shogGOTH−メタモルフォーズ事件−


 ある朝、大十字九郎が怪異なる夢より目覚めたとき、彼はショゴスになっていた。

 彼はそういった事実を最初、うまく受け入れることができなかった。
 カーテンの隙間から漏れる陽射しを浴びながら、夢うつつの態で不定形の身体をゆっくりと震わせる。
 明確なものとしてまず知覚されたのは、ゼリー状となった身体の上にのしかかる重み。温もり。すうすうと穏やかな吐息──寝息。微かな体臭も漂うが、「匂い」は鼻ではなく、気体を分析するための特殊な器官で捉えられたため、うまく解釈することができなかった。
 腕や足の感覚が、切り落とされたようになくなっている。金縛りにでも遭っているかのような錯覚に襲われる。混乱の中、何だかよくわからないもの──客観的に見れば「触手」とでも表現するのが適切であるかと思われるマニュピレータが、身体から伸びた。
 まだ若い消防士訓練生が扱うホースの如きたどたどしさで、ふらふら、うねうねと宙を泳ぐ。九郎に「自分がそれを動かしている」といった意識はない。ただ呆然と、現状を把握できぬままに単眼の前をゾルだかゲルだか、とにかく旧ソのスパイっぽい状態でうねる「触手」を凝視した。

 なんだ、これは……?
 手か?
 ……まさか。

 脳が、否、脳のような器官が思考を開始するが、寝起きのソレに名探偵や名アナリスト並みの明晰さを求めるのは難しく、ただひたすら魯鈍に「なんだ?」「どういうことだ?」「いったいなにが?」と疑問を繰り返すばかりで、先に進む気配はなかった。この様子では関係者全員を集めての大団円や大統領への進言は何百ページも後の話になりそうであった。
 ろくに実のある思考もできない理性に苛ついたのか、眠れる動物的本能が目を覚ました。「ベーシック・インスティンクトの力を見せてやる!」と一喝するや、「触手」の統御を九郎の意識(エゴ)から完全に剥奪し、「ユー・ハヴ・コントロール!」「アイ・ハヴ・コントロール!」と叫ばんばかりの勢いで無意識(イド)へ手綱を投げ渡した。
 蠕動がやんだ。ぴたっ、と「触手」が宙に静止する。さながらB級アクションのキメ。カッチョ良さなど微塵もないことを除けば。
 待つことしばし。老いたカウ・ボーイが「待たせたの……じゃが若いもんにはまだまだ負けん!」と気炎を吐いて熟練の手綱捌きを見せ付けるシーンみたく、巧妙に、針の穴にラクダを通すほどの繊細さで、しかし縛り付けた男にアイスピックを振り下ろすほどの大胆さで、「触手」がイドの意のままに振るわれた!

 ぷよ

 ──硬いものに触れた。
 自分の身体の上に乗ったもの。ぷにぷにと連続して突っついてみるが、石のように硬い。
 否──その硬度は実際のところ石よりも低く、瑞々しい弾力に満ち、十人いれば十人ともが「柔らかい」「若々しい」「奴のコラーゲンは化け物か」「紙魚の代わりにエストロゲンが湧いている」と賞賛・羨望・驚愕・電波を噴出させること間違いなしの見事な感触を有している。
 触るのがあくまでも人間ならば、だ。ぷっちんプリンの如き、あるいはウォーターベッドの如き身体を持つショゴスの「触手」には、少女の肌さえ「それはあたかも鈍器のような男だった」と表現したくなるほどの硬さが伝わってくる。
(なんだ、これ?)
 九郎は思わず声を上げそうになったが、しかし、結果的に声は出なんだ。
(あ、れ? なんだよ、なんなんだよおい)
 今度は意識して発声しようとするが、辺りは依然沈黙に包まれたまま。
 喉がなくなってしまったように、声が出ない。
 いや、実際、「軟体の極み」であるショゴスに口はあっても喉はないし、声帯という器官もない。その代わり「古きもの」の言葉を模倣した祈りを音声化するための魔術的な器官がある。九郎は半ば本能的に探り当て、動かした。

「てけり・り」

 どうにか声は出た。
 しかし、言葉をうまく選ぶことができない。意味のある文字列を紡ごうとしても、口からはひたすら同じフレーズがこぼれるばかり。
「てけり・り、てけり・り、てけ……」
「なんだ。どうしたのだ、ダンセイニ」
 身体の上から声がした。直後に、もぞもぞと硬いものが背中──と表すのは妥当なのだろうか──で蠢く。
 声──九郎には聞き覚えがあった。
 少女の姿をした魔導書、アル・アジフ。外道知識の集大成であり、言わばこれでもかというくらいに裏技を盛り込んだ、魔術師たちにとっての「大技林」。フリフリのワンピースに身を包み、道行く人から「お嬢ちゃん、パパとママはどこだい?」「ハァハァ、君、可愛いね……この酢昆布食べない?」「ところで冬服仕様はどうよ?」と声を掛けられたことが何度もあったのだとしても、千年の歴史と「最強」の二つ名を持つ彼女は、魔道の筋において頬傷持った借金の取立屋や、何でも見ている家政婦よりも恐ろしい存在として茶飲み話の際に囁かれている。
 声からしてアルとは分かったものの、ショゴスとなった九郎にその姿は見えない。単眼が彼女のロリ容姿を求めてきょろきょろと彷徨う。
「ん? 何を探しておるのだ」
「てけり・り」
 「お前だよ、アル」と言おうとしたにも関わらず、出てくる言葉はそればっかり。
「なに、妾の姿が見たいのだと? 異なことを……」
 しかし、意外なことに、大まかなことは伝わったらしい。
 身体のうえでぼそぼそと呪文を詠唱する声が聞こえてきた。
「ニトクリスの鏡」
 ぽん
 唱えると同時に、ふたり(?)の前に大きな姿見が現れた。
 ニトクリスの鏡──創意工夫によって様々な使い方ができるという割に、結局「空蝉の術」程度にしか使っていないそれは、いちいち手鏡を持ち歩くことを面倒に思っているアルによって、今やただの鏡となりつつある……そんな悲しい記述項目であった。
「ほれ、好きなだけ見るがよい」
 言われるまでもなく、九郎は見た。かじりつくように鏡を注視した。
 アルと、ダンセイニ……と、それだけ?
 彼の目に映ったのは、本当にそれだけであった。
 アルは寝間着姿でご丁寧にナイトキャップまでしている。ダンセイニとおぼしき方はいつも通り、つぶらな単眼を晒しつつオレンジがかった黄土色の状態でうずくまっている。
 魔導書とショゴス。人間の姿はどこにもない。
 あれ、おっかしいな、俺はどこに映っているんだ?
「てけり・り」
 未だ現状を把握できていない九郎はなおも疑問を口にし続ける。
「寝ぼけておるのか、ダンセイニ。しっかり映っておろう」
 しっかり。
 しっかり映って……?
 脳が、脳のような器官が「理解」を拒んだ。浮かび上がった「可能性」を拒否した。「そんなバカな話があるか」と一笑に付した。
 けれど、厳然として……鏡に映っているのは魔導書とショゴス、それに部屋の細々としたもの。「しっかり」映っているのは、やはりアルとダンセイニだけと言って良いだろう。
「てけり・り」
 ふらふらと「触手」が宙を泳いだ。ゆっくり、ゆっくり、スローモーションのように鏡へ向かって伸びていく。同時に、鏡の向こうからもダンセイニとおぼしきショゴス──無論、九郎がそうだと思い込みたいだけで、現実は違う──がのろのろと「触手」を伸ばしてきた。
 迷う暇も、恐慌に陥る猶予もなく、あっさりとふたつの「触手」が鏡の界面で重なった。
 先端から伝わるひんやりと冷たい感触。
 撫でるように「触手」を鏡の表面に這わせた。
 左に動かす。鏡の向こうの奴が同時に右へ。
 下に動かす。鏡の向こうの奴も同時に下へ。
 S字に動かす。鏡の向こうの奴は同時に裏返しのSを描く。
 動きが付いてくる。真似しているように。こちらの動きを予測しているように。まさしく鏡像。
 うねうね、うねうね。
 鏡の向こうとこっち、ふたつの「触手」は完全に同期して動き、磁石でも仕込んだかのようにしっかり重なり合ったまま、鏡の表面をすいすい這い回った。
 「触手」は自分の意志に基づいて動いている。鏡の向こうのソレは、自分の意志をちょうど裏返した形で動いている。
 ならば、認めるしかない。「触手」を持っているのが自分で、鏡に映っているねばねばしたショゴスこそが自分なのだと……。

