第五景 猫たちの挽歌キャットイートキャット


 ふーん、俺、さくらちゃんと寝たんだ、へー。いつどこでだろう。
「「「なっ……!?」」」
 驚愕の三重奏が耳朶を強打する。靄がかっていた頭がほんのり醒めた。
 あれ、みんな、なんでそんなにびっくりしてるの?
 俺とさくらちゃんだよ?
 仲の良い者同士なんだから、一緒に寝たりすることだってある、よ、ね……
「って、そんなことはないっ!」
 ハッ、と我に返った。慌てて周りを見た。
「何言い出してるのよ、さくら! あなたってばこんなときに何を考えてるの!?」
 目を見開いたトーニャが叫んだ。
「嘘……嘘よね、双七くん……? さくらの言ってること、でたらめだよね? わ、私は信じてる……わよ? ああでも……さっきの鼻の下をだらーんと伸ばした顔……うっとりとイッちゃってる目……いくらスケベな双七くんでもあそこまで弛緩しているのは見たことない……」
 視線を脇へ脇へとズラしていきながらうわ言のようにすずが呟き続けている。
 加藤教諭はそうした混乱を尻目にポケットからタバコを取り出すや、ライターで点火して吸い始めた。
「ふぅ〜……つまり、あれだな。三角関係ってわけか」
「妙に落ち着き払ってますね。教諭」
「なに、長年教師をやっていればこうした場面の一つや二つ。ま、これで余計に俺が首を突っ込む理由はなくなったな。相談なら乗るが無理矢理仲裁することはせん」
 干渉する意志の喪失を告げ、のんびりとタバコを喫む。眼鏡レンズの向こうで二つの眼差しが細められた。
「それで如月、今お前が一番向き合わなきゃいけないのは、あいつじゃないか」
 加藤教諭が指差すところ。見るまでもなく、そこに誰がいるか分かりきっている。
 分かりきっているからこそ、振り向きたくなかった。「あ、さっきのさくらちゃんのセリフ、ナシってことで。もっぺん最初からお願いします」とリテイクをかますことができるなら、振り向いてそう言いたかった。叶うはずもない。儚い幻想だった。
 とはいえ逃げてばかりでは足場なんて確保できない。今いる場所に踏み止まりたかったら、気をしっかり持って現実に直面する勇気を掲げねばならない。それはトーニャに胸の話を振るくらい絶望的なミッションであり、野蛮な勇気が必要となる。だが、蛮勇だって時と場合によっては価値を発揮するものなのだ。
 振り返れ。立ち向かえ。未来は……そこを越えたところにある。
 接着剤で塗り固められたに等しい足をじりじりと動かし、恐怖の対面へと秒刻みで近づいていく。心臓が死刑台を上り始めた。高まる脈拍に合わせて絞刑吏の容貌が徐々に明確となる。
 男は悲しいときに泣いちゃいけない──先生の言葉。
 悲しいわけじゃない、恐ろしいのだ。それで泣きたい気分になっていると言ったら、先生は怒るだろうか、笑うだろうか、呆れるだろうか。
 主観によって無限まで引き伸ばされていくかに思えた時間──やがて錯覚と判明する。俺は永遠が存在しないことを初めて実感として知った心持ちになる。
 うん、そうなのだ。来るべきものは来るべきときに、来るのだ。
 最後の一歩だけ、力強く踏み込む。
 ごまかしが利かないなら虚勢だけで迎え撃とう。
 意を決して今そこにある鬼気を見詰める。
「双・七・さん──?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!?」

 般若を目撃した。

 ただの般若ではない。そんじょそこらに転がっている般若面とはわけが違う。
 名付けるならば──「微笑う般若」。
 にいっ、と口の両端を吊り上げ、目を細め、頬を片手で軽く押さえた般若だ。
 外面如菩薩内心如夜叉や白無垢鉄火という言い回しでは追いつかない。一見柔和そうでいて、その実邪悪──既にしてそんな代物ではないのだ。残酷の鬼気が薄汚さではなく清冽さによってどこまでも際限なく研ぎ澄まされていく。微笑みがそのまま般若と化し、般若としての性質が絶えぬ微笑みによってますます強化される。生々しき永久機関、見る者にとっての無間地獄だ。
 怖ろしいのに目が離せない。忌まわしいほどに魅入られる。二律背反を超越した奇跡の体現だった。
 ぐらりと現実感が歪む。理性が侵され、あらゆる認識が四方八方へめためたに引き裂かれた。
 目、口、鼻、耳、顎、髪、額──顔という一つの印象を構築する記号群が頭の中でグズグズに崩れて、もはやそこに総体としてのアイデンティティーを見出すことさえ極めて困難だった。
「あ────」
「────う」
 すずやトーニャもその異形ぶりを視界に収めて瘧に罹ったように震えだす有り様。妖怪も武闘派も、濃縮され絶対暗黒と化した鬼気には耐えられないのか。
 俺はもちろん耐えられません。漏らしそうです。
 ──あな怖ろしや。其処に微笑ふ般若がゐる。
 本当は刀子さんの人妖が「般若」であると言われたら、今ばかりは信じてしまう。
「せいぜい頑張れよ。俺も応援はしておく。応援だけはな」
「教諭……気休めの応援より、直接的な助けがほしいです……このままじゃガチンコの流血バトルどころか一方的な虐殺ショーに雪崩れ込みそうな予感というか悲観がヒシヒシと」
「如月。今のお前には力強い仲間がいる。お前ひとりじゃないんだ」
 タバコを揉み消すと、真面目な表情を見せ始めた。俺もついつい聞き入る。
「──だから、俺ひとりが欠けてもなんとかなるって」
「力強く離脱宣言!? 教諭、別の意味で男前すぎますよ!?」
「これから雀荘に行く予定があるんでな。おっと、もう五分も過ぎてる。急がなきゃならんのでこれで失礼するよ」
「教諭ーっ!」
 腕時計で時刻を確認するなりさっさかと退室してしまった。引き止めようとする声も虚しく潰えた。
「あ、そうそう、言い忘れてたが」
 と思ったらひょこっと一歩だけ戻った。
 俺を含め、六つの瞳が縋る思いで集中する。
「ちゃんと鍵掛けて、職員室に返してから帰れよ。じゃあな」
 それだけ。
 本当にそれだけ言って引き戸を閉め、足早に立ち去っていった。
「……マジ?」
