まとりのSAT(上)
「明生ちゃん、小麦粉どこー?」
キッチンから届いてくるほわほわした声を聞いて、読んでいた雑誌から顔を上げた。
「あー、確か流しの下に仕舞ったと思うけど」
「んー、ここかな?」
カチッ
金属の鳴る音。永久がしゃがみ込んで「どれどれ」と覗き込む。
色の薄い髪の毛が、肩のあたりでサラリと流れた。夏休み、いつも通りの昼。
あたりに漂う穏やかな空気を軽く吸い込みながら、視線を雑誌の上に戻した。
朝。相変わらず「あーきーおーちゃ〜ん!」と元気良くやってきた永久を、眠くてあまり元気良くなかった俺が招じ入れ、なんやかやとしているうちに眠気が覚めてしまった。
気づけば昼。
内心「昼飯つくんのめんどいなぁ」と思っていたところ、うっかり顔に出てしまったのか永久が自分から進んで昼食の用意を提言してきた。悪いとは思ったし、最初はいくらか渋ってみたが、永久のぽけ〜っとした表情が醸し出す雰囲気には暖簾に腕押しといった感じで、結局は厚意に甘える形となった。
一応「なんか手伝えることはないか?」と申し出てみたりもしたけど、「ううん、いいから明生ちゃんはゆっくりしてて」とあっさり断られ。いくらか所在なさげにだらだら時間を潰している有り様だった。
「……あれ?」
永久が微かに不審の色を滲ませた声をあげる。
釣られて視線を上げると、永久は屈んだ姿勢のまま小首を傾げた。夏森永久。いつも笑顔で、ぽやんとした、天然系の奴。俺の友達。
友達……といっても、実は8年くらい間が空いてるんだが。ガキの頃、こいつと俺、それに穂と美花って奴の4人でよく町内を遊び回っていた。穂と美花の母親は俺の母さんと付き合いがあったもんだから、俺とふたりは物心つく前からの知り合いだった。永久は少し遅れて俺たちの輪に入ってきた。だからといって変な温度差もなく、俺たち3人の中へ自然に溶け込み、「3人でひとつ」という意識が「4人でひとつ」に塗り変えられた。
だが、なぜか気づけば付き合いが途絶えていて、遊ぶどころか言葉を交わすことも顔を見かけることもなくなっていた。永久はつい最近こっちに帰ってくるまで東京のどっかに引っ越していたらしいが、「引っ越しによって疎遠になった」というわけではない。俺にはそもそも、「引っ越し」によって永久と引き離されたという記憶がない。ある日までは一緒に遊ぶのが普通だったのに、ある日からは一緒にいなくても何の違和感も覚えなくなっていた。俺は永久のことを存在自体忘れかけていた。
いや、「忘れかけていた」というより、実際に忘れていた時期があった。再会したとき、永久があの「永久」であると少しも思い至らなかった。あいつが掴み所のない笑顔を浮かべて「明生ちゃんでしょ?」とにこにこ訊いてくるのに対し、「なんだこいつ」と他人を見るような目を向け、よそよそしい態度を取ってしまった。ちょこちょことこまめに距離を詰めてくるあいつを、鬱陶しく思っていた。そのときの俺にとって、永久は正に「赤の他人」だった。どうでもいい存在、だった。
夕焼けに赤く染まる公園で、4人手を繋いで「ともだちのやくそく」──ともだちが困っていたら絶対に駆けつけて、助けてやると、誓い合った仲だというのに。俺はその約束も、その中にいた永久さえも忘却の彼方に捨て去る寸前だった。
不思議なのは、そうした体験が俺だけではなく、穂や美花にもあったということだ。あいつらふたりも俺たちと一緒に「ともだちのやくそく」をしたんだが、俺同様、つい最近まで永久のことを忘れていた。わざわざ夕暮れの公園に行って、懐かしい景色を見せてやるまで思い出すことができなかった。
俺たちの誰かひとりがそうなっていたら「薄情な奴め」と揉めたりはしても最終的に笑って流してオシマイ、ってとこだけど、永久以外の3人が全員揃って同じ忘却を味わっていたとなるとさすがに笑い飛ばす気にはなれない。
この変事には何か原因があるのだろうか。「明生ちゃん……」
永久の悲しげな声が耳朶を打った。
はっ、と意識が解説的回想から覚め、現実に復帰する。
「どうした永久、お気に入りのプリンが消費期限を切ったような声出して」
ふるふる、と小さく首を横に振った。どこか小動物じみた仕草だ。
「そうじゃないの。プリンは関係ないの」
「じゃあ、何が関係あるっていうんだ?」
「これ……」
言って取り出したのは、ビニールの透明な包み。中にはサラサラした感じの白い粉が詰まっている。
「あ? 小麦粉? ……じゃないな、俺そんなパッケージのやつ買った覚えないし」
普段購入しているのは紙のパッケージで、中は透けて見えない。
とすると、砂糖か? いや、袋詰めのやつを買い置いた記憶はゼロだ。他に考えられる線は、味のも……いや、グルタミン酸?
