第六景 喪失の儀式コールドゾーン


 苦痛、恐怖、絶望──生に執着する想い。
 恍惚、酩酊、法悦──破滅に憧れる衝動。
 あらゆる念が渾然一体と化す。相反するものであろうと一切容赦がない。このまま黙って刀子さんの下す裁きを受け容れようかと弱気の虫も喚くがそこはしっかり抵抗して押さえつける。
 ひりつく喉で熱い唾を飲み込んだ。
 行くか──いやまだ早い。刀子さんはもう少し溜めるようだ。
「──震え。ゆらゆらと、震え」
 それが合図ですね?
「砕♪」
 彼女が力む寸前。
「最後に一つだけ、いいですか?」
 ピタッ、と刀子さんの手が止まった。
 最高のタイミングで絶好のチャンスを掴んだ。あまりのギリギリさに、掌に湧くじっとりとした冷や汗。危なかった、刀子さんが無意識に踏み止まろうとするポイントで言えなかったら鮮血の結末を迎えるところだった。にしても握り潰すときに「♪」はないだろ刀子さん。
「なんでしょう、コロンボ警部みたいに」
 ひとまず、保留という感じで俺の言葉に耳を傾けてくれた。容赦を忘れがちな彼女でも心のどこか一片に、引き返せるものなら引き返そうとする配慮があるらしい。
 ならばごめんなさい。俺は、少し前に俺と刀子さんをくるんでいた心地良い時間へ引き返すつもりはない。あなたは理不尽で、人生も理不尽で、修羅場も理不尽だからこそ俺だってまともな行為はやめてやる。俺は死にたくないしあなたにも殺させたくない。殺し愛だの無理心中だの真っ平ごめんだ。たとえ半死半生で生存するとしても後のことを考えるといただけない。今更カストラートになれるわけもないし、なるつもりもないんだ。
「言わせてもらいますけどね──」
 息を吸って吐く。迷うつもりはない。時間稼ぎをするつもりでもない。
 だからなるべく細かいことは考えないで率直に気持ちそのままの言葉を口から出した。考えてばかりいると何も言えなくなってしまうから、言葉なんて選ばなかった。
 俺ってひどいよな、本当に。

「結局さ、刀子さんが俺のことを信じようとかしないで周りの讒言に惑わされるってのさ──自分に対しての自信が、まるっきり欠陥品だからだと思うんだ」

 言ってはならぬことに、含ませてはならぬニュアンスを持たせる。昨日までの──否、ほんの数秒前、刀子さんがカウントし始めた頃の俺ならば決して思いもしなければ口にすることもない言葉を吐き出した。
「────────あ」
 紛うことなく刀子さんは止まった。微笑みから生気が消し飛び、彫像に刻まれた光眸なき表情と同一化した。圧縮されようとしていた右手は蒸れる熱を孕んだまま静止している。この停止が図星をつかれたからかどうかは知らない。止まった事実だけを幸いに言葉を連ねる。
「あなたには──自負がない。俺があなたを愛していることを、何かの僥倖……偶発的な産物とさえ思っている節がありますね。想われていることは知っているくせに、まったく自信がない」
「そ──れは──」
「だから、猜疑に負けてしまう。あなたを強く想う俺の気持ちが理由の付かない、根拠のないものだと考えてしまう。如月双七は他のどんな女の子よりも一乃谷刀子を異性として意識しているってことよりも──自分以外の誰かに目移りすることの方が当然で、説得力のあることだと感じるんでしょう」
 そんなのは──異常だ。
 自分のことを信じられないから恋人を信じられないなんて、あまりにも難儀すぎる。
「……先輩は如月くんが他の女の子と仲良くしているのを見ると激しい嫉妬と憤怒に駆られるものの、そのメカニズムはここにいる管狐とは違う──私見ですがそう観察しています」
 離れたところからトーニャが口を挟んだ。「もう見てられない」と言った割にはまだ残ってたんだな。
「く、管狐言うなこのスッポコポンがっ! 今日という今日は我慢ならないわ! 堪忍袋の尾が切れた! ええい、表出ろい!」
