かれている。街灯の明かりに血走った白目の部分が照らされ、見た者を即座に通報へ向かわせるほど切羽詰った空気を醸していた。
 それでも目の前に厳然として変わらぬものがある。ならば人は頭がどうかしてしまったのかと疑う。おいおい幻覚でも見ているのか、と。第二段階だ。そのまま病院へ直行したくなるが、大抵の人間は病院があまり好きではないため敢えて実行には移さない。もちろん浅羽も公衆電話を探して緊急病院へダイヤルしたりなどしなかった。そろそろ第三段階に入る。ここまでくると終わりに近い。夢オチを恐れて頬を抓り、「痛い!」とお約束の叫びを挙げる。少し遅れて夢じゃないんだ、と感激する。
 以上、三つの段階に分かれた通過儀礼を経て、浅羽は眼前の光景をようやく現実として受け容れるに至った。今や彼の手も足も震え、視界は熱い液体によってミキシングされたように歪んでいる。鼻まで何かを垂らし、ついでにパンツの中もちょびっと大変になっているのだが、このあたりは言わぬが花だった。
 よろり、と情けない足取りで対象に向かって進んでいく。歩みは亀よりもナメクジに近く、鬼教官が見ていたなら「ベトナム行く前に戦争が終わっちまうぞ、アホ!」と罵ることは間違いなかった。
 幸い夜が明けるまではかからなかった。街灯の下、やや逆光気味に立って闇からうっすら顔を覗かせている影へ、浅羽は辿り着いた。もう三、四歩も行けば抱き締められる距離にまで来て、立ち止まる。この時点で見間違いの可能性は完全に潰えていた。
 肩の少し上あたりまで伸びた髪は白いままだった。
 まっすぐ前を向いた顔は見事なまでの無表情で、愛想というものがなかった。
 着込んだ園原中の制服は、月日の流れを越えて安堵を与えた。
 そう──
 6つの月に渡って想い続けた少女が、そこにいる。
「伊里野!」
 名を呼んだ。呼んだというより、漏れた。漏れたというより、迸ったと表す方が正しい。少女の顔を見て、少女と出会って、浅羽がその名を口走る経緯は少年の意識を超えて、既にひとつの予定調和だった。
「浅羽」
 少女の声は素っ気ない。感情の波がなく、平坦で、生きてはいるけれど活きに乏しい。低温の返答だった。
「伊里野、伊里野! 本当に、生きて……! 嘘じゃ、ううん、これって、でも……」
 両手で掬った想いがぼろぼろと指の隙間からこぼれていき、彼の言葉は意味を成さなかった。まったく、支離滅裂というより他なかった。
 そんなことを少年は気にしない。嗚咽でぐずぐずと溶けていく繰り言を吐き散らし、少女へ向けてもう一歩、

 進もうとした足を止めたのは脇より走り出る銀閃。

 点の光は線の輝きに変わり、浅羽の腹を掠めて横薙ぎし、消えた。
「え?」
 ただでさえ言葉を失っていた浅羽が余計に言葉を失う。呆気にとられた彼の視界に、一本のナイフが映っている。少女の右手に握られたそれはいつかどこかで見たことのあるような気がしたが、混乱のせいもあってか浅羽には思い出せない。
 そっと腹を撫で、指先に違和感が伝わるや、愕然とした。
 冗談みたいな速度で振られた刃はジャンパーのみならず下のシャツ、更にその下の皮膚まで切り裂いていた。浅羽自身にはよく見えないが、綺麗な真一文字を描いている。肌から血は流れない。それこそ薄皮一枚で切り裂かれており、浅羽は痛みも恐怖もなく、呆然とジャンパー及びシャツの裂け目に指を突っ込み出し入れするアホっぽい行為を繰り返した。
 切られた。ナイフで。伊里野に。
 遅れに遅れた認識で、逆順に現状を理解していく。自分が、少女の匙加減ひとつで簡単に殺される凶器でもって切りつけられた事実。それを呑み込むのは難しいようで、浅羽は泣き出しそうな顔で唇を震わせた。
「な、なんで?」
 とりあえず訊いた。訊かないことには始まらないと思ったので、敢えて問い掛けてみたのだった。
 果たして少女は答えた。