「ねえ、明生ちゃん」
永久が俺の手を取った。
「ん? 何だ、永久」
「確保」
ガシャン
突然、金属音とともに手首に冷たく硬い感触が走った。
見下ろすと、鈍い銀色の輪っかがすっぽりと手首を覆っていた。
「……手錠?」
どこからどう見ても、それは手錠だった。刑事ドラマでよく見かける奴と同じ形状をしている。ガキの頃は本物を使って刑事ごっこをやりたかったものだが、オモチャすら持っていなかったんで、親指と人差し指で半円状の輪をつくって「たいほ!」と美花や穂の手首を掴んだりしたけど……。
いや、そんなことはどうでもよくって。
これってどういう……?
「所持の現逮です。はい、これから引っ張っていきます」
いつの間に取り出したのか、永久がケータイに向かって喋っていた。
ショジ? ゲンタイ?
戸惑う俺に、ケータイを懐に仕舞った永久が悲しそうな表情を向ける。
「じゃ、明生ちゃん、一緒に来てくれるかな?」
言いながら腰を上げた。
途端に手首が痛くなって、釣られるように俺も立ち上がった。
永久の手首にも手錠が掛けられており、それは細い鎖で俺のと繋がれている。
つまり……手錠の二つの輪が、俺と永久の手首を縛して結び付けているわけだった。
状況は分かった。いや、分からん。何で俺と永久が手錠で繋がれなきゃなんねーんだよ。
「『じゃ』じゃねぇっつの。何なんだこれは? ワケ分からんぞ永久」
「わからないって、何が?」
「いや、何がって……」
質問に質問で返されても困る。
俺の中にある疑問をどう表明すればいいのか、考えかねてボリボリと頭を引っ掻く。
「だからな、つまり、その……」
「つまり?」
「……ああっ、だからっ、なんで手錠掛けられてんだよっ、俺が!?」
「うんとね、現行犯だから」
「現行犯?」
「そ、現行犯」
暗い顔でうなづく。
「……現行犯って……」
「げんこ〜は〜ん、げんこ〜は〜ん、げんこぉぉぉはぁぁぁん……」
奇妙な節をつけて歌い出した。しかし、歌っている本人は楽しくないのか、やたらと沈んだ声および響きであった。正直怖い。
びしっ
「あうっ」
幸い──かどうか知らんが、片方の手は空いていたので脳天にチョップをくらわす。
「やめんか、『ドナドナ』級に暗いわ」
「ううう……痛いよ、明生ちゃん」
ちょっと涙目になって恨めしげに睨んでくる。
「現行犯だと? 何の話だっつの」
「あのね、明生ちゃんにはこれを所持していた容疑があるの」
と言って、床に置いていたビニールのパックを手に取った。
「ああ、さっき流しの下で取ったやつか」
買った覚えがないんだが、なんだろう、これ?
「えとね、これってたぶんマリファナだと思うの」
「マリファナ?」
「うん、マリファナ。通報があったの」
「通報?」
「明生ちゃんがマリファナを持ってますよ〜、って。夜な夜な若者たちに売り捌いてますよ〜、って。んでね、調べたら確かに明生ちゃんっぽい特徴の人が公園のあたりで同年代の子たちに密売しているみたいだったの」
「はぁ」
「だからね、明生ちゃんには販売目的で所持している容疑があるんだよ」
「なあ、永久」
「なーに、明生ちゃん?」
「マリファナって、麻薬だよな」
「うん、そうだよ。オランダとかカナダのあたりじゃ合法化されてるし、『マリファナはタバコより安全だ』って訴えてる探偵さんもいるけど、日本では違法なの。持ってるのもダメだし使うのもダメ、人に売っちゃうのもダメなんだよ」
「これが麻薬……?」
永久の持つ、白い粉が詰まったビニール袋を見つめる。確かに麻薬ってったらこういう白くてサラサラした粉だっていうイメージはあるけど、マジで?
いや、冗談なしに、本当なのか?
「うーん、詳しいことは鑑定しないとわかんないけど、粒子の感じから言ってたぶんそうだよ。わたしね、いろいろな粉を見て特徴知ってるから、たぶん外れてないよ」
自信ありげに、しかし嬉しくはなさそうにぼそぼそ呟く永久。
「マジかよ……」
俺は半信半疑だ。
本当にそうだとして、なんで永久がこの白い粉をパツイチで麻薬だと見抜けるんだ? しかも分かったなら分かったで、警察に通報するとかじゃなくて自分で手錠掛けるのはいったい?
つか、なんで手錠なんか持ってんだよ……ワケ分かんねぇ……。
両手で頭を抱えそうになって、しかし片方は手錠で永久と繋がっているせいで、仕方なく片手だけで頭を抱える。
ひょっとしてマヌケなことやってるか、俺?