「と、彼女はこんなふうに罵られて反射的に訳の分からないことを叫び返す至って動物的な反応から分かるとおり、如月くんが他の娘とイチャイチャしている様を目撃するとまず理屈で考えるより先にカッとなるわけでして。今の彼女には『緒』と『尾』の違いもついていません」
 小馬鹿にするように指差すトーニャの無礼千万な姿にすずはますます「くあー!」といきり立つが、「まあまあ、今はトーニャ先輩と喧嘩している場合では」とさくらちゃんに宥められ、ふーっふーっ、と威嚇の息吹を引きずりながらも鎮まった。
「それに引き換え刀子先輩。あなたはまず真っ先に呆然とする──裏切られた、ってね。如月くんを信頼していたのに、その信頼を反故にされたとショックを受ける。けれどそれはさっき如月くん本人が言った通り根拠がなく、まるで基礎工事がなってない──手抜きの信頼」
 切りつけるような響きで淡々と。トーニャは俺の意を汲み、楽しくはないはずの作業に参加してきた。
「先輩という基礎がその信頼を保持するのに充分な自信を抱えてないから、すぐに手放してしまうんですね。『ああ、如月くんはおひとよしだから私にも好意を寄せてくれたけど、やっぱり他の子がいいんだ、それはそうよね』と理屈では簡単に納得して受け容れてしまう。そこに感情が付いていかないから、錯乱が起こる」
「それは──先輩は、想いが強いから」
 さくらちゃんも眦に力を込め意を決して、輪に入り込む。糾弾の輪に。
「双七さんへの想いが身体いっぱいに溢れちゃってて、嬉しいときでも有頂天で錯乱しちゃうくらいなんですよ。苦しいときに抑えようとしても抑えが利かないんです。理科でありますよね、閉じた容器を縮めていくと気体の体積が減る代わりに圧力が増すってやつ。先輩だって自分が嫉妬をするのはみっともないし双七さんに疎まれるから、やめよう、我慢しようって努力してるみたいなんですが──むしろ下手に我慢しようとするから暴発しちゃうんですよ」
 よく考えてみれば明白だった。普通、恋人が浮気していると思ったらショックを受けるし、自尊心も傷つく。刀子さん以外と恋愛を経験したことはないが、俺だって──自分を構成する感情がバラバラに砕けるような事態に直面して、自己嫌悪と、自信喪失に苦悩したことがある。細かい記憶は残っていないが、確かにあったことなのだ。今もなお自尊心と呼べるようなものは、まだ完全に回復していない。一生このままかもしれない。
 でも刀子さんはそれ以前の問題だ。彼女は傷つくべき自尊心が、今の時点で俺よりもヒビだらけになっている。類推は難くない。『牛鬼』という人妖としての宿命──兄である愁厳と、妹である刀子さんのどちらかが死ぬか、両方消えるか、決定しなければならない三者択一。
 自尊心を持つのは罪だと、兄を押しのけて生きようとすることはエゴだと、そう分かっていて生きたい気持ちを放棄できないジレンマに彼女は泣いていた。誇りを掲げて生きること自体が困難だったのだろう。自尊心を持てと言われるのは、兄を殺す刃を手に取れと告げられるにも等しい。どんなに周りから評価されても、当の兄から慈しまれても、俺という人間から愛されても、自分という存在が祝福されているとは……信じられないんだろう。
「自分に必要とされる価値があるって言われることは苦しいけど、必要とされないのも寂しくて痛い。戻ることも進むこともできない。立ち止まることさえ、得策じゃない──どうしていいのか、分からないんですね」
 こんなことをわざわざ口にしている俺はなんて厭らしい奴だろう。自らを唾棄し、軽蔑したくなる。
 だが、それでも俺は生きたい。生きたい。刀子さんの矛盾する衝動によって殺されるのも伊達にされるのも御免だった。刀子さんのために死ねる自信はあるが、少なくともこんなことでではない。
「だって──だって兄様には人望があります! 誰からも好かれ、誰からも頼りにされ、誰の期待にも応える能があります! 私は自分の気持ちもよく分からない──把握できない──未熟極まりない人間です。好かれることも頼りにされる価値もなく、兄様に比肩するほどの期待に応えるなんて行いはできません」
 あふれてくる。どんどんと。