「殺すつもりで切ったわけじゃないから」

 答えてくれたが、別に何かが始まったりはしなかった。依然として浅羽は困惑していたし、泣きそうな顔はそのまんまだった。いっそ泣いた方がいいのかもしれないが、あまりにもわけが分からなくて、泣くに泣けない浅羽だった。
「殺すつもりじゃないって……え? その、」
「でもね──」
 表情のない顔で、唇だけが動く。
 少女の腕がぶれた。

「今度は、ちょっとだけ本気」

 腹部へ迫る銀光に、浅羽の本能が回避を訴えた。しかし、浅羽は固まっていた。恐怖に足が竦んで動けなかった。さっさと飛びのいて避けるべきか。理性はその正否を判ずる猶予もなかった。
 刃先がジャンパーを突き破り、浅羽の柔らかい脇腹へ潜り込む──
「うぁっ!」
 熱い。痛いのではなく、熱い。
 脇腹が弾けたかと思った。ナイフがぶつかった衝撃で、浅羽の姿勢が崩れる。たたらを踏み、バランスを保とうとするも、不意に左足の力が抜けて膝を付いた。
 膝の頭を擦るアスファルトの感触に顔をしかめつつ、手を脇腹へやった。硬質な手触り。刺されたのはちょうど、ハサミを入れていたポケットのようだった。だが、ハサミがナイフの切っ先を完全に防ぎ切ったというわけではなかった。持ち手の輪の部分にちょうどすっぽりと刃先がはまり込む形になって止まったものの、衣服を貫いた先端は確かに浅羽の肉へと到達していた。
 ジャンパーの裾から手を潜り込ませ、探った。傷口に触れた指先がぬるりと粘つく。浅羽は海藻が絡みついたのかと勘違いしそうになった。
 体内の熱が外へこぼれていく感覚。指を抜いて目の前に持ってきた。血に汚れた五指を他人事のようにどこか実感の欠落した目で眺める。
 出血という現実を認めるまで数秒を要した。ショックで腰が抜け、後ろに倒れて尻餅をつく。
 刺された。刺された。刺された。
 腹部の灼熱に喉が引き攣り、息が乱れる。
 伊里野に刺された。
 単純な事実が衝撃を伴って襲いかかってくる。足が小刻みに震え出した。恐怖を湛えた瞳が涙に濡れ、眼前の光景を滲ませる。少女の姿が崩れて「髪の長い女の子」としか分からなくなる。
 ぼやけた人影は着実な足取りで歩み寄ってくる。怯える浅羽は後ずさろうと尻を動かしたが、腕が震えて身体を支えきれず、仰向けに倒れた。顔が上を向き、街灯が視界をよぎって端へと消えた。
 月のない夜空を寝転がって仰ぎ見たのは一瞬だけで、腰のあたりに重みが加わったことに気づいた途端、ぐいっと黒い影が目の前に迫った。逆光で薄暗くなった彼女の顔を、溢れる涙のせいでうまく捉えることができない。
 少女の手が動いた。ナイフを持ってない方の手だったが、明瞭な視界を獲得していない浅羽は「刺される」と思った。尻の皮膚を羽毛で撫でられたような寒気が背筋を這い進み、脳天へと達する。鼻毛を抜くときの5倍くらい涙が、新たに溢れた。
 不意に瞳へ射す光が減った。彼女の手が、濡れた右の眼球のすぐそばにまで近づいていた。そのまま覆うように降ろされていく。
 目潰し──というわけではなかった。指先でごしごしと涙を拭っただけだった。布巾でテーブルを拭く動作にも似て無造作ではあったが、右目周辺の涙は丹念に拭い去られた。続いて左目。同じように拭い取る。
 涙のブラインドが払われ、晴れて浅羽は彼女の顔を再び目にすることができた。仮面のような無表情を前に安堵を覚えることは叶わず、出来損ないの悲鳴がひゅうひゅうと喉から漏れた。
