第七景 秋は名残り日アフターカーニバル


 平和を呼び戻した生徒会室の戸を開けて静かな足取りで入ってきたのは他ならぬ神沢学園生徒会長、一乃谷愁厳その人だった。白い学ランの上でいつもと同じく表情の読みにくい生真面目な相貌を保っているが、付き合いのある者ならその顔に疲労の色が濃く滲んでいることを見出すのは難しくなかった。
 というわけで心配そうに見守る一堂の中から俺が真っ先に声を掛ける。
「会長、大丈夫ですか? 疲れているように見えますが」
「ああ、大丈夫だ。双七君、加えて皆にも心配させてすまない。──それと昨日、刀子のしたことだが」
「あれは──とりあえずは片付きました、よね?」
「うむ……刀子とも充分に話を重ねた結論からすれば、そう考えてよかろう。もっとも、あいつは妬心に衝き動かされて無闇に友人を傷つけ、こ、こい──ああ、ごほん──恋人である双七君までにも、その、口には出せぬような真似をしたらしいからな」
 横目で首に巻かれた包帯を見た。
 結局、昨日はネック・ハンギング・ツリーで窒息死寸前まで行って意識を失ったものの幸いギリギリ崖っ淵で生還できた。
 ハッと我に返った刀子さんが慌てて俺を下ろし、「どうしましょう、呼吸が停止しています! 心臓も動いていません! あああ何て事、すったもんだの末に和解したのに終わって早々双七さんをくぴっと扼殺しちゃうなんて……いえそれともこれは縊殺? ってそんなことはどうでもよろしくて!」とおろおろし出したので、「こういうときは人工呼吸と心臓マッサージよ!」とすずがアドバイスを飛ばし、そういうことになったという。「刀子パニくってて加減とか忘れそうになってたから、わたしがいなきゃもう少しで双七くんの肋骨をベキバキと折り砕くところだったわ。感謝なさいね」と、帰宅するなり俺に正座させて説教モードに入ったすずはポンポン頭を叩いてそうのたまった。確かに彼女の対応力には感謝するが、「……それとね? 刀子って気道確保するときに『右手で』口とか鼻とかベタベタ触っていたわよ」と付け加えるのはよしてほしかった。
 なんにしろ、失禁もしなかったらしいから上出来だ。しかし首にはくっきりと痣が残ってしまったからこうやって包帯で隠している。クラスメイトには「キスマーク? ねえそこにキスマークがあるの?」とバカなことを質問されたが笑ってごまかしてやった。勘違いするならすればいい。恋人に縊り殺されかけたとバレるよりかはマシだ。
「落ち着いた後は盛大にめげていた。ひとまずは話し合いも平和的に済んだようだが、やはり内心忸怩たるものがあるようだな。もう少し一人で気持ちの整理を付けたいと言っていることであるし、あいつが皆の前に顔を出すのはしばらく先になると思う。それまでは俺が出張ることになる。刀子の壊した机、ガラス、トーニャ君の私物、クリーニングに出した制服、それと文壱による壁の破損についての修繕や賠償に関わる手続き、資金の捻出は代行しよう。後で刀子自身に謝らせるとするが、俺からも皆に詫びたい。すまなかった」
 腰を折って深々と頭を下げる会長に、最初に反応したのは七海さんで、彼女は眼鏡の端を押し上げながら立つと慌てて言い募った。
「いえ、頭をお上げください、会長。今回の件は刀子さんも悪意があってしたことではありませんし……えっと、嫉妬に狂ってしたことって悪意があるとは言わないわよね?」
「さりげなく『嫉妬に狂って』とか無礼なフレーズを混ぜんなよ伊緒。とにかく愁厳、お前が謝るこっちゃない。それと刀子の奴たぁ、んー、謝ってもらうよりもっと膝割って話してーな」
「わかった、それについてはあいつとも話し合って段取りを組むが、刑二郎……割るのは腹であって、膝は交えたり突き合わせたりするものだ」