 そんな。
 アホな。
 マジで?
 ぐらぐら、視界が揺れる。
 目の前の光景が歪んでいく。真っ直ぐなモノなど何処にもない。

「ほっほっ、どろどろやね」

 待て、俺はバリバリ人間の大十字九郎だっての! 魔術師でも正義のヒーローでもない、ただのしがない私立探偵だが、それでもショゴスじゃない! 絶対に違う! つか、ショゴスだったら「しがない」もクソもなく私立探偵なんかやってられるか! 「あなたにうってつけの仕事です……魔導書を探してください」「てけり・り」とかそんな話がアリかっつうの!

 「おい、君、いい加減にコカインはやめたまえ」
 「てけり・り」
  ぷはぁ〜
 「やれやれ、どうやら聞く耳を持たないようだね」

 とか、

 「そんな、貴様はラインバッハの滝壺に消えたはず!」
 「てけり・り」
  ゆら〜りぃ
 「く、なんだ、この怪しくて妖しい動きは……ま、まさかこれが幻の格闘技『バリツ』か!」

 とか、

 「わ〜お、ショゴスのとっつぁ〜ん」
 「てけり・り」
  ぶんぶん
 「ルパン、遊んでないで早く乗れ!」
 「あれは拙者の斬鉄剣でも切れぬ……厄介な代物だ」
 「わぁ〜たよ」

 とか、そんなバカな話があるかよ! いや、最後は私立探偵じゃないが。
 いささか混乱気味に現実を否定しようとする九郎は、「触手」を結んで開いて手を打とうとして手がないことに気づいて床を叩いた。
 ぱしん
 いや、これは夢だ、悪い夢なんだよおっかさん。朝になれば目が醒めるって。つか今、朝か……いやいや、現実の朝ってことだよ!
 そうさ、こんなデタラメなことが本当なわけない。ここであっさり心を折って絶望すら尽き果たしてしまったら思うつぼだ! いや、何にとっての思うつぼなのかは知らんが。
「てけり・り」
「もうよかろう」
 錯乱坊となりつつある九郎の発言を聞き流し、アルは「ニトクリスの鏡」への魔術供給を断った。姿見は即座に光の反射をやめてガラスのように透き通り、徐々に屈折率を空気に近づけていって、透明になった途端──不意に気配が消え失せた。
 アルは小さく欠伸をする。
「ふうぁぁ……妾はまだ眠い」
 猫が顔を洗うような仕草でコシコシと目をこする。
「ゆえに寝る」
 くて。
 言い終わるや否や、身体から力が抜けた。三秒もしないうちに寝息が立つ。
 サイレント・ルームに「すぴー」と可愛らしい微音が響き渡った。

 何分かの後、茫然自失のまま固まっていた九郎が、不意に意識を取り戻した。
「てけり・り」
 俺は。
 俺は。
 そう、俺は。
 ショゴスだったのか。
 人間じゃ、なかったのか。
 なんてこと。
 大十字九郎だとばかり思っていたのに、ショゴスだったのか。
 あの気色悪い、カルマを背負いまくったなめくじみたいな奴が、自分だったのか。
 「一切の希望を捨てよ」と記された門を「てけり・り(娑婆の空気はうめェな)」と言わんばかりに肩で風を切って出てくるや、「てけり・り(お勤め、ご苦労様でやした)」と迎えが頭の代わりに触手を下げる、そんなビジョンさえ容易に思い浮かぶ狂気のアメーバが自分だったなんて。
 ああ、勘違いしてたのか、今の今まで。
 ダンセイニ──それが俺の本当の名前なのか。
 大十字九郎。
 ダンセイニ。
 ああ、字数も一緒。響きもどことなく似てる……。
 「最初の一文字しか合ってないだろ!」とツッコむ第三者は不在。だからこそ、彼の迷走思考はなおも膨張していく。
 昔、東の国の思想家が言ったそうだ。「蝶になる夢を見た。いや──蝶であるわたしが今、ひととなったわたしの夢を見ているのかもしれない」って。
 俺は、ショゴスになった夢を見る大十字九郎なのか?
 それとも、今まで大十字九郎という人間になる夢を見ていたショゴス──ダンセイニなのか?
 夢……そうだ、夢かどうかを確かめるには「頬を抓ってみる」という古典的な手法があっ、
 途中で気づいた。今の自分に、抓るべき頬もなければ、抓るための指もないことを。
 それでも諦めず、「触手」で適当に目の近くあたりを摘んでみる。