「うーんと、明生ちゃん」
ごそごそと永久が懐を掻き回し、何か取り出した。
「なんだ、永久。また手錠でも出すのか」
「違うの……はい、これ」
俺の顔の前まで持ってきて、ぱかりと開く。
「ん? これは……」
見覚えのある顔写真、横には氏名等が記されている。
「わたしはね、こういう者なんだよ」
夏森永久。○年×組。上記の者は本学の学生であることを証明する。〜〜年3月31日まで有効。
「いや、そりゃ知ってるけど」
「え? 明生ちゃん、知ってたの!?」
顔中に「びっくり」という文字を浮かべて驚く永久。
「だってこれ、うちのがっこの手帳じゃないか」
「え、え? あれ? え?」
自分の持ってる手帳を見直して更に「びっくり」の文字を増やした。何度も手帳をひっくり返したりぱたぱた振ったりと忙しなく動かす。
「永久、お前、何がしたいんだ?」
「え、えへへ、ごめん……間違えちゃった」
慌てて手帳を仕舞うと、がさごそ懐を三度掻き回す。
「こ、今度は大丈夫。ほんと。しっかり見てね」
真剣な顔つきでそーっと手帳を掲げる。
俺の目の前でぱかっ、と開いた。
それは……
「……! こいつは!?」
「明生ちゃん、この町の出身だからよく知っているはずだよね」
永久が手にしていたのは先の手帳とは異なる黒い手帳。この町の誰もが、直接目にしたことはなくてもパッと見ただけでそれが何なのか分かる、正真正銘アイデンティファイな代物。
俺も本物は見たことがなかった。しかし、学校で配られたプリントの中にカラーで写っているのを何度か目にしたことがある。
「NARCOTICS AGENT」の文字、芥子の花を象ったバッジ、そして何よりも、はっきりと記された5つの漢字。
これは……これを持っている奴は間違いなく……
「永久、お前……」
ぐびり、と喉が鳴る。声が引き攣った。
「……まとりだったのか」まとり。麻取──麻薬取締官。
厚生労働省の支部である地方厚生局の麻薬取締部に所属する、警察とは別系統の捜査官。
一般的にはあまり有名な存在ではないのかもしれない。
しかし、この町では違う。この町に住んでいるものは年端のいかぬ子供でさえ、まとりの存在を知っている。野郎のガキが二、三人群れて外で遊べば「まとりごっこ」が始まってしまいかねないほど有名だ。全国的には「けいどろ(警察と泥棒)」と呼ばれることの多いあのゲームも、ここらでは「ばいまと(売人と麻取)」と言われている。学校の校舎を歩けば廊下の掲示物は「ダメ。ゼッタイ。」の類で埋め尽くされているし、「オレ、昨日まとり見たぜー」「うそー」「どこで?」「駅前。塾の帰りにガイジンを怒鳴ってるスーツの男がいてさぁ、なんか捕まえてたぜ」「すげー」「あたしも見たかったなぁ」なんて会話も日常の風景に溶け込んでいる。
まとりは町の子供たちにとって「カッコイイ」と憧れの的であると同時に、恐怖の象徴でもある。
夕方、幸福な家族の団欒を阻むように鳴り響くチャイムの音。玄関の戸を開ければ屈強で目つきの鋭い男たち。「○○さんのお宅ですか? ……上がらせてもらいますよ」。言葉少なに土足で上がり込み、家人の困惑と怒気に満ちた声も気にせず家中を乱暴に漁って回り、目的の品を見つけると表情ひとつ動かさずに逮捕令状を読み上げた後、家族のひとりを連れ去っていく……不文律で子供のいる前では手錠を掛けないらしいが、まとりが家に踏み込んできた日のことを忘れることができず、学校への登校を拒否して引き篭もるケースとて少ないという。
ある日突然、まとりが家にやってきたら……この想像は下手な怪談では太刀打ちできないほどの恐怖を子供たちに植え付ける。
「もう、××くんがそんなに悪い子だと、まとりがお家に来ちゃうぞ」とは小さい子を躾ける際に親たちがよく口にするセリフであり、これを耳にした子供は「やだぁ、やだよぉ」と激しく恐怖して泣き出す。扱いとしてはほとんどオバケと変わらない。「わたしがまとりになったのはね、割と最近なんだよ」
ずずっ、とハイビスカス・ティーを啜る永久。
場所は俺の部屋から喫茶店「ハーヴェスト」に移っていた。
あのあと、永久は恐怖に身を強張らせる俺をなだめつつ、ここまで連れてきた。
もちろん、手錠は繋ぎっ放しで。
手首と手首を手錠で繋いで歩く少年と少女の姿を目にして、「なにあれ?」「うっわぁ、あのふたり、おとなしそうな顔してスゴイ趣味」「流行ってんのかなぁ」「おい、撮れよ、投稿しようぜ」などの言葉がひそひそ囁かれ、居たたまれなさのゲージはマックスにまで達した。デジカメやカメラ付きケータイを向けてくる人の数はひとりやふたりじゃ利かず、既に今ごろは俺と永久の仲良く(……)手首を繋いだ写真は日本全国津々浦々に流れまくっているだろう。考えただけで胃が重くなる……。
年配の人たちは割とあっさり事態を見抜き、近くの子供たちに「見るんじゃねぇ」と言い聞かせつつ視線を脇に逸らした。
露骨に剥き出された好奇心。露骨に装われた無関心。ベクトルが逆でありながらどっちも俺の心にグサグサと突き刺さる人々の反応に晒されながら歩く道中は、言うまでもなく俺の人生における最悪の体験であった。
心の深い場所に刻み込まれ、今後一切消えることはないだろう。
「俺の記憶を消してくれ……」
「ん、どうしたの? 明生ちゃん」
カップを置きながら、俺の顔を心配そうに覗き込んでくる。
「いや、なんでもない。で、なんだって?」
「あ、うん。あのね、わたしは割と最近まとりになって、」
「ああ、それは聞いた」
「そう? でね、この町のことを聞いたのはそれからなの」
「ふーん」
そういえば、永久もこの町の出身だったはずだが、7年前のある日を境にとんと会わなくなった。
「あしたまたあそぼ」って約束したはずなのに、その「あした」が少しも記憶に残ってない。
「永久」
「なに?」
「お前さ、俺らとは昔よく遊んでたよな」
「うん、わたしと明生ちゃんと穂ちゃんと美花ちゃん。よく遊んだよね、冒険したりとか。そうそう、『まとりごっこ』もやったことあるよ」
目線を上にやり、懐かしむような色を瞳に浮かべてくすくす笑う。