「私には欠けているのです……人徳も何もかも。補えないのです。兄様は、人としての器が違う。私は兄様の背中を見たことは一度もありませんが──その後ろ姿をどれだけ多くの人が心強く頼りに思っているかは知っているつもりです。この背には負えぬほどの信任があると。だからこそ──兄様を誇りに思っているのです」
 必要とされたいけれどされたくない板挟みの中からこぼれ出てくる慟哭。価値を外に求めることで無理矢理に折り合いをつけようとしている。
「人間の価値は器にあらず、中身にあらず、両者の織り成す調和にあり。小さいとか大きいとかで量れるものではありませんよ。ほら、例を挙げると胸だってサイズの大きい小さいで価値が決まるわけじゃないじゃないですか。もし決まるとか言ったら刀子先輩が手を下すまでもなく私が殺りますよ如月くん」
「トーニャ、俺の子種の存亡が掛かっているんだからあんまり茶化さないでくれ」
「はいはい、まあ私とは縁のない代物なんでぶっちゃけどうでもいいんですがね、それ。困るのは私以外の皆さんじゃないですかぁ?」
 周りの女性群に舐め回すような視線を向けるトーニャ。
「ばっ……! 狸は余計なこと言ってないで口を閉じておきなさいよ! わたしと双七くんが、そんな……なんて……ああやあもう、もう!」
「えーと、すずさんが顔真っ赤にしてバンバン壁叩いている姿を見たらなんか状況を客観視した感じでわたしは素に戻ってしまいました、はい」
 すずとさくら、引き続けて刀子さんまで問いかけの眼差しを送る。
「え? え、あの、そのですね、私はもう既に双七さんとはしっぽりと……」
「さりげなくプライベートな事項を明かそうとしないでください刀子さん、そしてトーニャ、お前もそんなこといちいちメモろうとするな!」
「チッ」
 トーニャは舌打ちし、手帳をスカートのポケットに仕舞い込んだ。
「さてそれは置いて話を戻すとですね──なんだったかな。あーそうそう、そうでしたね、いえ忘れていませんでしたよ。ちゃんと覚えてましたよ。信じてください。記憶力には自信がありますえっへん」
「くどいからさっさと喋れ」
「──先輩は要するに自負心に欠けて、代わりに劣等感が旺盛なんです。だから相手が誰であろうと如月くんと親しくしている子を見たら心配してしまう。イチャイチャし始めたらそれはもう一瞬でトサカに来るわけですよ。『勝てる気がしない!』っていう自信のなさが焦燥感を生んで、先輩を奇行めいた嫉妬ィングに走らせる。傍から見ると面白い限りですが、仲間としてはホント見てらんないですよ」
 やれやれ、と片手を上に向けたトーニャの言葉をさくらちゃんが継いだ。
「ええ、放っておけません。いつもは双七さんが情けないなりにキチンと立ち回ってどうにか不安の火を消すわけですけど、どう見たって一時的なものですよね。いつまで経っても先輩は自信を確保できないままだから、同じことの繰り返しです。処置を誤ればここまで来てしまう。一度、徹底的に不安に立ち向かってみて試さないと先輩は双七さんに安心することなんてできない、って思ってあんなことしてみたわけですが……素に返ると凄く恥ずかしいですね」
「『ごろにゃーん♪』はないでしょ『ごろにゃーん♪』は、って思ったのが率直な感想」
「蒸し返さないでください……」
 和気藹々とし始めたふたりに馴染めぬ空気がひとつ。すずが口を入れた。
「……なんかあんたたち、さっきからわたしを置いてけ堀にして喋ってない?」
「おやなんか差し挟む口がありましたか狐さん、もうほとんどここにいる意味なくなってますけど」
「ああ苛つく女ねぇ」
 眉を顰めてうざったそうに羽虫を払う仕草を見せる。
「とにかく煎じ詰めると、刀子がプッツンきちゃう原因って双七くんがだらしなくて怒ってるせいなのは半分だけで、あと半分は刀子が他の子に負け犬っぽい意識を覚えちゃってその気持ちをどうにもできなくなるせいなんだから──結局、半分は双七くんに八つ当たりしちゃってるってことなんでしょ。それで学習が身に付かないから何度もやっちゃって自分に嫌気が差す……自信なくなる、の悪循環」