 見放された、という事実が胸の奥まで浸透してきてズーンと重くなる。気のせいか、身動きもうまく取れない──ってそれはさくらちゃんに抱きつかれているからか、あはは……ははは……。
「いつまでくっつき合ってらっしゃるんですの、おふたりとも」
 ベキベキ、と音のする方、つまり刀子さんへ──もはや般若と呼びたくなるが自制する──注意を向けた。
 相変わらず微笑みを振り撒いたまま、片手で机を握り潰している。上に置かれていた文壱も床に落ちている。
 左手は、優しく自らの頬を覆う右手と対照的に荒ぶるグリズリーの凶暴さを漂わせ、掴んだものを木だろうと鉄だろうと握力だけでバリバリ貪っていた。中国人は椅子と机以外で四本脚のものなら何でも食べる、というジョークがある。机すら噛み砕く悪食はどんなジョークにすればいいのだろう。
 ぱらぱらと落ちる木片や鉄片が足元に堆積し、やがてそれを以前は机として使われていたことを誰も思い出せなくなるくらいに破壊し尽くしたところでグリズリー・レフトハンドは沈静化。次の獲物を求めて空中を徘徊する。
 ひょっとして文壱とか脇差とか得物を持ち出すまでもなく、刀子さんってメッチャ強いんじゃないですか? 拳で学校の壁とかマンションの入口も破壊しているし。おまけに不用意に近づけばぶん投げられる。無手でもどうにかできるって気は、さっぱりしなかった。
「聞いてらっしゃいますか、双七さん、さくらちゃん──即刻、離れなさい。重ねて四つにされたいのなら無理にとは申しませんが」
「お断りします、先輩。あなたに指図される謂れはありません」
 きっぱりと般若──もとい刀子さんの命令を、さくらちゃんは切って捨てた。
「謂れがない?」
「ええ、ありませんとも」
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ、と次元震が轟く。
 生徒会室が異界と化した──重力井戸の底が抜ける。ここはもう、擂鉢状の巣だ。
「随分とまあ面白いことをおっしゃるのね、さくらちゃん。私と双七さんが一方ならぬ仲であることを承知でそれほどナイス度胸なことを口になさるのでしょうか?」
「徒ならぬ仲ってことについては、わたしも負けてませんよ?」
 ふふん、と鼻に掛かった笑い。
 ビシィィ、と目の前の空間に亀裂が入るようなすんごいエフェクトが聞こえたのは幻聴なのか不可視の攻防がもたらした余波なのか。表面上は穏和な口振りで放つ刀子さんの速球を、さくらちゃんが一歩も譲らず打ち返したことで、事態は加速度的に予測不可能な方面へシフトしていく。
「先輩もお聞きになったんですよね、あれ。だったら細かい話はしなくたって事態は明白──でしょう?」
「あらあら、先輩に向かってそんな口を利くとは、さくらちゃんも偉くなったものですね」
「先輩の横暴を聞くばかりが後輩の役目じゃありませんから。身体張って諌めて止めるのも、年下の思い遣りってもんですよ」
「ふふ、思い遣り、と来ましたか。よりによって、思い遣りとは。ふふふ──人の男を寝取っておいてよくもまあ」
「いや、俺、寝取られてなんか、」
「双七さんは黙っていてください」
 さくらちゃんが弁明を遮った。
「これはもう、わたしと先輩の、それぞれの信念を懸けた──戦いですから」
 平然と言い置く。
 いつしか、その顔にまで微笑が浮かんでいることに気づいた。
 衝撃。戦慄。俺はもう、戦場の渦中にいるのだと強制的に理解させられる。
 だが理解はしても覚悟は決められなかった。さくらちゃんの言ってることは詰まるところ虚実でハッタリにすぎないし、彼女と浮気したなんて事実は皆無。ならば、ようやく耳を貸してくれそうになったところで敢えてその嘘を貫くなど、愚の骨頂としか思えない。納得できる事由はなかった。
「もうやめましょうさくら。あなたが何を考えているにしろ、このままじゃ取り返しがつかなくなる……!」
 戸惑いを隠しきれないのは俺だけではなかった。今回の件を仕組んだ黒幕であるはずのトーニャさえ、さくらちゃんの奇行を食い止めようと必死になっている。
「ええ、今回ばかりは狸娘に賛成する。やめなさい、さくら。悪いのはみんな、この妖怪朽木女なんだから!」
「く……っ!」
 ナチュラルに飛び出す罵倒文句に、一瞬怒気を顕わにして握り拳を振り上げるトーニャだったが、ここで口喧嘩している場合じゃないと判断する理性は残っているみたいで、震える拳を「遺憾ながら」という表情で引っ込めた。
「トーニャ先輩、すずさん。お心遣いは嬉しいですけれど、取り返しなんてとっくにつきませんよ。だから後はもう、進むしかないんです」
 俺もトーニャもすずも及び腰で、刀子さんに逆らう気なんてまったくないのに、どうして最下級生のさくらちゃんがこうも好戦的でいられるのか。不思議でならなかった。
「一つ、確認してもよろしいでしょうか?」
 微笑んで訊く刀子さん。
「はい、なんなりと」
 微笑んで答えるさくらちゃん。
「いったいどっちが誘って、そんなことになったんですか?」
「あはは。そんなことわざわざ訊くなんて先輩、もう底が知れましたね」
「なんですって──?」
「考えれば、いえ、考えるまでもなく分かることですよ。双七さんなら、刀子先輩という方がいて積極的に浮気するような人じゃない。あなたに比べて付き合いの深くないわたしだって分かります。ただ、双七さんは場の空気に左右されやすくて流されやすい人ですから、最適な状況で強く迫られたら断り切れないんですよ。あはっ、さすがにここまで言えば分かりますか? ──そうです、わたしが双七さんを誘惑して、先輩の言う『一方ならぬ仲』って奴に陥ったわけです」
「まあ。まあまあまあ、そうなの。あなたから誘ったの」
「ええ、そうなんです」
 うっすらとした笑みで襲い掛かり、ひっそりとした笑みで迎え撃つ。
 鬼気と嬉々。混ざり合って織り成す渾沌は、グロテスクとしか言いようのない生々しい人としての情と欲。
 刀子さんが般若であるならば。
 さくらちゃんは菩薩のフリをした阿修羅か──?