 何か言わなければならないと直感するも、歯の根が合わない。
 少女は浅羽の言葉など少しも待っていない様子で、ナイフを喉に密着させる。刃の冷たい感触が浅羽の呼吸を狂わせる。コーラが気管に詰まるのに比べれば少しマシなくらいではあったが、既に平静を保つのは難しくなりつつあった。意味のない叫びが腹から込み上げてくる。
 恐怖を過ぎて狂気に染まりつつある両の目が少女の瞳を覗き込む。瞼を一杯に開けて涙を堪え、殺意の有無を見出そうと凝視する。
 怒りも悲しみも憎悪も嫌悪も愉悦も快楽もなく、眼光はただ一色だけに彩られている。
 それは──
 色の正体を悟った浅羽から、狂気の潮が一斉に引いていく。憑き物が落ちたように全身の震えがやんだ。平静を取り戻し、恐る恐るジャンパーのポケットへ手を伸ばした。指がハサミの硬質な感触を捉え、間を置かず掴み出した。片手だけでなんとか持ち手の輪に指を突っ込む。震えがなくなったおかげで取り落とすこともなくスムーズに事は進んだ。
 理髪用とはいえ、充分凶器になりうるものを構えた浅羽に対し、少女は何ら反応を見せず、ナイフを宛がったまま静止していた。時折まばたきをし、ナイフを持つ手に微細な振動が続いていることを除けば、「少年に馬乗りする少女」の彫像として充分に通用する。
 浅羽はナイフを介して伝わってくる振動に安心感を覚えていた。その震えは鼓動と同じ安らぎを与えた。
 気負いのない仕草で、浅羽は少女へとハサミを向ける。この場にかつてのジョン・ウーが居合わせていたならば、間違いなく喉元へ突きつけることを要求していただろう。
 浅羽は躊躇わずハサミを少女の前髪に寄せた。俯くことで重力の方向に従って垂れた毛の数々を、ハサミの背でそっと撫でる。
「髪、伸びたね」
 話し掛ける。むしろ独り言に近い。
「──切ろうか?」
 この態勢ではかなりキツいだろうと冷静に考えながら囁く。
 返答はなく、沈黙が澱を成した。
 静寂に包まれ、ナイフを喉へ、ハサミを前髪へ、互いに向け合った少女と少年が夜の中に佇む。僅かに汗をかいた少年の額を夜気が冷やし、硬直する少女の髪を夜風が揺らす。
 タイムキーパーのいない場所で、時間は量の目安を失ったままダラダラと浪費されていった。会話が潰えたふたりから遠く離れた場所で鳥の鳴き声が上がる。
 ぽつり
 ぽつっ
 同期したように雨が降り出す。局所的な雨。浅羽は頬に降ってきたそれの熱を確かに感じながらも、正体が涙であることを理解するまで5滴の雫を浴びる必要があった。
 つまり、6滴目が降ってくる前に行動を起こした。
 ハサミを持った手を下ろし、代わりに何も持たぬ手を伸ばした。
「伊里野」
 ありったけの優しさを詰め込んだ、疚しく温かい手で少女の頭に軽く触れる。
 弾かれた。
 浅羽の手は少女の手に弾かれ、少女の身体は浅羽の優しさに弾かれた。
 ナイフを手放し、浅羽から飛び退き、地面に手をつきながら後方へ下がった。街頭の光が描くサークルを越えて闇に消えたナイフが、何かに当たって小さな音を立てた。
 のんびりと起き上がる浅羽に背を向け、走り出す。
 「のんびり」をやめて大急ぎで立った浅羽が後を追いかけ、高く足音を響かせると、振り向いた。
 無表情だった顔は跡形もなく歪んで粘土細工のようになっていた。子供が泣き出す一歩手前の、不可侵的な緊張感を漲らせる。