 劣等感は自尊心の裏返しとも言える。だが別物だ。人と比べずにはいられない心と、自立しようとする心。刀子さんは嫉妬という形で依存し、そうして依存することに自己嫌悪する。だからといって依存をやめることはできず、心が引き裂かれていく。遂には周りを傷つけてしまう。
 俺がどんなに愛情を注いでもそれは対処療法で、根治的なものにはならない。与えても与えても、刀子さんはいずれ来る不安に負けて嫉妬の炎に身を焦がす。より大きな束縛を求める心が連鎖する。誠意の贈答は度が過ぎれば欲を掻き立てるのみとなり真心を滅ぼす。このままどこかで止まらなければ、いずれ俺たちは破局を迎える。
 まるでポトラッチだ。
「刀子さん──言っちゃいますけどこれ、全部狂言です。嘘っぱちです。性悪ロシアっ子が仕組んで俺を嵌めて、さくらちゃんが即興でお芝居をやり出しただけです。冷静に考えていけば、いくらでも疑問点や綻びはありましたよね。刀子さんはそれに気づく素振りがなかった」
 違うと気づき、訂正する。
「いえ、気づく素振りがなかったというより──これがドッキリに過ぎないという、ふざけてるけど幸せなオチがつくなんてことを信じる気持ちがなかったんですね」
「あ──」
 両手を伸ばし、頬を挟む。柔らかい頬だった。乾いて肌に張り付いた涙が、掌で崩れてこそげる。
 俺は顔を近づけ覗き込む。そこにはとても透明な相貌があった。
「わ、わた……双七さん、私は──」
 微笑み、般若の面。それを取り払って晒された素顔には、寄る辺ない迷子の子供が得る、知らない場所に取り残されて自分ひとりだけが世界から切り離されていくような錯覚──肥大した心細さと、何を根拠にして自分のどこを信じればいいのか分からない、ほとんど途方に暮れた無表情が吹き溜まっていた。
「私は己の浅ましさに──もう疲れて」
 疲れているのです、とこぼした。
 気が付けば両肩は力が抜けて下がりきっていた。
「毎日──そう毎日──私は双七さんが誰か他の子へ目を向けるのではと不安で。その不安はどうしても消すことができなくて。もし、双七さんが私以外の誰かを選ぶとすれば、競って勝てるなんて思えなくて。だから双七さんを信じるしかありませんでした。なのに私は、私に信じる資格などあるのかと、迷うのです。浅ましく、猜疑を捨てられない私にそんなことが赦されるのか。分からないまま駄々っ子のように拗ねて、責めて、反面、引き止めようと卑しく考えて。それでも信じるなんて行為が赦されるのかと。疑心が積もりに積もって、すべての暗がりに鬼が──般若の面を被った鬼が──潜んでいるのです。もうそんな自分につ、疲れて──」
 嫉妬をし続けるにもエネルギーはいる。自己嫌悪との反復を重ねているなら尚更だ。消耗を強いられてもおかしくなかった。
 理不尽だよね、刀子さん。したくて嫉妬しているわけじゃないのに、止められない。過ぎた後で止められなかったことを悔やむ。けれど抜本的な解決がないから次に活かせない。己の心を忌む気持ちが強くなっていく。まさに、悪循環。
 その鎖を断ち切っていかないと、俺たちはいずれこうやってトチ狂った喧嘩さえもできなくなる。
「だったら刀子さん」
「は、はい……双七さん?」
 怯えが少なからず入り混じった顔。こんな顔をさせたかったわけじゃない。ただ失わねばならなかったのだ。新しい関係に落ち着くために、古くにあったあれもこれもを。
「俺から頼む」
 すう、と息を吸って、

「──俺のためにヤキモチを妬いてくれ!」

 部屋いっぱいに広がった告白の叫びは居合わせた一堂を唖然とさせた。
「なん──ですって?」
 理解できない言葉を聞いて目を見開く年上の、けれど幼い子供みたいな女性(ひと)。
 気持ちは分かる。だがここは押し進む一手。振り返らず行こう。