「意味は伝わってんだからいいじゃねーかよ、細けぇな。だいたい『腹を割る』ってのはよー、イメージが割腹とか切腹みたいで気持ち悪ぃんだってば。腹割って話すってお前、『殿はこのようなものを……』なんつって臓物引きずり出しながら話すのかよ! って感じしねー?」
「そんな気がするのは……っ、あんただけよー!」
「さすがに……それは……ちょっと」
 七海さんと美羽ちゃんのふたりから否定され、孤立無援となった先輩は「へーへー。そーです、どーせオレだけですよーだ」とそっぽを抜いて椅子の背に体重を掛けてギシギシ軋ませた。強がっているが「みゅうまで言わなくたっていいじゃんかよ……」とひっそり凹んでいる。
 ちなみに七海さん、一瞬手元のボードを掴んで引き寄せかけたが、途中でピクッと腕を震わせて離してしまった。条件反射で上杉先輩を叩こうとしてから、美羽ちゃんの存在を思い出したのか。今までは気安く殴っていた幼馴染みでも、美羽ちゃんとの関係が進展した今は立場として微妙なものを感じているらしい。時たま何かトーニャに相談しているふうなところを見かけることがある。
 そのトーニャはかぶりを振って答えた。件の制服はまだ汚れが落ちていなくて、替えも洗濯中だったとのことから七海さんの予備を着用している。若干ダボダボで裾や袖が余っており、どこかのハカセみたいになっていた。
「私については別に構いません。機器の予備は豊富にありますし、それに一つは完全に壊れたわけじゃなくて直したら無事動きましたので。あ、クリーニング代はもらっておきます。はいこれ領収書です」
「うむ」
 頷いて受け取り、席に就いたところで会長は首を捻る。いかにも腑に落ちないといった面持ち。
「ところで、事件の発端は結局なんだったのだ? 刀子は双七君が姉川君と浮気しているのだと勘違いして暴れたとのことだったが、なぜそんな勘違いが起きた? 気にはなったが、どんよりと落ち込んでいるあいつから詳しい事情を探り出すのは忍びなく、非常に大雑把な概要は理解したものの……根本を成す経緯がよく分からん」
「えーと、やっぱりそれは実物を耳にするのが速攻」
 自力で直したらしい例のボイスレコーダーを、ダボい袖から滑らかに引っ張り出す。
 さくらちゃんが「ああ、やめてくださいよぅ!」とあせあせ慌てながら抗議するが寒い国からやってきた少女はニタッと笑って封殺した。
「ついでに事件の一部始終も別口で保存していますのでどうぞお聞きください、ええそれはもう一切の遠慮も何もお構いなく。何せ会長はある意味で最たる当事者なのですから」
「一部始終って、ちょっ!? 何ですそれ!? 聞いてませんよ、何勝手に録音してるんですかトーニャ先輩ぃ!」
「フフ、さくら、元はと言えば私が勝手にあなたの声を収録したのがキッカケなんだから今更言っても遅いわよ。それとも何かしら、私があの美味しい状況でぼんやり眺めていただけだったなんて本気で思ってたの?」
 こいつ、反省する素振りはあったくせにちゃっかり記録に取ってやがったのか。抜け目がないというか、改めてこいつが一番の元凶であったのだと痛感する。
 ロシア、恐るべし。たかだか一介の学生がスパイ並みの行動力を持っているなんて。
「最たる当事者──?」
 女型悪魔と後輩少女の遣り取りに気を逸らせることもなく、会長は訝しげに呟いた。
 トーニャに言われたことが気になっているらしい。うん、まあ、気になるよな、そんなこと言われたら。詳細を知りたくもなる。たとえ、知らない方が幸いだったとしても。
「とにかくお聞きください」
 起動。さくらちゃんが「あ゛ー! あ゛ー!」と妨害音声を発しながら両掌を小刻みに耳に押し付けては離し自らの聴覚を攪乱するという奇行に及んでいたが、他のみんなはレコーダーの方に注意を集中させている。一人だけ浮いてるさくらちゃんがいささか憐れだった。
 カチッ