「双七さんと私の熱い仲を知っておきながら、そんなふざけた真似をするだなんて……さくらちゃん? あなたに良心というものはありませんの? ここで恥じ入る気概もないのかしら?」
「人としての良心は痛みますが、女としての欲望が満たされるからトントンですね。後悔はしません。お天道様にも顔向けする気満々ですよ」
 にこにこ顔でなじる声を跳ね飛ばす。鉄壁のトーチカだった。
「こうやって私をどうしようもなく怒らせると分かっていて、それでもやめられませんでしたの?」
「恋って、やめるとかやめないとかって問題じゃないです。先輩も知っているはずですよね。やめた方がいいからやめるなんて綺麗事、口にできますか──できませんよね? そうやって『どうしようもなく』怒っているのは、きっと先輩だって──恋心を発露することにためらった経緯が背景としてあるんでしょうから」
 会話を重ねるごとに、ふたりの関係にどんどんと罅が入っていく。
 口を挟むこともできず、傍観を余儀なくされた俺たち。のしかかる重圧に耐えながら偽りだらけのキャットファイトを見守っていた。
「先輩との仲を犠牲にしたって、みんなと気まずくなったって、叶えたい想いがあるんです。ブレーキなんてとっくに壊れちゃいました。今のわたしはセガールにだって止められません」
「あなたは──何もかも捨てて恋に狂ってしまえるほど、双七さんのことを懸想しているとおっしゃるの?」
「『恋に狂うとは言葉が重複している。恋とはすでに狂気なのだ』ってどっかの詩人も言ってますよ。後輩だからってあんまりわたしを舐めないでください。愛しきあの人のためなら狂気も地獄も冥府魔道もえんやこら、です」
「ふふ、裏切っておいてその態度とはね。さくらちゃん、ふてぶてしいにもほどがあります。もっと可愛げに泣いて謝ってくださるなら赦してあげようと思っていましたのに」
「あなたの赦しなんかいりません。わたしの恋はわたしが赦せばいいんです。──自己完結ですか? 自己満足ですか? ええ、それはそうですね、大いに認めるところです。そのへんに関しては好きなだけ責めてください。でも一応言っておきますけどね先輩」
 笑みが深まる。本当に嬉しそうな顔をする。
「寝取っただの裏切っただの、何眠たいこと口走ってるんですか。夢遊病ですかあなたは。眠たすぎて聞いてるこっちまであくびが出ちゃいます。そろそろ寝言はそのへんにして、いい加減に目を覚ましたらどうです? 恋人ごっこはもう終わったんですよ。本物の恋愛にルールブックなんかないってこと──気づいてください」
 刀子さんは、向かい合ったさくらちゃんの口元あたりを見詰めている。
「随分と滑らかに動く舌ですこと。その舌で双七さんを蛇のように絡め取ったのですか……なんて不埒な舌」
「誉め言葉をどうもありがとうございます」
「よろしければそれがもう二度と双七さんの肌や粘膜をザラザラと撫でることがないよう引っこ抜いて差し上げても、私は一向に構いませんよ?」
「そうやってわざとらしく脅すところに、先輩の弱さが透けて見えます。透けていて脆い、ガラス臭い言葉ですね。そんなのを言う必要のない場面でもいちいち口にしないと安心できない。笑って恫喝するくらいしか浮気の抑止力を持たない。あなたは──子供過ぎます。双七さんを任せられません、彼はわたしがもらいます」
 ギュッ、と両腕で強く抱き締めてくる。体温がやけに熱い。吐息が脳髄を蕩けさせる。さくらちゃんの包容力は異様に高く、気をしっかり持たねば幼児退行さえ起こしてしまいそうだった。
 異界と変じたこの部屋とはまた別の、抗しがたく逃げづらい優しい蟻地獄。二重の意味でここに囚われていることを悟る。もう何に抗って何に逃げればいいのやら。
「あなたなら双七さんを悦ばせることができる、とでも?」
「違いますね。わたしなら、わたしを悦ばせることができる──あなたみたいに中途半端じゃなくて徹底して自己完結してるから独占も押し付けもしないんです。ああ、双七さん?」
「は、はい!? なんでしょう!?」
 動転して丁寧語になってしまった俺の耳元へ、息を吹き込むようにくすぐったく囁きかけてくる。
「なんなら先輩と別れなくてもいいですよ。わたし、形の上では一番じゃなくて二番だって構いません。本妻とか愛人とかそういうこだわりはありませんし、実質が伴えばどーだってオッケーです」
「えっとね、そのさくらちゃん、もうこれやめにしない? 今から土下座して謝ればなんとかなるかもだよ?」
「いっぺん吐いた唾は飲めませんよ、双七さん。やるときゃ徹底しなきゃだめです。何だって中途半端がいけないんです。それに土下座して謝るなんて志低すぎ。土下座して謝らせるくらいの勢いがないと一生頭が上がらなくなりますよ?」
「般若の面と化した刀子さんが土下座して謝るって、それどこのSF?」
「SFでもジャパネスクホラーでもありません。現実問題です。と・に・か・く、答えてください。ぶっちゃけ双七さんはわたしのさっきの提案、どう思いましたか?」
「うん、さくらちゃんの好意は嬉しいけどね──」
 やっぱり俺は刀子さんのことが、と続けようとしてさくらちゃんの「うわあ!」という叫びに掻き消された。
「聞きましたかー、先輩? わたしの好意が嬉しいんだそうですよー! うわあ、うわあ! これってもう両想い、ラブラブですよねー! 言っててわたしもびっくり! お内儀よりお妾さんの方が寵愛されるって本当ですねー! もう既成事実とかいう次元を超えてます! 双七さんはわたしの身体にずっぽり溺れまくりですー! わたしという海から浮上できなくてめろめろのよろよろー! 今や毎晩わたしと肌を重ね合わせていないと夜も明ける気がしませんってー!」