「俺だって、刀子さんが嫉妬してくれることが嬉しくないわけじゃないんだ。それだけあなたが俺の存在を大切に思ってくれて、執着してくれるというんだから──優越感だって覚える。いけない考え方とは分かってますけど、刀子さんが嫉妬の念に駆られることは、少なくとも俺に恥じるようなことじゃない。世間からすれば体裁は悪いでしょうし、みっともないし、直すべき癖かもしれない。でも、やむにやまれずどうしてもしてしまうというなら──いっそ喜んで、やっちゃってください」
 ヤキモチの肯定、のみならず全面推奨。
 とんだ奇策だ。しかし他に縋る策など何もない。発想力のない自分を嘲りたくなる──押し殺した。
「そんな……! 無理です、ありえません! ただでさえ面倒臭い女なのに! ヤキモチ焼くのを楽しむなんて、そんな複雑怪奇な嗜好を有した珍獣をつくってどうなさるおつもりですか! お願いです双七さん、私が申すのもなんですが正気に返ってください!」
 うん、本当になんですよ。例えば今も俺のあれをしっかと手中に収めながら半泣きで叫んでるあたりとか。いや、いかん! そっちのことへ意識を遣るとこの場面がとんだギャグみたいに思えて緊張感がなくなってくる。今ふにゃりと弛緩して「冗談ですピー。人のチ○コ握りながらそんなに必死にならないでプー」とか言ったら柘榴が弾けるぞ。
 頭に気合を注入し直して事に当たる。言うことはどんなにくだらなくても。本気の熱情を込めて口説き続けてやろう。愛していることには変わりないんだから。
「たとえあなたが面倒臭い女だったとしても、それがなんだ。気にする必要はないし俺は気にするつもりもない。『面倒臭い』と形容されたところを含めてあなたが好きなんだ。恥じて、自己嫌悪して、責め苛んで、ネガティブに捉えながら俺と周りと自分を傷つけるのはやめてください。あなたはもっと自分の嫉妬深さに誇りを持っていい。いや、持たなきゃいけない。ヤキモチ焼きなその性格を愛敬どころか優れた美点として認めてほしいんだ。あなたにはあなたの貫ける信念があって、だからこそ付き従う魅力がある。計り知れない愛しさがある。劣等感に喘ぐのは損だ。嫌悪感に咽ぶのは得策じゃない。何も得ず、ただ苦しいだけです」
 切々と想いを紡ぐ。悲しくなんてないのに、まだ嬉しいなんて言えないのに、勝手に涙が溢れてくる。悲し泣きでも嬉し泣きでもないこの涙は、何と呼べばいいのか。
「嫉妬は──劣等感から始まってどこにも行けない感情なんかじゃない! 挫けそうになることを良しとせず、地に付いた膝を立て直そうと一心に願う想いだ! 整理し切れない心が何も綺麗事をまとわず丸裸になりながらも痛みに耐えて突き進む執念なんだ! 正しくなくても求めるもののために止まれない執念なんだ! 執念そのものにいいも悪いもない! 自信を持ってください! 執念を持ってください! 約束なんていう、いつ破られるか分からないものでも! 良識なんていう、いざって場面に限って役に立たないものでもなく! 一乃谷刀子という人間はどんな事情があっても如月双七という人物に愛されてしかるべきだという確信を武器にするんです! そいつを携えて今後どんな修羅場でもバッサリとザックリと切り拓いてください!」
 壊れそうに軋む修羅場だからこそ想いの強さが見えてくる。想いを試すなんて不遜だし不誠実なことだが、人が人を愛する気持ちはそんなことさえ斟酌しないほど貪欲で、根深い。きっとそうだ。
「正しさなんて叫ばなくていい! 『浮気は正しくない』『浮気には罰を与えるのが正しい』なんて考えを通そうとしても掻き乱れる感情に筋道を立てるなんてできません! もっと感情に任せてください! 如月双七にとってあなたという人がどれだけ大切であるかを思い知らせてやるんです! 『あなたが俺に愛される』、その単純明快な確信と信念と執念を拠り所とすれば怖いものなんてないはずだ!」
 吼える。意味が破綻してようと委細構わず我が意を貫き、彼女の意へ連なろうとする。
「そこからやっと、本当の意味であなたのヤキモチは始まるんです! ──刀子さん!」
「は、はいっ!?」