 ぷよ
 ぷよぷよ

 柔らかすぎるくらいに柔らかい「触手」、それと同様の「頬」。抓んでいるという感覚は希薄だったが、しかし、一応触れ合っている感触はある。
 うーむ、微妙……。
 夢だとも夢でないとも言いにくい状況に、唸ってしまう九郎。
「てけり・り」
 相変わらずのセリフ。
「うん……」
 アルが寝返りを打った。背中で重さが右から左にずれる感触が伝わる。
 あ、そう言えばさっきからこいつがいたんだっけ。
 アルの存在をまるで意識していなかった自分に「てけり・り」と苦笑する。
 彼女の太ももや、胸、腹……身体の各部位がゼリー状の背に押し付けられている。
 少女のベッドとなっている現況。一部の特殊な趣味を持つ人たちからすれば、羨ましいシチュエーションかもしれない。
 確かに九郎も人間でいたとき、ショゴスであるダンセイニを「ちょっと羨ましい」と思った覚えがないでもなかった。表面的に否定していたが、心の中ではそうでもなかった。一度でいいから代わってみたいものだ、と。
 しかし硬かった。理想の中では「柔肌」であるものが、現実には硬かった。ショゴスの身体にとって、タンパク質と脂肪のコラボレーションは「柔らかい」と表現するに値しない、さながら岩塊のように無機質な触感であった。人の身で喩えるならば、そう、ゴーレムとペッティングをするようなもの。いっそ開き直って「んはぁ、かたぁい♪」と悦ぶ新境地を発掘する……気には、到底なれなかった。
 現実はいつだってロマンをすげなく袖にする。ツンと顎を上向け、視線を逸らし、存在自体が目に映らないとばかりに。しかし、だからこそ、ロマンはより一層激しく燃え立つ。マゾヒストのように、ストーカーのように。
 九郎の理性がプツッと切れた。イメージ映像としてはターザンごっこをしようと恰幅の良い子供がぶら下がったものの、「重すぎだよ!」と耐えられず千切れた蔦蔓が適切である。

 畜生、こうなったらいっそのこと暴走して触手プレイしてやる! 淫獣系の濃いいハード・エロスに走ってやる! ニトロファンが「ケダモノになりすぎだ!」と顔色を変えるくらい路線変更してやる! 穏やかに眠ってるアルをこっそり襲ってやる! サスペンスフルなBGMをバックに流しながら散々もったいぶってやる! 「どのへんで起きるんだ」「いや、ずっと寝たままで」「挿れられる直前に『な……いったい何をしておるのだ、ダンセイニ! 汝はショゴス、妾は魔導書であろうが! ひっ……や、やめんか! そのようなものを挿れるでない! やめ……ひゃう!』ってのが好ましいかと」なんてマニアックな会話を誘発してやる! 「パジャマにお邪魔」とばかりにボタンとボタンの間の魅惑的でパラダイスな隙間に触手を忍び込ませてやる! あえて脱がさないでナイトキャップはかぶらせたままにしてやる! 粘液垂らしつつ穴という穴をいっぱいいっぱいにしてやる! 緊縛師も唸るぐらいの芸術的な絡みつき方を工夫してやる! 無い胸揉みしだいてやる! 瞳に虚ろな光が浮かんで「死に目」になるまで可愛がってやる! 泣いたり笑ったりできなくしてやる!

 彼の十八歳未満禁止な激情に合わせ、「触手」が物凄い勢いでうねった。「物凄い勢い」としか形容のしようがない、パワフルで荘厳でエネルギッシュで複雑でカオスでフラクタルで幾何学的で、あたかも生物の限界に挑戦したかのような素晴らしいダイナミズムであった。「螺旋!」。その様子を見た者は誰であろうと残らず気分をディープに害し、腹から込み上げてくるモノを拒めぬまま、熱くて酸っぱいリバース・エンドを迎えること請け合いであった。同時多発○ロの悪夢を呼び覚ますことは必至であった。
 かつて自分が嫌悪したモノ──すなわちショゴスに、自分自身が成り代わっている。そんな事態に直面し、受け入れられず、否定しようとして、否定し切れず──九郎の精神はねじれてしまった。紙縒り状になってしまった。狂う一歩手前あたり。ヴィジュアル・ノベル的には画面中を「殺す」とか「死ね」とか単純なフレーズを明朝体の赤いフォントで埋め尽くす場面だった。

(俺は人間やめるぞ! アルーッ! 俺は人間を超越してやるッ! いや、超越すればイイってもんじゃないがッ! ショゴスなんてどう考えてもマイナス方向だとは思うがッ! それでも超越してやるゥゥゥッ!)

 ヤケのヤンパチにカチカチ山級の火がつこうとした正にその瞬間。

 ごそっ

 「そうはイカロコルヌ!」とばかりにタイミング良く物音が鳴った。
 単眼がぎょろり、と動いて音の源を探る。
 ソファの方だ。
 大きくはない、微かな音……しかし、確かに聞こえた。
 目を凝らす。
 ──と。
 のっそり、人影が起き上がった。九郎が濃厚な注意を向けていることを意にも介せず、平然とした動作で。
 その顔を見て、九郎はハッとした。
 間違いようもなく。
 ボケようもなく。
 それは……自分の、顔。
 昨日まで鏡に映っていた、自分の顔。
 ともすれば、あっちの方がニトクリウスの鏡なのではないかと疑いそうになる。けれど、魔術の波動は感じられない。ショゴスのどっかにある器官が魔力を測定し、現在この場では何らの魔術も実行されていないと判断した。
 九郎が、否……ソファに半身を起こした九郎の顔を持った人間が、ゆっくりと視線を巡らせた。
 天井。
 壁。
 床。
 そして、ショゴス。
 ぴたり、と眼球の動きが止まった。
 穏やかに、だがはっきりと、軟体の怪物を凝視する。