 かなり恣意的に解釈を歪めているにも関わらず、声を大きくして喧伝することであたかも真実を主張しているかのように錯誤させるという、えげつない真似を敢行した。
「さくら! あ、あんたもう言ってることがメチャクチャよ!?」
「さくらが壊れたっ!? ねえトーニャ、さくら壊れちゃったのっ!?」
 度を越えた強引さに外野もあたふたし出す。
「ここ、こういう場合は言霊でどうにかすればいいのかなっ!? ええっとええっと……ああもう、ふたりになんて命令すればいいのーっ!? 教えてトーニャ先生っ!!」
「落ち着きなさい、狂乱狐! っていうかこうなったらいっそ私に『落ち着け』って言え!」
「うん、分かった! ──“落ち着きを取り戻せ”」
 言霊が行使されるやトーニャは焦りの表情を削ぎ落とした。
 代わって現れたのは、普段と同じ鋼のような冷静さ。焦りの色なんて微塵もない。肩を竦めてみせる余裕さえ備わっていた。
 なんか漂う雰囲気がやけにニヒルだ。半分ジャージ姿なんで冴えないが。
 セコンドのように張り付いたすずが声を飛ばす。
「トーニャ、頼むわよ! 荒れまくって収拾がつかないこの局面、あんたが唯一の希望なんだかんね!」
「やれやれ、もう見てらんないわね。なんか考えのあるっぽいさくらには悪いけど──」
 ヒヤリとする視線を四方に投げかけ、
「さっさと終わらせましょう」
 素早く取り出したボイスレコーダーを真っ直ぐ掲げた。
「はいみんな注目ー。ここに、すべてが最初っから狂言だっていう証拠が録音されてまーす。どうぞご静聴にー。先輩、お願いしますから耳を傾けてくだ──」
 刀子さんの返答は豪速の突きだった。
 足元に転がっていた文壱を蹴り上げる──次の瞬間にはもう放たれていた。
 トーニャまで一間半。長尺の斬妖刀、その全長を以ってしても届かない距離を、鞘が埋めた。
 納刀したままの文壱を直上に蹴り上げ、胸先に来たところで雷電の肘撃ち。飛んでいく文壱の柄頭を肘曲げの状態から流れる動作で伸ばして掴んだ。文壱そのものは止めつつ、慣性で鞘をはばきから外してロケットパンチみたいに射出、掲げられたボイスレコーダーを見事に撃ったのだ。拵えの頑丈な文壱とはいえ無茶と言えばあまりにも無茶な扱いだったが、命中精度はウィリアムテルも真っ青。衝突音に続いてトーニャの指からスポーンと離れていったものが欄間のガラスを突き破って廊下の外へ消えた。
 鞘はそのまますっぽ抜けるかと思ったがそんなことはなく、刀子さんの強靭な腕力によってか、刀身を滑っている途中で上方に跳ねて先端部を天井と衝突させてベクトル修正し、スムーズに逆走して元に納まった。鯉口がはばきを呑んで鍔とぶつかりシャコンと軽やかな音を鳴らす。
 付け入る隙のない一瞬の出来事。冷静さを取り戻したトーニャでさえ反応できなかった。
「──人のものを壊さないでください」
 いや違った。彼女の腕、紺色ジャージの内側でキキーモラが巻きついて波状隆起を形成し、袖口から錘の部分が顔を覗かせて蛇みたいに鎌首をもたげている。吹っ飛んだと思ったボイスレコーダーも、表面部分が破砕して前よりコンパクトになっているが、辛うじて手中に残っていた。
 見えなかったのでまったくの想像になる。恐らくトーニャは刀子さんの刺突に反応して腕を動かそうとしたがそれだけでは間に合わないと判断し、即座にキキーモラの紐部を腕に巻きつけ自分を自分で引っ張ってより迅速な回避を試みたのだろう。更に、飛んでくる柄を錘で迎撃して威力を減衰させたのかもしれない。刀が跳ね上がったのは刀子さんの腕力ばかりでなく、トーニャの防御も影響していたのか。
 そんな一部始終、頭から終わりまで刀子さんはトーニャの方へ目もくれなかった。さくらちゃんにひたと視線を据え、右手で頬を押さえ、彼女との臨戦態勢を崩さぬまま──遊んでいた左手で刺突を繰り出したのだ。余技でやるような類の技芸ではない。しかし、一乃谷流とはこれほどのことを平然とこなせる者だからこそ修められる流派なのかもしれなかった。
「さくらちゃん──」
 それ以外のすべてを意識の埒外に置いた風情で、ゆっくりと口を動かし、明瞭な発音で告げた。

「この──泥棒猫」

 取り繕う余地もない、完全無欠の罵声。
 その相貌から微笑みは絶えない。日向の表情。刀子さんは顔の筋肉を固めたように、いっそ見ていて不自然なくらいに静止を晒している。なのにビキビキィとどこかで血管か何かの千切れる音が聞こえてくるのが、凄く怖かった。
「猫、大いに結構ですー。勝手気ままに過ごしてご主人様に思う存分可愛がってもらいますよごろにゃーん♪」
 軽く拳をつくり手首をくいっと捻って猫パンチ気味に俺の頬の撫でた。口元は器用に波を描いて猫口を形作っている。
 ……さくらちゃん、壊れているというかヤケクソになってるんじゃないか? 素面で言えるとは思えないようなことをポンポン言ってガンガン実行してますけど。
 夢オチだとしても納得できそうな流れであるし、今の事態はハッと目を覚ましたところで「夢か……ちょっと惜し、いやいや、でも夢で良かった」と評価する嬉し恥ずかし恐ろし怖しな代物であったが、猫パンチのときに丸め切らなかった親指の爪が当たってちょっと痛かったからきっとそんな安易で毒にも薬にもならない結末は否定されるのだろう。残念だ。
 それにしてもさっきから彼女の吐く息がどんどん濃厚なパフュームを醸し出してくるので、なんか頭がクラクラしてきた。酩酊感に近いふんわりと気持ちいい感覚が全身を包む。床を踏み締める両足の感覚も曖昧になる。世界がうねっているように思えるが俺の三半規管あたりが狂い出しているのか。
 彼女の匂いに酔い痴れ、この身は底なしにへべれけとなっていく。
 やばい、刀子さんに捕らえられたときとはまた違ったニュアンスで思考が奪われる。