「あのね、いっつもまとり役は明生ちゃんか穂ちゃんでね、売人役もふたりのどっちかだったの。わたしと美花ちゃんはまとり役も売人役もやらせてもらえなくて、決まって中毒者役ばっかりだったなぁ。明生ちゃん、『おまらえ、ジャンキーコンビだ!』ってよくからかったよね」
「ああ……そんなことも、あったな」
うっすらと覚えている。天然ボケの永久と泣き虫のバカミカは中毒者の役がよく似合った。「ねえねえ、あきおちゃん」
「なんだ、とわ」
「まやくっておいしいの?」
「おいしいっていうか……よくわかんないんだけど、気持ちよくなるんだって」
「『気持ちいい』って、どんな味?」
「どんなって……」
「どんななのかなぁ。イチゴ味? バナナ味? それとも、スイカ味?」
「たぶん、全部違うよ」
「え? じゃあ、タン塩味とか?」
………「バカミカ、おまえをまやく使用ようぎでたいほする!」
「あー、おーちゃんがミカのことバカって言ったー!」
「うっせぇ、バカミカ! バカでミカなんだからバカミカなんだよ! おれのことは『おーちゃん』じゃなくて『アキオそうさかん』ってよべ!」
「やだもん! 『アキオバカバカん』ってよぶもん! バカが2回だから『バカミカ』よりずっとバカなんだもん!」
「なんだと、この!」
べしっ
「ひうっ! ……お、おーちゃんがチョップしたぁ! いたいよぉ! うわぁぁぁぁぁん!」
ぽかぽか
「うわっ! こ、これは『きんだんしょうじょう』だ! バカミカに『きんだんしょうじょう』が出たぞ!」
………どうしてだろう。思い出してもちっともノスタルジックな気分にならない。むしろメランコリック。
ため息を吐き出し、コーヒーを飲んだ。苦い。しかし美味い。
「でさ、永久。俺たち、ある日を境にして急に会わなくなったよな」
「うん……」
「なんでだろうな」
「『あの日』のことだよね。明生ちゃんは覚えてないの?」
「『あの日』って、なんのことだ?」
「そっか。覚えてないんだね」
納得したようにうなづく永久。俺の方は首を傾げるしかない。
「覚えてない……?」
永久の言う「あの日」がいつのことなのかは分からない。
ただ……「友達の約束」を交わしたあの日。公園で夕焼けを見たあの日以降の記憶がなぜか曖昧になっていることは、ちょっと前から気づいていた。
あの日、俺たちは明日も遊ぼうと約束したのに、次の日以降の記憶がはっきりしない。そして気がつけば、俺たち4人は会うことも話すこともなくなっていた。
どうなってるんだ?
いくらガキが移り気だからって、何の理由もなく友達がバラバラになるなんて考えられないことだ。しかし、事実俺たちはバラバラになっていた。この7年間ずっと。それは確かだ。
だったら、何か理由があった──?
それを俺は思い出せないでいる──?
「……ちゃん」
「ん?」
考えに耽っていた俺の耳に、永久の柔らかい声が届く。
俯けていた顔を上げた。
「明生ちゃんたちは覚えてないみたいだけど、わたしは『あの日』から少ししてこの町を出ていったの。ちょっと遠いとこに引っ越したんだよ。『あの日』のことがあるから、みんなとは連絡が取れなくて。みんなとはもう会えないかも、って思うと寂しくて……でも、また会えるかも、って思うと『頑張らなきゃ』って気がして。いっぱい、いっぱい辛いことがあったけど、いっぱい、いっぱい必死になって耐えてきたの。痛いことも苦しいこともあったけど、『みんなとまた会うんだ。会って、約束を果たすんだ』って思って、一生懸命になったんだよ」
少し遠い目をして永久がぽつぽつと語った。
「あの日」ってのがなんなのか分からないから、永久の言っていることもよく呑み込めなかったが……この、俺の隣で「ほややん」としている和み娘が、俺たちから離れた7年間でいろいろ──言葉に尽くせぬほどいろいろあったんだろうな、とは察することができた。
「そっか」
多くは分からないし、多くは言葉をかけられない。
けれど、たった一言だけ、永久に対して返すことができた。
労わりでも慰めでもなく、ささやかな賞賛を込めて。
「うん。えへへ」
少し照れ臭そうに笑う永久。
その笑顔に、ぼんやりと見とれる。
「で、それはいいとして」
「いいとして?」
「相変わらず現状が納得できない」
チャラリ
手錠を掛けられた方の手を軽く振ってみせる。最初は冷たかった手錠も、今では俺の体温を吸ってすっかり生温くなっていた。
肌に食い込まないよう結構気を遣ったつもりだが、それでも完全に防ぐことは難しく、手首にはしっかり赤い痣が刻み込まれている。もちろん俺だけでなく永久もそうなんだが……なぜか永久の方が俺よりも痛々しく見えるんだろうか。手錠を掛けたのは永久の方で、掛けられたのは俺だってのに。
理不尽だ。
「納得できないって?」
くてん、と首を傾げてみせる永久。
かわいい仕草だが、ごまかされはしない……いや、本人にごまかす意志はないんだろうが、気が緩んでいるとつい勝手にごまかされてしまう。今も昔もこいつの天然ぶりは食わせ物だ。
「あのさ、永久。俺の家に麻薬があるってのは信じられないし、今でもドッキリか何かなんじゃないかって思ってるくらいだけどさ、一歩譲ってホントに麻薬があったとしよう……まったく心当たりないし、何かの間違いだろうけど、それでもこんなふうに手錠で繋がなくったってさ、俺、永久のこと信じてるからそのまま付いてってやったのに」
「うん、明生ちゃん、わたしもね、別に明生ちゃんに逃亡の可能性があるとか、そういうふうに考えているわけじゃないの。明生ちゃんを警戒してワッパ掛けたわけじゃないの。わたしも明生ちゃん信じてるから、ほんとはこんなの必要ないと思ってる」
「だったら、どうして」
「うん……あのね、明生ちゃん」
不意に言葉を潜めた。
「なんだ」
「実はね、わたし、初めてなの」
「は?」
「だから、初めてなんだよ。人に手錠掛けるの」
「はあ?」
「それは、まとりになる際の訓練で何度かやったことはあるけど、こうして実際に容疑者の人に掛けるのは初めてで……ちゃんと掛けられるのかなー、って考えるとどきどきして、手が震えちゃいそうで。だから、いざってとき本当にできるかどうか、試したくって」
「………」
それは何か。つまり、俺を実験台にしたかったとでも?