 迫力で呑み返され、ピシッと背筋を伸ばす刀子さん。可愛らしかった。可愛らしいだけで好きになったわけではないが、ともに歩みたい、守り抜きたいと思うには充分でお釣りが来るほどだ。
「あなたは自分の嫉妬深さを──矜持に鍛え上げてください」
 応えまでは三拍空いた。
 戸惑うように顔を俯かせ、長髪のカーテンで表情を隠し。
 うん、という力強い頷きに合わせて顎が上げられ、ひたりとまっすぐな眼差しを向け。
 言葉に迷うように口をもぐもぐと動かし。
 それでも刀子さんは、ハッキリと返答してくれたのだった。
「──はい!」
 たった一言、俺にとっては何よりも強固な受容の誓約を。
「──っ、刀子さん!」
 感極まって抱きついた。あそこを握られたまま、彼女の背中に手を回して抱き寄せる。
「うーん、実にバカップル。未来に残したくない迷コンビがここに一組ありますね」
 憎まれ口を叩きながら、トーニャはひらひらと手を振り。
「か、感動はできないけど、とりあえずなんとかなって良かった良かった……?」
 疑問が拭いきれぬとばかりにさくらちゃんは首を激しく捻り。
「刀子ー、ねえ、いい加減に双七くんのパンツの中から手を抜こうよー」
 至極真っ当なツッコミをすずが入れた。

「申し訳、ありませんでした……」
 ようやく平常運転に戻った刀子さんが右手を抜いて、長時間に及び人質となって拘束されていた俺の息子は無事生還した。あまりにも長く握られていたせいか離されてみると妙に心許ない印象さえ受けるがそれはともかく。
「うう……あああ……ううう」
 やはり理性が戻ってくると自分のしたことが痛烈に心を苛むらしい。俺たちの誰とも目を合わせられないでいた。
「せ、先輩、と、とりあえずわたしは気にしてませんから」
「私も気にしていませんよ。ホントのホントに」
 両サイドを挟み、さくらちゃんとトーニャが慰めの態勢に入っている。
「でで、でも、でも、私はみなさんがじっくりと見ている前なのに接吻と云うか何と申しますか一心に双七さんの唇とか口角とか頬肉とかをたっぷり優しく丹念に吸ったり舐めたり噛んだりねぶったり、歯や鼻がぶつかるのも構わずに舌を深く絡み合わせ激しく音を鳴らして唾液を泡立てたり糸を引かせたりした挙げ句に、侵すべからざる殿方の御本堂へ手首が隠れるまでしっかり差し入れてあられもなくそのご神体を素手で鷲掴みするや思うままに意のままに玩弄したのですよ!? 揉み転がして抓り回し捻り回し握り狂って嬲り耽ったのですよ!? 一方的に全面的に蹂躙したのですよ!? 鎮圧したのですよ!? おまけに命名がた、たたた魂潰しなんですよ!? もはや既にして気にするとかしないとかの問題ではないと存じます!! ああああよりにもよって神聖なる学び舎で何て不遜かつ不埒かつふしだらかつ破廉恥な真似をしてしまったことやら、ここに至りて懺悔の言葉も尽きました……!」
「冷静に行動を把握しているのか根っから狂乱しているのかはっきりしなさいよ、刀子」
「それに先輩、一応巫女さんなのに『懺悔』とか言っていいんですか」
「あとその手をこっちに向けないでくださいお願いします」
 周囲は俺も含めて顔を火照らせながらドン引きしていた。
 なおも自虐の海へダイブしようと俯いたまま両手を小さく上げたり下げたりしている刀子さんを根気よく粘り強く説得し続け、「本当ですか……? 本当の本当にこのことを水に流してくださいますか……?」と弱々しく顔を上げたところで俺たちは「はい」「本当ですってば」「もちのろんです」「わたしも早く忘れたいわよ……」と四通りに首肯してみせた。
「元気出してください──先輩も如月くんも、もう恋人ごっこを終わらせてその先を目指すことにしたんですからね。あんまりこんなところで立ち止まってもいられませんよ」
「その、おふたりの選んだ道はかーなり独特すぎてコメントに窮しちゃいますが……大丈夫です、先輩と双七さんなら、どれほど困難に満ちた茨の道でも踏破できますよきっと」