『くほぉぉぉおっ! 双七くん、俺の中で君の熱いソウルが炸裂! 震えるぞマイフレンド! 燃え尽きるほどにヒートだ! ふあああ! 一乃谷愁厳──山吹色の菊門疾走ゥゥゥ!!』

「は?」
「おや?」
「む?」
 初めて聞くことになる七海さん、狩人、会長が面食らった表情をする。
「うあああああん! もうお嫁に行けませーん! 双七さんのところに愛人に行きますー!」
 真っ赤になった顔を両手で覆い隠して不穏当な発言を叫びながら、さくらちゃんが生徒会室を走り去っていった。
「あ、さくら……!?」
 美羽ちゃんも後を追った。
 部屋の外から「うおっ、姉川さんが愛人宣言!?」「双七さんって誰だよ!? やべぇ、俺そいつ殺してぇ!」「確か生徒会のー、新しく入ったー、影の薄い人ー」「でもあの人って三年の一乃谷刀子さんと付き合ってるんじゃ? 正門の前で衆人環視のキスしたって噂だし」「なになに、二股? 三角関係? 修羅場かみんぐすーん?」「やっべ、俺やっべ、てっぺんきた。久々にキレっちまったよ……ここじゃまずい、屋上に出ようや」「お前一人で勝手に出てこい」「ダメだ! 俺はもうダメだ! 姉川さんが好きで一乃谷先輩にも憧れていたのに! くあー、もう討ち入る! 生徒会に討ち入ってやる!」「乱心するな! ここは校内、校内でござる! やるなら下校中に人気のない路上でこっそりとやれ!」「おうよ全殺しだ!」「とりあえずー、如月双七はー、『生死問わず──デッド・オア・アライブ』の賞金首確定だねー」「きっとあのマイナーな学園新聞のお尋ね者コーナーに載るよ」「これでまた再起不能になった生徒が闇に葬られるのね……」とざわめきが届いてきたことは聞かなかったことにしよう。聞かなかったことにしたい。
「これは……姉川君の声だな?」
「そう……ですよ、ね?」
「うん、僕もそう聞こえた」
「誰が聞いても第一声はそれですね。ええその通り、さくらがこれを言いました。本人逃げて証言取れませんが」
「本当だからこそ居たたまれなくて逃げた、という解釈で概ね間違いなきものと思う。それで──これはなんだ。はっきりと俺と双七君の名前が入っていたが、意味がまったく不明じゃないか」
 常識人として疑問を顕わにする会長に、トーニャがスッと一つの冊子を差し出す。
「ならば御一読を。彼女は単にこの本を迂闊にも私の前で読み上げてしまうという愚を犯しただけに過ぎません」
「これは?」
「会長はご存じないかもしれませんが、藤原先輩の件に関連して作成した資料──の一部、ということで了解してください。この冊子は後半部で、実際に使った前半部は今手元にありません。しかしこれだけ読んでも内容は理解できると判断いたします。じゅーぶんに」
 あ、笑みが黒くなって目がキュピーンと光った。
 それを見ても怯む素振りを示すことなく、少し眉を吊り上げただけで冊子を受け取った会長がパラパラとめくって目を通し始める。黙々と精読をこなす。読み切って本を閉じて一つ大きな溜息をついた後、「ふん!」と力任せに破り捨てた。
「こんなに不快なものを読んだのは初めてだ……思わず破ってしまったがすまない」
「いえ、単なるコピーの一つですからお気になさらず」
「まだあるのか、それ」
 傍から聞いていた俺もうんざりする。
「聞きたいのだがトーニャ君、この、俺と双七君の特殊な関係を捏造するような文章を書いたのは誰なのかね」
「私の兄ですが」
「そうか……」
 会長はしばし瞑目し、やがて結論が出たとばかりに顎を引いた。
「トーニャ君。悪いが、俺は懲らしめねばならんようだ。君の兄上殿を」
「いえ、懲らしめようと思って懲らしめられるタマじゃないんですけどね、実際のところ。でも会長がどうしても一矢報いたいと言うなら止めません。好きなだけやっちゃってください。しぶとさに関しては皮下脂肪たっぷりのホッキョクグマも顔負けですからちょっとやそっとでは死にやしません」
 兄弟愛の実在を疑うようなセリフに頷くと、会長は椅子から腰を上げた。
「では討とう。トーニャ君の兄上殿を。それからトーニャ君自身についての処分も一考する」
「あ──」
 しっかりと悪戯の企図が見抜かれていたことに「しまった」という顔をするトーニャを尻目に、会長は「諸君、解散だ」と生徒会本日の散会を報せた。
「んじゃー、伊緒、オレは美羽捜してから帰っ」
 ドンッ
 余所見しながら歩き出したせいで、上杉先輩は椅子を引いて立ち上がるところだった狩人と衝突した。
「げぶぁっ」
 椅子ともつれ合ってぐちゃぐちゃになりながら即死する狩人を見て「あちゃー」と頭を抱える上杉先輩。その頭をすかさずパシンとボードで叩くのはもちろん七海さん。
「バカ、ちゃんと前見て歩きなさいよ!」