「こないで!」

 全身全霊の拒絶。
 意識せず浅羽の足が竦み、少女から数歩離れた地点に縫い止められた。
 金縛りを経験したことがない浅羽は自分の身体が思うように動かない事態に深く驚愕し、より一層硬直の度合いが増した。
 ふたたび背中を向けて駆けていく少女の姿を呆然と見送りそうになる。
 本能的に拳が顔を殴りつけた。ハサミを持つ方の手ではなかったことを本能に感謝する暇もなく、自分で自分に拳骨を食らわせ正気に返った浅羽は慌てて少女を追跡する。幸い、見失う寸前で間に合った。
 夜の住宅街を不規則な軌道で縦横無尽に駆け続け、浅羽の脳内マップは更新に次ぐ更新で混乱を極め地図として機能しなくなり、やがて現在位置の把握を諦めた。辛うじて視界に引っ掛かる少女の影をひたすら追い続け、障害物との手痛いランデヴーを紙一重で回避しながら走った。足の筋肉が悲鳴をあげ、肺が酸素を求めて胸の中を暴れ回り、胃の消化物が隙を見て逆方向に逃げ出そうとする。運動不足が祟りに祟って疲労は膨れ上がっていき、若さだけでカバーできる次元を超えて浅羽の全身を苛んだ。苦しみが苦しみを呼び、口の中に溜まってくる嫌な唾を飲み下そうか吐き出そうか迷っているうちに突然少女の姿が消えた。
 思わず唾を飲み込む。呼吸が止まって苦しみが爆発した。やっと開いた口から入ってきた空気に噎せ、胃酸と消化物が喉の上あたりに上ってきて嘔吐寸前まで行くが、堪えて飲み込んだ。喉と食道に焼け付く酸っぱい感触に顔をしかめる。
 上半身の苦しみに無頓着な下半身が、少女の消えた角へと驀進する。即座に首を左右に振り、左の闇に微かな輪郭を浮かべて遠ざかっていく影を発見して追跡を再開する。
 靴底がアスファルトを荒々しく叩き、浅羽は空気の流れではなく上下の震動によって自分が疾走していることを再確認する。既に住宅街を抜け、辺りの建築物もまばらで街灯の間隔がやけに長い路地へ差し掛かっていた。なおも走り続けるうちに街灯そのものがなくなり、いつしか足はアスファルトではなく土を蹴っていた。暗闇の中に立つのは木ばかりとなり、自分が森へ進入したことを知る。ぼそぼそとした土の上を全力疾走する感触に戸惑いつつ駆けた先に、立ち止まった少女の背があった。
 危うくぶつかりそうになって浅羽は急制動をかけ少女を迂回し、速度を落としながら数メートル行き過ぎた。まだ前へ進もうとする勢いを宥めて徒歩で引き返す。
 少女は慌しく傍を通ってまた戻ってきた浅羽に目もくれず、くいっと顎を上げて一心不乱の様子で斜め上空を睨みつけていた。
 その視線を追尾した先にあったものは、

 UFO

 ではなく、闇の中で奇妙に輝いて聳える一本の夜桜だった。燐光を発しているわけでもないのに、花びらひとつひとつの白さが目に痛いくらいくっきりと映る。凄絶な迫力を幹から枝から花びらからと無節操に放っており、浅羽の意気はほとんど押し潰されてしまいそうなほど圧倒された。
 その背の向こうで、月が雲の隙間から無数の光糸を地にこぼしている。
 しばらく、口を開けて呆けるより術がなかった。
 意識が木へ濃密に固定され、すぐそばの少女が、見えているにも関わらずひどく霞んで見えにくくなり、景色から排除されそうになる。
 目をつむり力なく首を振る。少女の存在が半ば心から消えかけていたことに怯え、鼓動が早送りになる。美しくてぞっとする桜のイメージを振り払って、瞼を上げた。
 ほんの一瞬視界を閉ざしていた隙に、少女は浅羽の方を向いていた。顔や視線だけではなく、身体全体をきっかり反転させて、たじろぐ気配もなく浅羽を見つめていた。
 ここで一、二歩後ずさり言葉に詰まるのがいつもの浅羽である。
 けれど、今ばかりは、「いつもの浅羽」ではない。掌に押し付けられる鉄の硬度に後押しされて、三歩前に出た。少女との距離が詰まった。両者とも、その気になれば好きなだけ触れ合うことができる距離にいる。横あいから吹きつける風に少女の白髪が棚引くまで、浅羽は「その気」という言葉を忘れて案山子になっていた。
 右手にハサミがある。
 左手が掴むのは虚空。
 虚空以外の何かを手にするためには、踏み出さなくてはいけない。
「伊里野」
 ただ名前を呼ぶことがどうしてこんなに胸を痛めつけるのか、分からないままそっと目尻に溜まった涙を拭う。
 右手にハサミがある。
 立ち向かうことを望んだエイリアンはいない。
 夜風が運ぶ白桃色の花弁を認識の外へ追い出し、ふわふわと薄暗い闇に揺れる白い髪だけに焦点を据えて、言った。
「あのさ……ハサミもあることだし、髪、切ろっか」
 少女は頷くことに微塵も躊躇いを見せなかった。