 ぐっとミニサイズのガッツポーズで励ますさくらちゃんに対し後ろを向いてボソリと「……なにせ両人ともに変態ですからね」と漏らしたのは俺に聞かれることを分かっていての上だな、このオチをつけたがる銀狼が。
 やっとのことで顔を完全に上げた刀子さんは頬を赤く染めつつ、照れ照れに目を細めていた。
「ええ、そうですね……頑張らないと、駄目ですよね。はい、後悔ばっかりなんかしていられません」
「できれば反省はしてほしいけどね」
 すかさず釘を刺す、すず・ザ・ネイラー。刀子さんは「はい……」としょんぼり項垂れて沈み込んでから、「けれど」と立ち直った。
「これからは、しゃにむに、がむしゃらにでも突き進んでいかないと──『愛しきあの人のためなら狂気も地獄も冥府魔道もえんやこら』、でしたか」
「……よりによって口から出任せのセリフなんかパクんないでください、先輩」
「ふふ、良いではありませんか」
 含み笑いとともに首を傾げ、穏やかな陰翳を頬に刻む。
「それよりさくらちゃん──演技とはいえ双七さんにベタベタとくっついてくださいまして、よくもまあ。ふふ、よくもまあ。なんだか私、感謝の反意表現に丹精込めて何かをして差し上げたい気分です、具体的には逆さ吊りですとか──あら、どうなさいましたの顔を青くして」
「い、いえ、それより先輩と双七さんが仲良くしているところを邪魔したくないからわたしはもう行きますねー」
「そんなにご遠慮なさずとも、どうぞごゆっくりと寛いで折檻──」
「し、失礼しますー」
 と脱兎になって退室。刀子さんはその背中を見送りながら「本当に演技だったのでしょうか……いつかそのうちはっきりさせなくては」と怪しむように呟く。えー、俺としましてはこれ以上波を立たせるのは御免蒙りたいので何がなんでもありゃ演技だったと決め付けたい所存。
「では気分を改めまして、代わりに今回の責任者であるトーニャさんに──ああ、そう、あの夜のことも含めて清算──」
「おおっと郷里から電波で『チチ キトク スグカエレ』との報せをピピッと受信しましたので急ぎ帰らねば、失礼しますよ先輩」
 脱兎二号。残ったのは俺と刀子さんを除くと、あとはすずだけだ。
「あ、あれ? わたしってば取り残されちゃったみたい? ……あー、でもよく考えれば大丈夫だよね、わたしは刀子に責められることなんて別に──」
「というかお前、俺を置いて逃げただろ。刀子さんの放つ黒い鬼気に怖れをなして」
「だだ、だ〜か〜ら〜、あれは逃げたわけじゃないって言ってるでしょ!? 戦略的撤退よ、戦略的撤退!」
「でも逃げたってことは変わりありませんよね?」
 傾げた首と頬を押さえる刀子さん、ってかあのー、その手はさっきまであなたが俺の股間に突っ込んでいたものですが……洗わなくていいんですか?
「うくっ! と、刀子が悪いんだからね! いや双七くんも悪い! 自分の恋人が暴走したときくらいちゃんと制御しなさいよこの甲斐性なし!」
「あらあら──こんな調子で私の義姉など務まるのかしら、すずさんったら」
「っ! くあああ、言ったわねー、刀子のくせに生意気よー!? 双七くんのトコに嫁いできたらいびり倒してやるかんね!」
 早くも嫁小姑戦争を勃発している有り様に半笑いしつつ、俺は気持ちを引き締める。
 刀子さんが自尊心の欠如を認識してくれたとは言っても、それがすぐに自尊心の回復に繋がるわけではない。言われて気づいたぐらいでもう大丈夫なんていう楽観は無理だった。俺自身、まだ記憶の泥濘から立ち上がることができずにいる。刀子さんばかりを無責任に焚きつけてもいられない。
 けれど、状況は動き出したのだ。幼かった刀子さんの心に痣をつくってしまった上杉先輩も歩み寄って話し合おうとする気概を見せたし、俺だって彼女の嫉妬深さを個性として受け容れる気になった。刀子さんが自らのヤキモチの炎の激しさに身を焦がしていることを見抜いたトーニャやさくらちゃんも、「見てらんない」「放っておけない」と干渉する決断を下した。
 こうした変化が事態を快方に向かわせ、解決に導くかどうかは確証がない。けれど、単なる楽観以上のものとして希望や期待が持てることは間違いなく、俺は今までの嬉しく恥ずかしい関係を喪失してまでその先を目指す覚悟ができた。