声に出さず、目だけで訊く。
すると、永久は俺の視線をどう勘違いしたのか、頬を赤く染めて恥ずかしそうに呟いた。
「それに……『初めて』は明生ちゃんがいいな、って」
「………」
ずびしっ
「はうっ」
横並びなうえ遠い方の手を使わなきゃならないから姿勢的にちょっと苦しいが、なんとか手首のスナップを利かせて見事な唐竹割りを見舞ってやった。
「うう、痛いよう」
「ちっとも嬉しくないっつの」
はああ、と盛大にため息をしたところ。
近くに誰かが立つ気配がした。「ふふ、ふたりとも、お代わりはどうかしら?」
穏やかでかつ甘やかな声。
見るまでもないが、しかし別に見ちゃいけない理由もないので視線を声の方に飛ばす。
穂波さん。俺の友達である穂の母親だ。この喫茶店「ハーヴェスト」の経営者でもある。しょっちゅう入り浸っている俺らにあれこれ飲み物や食べ物を振舞ってくれる素敵な人だ。足を向けて寝ることはできない。
「あ、はい。お願いします」
「わたしも〜」
カップを差し出し、永久の茶と俺のコーヒーにお代わりを注いでもらう。
「でも、何度見てもすごいわね」
とポットを傾けながら呟く。
穂波さんが目を向けたのは、俺と永久を結ぶ固い絆。
「──明生くん、しばらく会わないうちに行くとこまで行っちゃって。わたし、びっくりしちゃったわ」
「いや、俺もびっくりはしているんですが」
間違いなく、俺は被害者なんだが……繋がってる相手が天然ボケ汁100%の永久とあっては、外部から見ると俺の方が「何も知らない女の子を弄ぶ変態」となってしまうようだ。
実際、穂波さんが送ってくるのは憐れみとも揶揄とも軽蔑ともつかない微妙な視線だった。
「明生くん、昔はあんなに可愛かったのに……それが今ではこんな、目を背けたくなるようなじっくり見つめたくなるような、不健全で頽廃的な趣味に走っちゃうなんて。『手錠ぷれい』っていうみたいだけど、正直言って感心しないな」
感心されても困るが、ちくちく責められても対処しかねる。俺の一存ではどうにもならないんだから。
「あのね、永久ちゃんと合意の上みたいだから、あまりうるさく言いたくはないんだけど──」
穂波さん、実のところ俺の合意がありません。
「若いからって、あんまり極端な方面に突っ走っちゃダメよ? 無理して鬼畜路線に走らないでもユーザーは付いてきてくれるのよ?」
「いえ、わけが分かりません」
「ねえ、ところで明生くん」
「はい?」
「ひょっとして穂ともこんなことやってるの?」
コーヒーを辺りにぶち撒けそうになる衝動を必死で堪えた。
穂と、俺が『手錠ぷれい』?
あいつに手錠なんか掛けたら、始まるのは『ぷれい』じゃなくて『デスマッチ』だと思うんだが。
その旨を伝えたら、穂波さんは「まあ」と目を丸くした。
「そんなに激しく……!」
「え? あれ? あの、どこをどう勘違いしたんですか? 婉曲表現も誇張も一切ありませんよ?」
「明生ちゃん、すごいんだね」
永久がよく分かってないっぽい声で感心する。
「一応、聞いておくけど、美花ちゃんとは?」
バカミカ? あいつと手錠?
思わず笑ってしまった。
「いやだなぁ、穂波さん。そんなこと、俺がするわけないじゃないですか──」「──手錠なんかしたら、思う存分ぶっ叩けないでしょう」
しん、と沈黙が広がった。
ハーヴェストの床に重い澱が溜まる。
あれ? 外した?