 月が顔を見せている間に浅羽のハサミが少女の頭髪を刈った。急ぐ必要もない彼らは耳を澄ませ、山の少し離れた方から届く鳥の鳴き声を聞きながら丹念に散髪というものを味わった。
 ハサミが頬や耳に触れても少女は身を竦ませることもなく平然と前を見ていた。それでも思わず顎を引きがちになるのか、時折浅羽が側頭部に手をやって顔を上げさせる。
 ハサミの刃が髪を巻き込んで篭もった音を立てる。篭もっていてもなお軽い音。切られた頭髪が、地べたに尻と太腿をつけて座る少女の肩や襟元や胸元、スカートの折れ間に降り注ぐ。雪をまとわせたように、「白」が少女の全身に伝播していく。
「浅羽、」
 髪を切られながら、少女は思い詰めた声色で言った。
「なに?」
 手を止めずに先を促す。
 小さく息を吸う音の後、言葉が聞こえた。

「こわかった」

 震えていなかったし、怯えを孕んでもいなかったが、その声に浅羽の手は止まった。秒針で計れる沈黙が過ぎて、ハサミはふたたび動き出した。
 髪を断つ音がテンポ良く繰り返され、後頭部があらかた終わったところで、少女の口が続きを紡いだ。
「戦うのはこわかった。浅羽のためだけに戦ったのに、ずっと、浅羽のことを思い出す余裕もないくらいこわかった。殺すことと死にたくないことで頭がいっぱいだった。浅羽とか、エリカとか、学園祭とか、大切なものは全部音速を突破するときに忘れた。頭のまんなかがいつまで経っても冷たいままで、殺すことしか考えられないのがこわかった。持っていた温もりを全部手放して、死にたくない気持ちを塗り潰すのがつらかった。身体の痛みは気にならなかったけど、死ぬ気で殺さなきゃいけないって思ったら息が苦しくなった。死んでも殺さなきゃいけないって思ったら心臓の音がわからくなった。上下左右の感覚がなくなって、生きてるのか死んでるのかがどうでもよくなって、殺すことに全神経を集中させた」
 いつの間にかハサミの音はやんでいた。少女の声が沈黙と闇を埋める。
「その瞬間が、今思うと、とても悲しい。悲しくて、こわい」
 浅羽が何割聞いて、何割理解したのかは置くとしよう。
 恐怖を吐露しながら一滴たりとも涙を流すことのない少女に代わって、泣いた。激しすぎる嗚咽は喉を苛み、声どころか音にすらならなかった。ハサミを地面に突き立て、身を丸め、頭頂を土に擦りつけて泣き続けた。吐瀉にも似た勢いの涙が土と混じって泥をつくり、浅羽の顔を汚す。全身の震えは瘧のようで、その有り様は土下座をする多重債務者というより、介錯人のいない割腹自殺者だった。
 少女は肩越しに浅羽の醜態を眺める。浅羽の姿は過程を一切抜きにして、ただひたすらに醜かった。目にする者に思いやりよりも不快感を、憐憫よりも生理的嫌悪を催させる、最悪の格好だった。通りがかったなら、誰であろうと顔を顰めて靴底をえぐり込ませずにはいられない。「弱者を踏みつけてはならない」と思う者でさえ、理性を揺るがせられてしまう。
 泣くしか能のない塊となった浅羽の横に突き立ったハサミは墓標じみて不吉に見え、それを嫌ったのかどうかはともかく、少女は小指を持ち手のリングに引っ掛けてハサミを地面から解放した。くるりと小指を回して回転させ、下向く刃が天を衝いた瞬間に空いた輪へ親指を突っ込んで中途半端に広がっていた両刃を閉ざした。
 シャキリ
 泣くことに忙しく、喉に詰まる嗚咽ばかりでなく鼻孔に詰まる鼻水が呼吸を苦しめている最中だった浅羽の耳に、驚くほど明瞭な響きで以って音は届いた。土と涙と鼻水でつくった悲しみのスープを塗りたくり、呆けた表情を浮かべる顔。充血し涙に濡れて輝く眼球が、ぼやけた視界の中で少女の持つハサミをしっかり捉えた。
「わたしは浅羽を恨んでいるかもしれない」
 思わず息を呑む。
 伊里野は、あれで僕を刺す気かもしれない。
 そう考え、一瞬恐怖しかけたが、すぐにやめた。悲しみは視界ばかりでなく思考までも曇らせていた。少女の手にかかって死ぬなら本望と、大真面目に思った。
 ナイフで掌を切られて否定されたあのときに、僕は死ぬべきだったのかもしれない。
 目を閉じて衝撃に備える。熱い涙の残りが目の端からこぼれ、別れを惜しむように顎で溜まった。
 少女の手が伸び──