「ってーな。確かに、オレが悪かったけど──すまんなー、狩人──そういつもいつもポンポン殴んなよな。……ん? よく考えてみると最近はあんまり殴られてなかったような。あれ? 気のせいか?」
「き、気のせいに決まってるでしょ。なんでわたしが、あんたを殴るのに遠慮しなきゃなんないのよ」
 言いながらも、反射的に手が出てしまったことを悔やむ顔をする。先輩は頭をさすりながら「?」と疑問符を漂わせたがすぐに消した。代わって、既に変死体となっている狩人を見下ろす。
「なんかもう、こんがらがっててどっからが狩人でどっからが椅子かよく分かんねーな。知恵の輪かよまったく。しゃーねえ、椅子ごと運ぶか」
 怪力を発動して持ち上げ、「ちゃんと後で返しときなさいよ、椅子」という言葉に「へーへー」と投げやりな返事で応じた。
「だいたいあんたはねー、普段から軽率で不注意なの。それが祟ってるんだってことキッチリ自覚しなさい」
「だーもううるせえなお前は」
 言い合いながら歩き出すふたりの姿を見ていると、一度根付いた関係ってものは変わるようで案外変わらなくて、それでもやっぱり変わっていくものなのかな、と思ったりする。七海さんは上杉先輩と一緒に歩く際の距離を測りかねているふうなのに、会話の合間に見せる表情は穏やかだった。
 ふたりを見送ってから俺も席を立ち、会長の背中に付いていった。
 確たる足取りで歩み行く、その大きな背中に。
「ちょっと、わたしを置いていく気?」
 すずまで付いてきた。
「あのね、そーしちくん? 言っておきますけどね、刀子のことといいさっきのさくらといい、キミは態度をハッキリさせないせいで起こしている面倒事が多すぎ。何事にも毅然とした姿勢で臨まないと人生これ正にのーふゅーちゃーよ。今度も姉として心配だからちゃーんと付いてって手伝ってあげますからね」
「いいけど、危なくなったらまた逃げる気か、すず。いや、いいんだ、本当に危ないときは俺を置いて逃げてもいいんだぞ。いやいや、恨んでなんかないからな。この前のことなんてちっっっとも恨んでないから、うん」
「ばっ……! 逃げたんじゃないって何度言えば分かるわけ!? 双七くん、ヘタレなくせに粘着質だよ! ヘタレで粘着質なんて最悪だかんね、もうっ」
 ぷんすか怒ってみせるこの逆切れ狐になんか言い返してやろうと思ったら機先を制された。
「ふん……あのときは刀子のことを嫉妬深いとか何とか言ったけど、キミだって結構独占欲強いでしょーが。わたしが八咫鴉のところへ遊びに行くたんびに見せる『やだっ、ボクを置いてっちゃやだっ。お姉ちゃぁん、行かないで……』な重度の寂しがり屋ぶりからしても明々白々じゃない、このシスコン」
「シシシシシシスコンじゃないやい!」
「まー、刀子とはいいカップルなんかもね。そういう依存erなトコ」
「えっ?」
 珍しく俺と刀子さんの交際を認めるような発言にびっくりしていると「ち、違うって! お似合いだからって別に、わたしが認めてるってことじゃなくて!」と手をぶんぶん振って注釈を付け加えてくるんでおかしくなってくすっと笑ったら、ジャンプしてはたかれた。
「ふむ、ふたりとも仲の良いことだ……」
 誉めてはいるが少し呆れているようでもあった。
 生徒会室を三人連れ立って退出する。
「──────!」
 出るなり殺気だった群衆が俺を視線で刺し貫くが、会長の姿を見て沈黙。「月のない夜は気をつけろよ……」「そうやって笑っていられるのは今のうちだぜ……」「てめえは全校の巨乳スキーを敵に回した……」「どうでもいいけど社会の窓がめりっさ開いてるよ……」と掛けられた声の最後にだけ反応して慌ててチャックを締める。股間部をさらけ出すことについて少しトラウマ気味になっていた。
 やがて群集の途切れるところまで来る。すると文壱を担いだ会長は廊下を進みながら、気負う様子もなく平然とさも当たり前のことであるかのように、一つのセリフを口にした。こっちが照れて頬をポリポリと掻きたくなるくらい、真っ直ぐな気持ちの篭もったセリフを。
「──いざ赴かん。双七君と俺との、正しき友情と友愛に懸けて」
 同意を表すかのように、背で揺れる重厚長大の日本刀がカシャリと金属音をこぼした。

「ふむ、鞘鳴りか。どうやら刀子の奴が乱暴な扱いをしたせいで鯉口が歪んでしまったようだな」
「あのー、会長……綺麗にまとまりかけてるんですからわざわざそんなこと言わないでください」

 ──衆道はシグルイである。
 のかどうかは知らない。後のことはもう、今回とは別の話だ。
 一つ言い置くとすれば、トーニャのお兄さんという人物は妹の性格に相応しくやっぱりただものじゃなかった、ということだけ。それだけにしておこう。

(了)


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