 意識が希薄化し──もう何が良くて──何が悪いのか──根底から基準を見失ってしまう──
 理性があぶくとなって弾ける汀まで来ていた。
「まずいわね、如月くんがさくらに篭絡されてきてるわ」
「篭絡ぅ? な、なにがいったいどうなってるわけよ?」
 冷静化したトーニャが解説員のようにしたり顔で述べ、すずに説明を乞われているのが視界の端に映ったが割とどうでもいい気分だった。ぼんやりと目を遣るのみに留める。
「見なさいあの顔。まるで発情期の禽獣じゃない。きっと長時間さくらの香りに当てられたせいで、まともな思考力がなくなって生殖本能が丸出しになりつつあるのよ。さくらの人妖能力『香天女』──明確な効用はないけれど、ライバルとひとりの男を取り合って凄絶に興奮している今は種の尊厳をかけてフェロモンがバンバン垂れ流しになってるんでしょう。こりゃあ如月くん、脳味噌をずっぷり媚薬に漬け込まれているのと大差ないわ」
「うああ! ほんとだ! 双七くんの顔が完璧バカになってるよ! いかにもえっちぃことしか興味がないお猿さんのような!」
 バカとはひどいな、すず。
 でも反論する気力すら湧かない。
 ま、いいか。とにかく心地良い。
「ほら、こうしてわたしが悦ぶと釣られて双七さんも悦ぶんですよ──お分かりになられます?」
 優越感に溢れた──しかしこうしてリラックスして聞くといかにも演技臭いと分かる声で、さくらちゃんが宣言した。なるほど、こうしてみるといかにも三文芝居だった。
 もういい、今はこうしてさくらちゃんの沈みそうに柔らかい場所へ顔を埋めていれば充分だった。
 ばいばい、現実。こんにちは、桃源郷。うーん、極楽極楽。
 修羅場時空から離れたここはもうパライソだった。
「双七さん……!」
 ああ、これ、刀子さんの声だ。でも遠い遠い遠すぎる。なんだか妙に聞き取りにくいぁ。
 目を閉じて考えたところで不意に「おや?」と思う。
 ──刀子さん? どうしたのだろう、口調が少し変だ。でもよく聞こえないから詳しくは分析できない。
 耳を澄まし、もっとよく拾おうと努める。
「双七さん……っ!」
 少し、大きくなった。
 ああでもうまく頭が働かない。せっかく聞き届けた言葉を、すぐに手放してしまいそうになる。
「双七さんっ、双七さんっ、双七さんっ!」
 何度も呼ぶ声がする。そうして強く呼んでいてくれれば、強く導かれるような気持ちがした。
 意識に碇を下ろし、現実感に定点を打ちつけた。
「……刀子、さん?」
 世界が色を取り戻していく。
 俺にとって何が、誰が、どう大切なのか、すべてのピースが在るべき箇所へ嵌まる。
 温かい双胸の揺り籠から起き出して、どこへ向かわねばならないのか──答えが出た。
 分かってみればこれほど簡単なこともなかった。

「双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さん双七さんそうしちさんそうしちさんそうしちさんそうしちさんそうしちさんそうしちさんそうしちさんそうしちさんっっっ!!」

 目覚めれば洪水があった。俺の名前を目一杯に詰め込んだ感情の荒波が堤防を越えて押し寄せてくる。悲しみと苦しみ、恋慕、惜しんで慈しんで、「いかないで」「かえってきて」「そばにいて」と、邪魔な理性と怠惰な本能を蹴散す怒濤が心臓を撃った。
「──っ! 刀子さん!」
 親とはぐれた幼子の不安、自分を守ってくれない不親切な世界に押し潰されそうになっている焦燥感を響かせて俺の名を一心に紡ぎ続ける声が、どこか酔い痴れたみたいにふらつく頭を殴りつけて正気づかせる。
 復調した視界、刀子さんが微笑みをかなぐり捨てて泣きながら両手を差し伸べていた。
「そうしちさぁん!」
 この手を取ってほしい。こっちに来て抱きしめてほしい。名前を呼ばれるたびにその願いが染み渡ってくる。
 頭を振ってまとわりつく香りを振り払った。力と体捌きに任せてさくらちゃんの拘束から脱し、「あわっ!」と足をよろめかせる彼女を尻目に刀子さんに駆け寄った。
「刀子さん──っ!」
「双七さん、まだだめです! 刀子先輩は──!」
 制止を無視。身も世もなく泣き耽って泣き喚く少女の──愛しくてやまない大切な人のもとへ一歩でも早く辿り着きたくて息すら止めた。
「双七さぁんっ!」
 差し伸べられた手に応えるべくこちらも両手を広げた。
 刀子さん、と叫びたくなるが息を止めていたから声は出なくて口を開けたら空気が気管にぶつかって噎せかけた。
 呼吸はこの際どうでもいい。ただ、彼女がこの腕に入ってくることだけを思い浮かべる。
「……双七さん」
 瞳に輝きを取り戻し、涙を止めた彼女が俺を見て一歩近寄る。相対速度が速まり、このままではぶつかりそうなので足を緩める。ゆるゆると緩めた後で別にぶつかっても良かったことに気づく。
 そして無事ランデブーを果たした俺と刀子さん。彼女は触れ合える距離で俺を見上げ、俺の身体に指先を向け、そのまま抱きついたかと思えば、
「ん……」
 だしぬけに唇を奪ってきた。傾けられる顎。柔らかい熱が押し付けられて呼吸が止まる。背中へ回された腕に強く、しかし背骨の砕けるほどではない力が込められ、唇一点の密着感が高まっていく。心臓が激しく踊り出し、近すぎて却ってよく見えない刀子さんの顔に宿っているぼんやりとした赤味がこちらにも伝染してくるのを、内側を駆け上がる血液の奔流で察した。
 目を瞑り、穂先の感触に全神経を研ぎ澄ます。視覚を閉じたって、伝わってくるものは何一つ変わらない。いや、余計な情報を遮断して集中した分だけ、没入が深くなっていく。
 いつかのお返しみたいに、刀子さんは積極的に攻勢に出る。
「ふ……」