 目と目が合った。

 合って、しまった。
 九郎の、ショゴスとなった身にファースト・コンタクトの衝撃が走り抜ける。
 かつて自分であった身体。ダンセイニの精神が入っていると思しき器。その目に浮かぶ光はひどく──九郎の心を揺さぶった。
「てけり・り……」
 ため息のように勝手に言葉が漏れ出る。
 熱い。
 スライミーな身体が、燃えるような熱を帯びていた。溶鉄を流し込まれたのではないかと疑うほどの灼熱に、ショゴスの単眼が潤む。
「てけり・り」
 目の前の青年──かつての自分の姿が同じ言葉を呟く。同じ、感動を込めて。
 彼もまた、身体が火照るのだろうか……頬が紅潮している。
「てけり・り」
「てけり・り」
 僅か四文字、中点を入れても五文字。それだけの言葉で、意志が疎通する。通じ合う。同じ気持ちを分かち合う。
 会話よりも単純なコミュニケーション。音と言葉を媒介にしながら、たった一言であまりにも多くのことを伝達することができる。
「てけり・り……」
 これは言語ではない。言語以下であり、同時に言語以上である。
 言語に拠る文明に生まれ、言語に拠る文明で育った九郎にとって、このときの「てけり・り」は正にカルチャー・ショックであった。いつもはすっぴんだった母親が参観日に化粧をしてめかし込み、ほとんど別人の顔で教室に入ってきたかのような、彼の存在を、認識を、危うくしてしまう一大イベント。
 ああ……この、「てけり・り」さえあれば、俺たちはもう言葉なんていらないんだ。
 彼は知った。
 知ってしまったのだ。
 大悟いたしてしまったのだ。
 よろめくような足取り(?)でショゴスの身体を動かす。ゼリーが波打ち、背に乗って眠っていたアルが振り落とされた。
 そのまま床に叩き付けられ、
「ふにゃ」
 なかった。
 床と接する直前、彼女は軽やかに受身の姿勢を取り、腕を斜めに落として肩で円を描くように転がり、余った勢いを掌に集約させ、魔術を発動。
 緑の燐光がボッ、と一瞬灯る。
 掌の表面だけに緩衝の術式を走らせてから床を叩いた。
 ぱしん
 ちっちゃな音。少しも掌や手首を痛めることなく勢いを殺し切り、アルは無事転がりやむと、
「すぅ」
 寝息を立てた。
 コンマ一秒さえ目を覚まさぬまま、最小限の魔術で完璧な受身を取った少女。ここは是非スタンディングオベーションで迎え入れたいところだが、残念なことに、九郎とダンセイニは彼女の方をチラリとも見ていなかった。かくしてアル・アジフの「ちょっとだけすごい芸」はホームビデオに撮影されることもなく、名場面珍場面にエントリーされることもなく──誰にも記憶されることなく、闇へ消えた。
 九郎はかつての己の身に収まったダンセイニのもとへ、緩慢な動きで歩み寄る。ショゴスの歩行法に慣れぬ身であれば致し方ないことではあったが、ひどくもどかしく、時間が異様に長引いて感じられた。
 たまらず「触手」を伸ばす。一秒でも、一ピコでも早く辿り着きたくて。
 応えるように、ダンセイニも人差し指を立て、手を伸ばす。
 「触手」と人差し指の先端。
 ふたつが重なり合った。
 ぴぃぃ……
 微光が接点より漏れた。
 情報が流れ込む。
 ブラック・ボックスの蓋が開く──。

「アイ、ショゴス」「アイ・アム・ア・ショゴス」「俺・イズ・ショゴス!」「吾輩はショゴスである!」「朕はショゴスなり!」「ショゴスはショゴスでありショゴスでありショゴスでありショゴスである!」「ハロー、ショゴス!」「タイム・トゥ・ショゴス!」「ぼっけえショゴス!」「蒼ざめた馬に跨りしモノ、その名をショゴスという!」「ある日突然あなたに666のショゴスが押し掛けてきたらどうしますか!」「お姉ちゃんもお姉ちゃんもお姉ちゃんもお姉ちゃんもお姉ちゃんもショゴス!」「人類みなショゴス! 仲良くショゴス!」「ショゴスはすべて! すべてはショゴス!」「彼らに滅びることのない『てけり・り』を与える!」「お前のものはショゴスのもの! 俺のものもショゴスのもの!」「ぼくらの七日間ショゴス!」「奥様はショゴスだったのです!」「男湯に入ってきたショゴスをどうするか!」「ショゴスは死んだ! なぜだ!」「そこにショゴスがあるからだ!」「ショゴス・マスト・ダイ! ショゴスの怒りがすべてを打ち砕く!」「匣の中には綺麗なショゴスがぴったり入つてゐた!」「振り向けばショゴス!」「仰げばショゴス!」「泣いても笑ってもショゴス!」「曲がり角で食パン咥えたショゴス!」「転校生がショゴス!」「隣の席が空いててショゴス!」「甘酸っぱい初恋のショゴス!」「やがて倦怠期のショゴス!」「浮気のつもりが本気のショゴス!」「婚約ショゴスは給料の三ヶ月分!」「ショゴスよ、ショゴスよ! ぬばたまの森に燦然と燃え!」「当方にショゴスの用意あり!」「ショゴスの文句は俺に言えぇ!」「この電車は各駅ショゴスです!」「触手が曲がっていてよ!」「ショゴスは命よりも重いっ……!」「今日も僕はショゴスのためにまたひとりナチを撃つ!」「ショゴスを無礼るな!」「パンにはやっぱりネオ・ショゴス!」「木曽路はすべてショゴスの中である!」「僕らのショゴスは終わらない! どこまでも続いてゆく!」「時には翼のないショゴスのように!」「がんばれ酢めしショゴス!」「我は行く、さらばショゴスよ!」「諸君! 私はショゴスが好きだ!」「でもショゴスだけは勘弁な!」「このショゴスを黙らせろ!」「そして私は失われた道を辿りこの『てけり・り』を見出した!」「ショゴスになりなさい、誰もが恐れるショゴスに!」「召しませショゴスの愛憎手料理!」「ショゴスに餌をやらないでください!」「触手って奴は先っぽから粘液を噴くたびに艶が出るっていうからな!」「恋の行方はショゴスが握ってる!」「ショゴスがふたりを分かつまで!」「壊れるほど近くにあるショゴス!」「人類の無意識がショゴスを望んでいるのだ!」「遺体からショゴスが検出されました!」「よく見ろ日本人、これがショゴスだ!」「花ならショゴス!」「散りしかたみにショゴス!」「満月の夜には無くした触手がすすり泣く!」「ショゴス6/17!」「一二○○個の密室で一二○○のショゴスが殺される!」「口裂けショゴス!」「完全武装ショゴス!」「月面降下ショゴス!」「巫女みこショゴス!」「SHOGGOTHが空を飛ぶ!」「人は耐え難きショゴスに慟哭する!」「『ファッキン・ショゴス』くらいわかるよバカヤロウ!」「ショゴスの名において鋳造す、汝ら罪なし!」「されど罪人はショゴスと踊る!」「八時ちょうどのショゴス二号で!」「拡散するショゴスを収束させて掴み取る!」「見上げれば銀河、眼下にはショゴス!」「打ち上げショゴス、下から見るか横から見るか!」「祗園精舎の鐘の声、ショゴス無情の響きあり!」「触手を見るたび思い出せ!」「だから僕は、そのショゴスを放した!」「完全に野生化している、あれはもはや祟りショゴスだ!」「ショゴスから信管を抜け!」「あんまりにも幸せすぎて、これがショゴスだとわかってしまった!」「まこちゃん、わたし、ショゴスにとってなんだったの!」「決して届くはずもないのに、それでも触手を伸ばす!」「このショゴスを変えるのなら、微笑んで祈るよ!」「ショゴス! ショゴス! ショゴス! なにもかもがショゴスだ! しかしショゴスとはなんだ!」「逃げる奴はショゴスだ! 逃げない奴は訓練されたショゴスだ!」「もちろんこれは喩えショゴスです!」「あたしもうショゴスだよ、これは知ってるよね!」「バイバイ、ショゴス!」「そして、理想のショゴスがそこにいる!」「ショゴスというショゴスをショゴスしろ!」「ホマホマホ ホマホマホッホ ホマホマホ」