「明生ちゃん、今の言葉、本気だった……」
永久が瞳に恐怖を滲ませ、俺から遠ざかろうとして、手錠に阻まれる。
「そう──真のSMは器具の使用を否定するところから始まるのね」
穂波さんの理解は斜め上を低空飛行で突き抜けた。
「や、やだなぁ、冗談ですよ。あんまりにもからかうもんだから、つい」
焦って取り繕う俺に、穂波さんが顔を近づける。
「ホントかな〜?」
「え──?」
「明生くん、わたしの目をまっすぐ見て言ってごらん?」
目を、って……。
穂波さんの顔が、吐息で触れそうなほど近くに来ていた。
「あ──」
息が詰まり、動悸が早まった。
実のところ、穂波さん俺の初恋の人である。容姿だけでなく、温かでいてしっかり芯の入った性格にガキの俺はメロメロ(やや死語)だった。いや、今でもその魅力に溺れかけているのだが。
大接近した顔は7年前のときとちっとも変わった様子がなく、妖怪じみた若々しさを保っている。下手すると娘の穂よりも若く見えかねない。何せ、胸部に関しては見事なまでのナイチチぶりなんだから尚更──
「──明生くぅ〜ん? 今、どこを見て『やれやれだぜ』って表情したのかなぁ?」
あ。なんか殺意の波動が押し寄せてきた。
一気に「ドキドキお姉さん」ムードが氷結する。
やばい、うっかり顔に出していたのか?
「な、何を言うんですか、穂波さん! 人をどっかの誇り高き血の末裔みたいに! 俺がそんな余裕ぶった濃い顔するわけありませんよ! 改造制服に身を包む度胸もありませんし! お、俺ならたぶん『こりゃ滑走路も引けそうだな。CHICHI71便、テイク・オフ』とかそっちのネタ系に走りますよたぶん」
「そう。何にしろ、わたしの心を深くえぐるようなことを考えていたのは確かなのね」
と胸に手を当て嘆く穂波さんに、つい余計な一言を口走る。
「いや、そこがえぐれているのは最初か──」
ガスッ
「らっ!?」
金属のお盆が縦に、額に突き刺さる勢いで降ってきた。
ヤバイ、こいつはヤバイ。
チョップとは比較にならない衝撃が頭蓋に叩き込まれる。
視界がぶれる。
くらくらと眩暈が止まらない。
悲しくないのにぶわっ、と涙が湧く。
暗闇がどんどんと広がり、目の前の光景が黒一色で塗り潰されていく。
こ、ここでバッドエンドなのか?
怒らせてはいけない人を怒らせたがために──ふっ、と意識が遠のいたと思った次の瞬間、光が炸裂した。
あ、花畑に彩られた大きな川が見える。
川の向こうで母さんが手を振ってら。
ん? 指を7本立てた。
なんだ?
よく見ていると、今度は人差し指だけを立てる。
なおも観察を続けると、その人差し指を左右に振った。メトロノームのような動き。
???
ハテナマークが乱舞する中、母さんは拳を握り、振りかぶって──ハンマーをぶち込むように振り下ろした。
姿勢を戻すと、また指を7本立てる。次に1本。それを左右に振り、拳を固めて──振り抜く。
7、1──ナイ。無い?
左右に揺れる人差し指──メトロノーム──ちっちっち。チチチ。父? いや、乳か?
最後の、拳を振りかぶって振り抜く動作──がつん?
「ナイチチをがつん」?
……はっ!? つまり、母さんが言いたいことは、「『ナイチチと戦え』……?」
言った途端、視界から川と花畑が消え、元のハーヴェストに戻った。
「あれ? いま、母さんが……」
「明がどうしたの?」
「え? あ──いえ」
正気を取り戻した俺は「ふくらんでいない」「ふくらんでいない」「そう ふくらんでいない」「ふくらんでいない……」「そのナイチチを『ガツン!!』だ!」と叫びそうになった口を慌てて押さえ、取り繕う。
「……なんでもありませんよ?」
「そう? まあ、いいわ。それより、あなたたち」
「はい?」
「その遊び、いつまで続けるの?」
と手錠を指差す。
「えっと、じゃあ明生ちゃん、いい加減そろそろ外すね」
カチャッ
ちっこい鍵を鍵穴に突っ込むと、ほんの1秒くらいで鉄の環はあっさり外れた。
かれこれ何十分も俺を悩ませていたのが夢であったかのような呆気なさだった。
外した手錠を仕舞い込むと、ちょっと鬱血した手首を揉みほぐしながら「あはは」と脳天気に笑う。
「いや、『あはは』じゃねぇっつの。どうせなら家出る前に外せよ」
「ごめんね、明生ちゃん」
すまなそうに頭を下げる永久。
許していいのやら悪いのやら、決断できずに肩を落とす俺。
穂波さんがくすくすと笑った。
「あらあら、なんだか知らないけど明生くん、大変だったみたいね」
「大変なんてものじゃないですよ……」
「ごめんね……」
「あー、もう、怒る気失せたからいいよ、永久。で、どうするんだよ、これから」
去っていく穂波さんの背中をちらっ、と見てから視線に永久に戻す。
「これから? とりあえずお代わりを飲むけど」
言って、ずずっ、と啜る。
「そうじゃなくてだな……俺を逮捕したことまでは分かったけど、それからどうすんだよ」
「んー?」
質問の意図がよく呑み込めていないといった表情。
「だから、どっかで俺を取り調べるなりなんなりするつもりなのかってこと。何度も言うけどさ、俺、自分の部屋に麻薬があっただなんて信じられないんだよ。んなもん買った覚えないし……だいたいあれ、かなりの量があったけどいくらぐらいすんだよ」