「でも、よくわからない」

 ジョギッ ジギッ ジョギン
 断つ音が連続した。すうっ、と首筋が涼しくなる一方で、やけにチクチクする。何かに触られている感じもする。目をつむったまま手を後ろにやった。
 探る指が触れたのは、さわさわした髪の毛と、細く冷たい指。
 浅羽の首筋に伸びていた髪を思い切りよく大胆に断ってみせた少女は、白くて長い指を夜気に晒された首肌へ這わせていた。いまだに消えない傷の跡をそっと撫でた。かつて浅羽が、ちびりながら決死の覚悟で発信機をえぐり出したその跡を、いとおしむとも懐かしむとも言えるようで言えない胡乱な手つきだった。
 ふたりの指が首筋に踊り、触れ合うやすぐに絡み合った。
「浅羽も髪、伸びた」
 少女の囁きが吐息とともに首筋から耳元へ吹きかけられる。
「うん」
 肯定し、何と言うべきか考え、思いつくと実行した。
「じゃあ、ハサミもあることだし……伊里野が切ってくれないかな?」
 もちろん、少女は頷いた。
 目をつむり、背を向けている浅羽にもそれは分かった。

 いささか大雑把なハサミの動きによって自分の髪が切り落とされていく音を不安よりも安堵の強い気持ちで聞き惚れる。
 そして、思った。
 このハサミはエイリアンを倒すためのものでも、人を殺すためのものでも、断ちがたい想いを断つためのものでもない。
 髪を切るためのものなのだ、と。
 それが弱くて役立たずで真相なんか知らなくて覚悟もまるっきり足らなくていつまでも未練たらしく想いを引きずって鬱屈した日々を鬱陶しい髪の毛とともに生きてきた自分にとっての、正しい使い方。
 真の敵には巡り会えなかったし、守りたい人を守ることもできなかったが、その悔しさを何かに変えることはしない。悔しさを悔しさとして留め、刃の鋭さは髪に向けるのみとしよう。取り残された悲しみを研ぎ澄ませることなく、ハサミの切れ味に心を傾ける。
 誰しも髪は伸びるしハサミは要る。許しがたい悲劇よりも、癒しがたい憎悪よりも、忘れがたい記憶よりも、断ちがたい想いよりも、ずっと簡明で、分かり易い。「分かり易さ」には救いがある。
「浅羽の髪の毛、やわらかい」
 誉め言葉のつもりかもしれない呟きに頬が緩んだ。
 頭上で散る花びらとともに、毛髪が地面へ撒かれていく。シャツの隙間から背中や腹に入ってくる一部が痒くてくすぐったい。笑い声をあげたらもう少しで耳たぶを切断されそうになった。「だいじょうぶ?」と心配がる少女に「へいきへいき、だいじょうぶ」と返して、また笑った。
 闇に濡れるプールで始まった環が、一巡してようやく閉じようとしているのを感じた。
「伊里野は空が好きなんだろう?」
「うん」
 ハサミを動かしながら頷くのは危ない旨を伝えた。「ごめん」と謝り、しばらく黙り込んで作業する。
「……あのとき、空以外は何もいらないって思った」
 ちゃんと手を止めたうえで喋った。しかし次の言葉を探しながら切り始めたようで、頭皮に刃を突き立てられそうになった。考えごとをしながらハサミを動かすのも禁止する。
「でも、空は空以外のみんなを包み込んで、それが空だから。『空以外』のものなんて、本当はない」
 淀みなく続ける。微かに嬉しそうな表情を浮かべて。
「だからわたしは、空が好き」
 そばに立つ桜の木は、仲睦まじいふたりの様子を見もせず聞きもせず語りもせず、夜明けのときを待って風に枝を揺らしていた。