 ──頭の中で無数の声がする。
 九郎に新しい知性が芽生えようとしていた。今まで有していたあらゆる観念が破壊され、まったく別の法則によって構築された概念が導入されていく。
 ダンセイニは「触手」からすっ、と人差し指を離すした。一旦力を抜くように軽く折り曲げる。
 それから、ぴん、としっかり伸ばして、九郎の額──単眼の上あたり──に優しく触れた。
 甘い声色で、教えを説くように、あるいは愛を囁くように、九郎の身体を借りたダンセイニが言葉を発した。
「てけり・り」
(与える者と与えられる者がいる。僕は前者だ)
 すべての不安を、すべての恐れを拭い去るに足る、温かで力に満ちた声。
 九郎は──それに応えようと思った。
 今度は自分が応える番だ、と思った。
 ショゴスの声帯に似た、されど声帯ならぬ怪異なる器官を震わせる。
 祈りに近似した言葉を紡ぐ。
「てけり・り」
(ならば俺は後者だ)
 全身の力を抜いて弛緩した。単眼をつむる。
 ダンセイニが頷き、指先を押し進めた。
 九郎は、かつての自分のものであった指先が、ずぶずぶとゼリー状の身体に沈んでいく感触を静かに受け止める。
 ダンセイニと九郎。両者が繋がり、言葉に拠らない交流を行う。
 理解が生じた。理解は納得を生み、納得は共感を生み、共感は連帯を生み、連帯は絆となり、絆は契約という形を取った。
 九郎とダンセイニの間に、契約が成立した。
 契約を承認し、祝福するかのように、ふたりの接触した場所からまばゆい光が溢れ出す。
「ふにゅ……?」
 眩しさが、二者から少し離れた位置の床に転がるアルの覚醒を促した。
 目を開き、あまりの光量に驚いて咄嗟に閉じ、光がやむまで待って恐る恐る瞼を上げる。
 彼女の寝ぼけ眼に、信じ難い光景が広がった。
 そこには九郎とダンセイニが、

(しばらくお待ちください)

「ふー……」
 あまりにも信じ難かったため、アルはパチパチとまばたきした後、「これは夢だ」と思い込んでふたたび目をつむった。微かな眠気を手繰り寄せて今朝二度目となる寝直しを図る。
 九郎とダンセイニはそれを生温かい目で見守った。
 すぅ、と速攻で寝息が届いてきた。
 ふたり(?)は床に転がる彼女を抱き上げてソファに乗せ、毛布をかけてやった。
 うんうん唸りながらアルが寝顔を顰める。よほど悪い夢を見ているのだろう。
 だが、その悪夢が只今の現実よりも悪いものかどうかは、傍から見る限り判然としない。
 まあ、現実に勝る悪夢なんてねぇんだっつー意見もありますけど……!
 ともかく、すっかり寝入ったアルを放って、九郎とダンセイニはカーテンを開け放った。容赦なく降り注ぐ陽光に目を細めつつ、街を見下ろす。
 眠りなきアーカム・シティも白々とした光の下では、惰眠を貪りたくても貪れないハード・スケジューラーのように、どこか悄然とした様相を曝け出していた。
 窓を開ける。
 朝の新鮮な空気が緩やかな風に乗って事務所に吹き込んだ。清々しく、爽やかな青空がふたりの眼前に広がっている。遠い地平線は灰色のビル群に阻まれ、見ることは叶わなかった。
 東に昇る朝日に頬を向けながら、九郎は思った。

 これは、目覚めだ。

 新生の時。
 古き殻を捨て去る儀。
 転生の如き容。
 今までの姿が仮だったというわけではないが、今の自分こそが真実なのだと……これから本当の世界が幕を上げるのだという、確信に等しい熱い想いが心に染み渡っていく。
 過去のすべてに「ありがとう」
 そして「さよなら」
 未来のすべてに「ハロー」
 そして「今後ともよろしく」
 現在のすべてに──「俺は俺を肯定する」との宣言を放つ。
 もはや人間以上の何かとなった自分を呪うつもりはない。厭うつもりはない。歩むべき道は目の前にあり、歩むための足に迷いはない。
 己を己と認める。
 己を己と信じる。
 認め、信じたうえで──魔を断つ剣を取る。
 デモンベインではない、もうひとつの剣。もうひとつの選択肢。
 俺は、選んだのだ。
 再生の朝に歓喜を捧げつつ、彼はダンセイニとともに窓の外へと飛び出した。
 未熟な翼で巣立つ雛鳥のように、けれど雄々しく空を翔ける猛禽のように……。