「んー、1キロは軽くあったから末端で4、500万はするかなー」
「しごひゃくま……」
絶句する。
一介の学生がポンと出せる金額じゃねぇだろ、それ。
「おいおい、俺がそんな大金用意できるわけねぇだろうが……調べりゃすぐ分かるだろ?」
「あー、うん、明生ちゃんの口座は調べたけど、動いていたのは月に数万円程度だったね」
「な? 俺なんかが4、500万も都合しようとしたら絶対その痕跡がどっか残るはずだと思うけど、なんかあったか?」
「なかった」
拍子抜けするほどあっさり認める。
「ほら、分かっただろ? なんかの間違いだって。どういう間違いだか知らないけど、ちゃんと捜査してくれたら俺の無実は判明するって」
話の流れからしてなんとかうまく行きそうな感触を得て、俺はほっとひと息つく。
「………」
永久は答えず、黙り込んだままカップの中のピンクを見つめていた。
「おい、永久……?」
「明生ちゃん、ちょっと聞いてほしいんだけど、いいかな?」
「いいかな、って?」
「うん。話したい話があるんだよ」
「話……?」
「ちょっと長いけど、今回のこととも関係あるから」
よく分からんが、そう言われては断るわけにもいかない。
「分かった。聞くよ」
「うん」
深呼吸をひとつして、永久はゆっくり話し始めた──むかし、むかし。この町がまだひとつの小さな集落だった頃。
人々は穏やかに、平和に日々を過ごしていた。
だがあるとき、次々と民が呆けていく怪事が続発した。
彼らは仕事をする手を止めて日がな地に座り込み、呼びかける者の声にも応えず虚ろな視線を宙に彷徨わせ、無為な暮らし──もはや暮らしとさえ言えない毎日を送るようになった。
食料も取らず、水も飲まず、周りの物事に一切反応しない。そうこうするうちに衰弱し、やがては死に至る。
原因不明の怪事に、集落民たちは恐怖を感じた。
生きることをやめ、人間であることを放棄し、道端に転がる石と同列の存在になりながら死んでいく人々の姿を見て、「あたかも人ならざるものに魂を取られてしまったかのよう」だと怯えた。
病か、呪いか、祟りか。しかし、今までずっと平和だった集落に、事の起こりと察することができる凶事はなかった。
原因を探る一方で、怪事に襲われた人々の対処も問題となった。
治療という行為は時として治療する側に危険をもたらす。
ひょっとして、彼らを治そうと世話をした者までもが怪事の餌食となるのではないか?
はっきりと言葉には出さなかったものの、そう疑った民はひとりの若者にすべての面倒を押し付けた。
若者に関する記述はあまり残っていないが、どうも集落の医師に付いていた弟子のようであると推察された。それも恐らく、呪医。
彼がいかなる治療行為をおこなったかは断片的に伝えられているが、何にしろ、その一切が無駄になったことは確かだった。
ひと通り死者が出たところで怪事は収まった。諸説はあるが、二桁も行かなかった可能性が高く、集落の存亡が掛かっていたほどではないが捨て置けない事態であることは変わりなかった。
しばらくして集落民の間に『山で人とはかけ離れた姿の化け物を見た』という目撃談が相次いだ。
山に現れる化け物については以前より言われていたことであり、このときの怪事との関連も具体的に何かがあるとは断言しかねた。
ただ、『魂を取られた』人々はいずれも山の中に入ることが必要な仕事を生業とした者ばかりなので、傍証はあるにはあった。
山──このひとつの接点から、いささか短絡的に『今回の怪事は山の化け物の仕業』との結論が下された。
かくして山狩りが始まった。「──明生ちゃんはこの話、知っているかな?」
「ああ」
うなづく。
永久が語った話は、昔祖母に聞かされたことがあった。この町に伝わる古い物語のひとつとして。題はそう──
「『まとり』、だな」
「うん。『魂を取る』で『魂取(たまとり)』、これが訛って『まとり』と言われるようになったっていうのが通説だね」
「続きは確か、呪医の若者がたまたま『まとり』を見つけてしまうんだっけ? それで『まとり』と会話してから、隙をついて──殺した」
「そう」
「化け物だからって、のんびりお喋りした相手を殺すというのはなんか、理不尽というかひどい気がして『いやだなぁ』って思った覚えがあるよ。俺、言ったんだ。『ともだちになれたかもしれないのに、なんでころすんだよ。せっとくすればいいじゃん』って」
「あはは、明生ちゃんらしいね」
永久は軽く笑ってから、話を続けた。若者が『まとり』を殺したことで、集落は無事平穏を取り戻した。
誰もが最初はそう思っていた。
けれども、集落では相変わらず人の呆ける怪事が連続した。
そんな、化け物は死んで、やんだはずなのに──ふたたびの災厄に、人々は恐怖に陥った。
今度は山に関係した職の者ばかりでなく、まるで関係のない川近くに住む子供たちにさえ被害に遭った。
殺された『まとり』が集落を恨み、呪いを掛けたのではないか──
その噂はあっという間に広がり、すぐに『真実』として受け入れられた。
つまり、この怪事を終わらせるために、ひとりの人間を生贄にいることで集落の意見がまとまった。