 桂木文二は齢60を越える男であり、山の麓の民家に住んでいて、妻と嫁と姪に老人扱いされることを何よりも嫌っていたが、名前に反して次男坊ではなかった。桂木家の三男坊として生まれた彼は母親の「『ぶんちゃん』と呼びたい」という欲求から名前の指針が決まったものの、「『文三』は可愛くない」とのことで文二という名をいただくに至った。その母も彼が還暦を巡る前にコロッとあっさり天に召してしまい、もはや「ぶんちゃん」と呼ぶ者は誰もいなくなってしまった。見合いで知り合った妻は「桂木さん」と「あなた」の二種類の呼称しか用いず、いくら記憶を掘り返してみても名前で呼ばれたことなど一度でもあったかどうか判然としなかった。加齢とともに少なくなっていった友人はなぜか「ぶんちゃん」という響きに親しみよりも気恥ずかしさを感じるようで、頑なに「文二」としか呼ばない。別に彼とてわざわざ「ぶんちゃんって呼んでくれよ」と主張したくなるほどその響きを気に入っているわけではないが、名前の由来や根拠や存在意義が火葬場の煙突から立ち昇る白い煙とともに天に消えていったのかと思うと変に物悲しさを覚え、酒を呑みながらひとり寂しく「ぶんちゃん」の響きを噛み締めるのだった。今度生まれてくる孫には「おじいちゃん」ではなく「ぶんちゃん」と呼ばせてみようか、などと思ったりもしたが、酒が抜けた翌日にはそんな気持ちもきれいさっぱり失せていた。今年の頭に生まれた初孫は、まだ言葉を覚える気配はない。
 彼の日課は毎朝早朝の散歩であり、家族の誰もが寝静まる中、夜明けから間もない春の澄んだ空気を「ふん」と鼻であしらいながら山へ分け入っていく。「年寄りは朝が早いからねぇ」と文二と同い年の妻は自分のことを棚に上げ、機会を見つけては聞こえよがしに言い放つものだから、彼の気分も毎朝爽快とはいかなかった。しかし緩慢な足取りは、緑よりも黒が濃い森の中で土と木々と草の匂いを吸い込むうち、自然軽やかなになっていく。青春の長い孤独に慣れ親しんだ彼にとって、自分ひとりだけの時間と空間がひどく居心地の良いものではあることは、何十年経った今でも変わらない。
 文二にとって唯一無二の貴重品である孤独は、お気に入りの場所までやってきたところで御破算となった。一本だけぽつりと孤独に咲く桜があるそこに、奇妙な先客の姿があった。
 少年だった。淡く桃色がかった白い花びらに半ば埋もれる形で身を丸めて寝転がり、土に汚れた顔を晒してすぅすぅと穏やかな寝息を漏らす、まだ年端もいかない少年を、文二は14歳と見た。顎のあたりと鼻の下の薄い髭を見たうえで出した見当だった。
 普段ならば自分以外誰もいない場所で見知らぬ少年を発見する状況自体が既に日常の範囲を越えていたが、文二にとってなおも非日常的な要素をその少年は握っていた。文字通り、握っていたのだ。
 ハサミ。細身の、恐らく理髪用であるそれは、文二にとって久しく縁のない代物だった。20代でいきなりクライシスが発生したかと思うと、頭部森林のハザード・マップは急速に広域化し、30半ばでど真ん中に砂漠地帯ができあがって、厄年を越えてしばらくの後に根絶やしの氷河期が始まった彼には、切るべきものが何もなかった。
 まさかこの少年が自分への当てつけのためにこんな場所でこんなものを握っているとは思えないが、異様と言えばこれほど異様なものはない。よくよく観察してみれば、ハサミには土や桜の他に髪の毛とおぼしきものがまとわりついている。少年の着ているジャンパーや、周りの地面にも似たものが見られる。何より、頭部は床屋へ行く金をケチって自分でどうにかしようとしてどうにもならない事態に陥ったかの如く、目を覆うような惨状となっている。文二の息子がまだ小さな頃にハサミを使って当時のアパートの近所に住んでいた女の子の頭髪を修復不可能なまでに弄び、ご近所さんとの関係修復に難儀した悪夢がほのかに甦ってくる。それでもその子は中学生の間息子と「清らかな男女交際」を続けていたのだから人間というものは面白い。あいつらが本当に「清らか」だったかどうか疑問視するのは野暮だが、ともあれこの少年は見たところひとりで切ってひとりで無惨な様にしたようだから、息子みたく変なロマンスが始まることはないだろう。