 その頃、メタトロンは苦戦していた。
「くっ……!」
 ギリギリまで迫った攻撃を仰け反って避ける。
 紙一重の機動。目の前の空間を豪速の影が突き抜けていく。ほんの数センチずれただけでも、地べたを這う羽目になっていたかもしれない。それほどの危うさ。
 運が良かった、とも言える。
 相手の機体は性能が良い。恐ろしく良い。初期の頃に比べれば、桁違いにパワーアップしている。このままインフレ形式で強くなっていくのだとしたら、きっと冷や汗と脂汗は戦う間ずっとノン・ストップになるだろう。
 しかし……これは搭乗者がもっとまともな輩だったならば、というのが前提の話である。
「ぶひゃひゃひゃひゃ! なぁにが『アーカム・シティの守護天使』であるかメタトロン! さっきから逃げ回ってばかりではないか。なんだ、貴様はろくに戦いもせず、それでも『しゅごてんしだから、しゅごいんでしゅよ〜、ばぶ〜』とか赤ちゃん言葉をほざいてみて新規のファン層でも開拓するつもりであるか! 『マスクの下はベビーフェイス』と意外性を狙うのかぁぁぁ!」
「いつも通り、ワケの分からぬことを……」
 微かな安堵を込めて嘆息する。
 ドクター・ウェスト。秘密結社「ブラック・ロッジ」の一員であり、兵器・ロボ開発部門の最高責任者、らしい。あんなのでも。
 性格的・人間的にセラピストが数ダース束になっても敵わないアレっぷりを有する男であり、端的に言って■■■■なのだが、一応兵器やロボの開発に関しては尋常ではない腕前を発揮する。いくら反逆大好きっ子の群であるブラック・ロッジとはいえ、伊達や酔狂でこのいろんなところが可哀想な人間に各種の権限を与えているわけではないらしい。
 マッド・サイエンティストを地で行く彼は、そこらのビルディングよりも大きい破壊ロボをいそいそ製作しては自ら乗り込み、どかーんと派手な騒乱を街に起こしてみせる。
 朝、普段ならば通勤の人々で賑わう通りも、夏場のシンクに虫が湧くように突如出現した破壊ロボと、どこからともなく飛来してきたアーカム・シティの白き守護天使・メタトロンとの激しい交戦によって封鎖された。人っ子ひとりいない通りを、少し離れた地点で市警の警官たちがパトカーで取り囲んでいる。お馴染みネスとストーンのふたりの姿もあり、何やら言い合っている様子だった。
 物々しくはあれど、アーカム・シティでは割と見慣れた光景。有事というよりも、日常茶飯事である。
「ふふ〜ぅぅぅぅぅぅん、この常軌を逸した大天才、ドクター・ウェストに畏れを為す貴様の心情はよぉ〜く分かる。手に取るように分かる。『是非、お手に取ってみてください!』と言われるがままに商品に触るだけ触って指紋でベタベタにしながらも結局買わないカスタマー! 軽い殺意を覚えながらも必死で接客スマイルを張りつかせる新人従業員! その硬い笑顔を見て『なってねぇな、あいつ』と胸の中で舌打ちする先輩従業員! 微妙な三角関係がありありと思い浮かばれるのである!」
「全体が一方的で『関係』とは言えない気がするのだがな、それ」
「ええい、黙れ! 黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ! ダマになれ! 粉末スープと液体スープを一緒に混ぜてしまえェェェェェ!!」
 轟ッ
 唸りを上げて破壊ロボの腕が振り下ろされる。ホバリングしていたメタトロンは軽快に翔け、豪腕を横に避けた。避けたまま勢いを殺さず飛び続け、破壊ロボが地面をぶっ叩くと同時に旋回した。インメルマン・ターン。一切の無駄なく方向転換を果たすや、一気に加速して横方向から破壊ロボの頭部に向けて突っ込んでいく。
 ギュイン
 両腕の袖から青白く光る刃を抜き出す。「×」を描くように重ねた。接触した刃と刃が蒼い火花を飛ばす。
 ボイス・チェンジャーにかけたような声で叫んだ。
「十字断罪!」
 これで片をつける。
 メタトロンはそのつもりだった。
 しかし、ドクター・ウェストは哄笑を響かせた。
「甘い! 砂糖と塩を入れすぎてしまったくらい甘いのである! もはや胸焼けどころか救急車に乗せられて徴兵拒否できそうなほど甘ぁぁぁぁぁぁい!」
「しまっ……!」
 直前で気づいた。
 破壊ロボの肩に、突如穴が出現した。巧妙に隠されていた射出口。そこから除くのは──ミサイル。
 一発や二発ではなかった。ダースで数えた方が早い。
「すべてがすべてホーミング弾! 四方八方三十二方から襲い来る銀獣をせいぜい八面六臂の活躍で撃ち墜とすがよい、メタトロン! 骨は拾ってやらん! でも現在の風向と風力からして恐らく近海には辿り着くとは予想されるのであり、貴様が『わたしが死んだら、焼いて骨を海に撒いてね』派のロマンティィィストだとしても大安心の寸法であるからしてとどのつまり究極的に死ねぇぇぇぇい!」
「いや、思い切り『土に埋葬』派なのだが」
 とのんびりツッコむメタトロンだが、実のところそれほど余裕があるわけではなかった。
 回避機動を取りつつ、レーザーによる的確な撃ち墜としでいくらか処理することはできるだろうが、数が数だ。それに、本体の破壊ロボとて必死に逃げ回るメタトロンをぼけーっと見守っているわけではあるまい。いくらあっちの病院に入れられたら二度と出てこられそうにないマッド・サイエンティストとはいえ、戦闘に関してそこまで愚かではない。あくまで華やかに派手派手しく戦おうとする傾向があるために大雑把な仕掛け方をしてくるというだけで、ロボットそのものの操縦はイヤになるほど熟知している。自分でつくっているのだから、当り前とも言えるが。
「くっ」
 とはいえ、今は逃げの一手。ひとまず距離を置くしか……