『まとり』を殺したのは、あの若者だ──ならば彼が『まとり』のために死ねばよい。
こうやって若者は集落全体から死を強要され、孤立無援の彼はおとなしく生贄となるより他なかった。
そのはずだった。
若者以外は誰も、その流れに疑いを抱かなかった。
しかし──当の若者は集落民の代表から話を聞かされて、嗤った。
顔全体を歪め、ひどく禍々しい笑みを浮かべた。
身体の周りに鬼気が生じ、若者の前に来ていた者たちは腰を抜かすほど驚き、怯えた。
まるで、『まとり』に取り憑かれたかのような様であったという。
既に彼の身に呪いが及んでいたのか、と民たちは恐れつつ嘆いたが、若者はそれを笑い飛ばした。
違う、己は呪われてなどいない。己が、己こそが『まとり』となったのだ──
決然と言い放ち、哄笑。周りの空気がびりびりと震え、聞く者の耳を刺し、肌という肌を粟立たせた。
若者の言葉を否定する者はいなかった。皆、黙って聞いていた。
不意に誰かがぽつり、と漏らした。
化け物──「若者は『まとり』を殺す前に言葉を交わしていた──そこで、『魂を取る』秘術を聞き出し、会得したってわけなんだよな」
「うん、そうだよ」
「んで、しばらくはその若者が『まとり』として君臨し、集落を支配したんだろ。秘密は自分の子孫にだけ教える一子相伝を続けて、長らく支配が幾世代にも渡ったが、あるとき秘密がバレて一族郎党皆殺しにされた……つーところで了。嫌な話だったからあんまり思い出すこともなかったな」
肩を竦めて見せるが、「似合わないよ明生ちゃん」と即座にツッコまれてめげた。
「でね、明生ちゃん」
「うん?」
「『まとり』の秘密がなんだったか、分かる?」
「え──」
永久の予想外な言葉に、声が詰まった。
秘密が何かって……確かにこの手の話では一番の核心になるはずのポイントだ。けど俺は、ただ「秘密を知られて殺された」という話しか聞いていない。
首を振った。
「知らない」
「あのね、単刀直入に言うと、『まとり』の秘密は麻薬だったの」
「はぁ!?」
「品種なんかは分からないけど、この町の民俗学者さんの見解はそれで一致しているんだよ。『まとり』となった若者とその子孫は食事や飲み水に混ぜてそれとなくみんなに麻薬を服用させて好きなように操っていたってわけなの」
民俗学なんて知らないが、にしてもこれが妥当性のある話かどうかはかなり疑問がある。
「んな無茶な話が、」
「恐らく、最初の『まとり』は大陸から渡ってきた異人さんだと思われるの。『まとり』が外見からして化け物のように伝えられているのは、『話に尾ひれが付く』のような誇張じゃなくて、根底として人種の違いがあったと思われるの。日本に渡って、平地に住むことができなかった異人さんは山で生活することになった。異人さんが麻薬──キノコか草か、そんなことも分からないけど──を、たぶん自分で使用するために栽培していたはずなんだけど、どういったわけか山に入ってきた人たちに渡ってしまったの。異人さんに興味を覚えた人たちがこっそり取っちゃったのかもしれない。耐性も築かれてなくて、自分の限度も分からないその人たちはあっさり服用しすぎて精神や肉体を破壊してしまった。それが『魂を取られる』って現象の真実だったの」
「──はぁ」
反論の余地も認めず畳み掛けるように話し続ける永久。
俺は聞き役に徹するしかなかった。
「秘密を知らない間、集落の人たちは若者の子孫が『まとり』から受け継いだ奇怪な神通力でも働かせているんじゃないか、と怯えていたんだけど、ひょんなことから秘されていた麻薬の存在を知ってしまったんだよ。文献によると、既に精製されて粉状になっていたらしくて、原材料は分からない。試しに舐めてみた人がひどい幻覚と倦怠感に襲われて、『この粉が「まとり」の正体だ』と喝破した人たちは『まとり』の一族を滅ぼして、家に火を放ったの。こうして『まとり』は潰えて、麻薬も姿を消した……はずだったの」
「はずだった、って」
やけに思わせぶりな言い回しだ。
そのとき、穂波さんが奥から出てきた。
「明生ちゃん、永久ちゃん、わたしはちょっと出かけるけど……お店のこと、頼めるかな? 表のプレートは『準備中』にしておくから」
「あ、はい」
「大丈夫ですよ〜」
「そう。じゃあ、お願いするわね」
にっこり笑って軽く手を振ると、穂波さんはハーヴェストの外へ出て行った。
ぼんやりとその背中を見送ってから、ふたたび永久の話に戻る。
「──で、それから?」
「『まとり』の一族は絶えた。それは確かだったんだけどね、麻薬そのものは根絶しなかったの」
話しながら永久はカップの取っ手をつまんだ。
そっ、と持ち上げる。
「なんでかって言うとね、」ドカッッ
突然の破壊音が耳朶を打った。
「な、なんだ!」
思わず席から立って音の発生源へ目を向けた。
ハーヴェストの入口。手動で開けるドアを蹴破って、三つの人影が店内に侵入していた。
黒いスーツを身にまとったそいつらの顔。サングラスに隠されているものの、それでもなおハッキリと分かるくらい俺にとってどれもよく見覚えのあるツラだった。
「お、お前らは……!?」