 呼気を漏らしつつ、押し付けた唇肉を薄く開いて俺の口を上下に開門させた。もちろん、こちらは無抵抗だ。速やかに無血開城を果たしたことに満足したのか、彼女は唇に優しい圧力を掛けて上唇を食む。それこそ、はむはむという擬音が当てはまるくらいに。
「はむ……ほふ……」 
 次いで下唇も。遂には、自分の下唇を咥内に巻き込んで俺の唇肉を吸い入れ、上の歯列で甘く噛んできた。こちらの上唇が彼女の人中に触れる。濡れた歯が唇の内側に立てられると、軽い痛みが妙に心地良くて繰り返されているうちに陶然としてしまった。産毛に当たる鼻息がひどく熱くてくすぐったい。
「ふぁ──ぷ──にる」
 そして、舌。泡立つような量の唾液を伴って一方的な蹂躙を開始した。歯の表面も、裏も、口の脇も頬の裏側も舌も舌の付け根も、一切の区別なく這い回って掻き回した。
 くちゅくちゅと音が鳴って、口の中に別個の生き物がいる錯覚さえしてくる。
 それは一匹ではない。二匹だ。
 俺の舌も無意識のうちに動き出していた。活発だ。無意識の割には負けじとばかりに果敢にねぶり返している。
「ちゅ──るる──」
 こぼれ落ちそうになる唾を、互いに啜り合う。もうどちらのものか分からないくらいに混ざり合っているくせして、不思議と味の違いで自他の判別がついた。俺自身のものは無味に近く僅かに苦みが感じ取れる程度だが、刀子さんのそれは甘い──微かではきとは言えぬ甘みである。成分の差異なのか主観が作用しているのまでかは判然としない。どっちだって良かった。
「はぁ──」
 なおも貪りたい俺の未練をからかうように、刀子さんは首を引いて口を離していく。汁が糸を引き、重力に負けて曲線に垂れ下がりながらも切れることなく俺たちを結んでいた。透明な、けれど粘りのある絆の糸だった。
「刀子さん──」
「双七さん──」
 名前を呼び合う。どちらも信頼の響きが……あるような、ないような。
 ん? なんか曖昧だぞ? おかしい、刀子さんの潤んだ瞳がどんどん乾いてってないか?
 直感が現状をハッピーエンドと断言するのをためらっていると、彼女はそっと背中から腕を外した。
 解いた両手の片方──右手の人差指を、ズボンのベルトに差し入れる。

「ご褒美の後は──お仕置きの時間です」

 タイム・トゥ・パニッシュ。
 無糖。甘さ控え目どころか、皆無のニュアンスを連れた言葉。酔いが一気に醒めた。
「え……?」
 理解を超えた通告に驚いていると、こちらを見上げる顔には例の怖ろしい微笑が復帰していた。
 瞬間──感じた寒気で、俺は揺り籠から抜け出して棺桶へ入り込んだことを悟った。
 引っ掛けられた指が軽く身をくねらせる。それだけでベルトはたやすく千切れ跳んだ。
 そんな、さっきまで悲痛な面持ちで涙を流していた、唇を交し合ってあまつさえ唾液交換した、あえかな年上の少女の面影は何処に行った?
 まさか──嘘泣き?
 いや。頬には涙の跡がくっきり残っている。刀子さんの性格からして、自由自在に涙を出したり止めたりなんていうどこぞのロシアっ娘がやりそうな芸当をできるとは思えない。
 ならば答えは一つ。刀子さんは本気で泣いて、本気で泣き止んで気持ちを切り替えた。最前のキスがそのスイッチか。泣いた般若がもう微笑う。想像を遙かに凌駕する凄まじい豹変ぶり。強制的に絶句を余儀なくされる。
 反応などできるはずもなかった。
「はい、っと」
 密着した体勢から一閃。上から下へ、やや斜め気味ではあるが貫手の如く鋭い直線軌道を描いた右手が懐中へ突っ込まれた。
 直前には俺の背中に回されて強く抱きついてきた腕が。
 少し前まで刀子さんの頬を押さえていた右手が。
 その白くて力強くてしなやかで温かい指先が。
 俺のパンツに潜り、学園内ではトイレ以外で晒すことのない場所にもぞり、と電撃侵攻してきた。
「ああーっ!? 刀子、なにやってんのっ!? ここ、こんな衆人環視の中でそんな破廉恥なこと、いくらなんでも豪傑すぎるっ!! 公衆の面前でなんて、ああありえないっ!! バカップルでもしないっ、せいぜい布越しに上から触るくらいっ!! いつかの……っていうかさっきもやってたけど、キスなんかとは比じゃないわよっ!? やめてやめてやめて、もうやめなさいっ!! そ、双七くんもちゃんと抵抗しなさいよ何ボサッとしてるのっ!?」
「うっわー。人前で男の股間に手を突っ込む女性なんて初めて見ました。これはあれですね、先輩、一度糸がプッツンしちゃうと後は止め処ない人なんですね。ネジが一本とか二本とかのレベルじゃなくて十本単位で外れているみたい。そこへ迂闊に近づいてしまう如月くんの考えなし加減も最悪。自分から罠を踏みに行くようなもんでしょう。女が涙流したら綺麗なBGMが鳴り響いて『愛してるわー』『俺もさー』とかほざきつつ抱き合ってぶちゅー、感動の拍手に包まれながら閉幕……なんてベタベタなお約束にまみれた御都合展開が現実にあると思ったんですかまったく。やれやれこれは本気で見てられませんね。打つ手がないし私はもう辞去していいですか、後はみなさんにお任せしますから」
「双七さん、だからだめって言ったじゃないですか! 今の刀子先輩は完璧に冷静さを失ってバキバキ情緒不安定なんですよ! 一旦行くとこまで行って落ち着かないとまとまる話もまとまりませんってば!」
 怒号、呆れ、叱責。三者三様の意見を聞き、俺が致命的な失策を犯したことを知る。
 が、もはや後の祭りだった。
「ここは……もう本当に、しょうがない子ですね。さくらちゃんの誘いにほいほい乗って悪さして、まったく省みることがないなんて」
 下半身をまさぐる手。「ここ」がどこを指しているかは、言われるまでもなかった。
 般若の魔手が。鉤となった五指が。俺の、股間を──陰嚢も含めた生殖器全体を鷲掴んでいる……!