「助太刀するぜ、メタトロン」

 突然、真横から声がした。
 ハッ、と顔を横に向けた瞬間──破壊ロボからミサイルが撃ち出された。
 横にいた影はそれを見ても少しも動じず、鼻で笑った。
「■■■■が、いい気になってんじゃねぇ!」
 咆哮とともに、影から無数の槍が伸びる。
 水平に伸びた槍は更にいくつも枝分かれして空中を疾走。意志を持つレーザーのようにミサイルへ突き進んでいった。
「にょわ!?」
 相手はメタトロンだけとばかり思い込んでいたドクター・ウェストも、不審と驚愕の声を漏らす。
 数々のミサイルと槍群が衝突し──
 火球と爆音と衝撃波が空を蹂躙した。
 メタトロンは墜落せぬよう、巧みに姿勢制御を行い、滞空する。
 もうもうと立ち込める煙が晴れたとき、戦場にて第三の影がその姿をあらわにした。
「おい、なんだありゃ?」
「いえ、自分には見覚えがありません」
「んあー、俺もだが……」
 包囲網の一点で言葉を交わすネスとストーン。
 多くの警官たち、それにメタトロンとドクター・ウェストの注視を浴びて、第三の影は敢然と直立して宙に浮かんでいた。
「俺が来たからにはもう■■■■の好きにはさせない、ドクター・ヴェスト」
「ぬ!? 名前を間違われている!? うっかりとか? わざとか?」
「ああ、すまん。ペストだったな。ドクター・ペスト。『毒タペストリ』って覚えていたんだった」
「なあああ!! 違う、違うぞ、そこな愚民! 我輩の高き名はウェスト! 人呼んで『驚異にして脅威の大天才』ドクター・ウェスト! 覚えるならば『嫁殺しの毒田植えスト』である! ちなみにストは『ストライキ』のストですか、『ストッキング』のストですか?」
「なんでお前が訊いているのだ」
 メタトロンのツッコミ。しゅびっ、と手刀が空を切る。ついでのように真空波が生まれ、破壊ロボ頭部にあるどうでも良さげな飾りを斬り飛ばした。
「名前はどうでもいい! とにかく俺はてめぇを誅滅する!」
「というか、お前は誰なのであるか?」
 ウェストの疑問。それは同時にメタトロンの疑問でもあった。
 第三の影──姿形と声からして男のようだった。「ようだった」というよりも、男「だ」と断定して差し支えない。
 メタトロンはその男の顔に見覚えがあった。ありまくった。何度も目にしている。名前だって知っている。
「九郎ちゃ、」
 思わず呼びかけそうになってやめる。
 確かに男は見覚えがあり、よく知っている人物だったが、今の状態はあまりにも異常だった。
 男は無形の鎧をまとっていた。うねうね、ぐねぐねと形が変わり、少しも一定していないソレは生物的でありながら、どこか生物を超越したような壮絶さがある。
 色は半透明のオレンジ。だが鮮やかとは言い難く、少しばかり土色を孕んでいる。見ていて気分の良い配色ではない。
 男の身体はすっぽりとその、ゼリーのようなアメーバのようなでろでろしたモノにくるまれている。ちょうどマーマレード・ジャムを身体中に厚く塗ったくったような感じだ。あるいは奇怪な全身タイツのようでもあり、本編開始十分以内で異星から飛来してきた謎の物体に悲鳴を挙げて呑み込まれるヘボい研究チームのダメ博士みたいでもあった。
 それは、そう、ある意味で「アーカム・シティの守護天使」たるメタトロンと似ていたかもしれない。
 だが、両者の違いは、端的に言えば……男の方が圧倒的にカッコ悪い、ということだった。
 何せ半透明。スケルトン。スケスケに透けちゃっているのだ。
 シースルーの鎧から見える身体は全裸。問答無用の全裸。何度目を擦って確かめても全裸。布っきれ一つ巻いていない。刑事となれば「全裸刑事」「まるだし刑事」に継ぐ存在として伝説になれるであろう。その伝説はいつしか、神話へ……。
「てけり・り」
 重要な部分、なんとなればモザイク修正が必要となる箇所には故意か偶然か、大きな単眼がちょうど隠すように配置されていて、ギョロギョロあたりを見回している。
「俺はかつて大十字九郎と名乗り、てめぇらブラック・ロッジと戦っていたモンだよ」
 男の声はビブラートがかかったように震えている。口の動きに合わせて身体を包むゼリー状の鎧もぶるぶる振動する。
 メタトロンは率直に「キモい」と思った。
「だ、大十字九郎ォ!? 貴様、なぁにを血迷ってそんなに恥ずかしい格好をしているのであるかぁぁぁ! ま、まさかイケてると? イケちゃてると? イケイケの青信号で片手を天に突き上げて横断歩道を渡れるくらいクールだとでも? いやマジで?」
「見てくれなんてどうだっていいんだ。マギウス・スタイルじゃ破壊ロボには対抗しきれない。かと言ってデモンベインは街への被害が大きすぎる……だから俺が取るべき最良の選択肢は、メタトロンのように最小の犠牲で最大の効果が得られるスタイルを取ること。マギウス・スタイルを超え、デモンベインに並ぶ力を得ること。その応えがこれだ! すなわちショゴス・スタイル! 攻守ともに抜群、鋼鉄や刃金のようにひたすら『硬さ』を追うのではなく、『弾力』を求めたがゆえに辿り着いた境地だ! ショゴス・イズ・パワー! ショゴス・イズ・ベスト! ディス・イズ・ザ・ショゴス! ディィィス、イィィィズ、ザ! ショゴス!」
「てけり・り」
 両手を広げ、熱を込めて言い募る男。唾はショゴスに阻まれ、飛び散ることはない。
 反対に、メタトロンとドクター・ウェストの体温はどんどん下降していく。絶対零度に向けて。

「俺は今や魔術師でもなければ正義のヒーローでもなく、ただの探偵でさえない。そう……俺はヒトを棄て、なった。なってしまったんだ。触手天使『ダン十字九セイニ』に!」

 バァァァァァァァァン!!
 どこからともなく銅鑼の音が響いた。
 内臓を揺るがす金属の大音声は、遮るものなく澄み渡る朝の大気へと吸い込まれ、霧散して消えた。
 青空を白い鳩の群が横切っていく。ばたばたと羽ばたきが風を起こす中で、氷の彫像のように静止する破壊ロボへ幾多もの糞が降りかかる。
 遠くで消防車のサイレンが鳴っている。
 白鳩たちに包まれて──メタトロンは刻の涙を見た。
「なんだ、来ないのか、■■■■博士。来ないんなら……こっちから仕掛けるまでだ」
 静かな宣言とともに、オレンジの塊をまとった大十字九郎──否、もはやダン十字九セイニとなったソレが破壊ロボに突進する。
「ハッ!」
 我に返ったウェストはなんとか拡散する注意力を掻き集め、咄嗟に破壊ロボの操作に移る。
 鋼の豪腕が振り上げられた。
「………」
 意外なことに、無駄口ひとつ叩かず、そのまま振り下ろす。
 あたかも息を詰めてゴキブリを叩き潰さんとする様。
 しかし、ソレは──九郎とダンセイニの融合体・九セイニは、ゴキブリをも凌駕する難物であった。
 ピタリ
 「停止」ボタンを押したように破壊ロボの動きが止まる。慣性すらなく、鋼鉄製の腕が宙で凍りついた。
「なぬっ……!」
 ウェストは機動を静止する操作などした覚えはない。レバーを押したり引いたりして動きを続行させようとするが、青い空をバックに小休止としけこんだ腕はびくともしない。慌ててロボの各所に備え付けたカメラ・アイで原因を探る。
「おいおい、随分とヌルい攻撃だな」
「──!」
 原因はすぐに判明した。
 九セイニの身体から伸びた無数の触手。尋常ならざる数のミサイルをも迎撃してみせたソレが、近隣のビルを支点にして破壊ロボの腕に絡みつき、縛り上げ、固定していた。
「くぅぅぅ、右手でぶてぬならば、左手でぶつまでであるっ!」
「バカ、誰が待ってやるかよ」
 ウェストが繊細な指でレバーを握り締めるよりも早く、九セイニの触手群が破壊ロボの左腕に殺到し、まったく同じ手順で拘束した。
「お、おお……おおおおおおお! 大十字九郎ッ!」
「『ダン十字九セイニ』と呼べ」
 右も左も動かせぬ身となった破壊ロボは、前進も後退もままならなくなった。
 だが、兵装は先のミサイルの他、まだいくつかある。戦闘は決着してなどいない。
「ふんっ、ダン十字九セイニ……恐らく貴様の触手に大した攻撃力はないのである。確かに粘り強さと弾力性は驚くに値するのであるが、所詮我輩の動きを食い止めるのが精一杯。キモい化け物の触手ごときでは、このメカメカしい鋼の装いを打ち破るのは不可能と見た! いつぞやの蜘蛛の巣と同じではないか、カンダダ!」
「とれぇ奴だ……まだ認識できねぇのか?」
「認識? はて……」
 九セイニの言葉に込められた真意を測りかねて、思わずウェストの視線が計器類の上を彷徨った。
 不意に一つのところで、視線が留まる。
 ぐーん、とレッドゾーンに向けて針が驀進中のメーター。
 手書きで「魔力計」とある。
「魔力? な、何か魔術を作動させているのであるか!? バカな、詠唱も呪的挙動も確認されてておらんのに!」
「……まさか」
 刻の涙を観賞するのに忙しかったメタトロンがまったく唐突に現実復帰した。
 まじまじと、破壊ロボに絡みついた蔦蔓の如き触手群を眺める。
「触手で魔法陣を組んだのか!」
「正解だ、メタトロン!」
 近隣のビルを巻き込んで破壊ロボを包囲するオレンジの網。
 それを上空から見下ろせば、ちょうど五芒星を描くようになっていた。
 霊圧が高まり、触手は夏蜜柑の皮の色から、輝きを帯びた純銀へと変貌していく。
 九セイニは高らかに叫ぶ。
「触手陣:『新幹線大爆発』!」
 ズッ……
 腹に響く重低音の後。