 迷うだろう。悩むだろう。答えは出ないかもしれない。恋人と友人の命を秤にかけてどちらかを選ぶなんて真似、俺にはできない。選ぶことが見棄てることになり非道であるから、という思いもあるがそれよりやっぱりふたりとも失いたくなくてふたりと一緒に時間を過ごしたいからだ。長く、長く、今いるこの日を昔話として笑い合えるくらい長く。一緒にいたい。我が儘だし優柔不断と受け取られても仕方ない。ふたりの父と祖父、二代がそれぞれ出した答えを愚弄し、何も分かっていないと告白するようなものだから。
 うん、そうだ。俺は何も分かっていない。刀子さんから概要を聞いただけだ。これからはもっといろんな人から話を聞いて、もっと多くの事柄を調べて知っていかねばならない。時間がたっぷりあるとは限らないが差し迫ってもいない、着実なペースで行こう。
 まだほのぼのと言い合いを続けているすずと刀子さん、ふたりの肩に奇襲するように腕を回す。
「わわっ!?」
 すずは驚き身を硬直させ、
「ほい、っと……ってああっ、双七さん!?」
 刀子さんは反射的に俺を投げ飛ばした。
 芸術的なキレの良さで身体が跳ねて床に向かっていく。
 わーい、地面って広いなぁ……いやそんな無邪気な感動ができるわけあるか。
「ぶぎゅっ!?」
 幸か不幸か巻き込まれる形で一緒に倒れたすずがクッションになって直撃は免れる。
 危ないところだった。ホッと胸を撫で下ろした後、ふと我に返って俺は自分がすずを押し倒す体勢になっていることに気づく。
「え……」
「あ……」
 思わず見詰め合った。
「そ、双七くん……大胆」
 潤む双眸で俺を見上げるすずの顔は心なしか赤い。
 夕焼けのせいか。窓の外では日がだいぶ傾いている。もう帰って夕食の準備しないと。
「〜〜〜ッ!?」
 暢気に考えていたら後ろに殺気を感じて咄嗟に振り返る。
 黒色のオーラを揺らめかす冥府の女王が頬を手で支えた姿勢で仁王立ちしていた。繰り返すがそれは俺のお稲荷さんに触れていた手である、刀子さん、そろそろ洗いに行きませんか?
「じゃあ私はみなさんの忠告に従って、遠慮なく焼餅を発散させますね。あらあら、鬱屈なしでやってみると存外楽しいものですね」
「ちょっ、刀子さん、タンマ!」
 制止の声も聞かず、ネック・ハンギング・ツリーの要領で俺の身体を吊り上げる。相撲でいうと喉輪か。左手一本でやってのけるのがやはり普通じゃない剛力だ。
 口からブクブクと涎のように泡が吹き出すのを止められない。意識もどんどん白んでいく。窓から射す陽はあんなにも赤いというのに。ああ。

 そんなこんなで今日の学園生活も盛り沢山だった。
 綺麗なBGMは鳴り響かない。観客の拍手もない。降りてくるべき幕もない。
 けれど、それがいいのだ。
 陳腐な言い方だけど、俺たちの踏み締めていく道はまだまだこれからだ。終わりどころかろくに始まってもいない。ようやくスタートラインに立てた気がする。
 よーい、どん──って。
 走り出す合図がいつかそのうちやって来ることを不安がりながらも、やっぱり心のどこかで楽しみに屈み込んで待っている。
 修羅場には愛も希望も夢も祈りも、その反対のものも何一つ残さず詰まっている。消耗が激しいから何度も繰り返すのは願い下げだが、いずれまた俺が誰か(主に露の人)の策略に嵌まってド修羅場に足を突っ込んだとしても、刀子さんに笑って怒られ脅され生命の危機に怯えながら日常生活の一部として凌いでいこう。
 良き修羅場の向こうに、良き人生はきっとある──

 っていうかこの吊り技、本当に大丈夫なのか。もう何も見えないし聞こえないんだけど、修羅場どころかあの世に行ってるんじゃないか俺?
 刀子さん、頼むから本当に殺さないで……ちゃんと蘇生させてください……よ。

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