 恐怖に縮み上がったそれは何の支障もなく刀子さんの掌に収まっていた。手の皺と袋の皺が混ざり合う感触はどこまでもリアルだ。
「ああ、」
 そっと吐息を漏らす、黒髪の乙女。愁いを帯びた瞳があらぬ方へ向く。
「なんて……なんて脆く、なんて壊れやすいものが、私の手の中に──」
 脂汗が滲んだ。顔面神経が恐慌を来たした。刀子さんの囁きが無数の針となって全身を苛んだ。
 在りし日の思い出がフラッシュバックする。互いに愛を見出して情を交わし合い、睦言を重ねた夜の記憶──遠かった。手を伸ばせば届く日の出来事なのに、ひどく遠くて色褪せたものに思えた。正気を保つためのよすがとするには、あまりにも頼りなかった。
 他人事めいた記憶の群れ──いとおしげに下腹部を這い隅々まで慈しんでくれた刀子さんの手。柔らかく、それでいて僅かに荒れた肌触りさえも彼女の美点と胸が安らいだはずだった。今はただそれが肉と骨で構成された拷問具のようにしか思えない。胸の奥に蠢く感情が軒並み凍結する。冷えた──萎えた──しぼんだ。刀子さんの泣き顔に苦しくて痛くて張り裂けそうだった心も、今や既に空気の抜けた風船だった。
 恋の異端審問官はねっとりと濡れて艶めいた声で執拗に囁きかけてくる。
「お分かりになりますか。コリコリと弾力のあるものに触れていますよ、双七さん? この温かい弾力、心地良い感触。ふふふ……」
 蒼褪めた俺を見よ。その息子に跨る五指の名は「(男としての)死」なり。
「ほら、」
 転がす手つきで睾丸を弄ばれる。揉みほぐされる。腰から頭へ一筋の電流が突き上がった。脊髄が痺れ、全身が無意識に跳ねる。渦中、弾けるような痛みに微かな快感が混じっていることを知って、俺は生物としての男、そして被虐に咽ぶ思春期少年としての業を嘆かずにはいられなかった。
「ビクビクと震えてらっしゃますね──怖いのですか? それとも興奮していますのかしら?」
 自分でもどっちなのか判別がつかなかった。
「あ……が……!」
 漏れる息が荒い。生殺与奪を文字通り手中に握り込まれている状況が、やはり文字通り腰の抜けそうなほどじんじん脳味噌に染み渡って響いてくる。
「私としましてもこのようなことをするのは本意じゃありませんが、やはり物事にはけじめというものが必要かと存じます」
 喋りながら、爪を立てて捻った。激痛に身を捩らせる。
「ぐう……っ!」
「今後二度と他の子に気を移すことなきよう、断腸の思いで儀を執り行いましょう。名はそう、『魂振り』、『魂鎮め』が神のためのものであるとするならば双七さんみたいな人には──『魂潰し』が相応」
 タマを、潰される──?
 脳裏をよぎる映像の数々。廊下の壁を破壊する刀子さん。ボイスレコーダーか何かを粉微塵にした刀子さん。片手で机一個を貪った刀子さん。
 あんな──あんなものを生身の人間が局部に喰らったら死ぬ! 潰れるのはタマどころじゃ済まされない! 「手負い蛇」を起爆させるのと同じくらい危険だ!
 胃の腑から込み上げてくる吐き気を必死で飲み下し、拒否の叫びを訴える。
「や、やめ……っ!」
「では、十を数えたら実行いたしますので心の準備を整えてくださいな」
「やめてくだ……っ!」
「潰す瞬間に、潰れる部分へ、全神経を集中するなら決して死ぬことはない──それが私の主張です」
「ごめんなさい、それ無理です! 絶対無理です! あそこへ全神経を集中なんてエロい意味以外では聞いたことがありません!」
「双七さん──」
 空いてる左手を俺の頬にピタリと当て、真摯な輝きの瞳で覗き込んでくる。見惚れる美しさが恐怖とは違った意味合いで呼吸を苦しくする。
 そこに恩情の余地を見出したかった──欠片もなかった。
 地平の果てまで乾いた砂地。虹彩のつくる冷徹な風紋。刻み込まれた足跡さえ吹き消していく。
 掛けられた言葉はただ一つ。
「──ファイト!」
「マジ勘弁してくださいっ!!」
「ふふ、問答無用。いきますよ、ひと──」
 聞き入れる余地は排され、カウントアップが開始された。
「ふた──」
 絶望感がこの身を支配する。掴まれたトコから尿が漏れそうになった。
 否、漏れるどころか今にも噴き出さんばかり。
 尾篭? 下品? 今更知ったことではなかった。
「み──」
「嘘……だよね、刀子さん? 本気の本気でやっちゃうつもりだなんて、ありえませんよね?」
 返答は、ひたすらに無窮の微笑みと、底なしに無情の数読み。疑義を差し挟む余地はなかった。オールシーニーズイズカウント。
「よ──」
 ゆらゆらと右手の親指・人差指・中指・薬指・小指、全指を呪術的とすら窺える複雑な動きで翻弄する。末代までの可能性が詰まった箇所を妖しく波打たせる。
 性的な刺激ではない。
 玄妙に支配されたリズムはゆったりとこちらの魂に揺さぶりをかけてきた。仮借なき浄化の波動。痛みさえ忘れる純粋な祈祷が放射され、俺の内的世界を席巻してやむことがなかった。
「いつ──」
 世界。
 そう、俺はそこが一つの世界であることをまったく不意に思い知らされた。
 ずくんずくんと心臓みたいに疼く小宇宙。生命の源泉であり、外と内とを繋ぐ世界樹であり、すべてを抱え込んだ宇宙卵。俺たちの暮らす世界の縮図であって同一の価値を持つところ。
 そこに住まう名もない小さき民たちは滅亡の予感に打ち震え、嘆き悲しんでいる。
「むゆ──」
 長い髪を滴らせる一個上の少女は、それを知りつつ敢えて潰そうと握り込んでいる。俺の世界が、余所の子の世界と干渉することを忌避せんとばかりに。
 世界殺しの鬼女となることも厭わず。
「なな──」
 だから、その瞳に本気以外の何ものも読み取れなかった。
 目の前が暗くなり、引いたはずの血の気が更に引いてカラカラになっていく。