 そう思いながらも文二は状況を怪しんでいた。なぜよりによってこんな場所で髪を切ったあげくに眠りこけているのか。いくら考えを巡らせても正気のうえでの行動とは思えない。この少年が正気ではなかったと考える以外に納得する術はなかった。
 正気ではない少年がハサミを握ったまま眠り込んでいるとなると、自分はどうすればいいのか。このまま通り過ぎるのが一番楽ではあるがいくらなんでもそれは不人情というものだ。ならば近寄って起こしてやるのがいいかと言うと、そうとも断言しかねる。起きた途端、少年が錯乱してハサミを振り回しでもしたら、とうに還暦を迎えたこの身では太刀打ちできない。やれ最近の若者は凶暴だのなんだのと、妻が煎餅を頬張りながら漫然と見ているワイドショーでよくやっていることもあって、文二はちょっと及び腰になっていた。
 いっそ通報でもした方がいいのか……迷いながら恐々と少年の顔を覗き込み、
 目から頬にかけて涙の乾いた跡があることに気づいた。それもひと筋やふた筋ではなく、かなり盛大に垂れ流したようである。洟も大したことになっている。
 しばらく黙って見ていた文二は、すっと自然に身体から警戒心が抜けていくのを悟った。
 何があったのかは知らないが、きっと物凄い何かだったのだろうと思った。母親が死に、もう誰も「ぶんちゃん」と呼ばなくなったと気づいたときに自分もちょっと泣いたが、あれはほとんど感傷みたいなものだった。たぶん、この少年は「感傷」とはまた違う次元の、魂を削る感情で身を折り、臓物を吐く勢いで泣き伏せたのだろう。
 何も知らないが、それはなんとなくわかった。
 憐みより先に、「というより、こんなところで寝てちゃ風邪ひくよなぁ」という思いが身体を動かした。
 苦労して腰を折って、少年を起こすため肩へ手をやる。
 風が吹き、ざぁっ、と葉擦れが鳴る。見上げると、そろそろ乏しくなってきた桜の木の枝から、最後のひと息といった態で花が散るところだった。春が過ぎ、文二の頭と御同輩になりつつある桜を細めた目で眺める。
 ああ、ここは……
 母が逝ってから訪れた数度の春、夜明け前にここへ来るといつも「ぶんちゃん」と呼ぶ母親の声がどこからともなく聞こえる──ような気がしたものだ。最初はうそ寒いやら懐かしいやらで複雑な気持ちになったが、そのうち夜明け前に家を出ることがなくなったのは、怖いからではなくて、単に気づいたからだ。自分をそう呼んでくれた人がいなくなっても、そう呼ばれていたことを自分が忘れることなどないのだと。その響きを耳にすれば、いつだって、いくらだって思い出を引き出すことができる。痴呆も病魔もこの単純な事実にはきっと打ち勝てまい。そう考えて、わざわざ声を聞きに行く必要もないと、夜明け時を寝過ごすようになっていた。
 ひょっとしたらこの少年も、自分にとっての「ぶんちゃん」みたいなものを聞いたのかもしれない。そいつとどう向き合っていくかは、こいつの自由だ。
 風で身体が冷えたせいか、「へっぷしっ」と間抜けなくしゃみが出た。
 その音に少年の手が反応した。

 シャキリ──

 ハサミが鳴る。
 宙には、白髪の面影を忍ばせる花びらが乱舞するばかり。
 春の曙光は、まだ少年に目覚めの機会を与えない。
 木々の向こうにある青空は澄み渡り、何を見ればいいのかわからないくらい、大きかった。


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