 ドォォォォォォン

 紛れもない爆音が鳴った。
「……!」
 ウェストが挙げたと思しき悲鳴は、近隣のビルが倒壊する大音響に掻き消され、九セイニやメタトロンの耳には届かない。
 入道雲にも似た黒煙が破壊ロボを覆い、その姿を隠した。
 黒い黒い景色の中。
 破壊ロボは辛くも大破を免れていた。
 だが、ほとんどの動力系がイカれ、これ以上戦闘を重ねても成果を出すことはほとんど無理っぽかった。
 「しぶとくなければ生きることができない、しつこくなければ生きる意味がない」をモットーにするウェストでさえ、ここが引き際であると悟った。
「仕方ないのである」
 と呟き、破壊ロボが一分後に自爆するよう設定して、いざ非常口へ向かおうとしたその瞬間。

 ガラン

 コックピットの右斜め後方から何かが落ちる音がした。
 視線を向ける。変形した金網が、震えながら床を転がっていた。
(確かこっちには換気孔があったはずである……)
 どんなに技術に磨きをかけたところで、中に人間が搭乗する以上、空気の入れ替えは行わなれなければならない。むろん、換気システムには二重三重のセキュリティが施されており、「換気孔が弱点」と言えるほど防備が手薄なわけではない。
 だが……鋼を張り付いた他の部位よりも僅かに、ちょびっとだけ、攻められ易いという意見は否定しかねる気がしないでもなく。
 恐る恐る視線を地面から引き剥がして、上方へ向けると。
 換気孔の向こうから、にょろにょろと蠢いて這いずり出てきたソレが、玄妙な仕草で鎌首をもたげ、獲物をロック・オンした大蛇のように──怒涛の勢いでウェストに襲い掛かった。
「おおあおあおおあおあおおあおおおあああっっ……!」
 ぶびゅっ、と先端から粘液が噴き出し、ウェストの顔面を汚す。開け放たれ、絶叫を撒き散らす口の内部を、ねばねばした感触が犯して侵して冒す。
「ダン十字ぃぃ九セイニぃぃぃぃぃぃぃぃっっつつ!」

 ぶちゅ
 べちょ
 ずべべべべ……

 くぐもった、水っぽい音とともに叫び声は消える。
「触手迅:『シベリア超特急』」
 彼方で発された九セイニの声が、戦いの終焉を告げる弔鐘となった。
 くるーり、と残骸じみた破壊ロボに背を向け、呆けたように事態を見守っていたメタトロンと目を合わせる。
「大十字九郎……」
「『ダン十字九セイニ』と呼ぶがよい。それ以外の名前は無用だ」
 ふっ、と片頬を歪め、アイロニカルでアルカイックな笑みを浮かべた。
「メタトロン……これからは、この街を──アーカム・シティを、俺が守る」
「てけり・り」
「ブラック・ロッジも、マスターテリオンも、いかなる怪異であろうとも……雪崩式エンジェルの俺をキャント・ストップ! 父と子と聖霊の御名において、アイ・ウィル・ビー・ショゴス!」
「てけり・り」
「オゥ、イェー」
「てけり・り」
 一方的にまくし立てられ、さしもの守護天使も口にすべき言葉を探しあぐね、小首を傾げた。
「悪あるところ、区画の隅の饐えた匂いがする地点であろうと神かけて必ずや降臨してやろう! 俺は愛と正義とショゴスの使者、ダン十字九セイニ。十五の触手と無限の勇気を持つ者だ!」
「てけり・り」
 もう言いたいことはあらかた言ってしまったのか。
 それだけ宣言すると九セイニはメタトロンにも背を向け、後ろ──引き締まった臀部のあたりをぐちゅっ、と震わせた。
 形容する気すら失せる極彩色の輝きとともに謎の推進力が生まれ、周りの大気を激しく掻き乱しつつ、遥か青空のむこうへと飛び去っていた。
「天が呼ぶ地が呼ぶショゴスが呼ぶ……悪を倒せと俺を呼ぶ……」
 ぶつぶつと小さな呟きを風に乗せて。

「そ〜ら、ガキど、いや子供たち、今日も兄さんはやってきたぞ〜」
「うわー、リューガ兄ちゃん!」
「兄ちゃんキター!」
「……(どきどき)」
 顔に傷の刻印を持った青年が、教会に住まう子供たちに取り囲まれる。
「あっはは! じゃあいつも通り、こいつをお披露目といこうか」
 明るい笑顔と一緒に、ズボンのポケットから掌サイズの銀の塊を取り出す。
「わあ……!」
「ねーねー、今日はどんな曲なの?」
「……(わくわく)」
「ふふっ、聞けば分かるさ……」
 すうっ、と息を吸い込み、口を近づけ──吹いた。
 パプ〜
 パプ〜、パプ〜……
 遠くから響いてくるハーモニカの音色に耳を澄ませながら、メタトロンはいつまでも、いつまでも、日が落ちて子供たちが家々に帰り急ぐまで……空のモニュメントと化していました。

 その後、瓦礫の山から発掘されたドクター・ウェストは、粘液の乾いた顔を涙と煤と鼻水でぐじゃぐじゃにしながら、「汚れっちまった悲しみに、今日も風さえ吹きすぎる……」と詩を朗誦していたという。
 発見時の状況を知る者はみな固く口を閉ざし、「何がウェストに起こったか?」を語ろうとする者はついぞ現れず、話は煙のたなびく酒場の片隅で有耶無耶な噂として流布する間もなく燃え尽き、吸殻とともにスコッチを飲み残したグラスへ放り込まれて……消えた。

(to be not continued...)


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