 闇が押し寄せる。頭の中へ。心の中へ。一切合財、邪魔なものを取り払って占拠する。途切れると想像していた思考は逆にシンプルに切り詰められ、研ぎ澄まされる。
 すべては簡潔で、明快で、一点の曇りもない。そう思える境地に達しつつあった。
 さあ、現実を甘んじて受け容れよう。なに、この後でも素晴らしい未来はいくらでも待ち受けているさ。くよくよすんなって。フゥハハハハ。
 覚悟というより諦念と楽観の混淆した心理。それが現実逃避と呼ばれる考え方であることを、より高次の視点に立った俺が冷静に眺め下ろしている。
 内部で俺の思考はバラバラに砕けて乱反射を起こしていた。美しいと錯覚するほどのプリズムが脳を攪拌し、現状を把握する機能が喪失していることを悟りながらどうすることもできずにぼんやりと刀子さんの穏やかな笑顔を見詰めている。
 晴れ渡った青空がそこに降りてきたかに思えるくらい爽やかで清々しい。
「や──」
 俺は、
 俺はこの人のこんな顔が見たくて、一番近くから見たくて、ずっと見続けたくて、恋人ごっこを終わらせたくなかった。否、違う、恋人ごっこという遊びにケリをつけて本当の恋人同士という関係に移行したくなったのだ。前知識として持っている「恋人同士」のイメージからそう欲したのではなく、彼女とそれ以上の日々をより良く過ごしていくために必要だったから。恋人になること自体は目的じゃなくて手段。刀子さんの告白に踏み止まることもせず、今までよりももっと強固な絆を築いたのはひとえに「そうしたかったから」だ。
 恋人だからこういうことをしなければならない、ああいうことをしなければいけない、そんな先入観や世間の一般常識に制約されることが徹頭徹尾うざったかったかと言われたらそうでもなく、引かれたレールの上を辿りながらでも楽しさの欠片を拾って笑い合うことは快かった。病院時代、すずと合えない時間に孤独を噛み締めて漫然と退屈を殺していた、あの頃のことを思えば不満なんて及びもつかない。
 けれど。
 あの目に沁みる夕焼けの下で「思い残すことはない」と呟いた刀子さんを、あの暗く静かな夜の中で「ごめんなさい」と謝り続けた刀子さんを、兄とのジレンマに懊悩しながら俺のために「生きていたい」と告げた刀子さんを思い出せ。
 感じたはずだ。誰が用意したわけでもない、運命がお膳立てたわけでもない、気が遠くなるほど困難で白紙の道のりをふたりでともにどこまでも歩いていけることを心強く、何よりも嬉しく感じたはずだった。
 生まれてまだ二十年にも満たぬこの身は未熟なれど、人生というものが石灰でラインを引かれたグラウンドとは違うってことくらい確信している。未来を進むというのは怖ろしくて、素晴らしい。一寸先に佇んでいるのが地獄か楽園かも分からず、どんなに幸せでもどんなに不幸でも最後にどうなるかなんて決まってない。笑って死ねたらそれでよし、ってな結果論さえある。悔いを残さない死に方なんてまずないだろうが、妥協と中庸を厭わなければ笑って逝くことも難しくないはずだ。
 でもこれは嫌だ。
 生き方は死に方に通じている。もう少しで、恋人と呼んで差し支えない女性に急所を破壊されるところの俺からすれば、こんな死に方するんじゃろくな生き方をしなかったってことになる。悔いが山積みに残ること間違いなしだ。
 人生も未来も怖ろしくて素晴らしい。目の前の刀子さんも一緒だ。睦み合った俺を男性的に殺そうとしているくせにここまで透明度の溢れた表情を見せるのは普通じゃない。どこか歪んでいる。まったき異常だ。人妖とか以前に人間としておかしい。嫉妬深い性情とはここまで理不尽になれるものなのか。能の般若さえも今のこの人を目にすれば裸足で逃げ出すだろう。
 それでいい、それでいいのだ。現状を肯定しよう。
 ──厭わず肯定した上で切り抜けて生き延びてやろう。
 諦めない。すずには「お人よし」とよく言われている俺だが、俺が俺の価値観を曲げずに貫こうとする姿勢は卑怯と言えるし、卑怯であっても構わないと思える傲慢さもある。
 だからこそ、刀子さんの意志を折ろう。俺が俺であり、刀子さんが刀子さんであるために今の彼女が押し通そうとしている信念を砕く。
 この修羅場を支配するのは嫉妬心のマグマを噴き出す刀子さんじゃない、虚実を鎧って理不尽な刀子魔王に挑まんとする勇者さくらでもない。弱さゆえに足掻くこの如月双七。自嘲じゃない確信だ。
 さあ、良き人生のために、良き修羅場を送ろう。愉快に凌ごうじゃないか。
「ここの──」
 ……俺は錯乱している。修羅場が人生のすべてが詰まった縮図に思えてくるぐらいだから相当なものだ。愛と憎しみ、妬みと未練、破壊衝動と自殺衝動、閉塞の自棄と開拓の祈り。愛する男を、女を、取るか取られるかの極限状況だからこそ見えてくるものもある。戦場の真実はえてして身も蓋もない結論で交換性と有用性の低い代物と聞く。男女の恋愛における修羅場も大差はないだろう。悟ったところで劇的に変わるものではないだろうし、変われるとも思えない。信じられない。
 所詮まやかしだ。と諦めてしまえば早いが、でもまやかしの全部が無駄とは限らない。まやかしだろうと、ある程度溜め込まれたらそれは鋼鉄の信念として還元される。鋼鉄もいつか砕けるけど、戦いだって争いだって喧嘩だっていつか終わる。それまでに耐久してくれればいい。
 肝心なのは今、貫き、耐えられるかということだ。壊れておしまいなんてオチに辿り着かないために死力を尽くせるかどうか。
 手は綺麗に、心は熱く、頭は冷静に。

「──たり──」

 数え、終わった。

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